
こんにちは、みちのくです☀️
今回はあの有名な古代貨幣の和同開珎が登場します。

これも中学校か高校の日本史で習った気がします!
和銅元年(戊申・西暦708年)現代語訳・解説
和同開珎銀銭を鋳造する
5月11日(壬寅) 初めて銀銭の鋳造を行った。

日本史上、初めて市場での本格的な流通を目指した銀銭の製造が行われました。『続日本紀』には固有名詞は出てきませんが、これは「和同開珎」の銀銭であると推定されます。銀銭であるため、正月11日に武蔵国の秩父郡から献上され、同地で採掘されるようになった和銅は使われていません。
和同開珎は最初期の本格的な流通貨幣として知られ、銅銭は全国から多く発掘されています。ただし、銀銭は翌年8月には鋳造が停止されたために出土例が少なく貴重なものになっています。

和同開珎銀銭は長野県飯田市、石川県野々市市、秋田県の秋田城跡、淡路島などから発掘されていますが、全てを合わせても50枚程度だそうです。ちなみに銅銭の方は6000枚以上が見つかっているとのこと。

和同開珎のスタートが銅銭ではなく銀銭だったとは意外ですね!
それにしてもなぜ発見は全て都から離れた地方だったのでしょう?
都市部の方が流通しやすいはずですよね、不思議です。

なぜ都からは見つからないのか?それはやはり「貨幣が使用されたから」ではないでしょうか。都は貨幣の利用が比較的活発ですから、流通が終了したあとには政府に回収され再び溶解されるなどしたために残らなかったのだと思います。
一方、地方では貨幣はまだ取引という本来の利用があまりなされず、祭祀や儀礼用として墓などに供えられ土中に埋められるケースが多かったため後から発掘される事例があるのでしょう。
e国宝で「和同開珎銀銭」が見られます。
近江国守に傔仗を賜う
5月19日(庚戌) 近江国(滋賀県)に傔仗(護衛の武官)2人を賜った。
3月22日に大宰帥、大宰大弐、尾張守、三関の国守(美濃、伊勢、越前)たちに傔仗を賜ったという記事がありましたが、しばし遅れて近江国(おそらく近江守)もその対象とされました。やはり、北陸地方への玄関口という地理的な重要性と、かつて天智天皇が営んだ大津京の存在が大きいのでしょう。付けられた傔仗の人数としては三関国守と同等で、近江にはのちに逢坂関が設けられ三関の地位を愛発関から引き継ぐことからも今回の対応は納得できます。
逢坂関の位置。滋賀県と京都府の県境となっています。
長門国に甘露

5月29日(庚申) 長門国(山口県西部)が、甘露が降りたと言上した。
甘露は祥瑞(天子の治世を良いものであると称え、神々がもたらすとされる吉兆)で、平安時代に編まれた『延喜式』では上瑞とされ(大瑞・上瑞・中瑞・下瑞の4ランクがある)以下のように記述されています。
『延喜式』治部省式上瑞条
甘露 美露也、神霊之精也、凝如脂、其甘如飴、一名膏露
★要約
甘露 美しい露である。神霊の精なり。凝り固まった脂のようで、その甘さは飴のようである。別名では「膏露」という。

露というと、水蒸気が冷えて水滴になったものですが、甘露は延喜式にはまるで個体かのような記述になっていますね?

飴といっても、現代人が考えるような砂糖を大量に使った固い飴ではありません。当時の飴は水飴ですから、とろみのある様子を脂のようだと表現したのでしょう。

露が飴のような甘さというのは信じ難いですが、当時は砂糖がなかったのですからほんのわずかな天然の甘味でも「甘い!」と感じられたのかも?

