
こんにちは、いづみです♨️
今回は行幸があるみたいですね。「甕原」「吉蘇路」これは一体なんて読むのですか?

甕原は「みかのはら」、吉蘇路は「きそのみち」です☀️
和銅6年(癸丑・西暦713年)現代語訳・解説 6月〜7月
連姓を賜う
6月18日(庚戌) 従七位上家原河内、正八位上家原大直、大初位上首名の3人に連の姓を授けた。
從七位上家原河内。正八位上家原大直。大初位上首名三人並賜連姓。
家原氏は、和銅5年(712)9月3日(己巳)条に、故・左大臣多治比嶋の妻である「家原音那」(「音那」はおそらく女性を意味する語であり、実名ではない)が登場しました。その時に、大臣の妻としての功を認められて封地(一定の収益を受け取れる、皇族や貴族に与えられた土地)を賜り、同時に「連」の姓を授けられました。
今回の家原氏の3名、河内・大直・首名は、この家原音那の賜姓に引き寄せられる形で連姓を得たのではないでしょうか。

3人の位階は従七位上、正八位上、大初位上なので、家原氏は下級の官人でした。もともと「朝臣」や「宿禰」などの姓も持たない「無姓」だったことからもそのことがうかがえます。

となると、家原音那さんが左大臣の妻になったことは氏族全体としてかなり大きな影響があったはずですよね。「連」が授けられたことも、朝廷を支える一員としての称号を得たわけですから一族の出世、名誉といえます。
⭐️参考 八色の姓における氏族の序列
1 真人(まひと)
2 朝臣(あそん)
3 宿禰(すくね)
4 忌寸(いみき)
5 道師(みちのし)
6 臣(おみ)
7 連(むらじ)
8 稲置(いなき)
暈繝(うんげん)彩色による染め物が献上される
6月19日(辛亥) 右京の人・支半于刀、河内国志紀郡の人・刀母離余叡色奈が暈繝色を染めて作り、これを献上した。この労を以て、それぞれに従八位下を授け、並びに絁10疋、糸40絇、布40端、塩10籠、穀100斛を賜った。
右京人支半于刀。河内國志紀郡人刀母離余叡色奈。並染作暈繝色而獻之。以勞各授從八位下。并賜絁十疋。絲卌絇。布卌端。塩十篭。穀一百斛。
暈繝とは? 正倉院宝物の作品例

「正倉院展用語解説」では次のように解説されています。
暈繝・暈繝彩色(うんげん・うんげんさいしき)
繧繝とも表記する。装飾文様(もんよう)における彩色方法の一つ。一つの色を暈(ぼ)かすのではなく、段階的に濃淡をつけて彩色する技法で、今日のグラデーションにあたる。
正倉院展用語解説

画像:Wikipedia

暈繝技法は花弁に描かれている、層のように色分けされた帯状部分のことをいいます。中央の花弁が特に分かりやすく、外側から内側に向かって「淡い青→濃い青」「濃い赤→淡い黄→橙色→濃い赤」と同系色または近い色を段階的に並べて、花弁に立体感・華やかさを出している部分がありますよね。これがいわゆる暈繝的な表現です。

正倉院展解説では「今日のグラデーションにあたる」とありますが、暈繝は色の境界をぼかしたものではなくて、階層的な表現になってるんですね。
ちなみに、正倉院には他にも暈繝を用いた物は収蔵されてるんですか?

