【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲元年② 祥瑞出現により改元。人心一新・政局打開なるか?

慶雲
いずみ
いずみ

こんにちは、いずみです!♨️
今回はどんな出来事がありますか??

みちのく
みちのく

今回はなんといっても、大宝から慶雲への改元ですね!
改元のきっかけや由来などを考察を交えて取り上げていきたいと思います。

慶雲元年(西暦704年・甲辰)現代語訳・解説

慶雲…?

改元の詔(大宝4年から慶雲元年へ)

延喜式 治部省 祥瑞条 2つ目に慶雲の項がある

5月10日(甲午きのねうま) 備前国(岡山県東南部)神馬しんめを献上した。
 西のたかどの(高くつくった建物)の上に慶雲が出現した。よってみことのりにより天下に大赦し、元号を改めて慶雲元年とした。

 元号が大宝4年から慶雲元年に改められました。「けいうん」または「きょううん」と読みます。

 その名の通り、慶雲は「慶(よろこば)しい雲」ということで、縁起の良いめでたい雲の出現を祝して元号の名とされました。

みちのく
みちのく

慶雲のような自然現象や、同日に献上されている神馬(神の乗馬とされる神聖な馬)などは吉兆であるとされ、これを祥瑞といいます。

慶雲、実は雲じゃない??

いずみ
いずみ

科学全盛の現代でも神秘的な自然現象は人の心に特別な感情を呼び起こしますよね。特に雲は「彩雲」とか、限られた条件でしかならない形や色のものがありますし、祥瑞としてありがたがった当時の人の気持ちも理解しやすい気がします!
でも、慶ばしい雲ですか…どんな雲だったんでしょう?

彩雲。雲が七色に染まる 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
みちのく
みちのく

慶雲とはどんな雲なのか、『続日本紀』記事中では一切触れられていないため詳細は不明ですが、200年ほど後の平安時代中期に編纂された律令の細則『延喜式』には、祥瑞の「慶雲」について以下のように解説されています。

『延喜式』治部省式 祥瑞条

慶雲  状若烟非烟、若雲非雲
右、大瑞

(和訳)
その姿は、けむりのようであって、けむりに非ず。雲のようであって雲に非ず。
これは大瑞である。

いずみ
いずみ

つまり…どういうこと…??
雲じゃないって言ってますよ…!?

みちのく
みちのく

けむりのような、雲のような…解説からしてとても曖昧というか、もはや解説になってないですよね。正体はユスリカという蚊に似た虫の大群がつくる蚊柱ではないかという説があるようです。

いずみ
いずみ

蚊!?虫の大群はちょっと…

 蚊といってもユスリカは刺すことはなく基本的に無害でかよわい生き物です(ハエの仲間)。また世界中に生息し非常に種類が多く、水気のあるところならどこにでも見られる、いわゆる「羽虫」です。

 その外見や群れをつくるところから不快感を覚える人もいますが、幼虫は川底に棲んで堆積した有機物(水質汚染の原因となる)をエサにするので川を浄化する役割を担っています。また、飛び立った成虫は鳥やコウモリなどのエサになります。

 ユスリカが蚊柱をつくるのは、オスの幼虫が一斉に羽化して空に飛び上がって柱状に群れをつくり、メスが交尾のためにその柱を目印に集まってきてさらに蚊柱が大きくなるのです。

いずみ
いずみ

なるほど、、自然の一部としてしっかり連鎖の環の中にいるんですねぇ
でも蚊柱を雲とか煙に見間違えることなんて本当にあるのでしょうか…?

みちのく
みちのく

こちらは海外で発生した事例ですが、煙のようなものは実はユスリカの大群がつくった蚊柱だそうで、数十メートルの高さに達する場合もあるようです。

いずみ
いずみ

うわ!本当に煙とか竜巻みたいですね…!
こうなると慶雲=ユスリカ説の信憑性が高まりますね

古代中国(晋王朝)の歴史に見える「慶雲」

 慶雲が祥瑞とされているのは、古代中国から伝わったものです。3世紀後半に中国大陸を統一して成立したの歴史書で唐の時代にまとめられた『晋書』には次のような記述があります。

『晋書』巻54 陸雲伝
天網広羅、慶雲興以招龍

天の網は広く張られ、慶雲興りて龍を招く

みちのく
みちのく

龍は力や成功、皇帝の威厳を象徴する動物であり、慶雲が沸き立ち天に昇ることで龍を呼び寄せるものと考えられたのでしょう。

いずみ
いずみ

さきほどの巨大な蚊柱はまさに龍のようですね!慶雲の出現は皇帝の権威がますます強まるということで、国のさらなる発展を予言するものだったのかも。

みちのく
みちのく

しかもこれが藤原宮の西の楼の上にできたのですからね

 ちなみに蚊柱は夏(4月〜6月)の季語です。改元されたのは5月ということで、時期としても合っていますね。

改元による特別ボーナスなど

(続き)