卒去(美努王)
5月30日(辛酉) 従四位下美努王が卒した。
美努王の系譜
美努王は橘氏の祖である橘諸兄の父です。諸兄はもとは葛城王という皇族でしたが、橘姓を授けられて臣籍に降ります。美努王は敏達天皇の3世孫で、文武天皇や元明天皇とは3、4世代前に系統が分かれていますが、妻の県犬養橘三千代はのちに藤原不比等の後妻として光明子(光明皇后)を産んでいます。

つまり、橘諸兄と光明子は母親が同じなんですね

はい、その光明子は聖武天皇に入内しますので、美努王の王家と本流とは血縁がやや遠いですが、三千代を通して深い関係があったと思います。なお、美努王と県犬養橘三千代との離別に関しては理由は不明です。


日本書紀の記述
父の栗隈王を守る
美努王は『日本書紀』天武天皇元年(672)6月26日(丙戌)条に、「三野王」として登場します。壬申の乱勃発の前段階、大海人皇子(のちの天武天皇)が挙兵のため吉野から東国へ移動を始めた頃のことです。大海人皇子は東国に自身の本拠があり、かねてより彼の動向を警戒していた大友皇子が率いる近江の朝廷は大きく動揺します。
そこで大友皇子は徴兵のため佐伯連男を筑紫に遣わし、筑紫大宰(のちの大宰帥)に任じられていた栗隈王に軍兵の徴発を命じたものの、外国勢力からの防衛が手薄になることを理由に断られた」ため、佐伯男は王を斬ろうとしました。

栗隈王は美努王の父。王はかねてより大海人皇子に従っていたため、徴兵に従わないときは殺害せよと勅令が下っていたのです。
しかし、栗隈王の2人の子の三野王と武家王が父のそばに立ち剣をとって退こうとしなかったため、佐伯男は返り討ちに遭うことを恐れ栗隈王を斬ることを断念した…という話が伝えられています。

美努王は朝廷の使者に逆らい、父を守ったのですね!
帝紀・旧事の編纂事業に携わる
天武天皇10年(681)3月17日(丙戌)条には、詔により川嶋皇子、忍壁皇子たちと共に『帝紀』(歴代天皇の系譜)と『旧辞』(古来より伝わる諸種の説話)の編集を命じられたとあります。

これは大事業に抜擢されましたね!

美努王は父の代から天武天皇に従っていたということですから、天武天皇が紡ぐ歴史に対して理解と共感があったのでしょう。
父と同じく筑紫大宰となる
持統天皇8年(694)9月22日(癸卯)条には、筑紫大宰率(長官)に任じられたとあります。『日本書紀』の美努王(三野王)に関する記述はここまでになっています。

父と同じ官職に就いたんですね。書紀の記述はなかなか豊富でした。

このほかにもいくつか美努王が登場する記事がありましたが、煩雑になるので割愛させていただきます💦
続日本紀の記述
『続日本紀』には任官記事のみ存在します。
大宝2年(702)正月17日 従五位下 左京大夫
同年8月11日 従四位下 摂津大夫
和銅元年(708)3月13日 従四位下 治部卿 (弥努王と表記)

前述しましたが、美努王は父の栗隈王のときから天武天皇の側についていたということなので、壬申の乱後の新政権でも良い待遇を受けられたのではないでしょうか。
薨去(但馬内親王)

6月25日(丙戌) 三品但馬内親王が薨じた。天武天皇の皇女である。
但馬内親王は天武天皇の皇女で、母は藤原鎌足の女子(氷上娘)です。『万葉集』には4首の歌が載せられており、このとき知太政官事に任じられている穂積親王(慶雲2年(705)9月5日)との親しい間柄をうかがい知ることができます。
『万葉集』巻第2 相聞歌
但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、穂積皇子を偲ひて作らす歌1首(歌番号:114)秋の田の穂向きの寄れる片寄りに君に寄りなな言痛くありとも
★大意
秋の田の穂の寄っている、その片寄りのようにあなたに寄り添いましょう。耳にうるさい噂があろうとも。
この歌を詠んだとき、但馬皇女は高市皇子(天武天皇の長子)の宮におり、穂積皇子とは離れていました。皇子の名前の「穂積」から、秋に実った穂を見ると親しい穂積皇子が思い起こされたのでしょう。

なかなかに大胆な歌を詠まれたのですね!