あります。むしろ正倉院宝物は、奈良時代の暈繝技法を確認できる代表的な宝庫と言ってよさそうです。


この彩色技法は、奈良・平安時代の仏画や寺院装飾に用いられましたが、今回の『続日本紀』記事中に「染め作る」とあるように染め物にも活用されたようです。

木や石に彩色するより繊維の方が難易度が高そうですし、しかも暈繝は段階的な色分けが必要なので繊細な色調整がいりますよね。

質の高い技術が求められることは間違いないでしょう。
大膳職に史生を置く
6月21日(癸丑) 初めて大膳職に史生(下級書記官)4名を置いた。
始置大膳職史生四員。
大膳職は、朝廷での会食料理を担当した官司です。
律令規定には確かに史生を設置することは書かれておらず、ここに初めて史生を設置することになったようです。
史生を設置する、または増員するという記事はこれまでにも出てきており、律令施行により条文と実務・実態との差が浮き彫りになってきていたようです。
また、史生は書記官なので、文章が正確に読み書きできる、律令の書式や規定に従って文書を処理できるといった能力が求められます。

史生を新たに設置できるということは、「その能力を持った人材が増えてきた」ことを意味するのではないでしょうか。
⭐️参考 これまでの史生増員・設置
大宝3年(703)2月17日(癸卯) 大宰府に10名増員
和銅元年(708)7月7日(丁酉) 内蔵寮に初めて4名設置
同年8月21日(庚辰) 兵部省に6名、左右京職にそれぞれ6名、主計寮に4名増員
和銅5年(712)11月16日(辛巳) 弁官に6名増員
同年12月15日(己酉) 東西の市司に初めて2名設置
行幸(甕原離宮)
6月23日(乙夘) 天皇は甕原離宮に行幸された。
行幸甕原離宮。

行幸、天皇がお出かけされることですね。
甕原離宮とはどの辺りにあるのでしょうか?
どこにある?

結論から言うと、明確な遺構が発見されていないため正確な位置は不明です。
が、現在もっとも有力な説としては、京都府木津川市加茂町法花寺野付近です。
甕原離宮の位置については『続日本紀』天平14年(742)8月13日(乙酉)条に重要な手がかりがあります。
『続日本紀』巻14 天平14年8月13日
宮城(恭仁京のこと)の南大路の西のほとりから甕原宮の東との間に大橋を造らせた。
宮城以南大路西頭。与甕原宮以東之間。令造大橋。
とあります。「宮城」とは、天平14年当時の都である恭仁京のことで、聖武天皇が天平12年に平城京から遷都しました。この記事を読むと、甕原離宮は恭仁京の南西に位置し、両者は近接していたことが分かります。「大橋」は木津川(当時は泉川と呼ばれた)を渡すために離宮と恭仁京を結んだものでしょう。
周辺には「甕原離宮国分尼寺跡 参考地」の石碑があります。木津川を挟んで北東には恭仁京史跡があり、その地域は「瓶原」として文字は違いますが現代にも地名が残されています。

史料から明らかになっているのはここまでです。「参考地」とされているところからは大量の古い瓦が出土していますが、出土物の規模が小さいこと、離宮としての立地条件などの点から、ここを直ちに離宮の跡地とすることには慎重になる必要があるようです。
⭐️参考 中谷雅治「甕原離宮の位置について」(『京都府埋蔵文化財論集』第1集、1987年、PDF)
行幸の目的は?

主目的は「休暇・保養」

離宮のあった地は風光明媚の地と知られていたようです。よって主目的は「休暇・保養」でしょう。
『万葉集』には、恭仁京を讃える歌として👇
「恭仁京は、川が近く瀬の音が清らかで、山が近いので鳥の声が響き渡り、秋になれば山にとどろくようにして雄鹿が妻を求めて鳴き、春になれば岡に花が咲き乱れ」(巻第6・雑歌・1050番歌。部分要約)と歌われています。
その上で、隣接する甕原離宮を引き、次のような歌もあります👇
『万葉集』巻第6 雑歌 1051番歌
三香の原 布当の野辺を清みこそ 大宮ところ定めけらしも
要約:三香の原(甕原)の野が清らかであるからこそ、恭仁京がここに定められたのだなあ
と、甕原の地の美しさを歌っています。

