
こんにちは、みちのくです☀️
今回は大宝3年の10月から12月ということで、この年のラスト記事となります。
持統上皇の葬儀に関する記事が中心になっていますね。

持統上皇の葬儀…上皇は去年の12月に崩御されていますが、まだ葬儀は行われていなかったのですか?

はい。崩御後の四十九日法要などは行われましたが、ご遺体はまだ殯宮に安置されています。「殯」とは、貴人の死後から本葬までのあいだ、その死の過程で朽ちていく肉体を目で確認し、再生を祈るための期間です。

まもなく1年経ちますが、まだ殯の期間ということなんですね…
大宝3年(西暦703年)現代語訳・解説

持統上皇の葬儀にかかわる任官
冬 10月9日(丁卯) 太上天皇(持統上皇)の御葬司を任じた。
二品穂積親王を御装長官に、従四位下広瀬王・正五位下石川朝臣宮麻呂・従五位下猪名真人大村を副(次官)に任じた。政人を4人、史を2人とした。
四品志紀親王を造御竈長官に任じた。従四位上息長王・正五位上高橋朝臣笠間・正五位下土師宿禰馬手を副に任じた。政人を4人、史を4人とした。
御葬司は、持統上皇の葬儀のため臨時に設置された官司です。御装長官は葬儀のさいの上皇の装束についての責任者でしょう。天武天皇皇子の穂積親王が任じられました。御竈長官は火葬を行うための竈製作の担当です。

いずれも、長官に親王を、次官の筆頭に王を任命しているのが特徴ですね。
この時代はまだまだ天皇・皇族の影響力が強い「皇親政治」のにおいがあります。
僧の還俗
10月16日(甲戌) 僧・隆観が還俗(僧侶をやめて俗の世界に戻ること)した。本姓は金、名は財という。沙門・幸甚の子である。すこぶる芸術に優れ、なおかつ算術と暦術に秀でている。
当時の僧侶は単なる聖職者ではなく、大陸由来のさまざまな知識や技術を備えていました。ここでいう「芸術」とはそれを指すものと思われます。隆観もその1人でそのため実務を行わせるために還俗させたのでしょう。

そうなんですね。
それにしても金財とはすごい名前ですね…。

隆観は新羅の生まれで、「金」は朝鮮半島からの渡来氏族として名付けられたものでしょう。
隆観の父の幸甚は『日本書紀』朱鳥元年(686年)10月2日条に語られる大津皇子の変(皇位を狙ったとされた謀反事件)に加担した新羅僧の「行心」とされ、罪を負わなかったものの、都から遠く離れた飛騨国(岐阜県の北半部)の伽藍に移されたとされています。

波乱な過去があったんですね

そもそもこの政変自体が、有力皇位継承者だった大津皇子を始末するための冤罪とされていますので、幸甚にも当然罪はないということになりますね。
その後、『続日本紀』大宝2年4月8日条において、父と共に飛騨国にいた隆観は、祥瑞(天が授けためでたいしるし)である神馬を捕らえ文武天皇に献上したとして入京を許されました。


ゆ、ゆるされた

そして、暦術や算術の技能を認められたので、隆観あらため金財の苦労と努力は報われたといえるでしょう。
遣新羅使、天皇に謁見する
10月25日(癸未) 天皇は小安殿(大極殿の後方にあったとされる、天皇が執務する御殿)に御し、詔して遣新羅使波多朝臣広足・額田人足に衾(寝るときに体の上にかける寝具。かけ布団)1領・布1襲を賜った。また、新羅王に錦2匹・絁40匹を賜った。

当時船の長旅は危険がつきまとい、国使として大陸や半島におもむく前には天皇に謁見して別れのあいさつをしました。危険な任務であり、日本を代表して外国に赴くのですから、詔により物品を授かることは至上の名誉でした。
また、注意すべき表現としては新羅王に物を「賜った」というところです。賜る・賜うとは地位が上の者から下の者に授けることですから、日本は新羅をあくまでも属国と見ていたということです。
新羅がこのような関係に甘んじていたのは、北方に渤海という敵対勢力がいたためです。
太政官処分(巡察使の視察結果について)
11月16日(癸卯) 太政官は次のように処分した。「巡察使が記すところの諸国の国司と郡司らのうち、善政を行っている者は、式部省は令の規定に基づき称挙(下の地位にいた者を評価し、高い地位に上げること)し、過失がある者は刑部省が律(刑罰)の規定に基づき推断(推し量って判断すること)するべし」と。
この太政官の命令は、この年の正月2日に発遣された巡察使の巡察結果にもとづいたものと思われます。これまでにも巡察使は不定期にしばしば発遣されていましたが、結果を国司・郡司の勤務評定に反映させることを命じたという記事は今回が初めてです。
巡察使の職掌については以下のとおり。
律令 巻第2 職員令
2(太政官条)
(前略)巡察使 職掌は、諸国を巡り察ること。常置はしない。内外の官のうち清正灼然(人となりが清廉で、明快であるさま)たる者を仮に任じること。巡察の事情やその人数は臨時に勘案して決めること。
皇親と蔭子の名簿を式部省に送付
12月8日(甲子) 初めて皇親(皇族。親王及び4世までの王)と5世王(親王から1世と数えて5世代目の王)と、五位以上の者の子(蔭子)の21歳以上の者について、その名を記録して式部省に申し送った。
これは、皇親と五位以上の位階を持つ官人の子供(蔭子という)は、その親の位階に応じて特権として高い位階を授けられる制度(蔭位の制という)を実施するためでしょう。