その但馬皇女の思いに応えるように、皇女が亡くなったことを悲しむ挽歌が穂積皇子により詠まれています。
『万葉集』巻第2 挽歌
但馬皇女の薨ぜし後に、穂積皇子、冬の日に雪の降るに御墓を遥望し悲傷流涕して作らす歌1首(歌番号:203)降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒くあらまくに
★大意
降る雪よ、そんなにたくさん降らないでくれ。吉隠の猪養の岡が寒くなるであろうから。

皇女が亡くなったのは夏。その数ヶ月後の雪の降る季節に穂積皇子は皇女のこと思い出され、涙を流しこの歌を詠んだのですね。

吉隠は奈良県桜井市吉隠として地名が残っており、同地にはこの歌の歌碑が立てられています。「遥望」とあるように藤原京から離れた東方の山間部に御墓がつくられたようです。

きっと藤原京から東の山が雪で白くなっているのが見えたのでしょうね
詔(都の寺に転経を行わせる)

6月28日(己丑) 詔し、天下太平と百姓の安寧のため都下の諸寺に転経を行わせた。
百姓の安寧を、天皇の詔によって実現させることに大きな意義があります。神祇に祈るだけでなく、仏の力も借りて国を太平に治めることが名君の条件でした。
転経とは転読ともいい、大量の経典の初・中・後の数行を読んで完読したとみなすことです。このとき何の経を読んだかは分かりませんが、道照和尚が唐から日本に伝えた「大般若経」600巻の転読はよく行われていたようです。(参考:大宝3年(703)3月10日条)

大般若経の転読は今でも行われていて、600巻の経典を読み回す様子は迫力がありますよ!


これは読んでるのでしょうか…?イメージとは大分違いました!

そういう儀式(仏事)と思って見た方が良いでしょう!
内蔵寮に史生を設置、疫病の発生
秋 7月7日(丁酉) 内蔵寮に初めて史生(下級書記官)4人を置いた。
但馬国(兵庫県北部)、伯耆国(鳥取県中西部)の2カ国に疫病が発生した。薬を支給してこれを治療させた。
内蔵寮は中務省の管下にあり、職掌については律令に以下のように記されています。
律令 職員令
7.内蔵寮条 職掌は、金、銀、珠、玉、宝器、錦、綾、雑綵(あやぎぬ、美しい織物)、氈褥(毛織りの敷物)、諸蕃(外国)の貢献する奇瑋(珍しい玉類)の物、年料に供進する御服、及び別勅により用いる物のこと。(以下略)

金銀、珠玉、高価で精緻な織物、外国から献上される宝物など天皇・朝廷が所蔵する貴重な物品の倉庫管理業務をつかさどったのが内蔵寮ということです。
このほか天皇の御服など日用品の管理も行っていたようです。

「内」とあれば宮中のことを意味するんでしたね!
隠岐国に長雨と大風が発生

7月14日(甲辰) 隠岐国(島根県隠岐郡)に霖雨(長雨)と大風が発生した。使者を遣わしてこれを賑恤(被災者や貧困者に金品を与えて救うこと)させた。
隠岐国は現在の島根県の一部(隠岐諸島)ですが、当時はひとつの国として成立していました。島が国として独立の行政区となっていたのはこの他には佐渡国だけです。