となると、行幸の目的としては純粋に「休暇・保養」と見るのが自然なんですね。当時の6月ということは、今でいう7月下旬頃ですから暑い時期ですし、避暑でもありそう。

はい。それに今回の行幸は3日間と比較的短期滞在ですから、何か重要な政治目的があったわけではなさそうです。
と、言いつつも実は「交通路の視察」これも捨てがたいテーマではないかと思っています。
交通路上の意味も捨てがたい

古代において甕原は、平城京から伊賀国やその先の東国へ向かう主要路でした。遷都(和銅3年・710)からわずか3年後というタイミングに注目すると、新しい都を拠点に据えた元明天皇が、東国方面へのルートを実際に見て確認したという側面も考えられます。天皇が自ら行幸することで、沿道の豪族や民衆への支配を可視化するという政治的効果もあったはずです。

元明天皇は非常に政治的に有能な君主ですので、純粋な「お楽しみ」だけではなかったと見るのが自然ではないでしょうか。

前年には高安城に国見行幸をされましたからね。
⭐️参考 和銅5年(712)8月23日(庚申) 高安城へ行幸
また、このわずか10日余り後には「吉蘇路」を整備し開通させたという、東国ルートに関連する記事が連続し、吉蘇路開通の政策決定の前段階として、その前月に甕原まで足を運んでいた…という一連の流れとして読むこともできそうです。

もちろん断定はできず、考察です。しかし、甕原周辺は単に風光明媚なだけではなく、交通・軍事・行政上の意味を持つ場所だったことは言えるでしょう。

だからこそ後に恭仁京として都まで建てられたわけですね。
平城宮に還幸
6月26日(戊午) 天皇は平城宮に還宮(行幸を終えて宮に帰ること)された。
還宮。
23日行幸からの26日還幸なので、3日間の行程でした。
詔(隼人征討に功のあった者に勲位を授ける)
秋 7月5日(丙寅) 次のように詔した。「勲級を授けるのは、本より功があったからであり、優異(他より特別に良い待遇)をもって勧奨(ほめて引き立てること)するべきである。今、隼人の賊を討伐した将軍ならびに士卒(士官と兵士)たちの内、戦陣(戦の場)において功のある者1,280余人にはその働きに従って勲位を授ける」と。
詔曰。授以勲級。本據有功。若不優異。何以勸獎。今討隼賊將軍并士卒等戰陣有功者一千二百八十餘人。並宜隨勞授勲焉。

隼人征討…?最近の記事でそんなことありましたっけ?

ありませんでした‼️
つまり戦後の行賞記事だけが書かれていて、将軍の任官や戦闘経過などは一切不明です。
この戦争の原因は、おそらくこの年4月3日(乙未)の大隅国の設置にからむもので、これに反抗する隼人(南九州地方の現地民)に対する軍事行動があったとみられます。

大隅国設置という大きな出来事なのに、なぜ事後記録しか残ってないのでしょうか?
将軍の名前すらわからないですし…もしかして何か隠したいことでもあるんですか?