来ましたね…貴族の特権が!
五位以上、すなわち従五位下から上の位階を持つ官人を「貴族」といいます。蔭位は、親のお蔭様で高位が授けられる制度と覚えると良いですね。

蔭位の制度については律令に次のように規定されています。
律令 選叙令
35(蔭皇親条)
皇親に蔭するときは、親王の子に従四位下、諸王(4世王まで)の子に従五位下を授ける。5世王は従五位下を授け、その子(6世王)には一等下して授けること。(以下略)38(五位以上子条)
五位以上の子の出身(昇級、昇任)は、一位の嫡子に従五位下、庶子に正六位上を授ける。二位の嫡子に正六位下、庶子及び三位の嫡子に従六位上を授ける。正四位の嫡子に…(以下略)。
任官
12月13日(己巳) 正五位下路真人大人を衛士督に任じた。
衛士府は京の宮門の警備などを担当し、衛士督はその長官ですが、律令の規定では左衛士府と右衛士府にわかれており、路大人がどちらの督になったのかは分かりません。
持統上皇に諡号を奉り、火葬を行う
12月17日(癸酉) 従四位上当麻真人智徳が諸王諸臣を率いて太上天皇に誄(貴人の死を悼んで読み上げる弔辞)を奉った。大倭根子天之広野日女尊と諡を奉った。
この日、飛鳥岡において太上天皇を火葬し奉った。
殯(崩御から葬られるまでの期間)が終わって葬送するにあたり、誄が読み上げられ、その中で持統上皇に「大倭根子天之広野日女尊」という諡号が奉られました。
諡号(しごう)は諡(おくりな)ともいい、死後に「贈られる名」です。この「大倭根子…」は和風諡号といい、日本の古訓をもって奉った尊称です。「持統」というのも同じく諡号であり、こちらは中国由来の名が贈られる漢風諡号といいます。

便宜上、存命中にも「持統天皇」や「文武天皇」などと表記していますが、実際には当時は「陛下」「天子」「皇帝」などと呼称され、○○天皇のように呼ばれてはいませんでした。

崩御から1年が経過し、ついに葬儀がおこなわれましたね。
誄は、殯が終わって最後のお別れの言葉を捧げるということでしょうか。これについては今のお葬式でもあることなのでイメージしやすいですね。

持統上皇が崩御したのは昨年12月22日だったので厳密には1年経ってはいませんが、やはり概ね1年を殯の期間として設けていたことが分かります。
今回の冒頭でも述べましたが、持統上皇の殯はその地位の偉大さを反映するかのように長い期間が設けられました。これにはご遺体を葬るための山陵をつくるためといった純粋な準備期間のためでもありますが、当時、皇族が亡くなってから埋葬されるまでの期間は1週間程度と記録されており、やはり天皇の死は特別な対応が必要だったことが分かります。

持統上皇の夫である天武天皇の殯は2年以上にも及びました。上皇は遺言として「喪服は着ず、葬儀のことは努めて倹約にせよ」としていたので、それを考慮にした上での1年なのかもしれません。

2年間!?そんなに長い間ご遺体をそのままにしておいて大丈夫なのでしょうか…。
とはいえ天武天皇といえば小学校の教科書にも載るくらい知名度が高く、さまざまな事績を残された方ですから、やはり殯の長さはそのまま天皇の偉大さを示していると言えそうですね。

当然ながら遺体をそのままにしておけば腐敗が進んでしまいますが、一方で遺体をしばらく安置し、腐敗してゆく死の過程を見守る殯という儀礼は、故人としての尊厳を保つための儀礼的な意味を持っていました。
また、仏教をあつく信仰していた持統上皇は、天皇で初めて火葬が行われることとなったため、どのような手順や方法で行われるのか慎重な検討が加えられたのではないでしょうか。

それまでは土葬だったんですね。
ちなみに日本で初めて火葬されたと人物は僧侶の道照(道昭)と伝えられています(『続日本紀』文武天皇4年(700)3月10日条)。『持統天皇 壬申の乱の「真の勝者」』中公新書 2019 瀧浪貞子著 によると、持統上皇は僧の道照に深く帰依しており、火葬もこれにならったものであるとしています。
天武天皇陵に合葬する

12月26日(壬午) 大内山陵【天武天皇陵】に合葬し奉った。
持統上皇は、夫である天武天皇と同じ山陵に葬られました(合葬)。

夫と同じところでお眠りになった…。国史は事実のみを淡々と語りますが、これには持統上皇のひとりの人間としての「想い」や「情念」が感じられますね。

天武天皇と共に、文字通り命をかけて壬申の乱で勝利を勝ち取り、駆け抜けた人生でした。天武天皇はさかのぼること17年前に崩御し、これ以降持統上皇は天武との間に生まれた草壁皇子を皇位につけるため奔走しました。草壁皇子は若くして亡くなってしまいましたが、今こうして孫の文武天皇が皇位につき、曾孫の首皇子(のちの聖武天皇)も生まれました。憶測ですが、上皇は安息のうちにみまかられたのではないでしょうか。
参考書籍など




次回!!

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