 高齢者や病気の老人に賑恤しんじゅつ(貧乏な人や被災者を救うために、金銭や物を与えること)を加えた。また、壬寅みずのえとらの年【大宝2年(702)】より以前の大税(租税)及び、神馬が現れた郡の今年の調を免除した。また、親王・諸王・百官の使部つかいべ(雑用を任される下級役人)以上の者にそれぞれ差をつけて禄を賜った。

 神馬を献上した備前守正五位下猪名真人石前いなのまひといわさきの位を1階昇進させた。最初に慶雲を発見した式部少丞従七位上小野朝臣馬養は3階昇進とし、2人には並びにあしぎぬ(太くて目の荒い絹)10疋・糸20・布30端・鍬40を賜った。

いずみ
いずみ

慶雲の影に隠れがちですが、神馬も同じ日に献上されてますね。連続で祥瑞が出現したのでBIGなイベントになったわけですね。

神馬については『続日本紀』大宝2年4月8日条を参照。

神馬のイメージ
黒い体に白いたてがみと尾が神馬のしるし

 慶雲を最初に発見した小野馬養は、前年の大宝3年(703)正月2日条に「南海道巡察使」に任命された経歴があります。

改元の理由を考える

みちのく
みちのく

以上が大宝→慶雲への改元の理由です。が、祥瑞は改元をするための名目であって実際には、改元をしなければならない政治上の別の理由があることがほとんどです。

 昨年の12月に1年間に及ぶ持統上皇の葬送儀礼が終わり、凶事から国や人心を一新するため、改元のタイミングをうかがっていたのではないかと思います。また、この年の3月から4月にかけ日照りや飢饉や疫病などが多発し、政情不安が起きやすい状況となっていたため、これを改元により一挙に解決する狙いもあったのではないでしょうか。

飢饉

5月16日(庚子かのえね) 武蔵国(東京都、埼玉県、神奈川県の一部)に飢饉が発生した。よってこれを賑恤した。

勅(軍団兵士の訓練など)

当時の兵士

6月3日(丁巳ひのとみ) 次のように勅した。「諸国の軍団を10の番(グループ)に分け、番ごとに10日間、兵士に武芸を教習させよ。必ず斉整せいせい(整えそろえること)ならしめるようにせよ。
 令条に規定されていること以外は兵士を雑用に使役してはならない。また、関所がある国で、これを守備しなければならない者は、事情に従って斟酌しんしゃく(事情を考慮すること)し、関所の守りに充てるようにせよ」と。

 当時の日本の正規軍として、各国(大和国や信濃国などのこと)単位で軍団が置かれていました。軍事教練を行うことを天皇の命令(勅)として言い渡されたわけですが、「斉整」とは「整えそろえること」という意味なので、戦闘訓練というよりは儀仗の場などでの整列や行進などの訓練が行われたのかもしれません?

有勲位者の軍団出仕について

6月5日(己未つちのとひつじ) 諸国の勲七等以下で官職と位階を帯びていない者が、軍団に出仕することを許可した。3年を期限として、満了の年に考(勤務評定書)を式部省に送ること。選(勤務評定に基づき叙位や任官を行うこと)は散位(位階を有しているが特定の職務に就いていない者)の例に同じ。
 身体が丈夫でその勤めに耐えられる者は、国司が商量(話し合う、協議すること)してこれを適切な職務に充て、使用する年限と考選についてはその職務の例に準ずること。

3つ子が生まれた家への福祉

6月11日(乙丑きのとうし) 河内国古市郡(大阪府東部)の人高屋連薬女たかやのむらじくすりめが一度に3人の男子を産んだ。よって絁2疋、綿2屯、布4端を賜った。

いずみ
いずみ

三つ子ちゃん誕生ですね。

祥瑞(木連理)

木連理(出典 『東山動植物園オフィシャルブログ』 2020年04月25日(土)記事より)

6月15日(己巳つちのとみ) 阿波国(徳島県)木連理もくれんりを献上した。

みちのく
みちのく

木連理は祥瑞で、2本の異なる木の枝が1本に結合している状態のものをいいます。
天子の徳が草木にまで行き届いたときに出現するとされています。

いずみ
いずみ

神馬、慶雲と、ここぞとばかりに祥瑞の報告がつづきますね!

みちのく
みちのく

祥瑞については↓の記事でも解説しています。

諸社に祈雨

6月22日(丙子ひのえね) 奉幣(神へ物を奉ること)し、諸社に祈雨した。

みちのく
みちのく

改元により政情の一新を図ったものの、飢饉や日照りの状況は続いているようです。 当時はこれらの災害に対しては神の祭りを行ったり、仏教の力にすがったり、今回のように元号を改めるなどをする以外、基本的には対処する術がありませんでした。

いずみ
いずみ

現代にあっても、天候や自然災害そのものを操作したりすることはできないですからね…。

参考書籍など

続日本紀(上)全現代語訳








次回!!!!!!

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