そのように考えてしまう気持ちは分かります。
ですが、『続日本紀』では戦争の途中経過が記述されるケースの方がむしろ稀です。
表 『続日本紀』の戦乱記事について
『続日本紀』に記される戦争や反乱について簡単にまとめると以下の通り👇
| 巻数 | 事件名 | 年 | 将軍など任官記事の有無 | 戦闘経過記事の有無 | 行賞記事の有無 |
|---|---|---|---|---|---|
| 巻第二 | 薩摩・多褹征討/薩摩隼人征討 | 大宝2年(702) | × | × | ○ |
| 巻第四 | 陸奥・越後蝦夷征討 | 和銅2年(709) | ○ | △ | ○ |
| 巻第六 | 隼人征討 | 和銅6年(713) | △ | × | ○ |
| 巻第八〜九 | 陸奥蝦夷反乱・征討 | 養老4〜6年(720〜722) | ○ | △ | ○ |
| 巻第八〜九 | 隼人反乱・征討 | 養老4〜6年(720〜722) | ○ | △ | ○ |
| 巻第九 | 神亀元年海道蝦夷反乱・出羽蝦狄対応 | 神亀元〜2年(724〜725) | ○ | △ | △ |
| 巻第十三〜十四 | 藤原広嗣の乱 | 天平12〜13年(740〜741) | ○ | ○ | △ |
| 巻第二十五・第二十七 | 恵美押勝の乱 | 天平宝字8年(764)※行賞は後年 | △ | ○ | ○ |
| 巻第三十三 | 桃生城襲撃・宝亀の蝦夷征討 | 宝亀5〜6年(774〜775) | △ | △ | ○ |
| 巻第三十四〜三十五 | 陸奥・出羽方面の蝦夷騒擾 | 宝亀7〜9年(776〜778) | △ | △ | △ |
| 巻第三十六 | 伊治公呰麻呂の乱 | 宝亀11年(780) | △ | ○ | ×〜△ |
| 巻第三十九〜四十 | 延暦7〜8年征東・巣伏の戦い | 延暦7〜8年(788〜789) | ○ | ○ | ×〜△ |
戦闘経過不明は珍しくない
このように、戦闘経過が明確に記述されているのは、有名な「藤原広嗣の乱」や「恵美押勝の乱」とほか蝦夷との戦争に絡む4例しかありません。
これは『続日本紀』の編纂の方針にかかわるもので、朝廷に激震が走った身内の反乱である「広嗣の乱」・「押勝の乱」はもちろんですが、蝦夷との戦争は、編纂時において進行中の出来事であったため詳細に記される傾向が強かったのだと思います。
一方、隼人との戦いは養老4〜6年において終結しており、詳細に記述する政治的な意味が薄れたのではないでしょうか。

なるほど…そうなるとあまりうがった見方をするのは慎重になった方がいいかもしれないですね。いきなり征討の事後記事が出てきたのでびっくりしました。

とはいえ、功労者だけで1,280人規模ですから、少なく見積もっても数千人の兵が動員されたはずです。この規模の戦争で将軍や功労者の名前が1人も出てこないというのは確かに特殊なケースではあると思います。
大倭国で銅鐸が発見される

7月6日(丁夘) 大倭国宇太郡波坂郷(奈良県宇陀市付近)の人・大初位上村君東人が長岡野の地で銅鐸を得て、これを献上した。高さ3尺、口径1尺で、その作りは普通の物とは違っていた。音は律呂(音楽の律と呂。音階)に調和していた。勅により、所司にこれを収蔵させた。
大倭國宇太郡波坂郷人大初位上村君東人得銅鐸於長岡野地而獻之。高三尺。口徑一尺。其制異常。音協律呂。勅所司藏之。

銅鐸!これは小学校の歴史でも習いました。
弥生時代の祭祀に使われたものですよね。

宇陀市の解説によると、これは日本最初の銅鐸出土の記録とのことです。記事では長岡野で出土とありますが、現在のところ詳しい場所は不明のようです。
⭐️参考 宇陀市の歴史「弥生時代」(宇陀市)
「高さ3尺、口径1尺」のサイズ感
当時の1尺はおよそ29.6cm前後とされているため、高さはおよそ90cmで口径が30cm程度となります。
前掲の宇陀市解説によると、「大形」とあり、現存最大級の銅鐸には1メートルを超えるものもあるため最大級とはいえないものの、銅鐸全体の中では確かに大型の部類に入るもので間違いありません。
奈良時代初期、銅鐸はどう認識されていたのか

「普通の物とは違っていた」というのは…普通の銅鐸とは違うという意味なのか、それとも銅鐸というもの自体が異形の物品として扱われたのか…どっちなんでしょう?