現在韓国に占領されている竹島も隠岐郡です!
勅による訓示
高官への訓示
7月15日(乙巳) 二品穂積親王、左大臣石上朝臣麻呂、右大臣藤原朝臣不比等、大納言大伴宿禰安麻呂、中納言小野朝臣毛野・阿倍朝臣宿奈麻呂・中臣朝臣意美麻呂、左大弁巨勢朝臣麻呂、式部卿下毛野朝臣古麻呂たちを御前に召し、次のように勅を下した。「卿らは公平な心をもって百寮(すべての役所の官人。百官)を率先している。朕はこれを聞き喜び、心の慰めとなっている。思うに、卿らがこのようであるので、百官から天下の平民にいたるまでが垂拱(何もせずに袖を垂れ、手をこまねいていること)し衿を開き、長久平好(長く平穏であること)でいられるのである。また、卿らの子々孫々はおのおの栄命を保ち、相継いで供奉(天皇にお仕えすること)するであろう。朕のこの意を汲んで各々が自ら努力するように。」と。
3月13日に任じられた太政官のメンバーが元明天皇のもとに召され、勅により訓示が伝えられました。穂積親王は慶雲2年(705)9月に知太政官事という太政官を統括する臨時官に任命されており、首班となっています。
垂拱するというのは、手を下に垂れてこまねいているさまから積極的に「何もしない」こと意味する言葉で、何もしなくても天下が自然に治っている理想的な状態を指します。普通、名君の優れた治世を称えていう場合が多いです。
実務を担う官人たちへの訓示と叙位
(続き)
また、神祇官の大副(次官)、太政官の少弁(弁官の次席。左少弁と右少弁)、八省の少輔(三等官)以上、侍従、弾正弼(弾正台の長官)以上、及び武官の職事官(律令に規定のある官職)のうち五位以上の者を召して次のように勅を下した。「汝王臣らは諸司の官人の手本である。汝らの能力次第で諸司の人々はすべからく斉整(整いそろっていること)することであろう。
朕は聞く、忠誠心と清い心を持つ者は臣子(主君に仕えるとともに親に仕えるもの。臣であり、子であるもの)の業を守り栄貴を受け、貪濁(心が欲深く濁って汚れていること)の者は臣子の道を失い、必ず罪辱を被ることになるという。これは天地の恒理(ことわり)であり、君臣の明鏡である。
故に、汝らはこの意を知って各々の所職を守り、怠緩あるなかれ。よく時務(その時々に応じた重要な職務)に堪える者は必ずこれを推挙して位階を進め、また、能力に乏しく官事を乱し失う者を隠諱(物事の事実を隠し忌むこと)することのないようにせよ。よって、 紀伊国名草郡旦来(あさこ、あつそ)郷に壬戌の年の戸籍を ここに従四位上阿倍朝臣宿奈麻呂に正四位上を、従四位上下毛野朝臣古麻呂・中臣朝臣意美麻呂・巨勢朝臣麻呂に並びに正四位下を授ける。文武の職事官で五位以上の者及び女官にそれぞれ差をつけて禄を賜る」と。
続いて元明天皇は、各役所の実務を担当し、管理指導的立場にある者たちを対象に訓示を下しました。「あなたたちは官人たちの手本なのですから、よく範を示すこと。そうすれば全ての部下の統率がとれるようになります。優秀な者は推薦して位階を昇進させ、また、能力に乏しい者の失敗を隠蔽することのないようになさい」というのが大体の内容です。
文中、緑字で示した部分は『続日本紀』編集時のミスで一文が紛れ込んだものです。和歌山県海南市に且来の地名が現在も残ります。古来は「旦来」と書きましたがいつしか「且来」に変化したようです。読みも現在は「あつそ」から「あっそ」と読むようになりました。
詔(僧尼や高齢者に食料を支給)
7月16日(丙午) 詔があり、京師(多くの人々が集まって住む都。帝都)の僧尼及び百姓たちの80歳以上の者に粟を賜った。100歳以上に2斛、90歳以上に1斛5斗、80歳以上に1斛とした。
この詔が発せられたのは官人への勅の翌日ですから、セットで考えるべきかもしれません。元明天皇の国の統治に対する熱意が窺えます。
近江国に和同開珎銅銭を鋳造させる

7月26日(丙辰) 近江国(滋賀県)に銅銭を鋳造させた。
5月にスタートした和同開珎銀銭の鋳造に続き、銅銭の鋳造が始まりました。こちらの記事も和同開珎銀銭のときと同じく単に「銅銭」とあるだけで固有名詞はありませんが、時期的に和同開珎の銅銭であると推定されます。なぜ鋳造を担当したのが近江国だったのか?和銅が発見されたのは武蔵国ですが、あくまで和銅の採取のみを行い、製作をするのは近江など都から近い国だったということでしょうか。



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