「銅鐸」と名付けていますし、音の性質まで評価しています。
なので、単なる「正体不明の古物」ではなく、朝廷側は 「音を発するための物」として理解しようとしている感じがあります。収蔵させた「所司」が具体的にどこなのかは不明ですが、その物の役割を理解していたからこそ「所管の官司」に任せることもできたわけです。
銅鐸の「鐸」は「大きな鈴」を意味する漢字であることから、「音を出すための道具」である認識はあったでしょう。
現代人は学校で「銅鐸は弥生時代に祭祀のための道具として用いられた」と習いますが、奈良時代においてはこういった用途ではすでに使われず、弥生時代後期から古墳時代への移行の中で、「音を出すための道具」ということは理解できても、祭祀という本来の意味は既に失われていたと思われます。

だから「普通の物とは違っていた」という言い回しになったんですね。
銅鐸は奈良時代人から見ても、遠い過去の遺物になっていたというわけですか…。
野洲市の解説でも、畿内中枢では銅鐸祭祀から銅鏡などを用いた新たな祭祀へ移行したようだとし、さらに銅鐸の終焉には「故意に壊されて破棄」された例もあると説明されています。
吉蘇路(木曽路)の開通
7月7日(戊辰) 美濃国(岐阜県南半部)と信濃国(長野県)の2国の境は道が険しく狭いため、往還が困難である。よって、吉蘇路を開通させた。
美濃信濃二國之堺。徑道險隘。往還艱難。仍通吉蘇路。
吉蘇路は美濃国と信濃国を結ぶ道で、今でいう「木曽路」です。岐阜県の中津川市から北上して木曽川をトレースし、木曽谷を通り諏訪までを通しています。

航空写真で見てみましょう👇

美濃国と信濃国を結ぶ2つのルート。赤線は大宝2年(702)に開かれた「岐蘇山道」で、神坂峠越えの山道。緑線は今回通された「吉蘇路」で、木曽谷を通過するルート。古代の道筋が現代の道路と完全に一致するわけではありませんが、吉蘇路は現在の木曽路・国道19号やJR中央本線と大筋で一致するルートだったと考えられます。
大宝2年の「岐蘇山道」との関連
上述のとおり、美濃信濃間の道路開通は、以前の大宝2年(702)12月10日(壬寅)条にもあり、その時は「岐蘇山道」という名称でした。今回は「吉蘇路」ということで、この2ルートは同一のものなのか、それとも別ルートなのかについては研究があり、決着はついていないものの、「別ルートである」というのが通説であるようです。
⭐️参考 コトバンク『日本歴史地名大系』吉蘇路
新たに道を作った理由 あまりに険しい峠

これは『続日本紀』記事中にあるように明確で、美濃信濃の国境を越える従来の道、すなわち大宝2年に開かれた「岐蘇山道」の神坂峠越えが険しく狭いためでした。

マップを見たら、現代でもかろうじて一本の細い道があるだけですね。急カーブも多いです。古代によくこんな険しい道を通そうと思いましたね…。

神坂峠は標高約1,569mで、古代東山道最大級の難所と説明されることもあるようです。ここを信濃から通って都まで物資を運ぶために行き来することの厳しさは今の僕たちには想像もつきませんね。
また、このような険しい山道であるため、災害が発生すればひとたび通行不能になることが予想できるため、そのような場合に備えて別ルートを通したともとれます。
とはいえ、新道である吉蘇路も決して平坦なものではなく、深い谷間を長い区間歩き続けるので難路であることには違いありません。現代の国道19号のように川沿いを削ったり、トンネルを掘ったりはできませんから、川を渡ったり崖沿いを歩いたりしたこともあったでしょう。

岐蘇山道は高い峠を一気に越えるルート、吉蘇路は高い峠はないけど渓谷を長距離歩き続けるルート。どちらもしんどいと思いますが、しんどさの性格はちょっと違ってる感じですね。

いずれにしても、当時の国家は中央と東国を結ぶルートの開拓にかなりの熱量を傾けていたことは間違いないでしょう。



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