こんにちは、みちのくです☀️
文武天皇の治世2年(698)9月から12月までの記事を解説します。
伊勢斎宮、各国から献上された顔料、大嘗祭などについて触れいくよ。
よろしくお願いします♨️
文武天皇2年(西暦698年)現代語訳・解説
伊勢斎宮の派遣
9月10日(丁卯) 当耆皇女(天武天皇皇女)を伊勢斎宮として、伊勢神宮に遣わした。
天皇が新たに即位すると、天皇に代わり天照大神に奉仕する女性である斎宮(さいくう・いつきのみや)として、皇女が伊勢神宮に遣わされます。
未婚の皇女(律令施行後は内親王)のうち、陰陽師の行う占いで、誰が斎宮になるのかを決めるのです。
占い!いかにも古代らしいですね✨
どんな占いだったのですか?
亀卜(きぼく)といい、亀の甲羅を火であぶってできた亀裂の形状によって吉凶を占う方法です☀️
占いにより物事を決することを卜定(ぼくじょう)いいます。
当耆皇女は文武天皇のおばにあたる人です。
斎宮は、天皇の即位により決定し、伊勢に向かうこととなりますが、その任は天皇の崩御や近親者の死亡などにより解任され京に再び戻ることになります。
9月25日(壬午) 周芳国が銅鉱を献上した。
銅は、仏像・寺院の装飾・貨幣(銅銭)・農具・武具・装身具など…実に多様な用途に用いられます。
万能なんですね!
9月28日(乙酉) 近江国に金青を、伊勢国(三重県)に朱砂・雄黄を、常陸(茨城県)・備前(岡山県)・伊予(愛媛県)・日向(宮崎県)の4カ国に朱沙を、安芸(広島県西部)・長門(山口県西部)の2カ国に金青と緑青を、豊後国(大分県)に真朱を献上させた。
金青とは、紺青のことで紫がかった青、朱砂は深紅色、雄雄はレモン色、緑青は青みかかった緑色、真朱はくすんだ鈍い赤色で、すべて金属鉱物からとれる顔料です。
金青…緑青…日本の伝統色ですね✨
色の名前ってなんだか、昔の人の色に対するこだわりが感じられて好きです!
繊細な色感覚ですよね☀️
この中で「真朱」は、『万葉集』に登場します。
大神朝臣奥守が報へて嗤ふ歌一首
仏造る ま朱足らずは 水溜まる 池田の朝臣が 鼻の上を掘れ
『万葉集』巻第16 由縁有る雑歌 3841番歌
(現代語訳)
仏像を造る真朱の色が足りなければ、池田朝臣の鼻の上を掘ればいい
この歌は、池田朝臣(名前未詳)が大神奥守をあざけり、大神奥守がこれに応戦して池田朝臣をばかにした歌です。
つまり、歌で口げんかしてるってことですね。
でも、「鼻の上を掘れ」が悪口になるんですか?
池田朝臣が赤鼻で、これを仏像をつくるときの塗料である真朱と掛けたのだといわれています。
古代の人の口げんか…レベルが高いですね、、
けんかにもセンスが求められるというか。
詔(薬師寺完成による僧の居住)など
冬 10月4日(庚寅) 薬師寺の造営があらかた完了したため、僧たちに詔してその寺に住まわせた。
10月23日(己酉) 陸奥の蝦夷が、方物を献上した。
11月1日(丁巳) 日蝕があった。
薬師寺は、天武天皇が治世9年(680年)に、皇后(のちに持統天皇)の病の快方を発願して造営が始められた寺です。文武天皇の時代になって完成ということは、20年近くの歳月がかかったことになります。
20年の間に、夫の天武天皇が亡くなり、みずから皇位につき、皇太子草壁皇子が亡くなり、孫の珂瑠王(文武天皇)を即位させ、、
いろいろなことがありましたが、自分のために発願された寺がとうとう完成し、感無量だったでしょうね☀️
天武天皇と持統天皇、2人の愛情を感じます♨️
大嘗祭
11月7日(癸亥) 使いを諸国に遣わして大祓を行った。
大祓は、神道の儀式であり、罪や穢れを浄化を行います。
通常のお祓いは日常的に宮中や神社などで行われていますが、大祓は天下の全ての罪穢れを祓うものです。
11月23日に行われる大嘗祭の準備として行われました。
天下の全ての罪穢れの浄化とは、気合が入っていますね!
大嘗祭はなんと言っても天皇一世一代の祭典ですからね!
11月23日(己卯) 大嘗を行った。直広肆榎井朝臣倭麻呂が大楯を立て、直広肆大伴宿禰手拍が楯と矛を立てた。
神祇官の官人と、大嘗に協力した尾張(愛知県)・美濃(岐阜県)2カ国の郡司と百姓たちに、それぞれ差をつけて物を賜った。
大嘗(おおにえ、だいじょう)とは、天皇の即位にさいして行われる重要儀式です。
天皇が、収穫された新米を神前に捧げ、秋の実りを天地の神々に感謝する祭祀です。
「嘗」は、「舌で味わう」という意味があり、文字通り天皇自身がその新米を神々と共にお召し上がりになります。
通常は、新嘗祭といい、毎年11月の2度目の卯の日に行われていました。その中でも、天皇が即位して最初の祭りを特に「大嘗祭」と呼び、一世一代の大祭としてとり行われました。
でも、今は文武天皇2年ですよ?
するどいですね!
文武天皇の大嘗祭は、即位してから2年目の11月になりましたが、これは即位の月が8月であったことが関係しています。
大嘗祭は、お米や特産物の奉納などで奉仕する国や、占いによる担当者の選定、祭りで使われるお宮の造営など、前準備にかなりの手間をかけて行われるので、8月の即位では時間が足りないのです。
もっともな理由でした!♨️
これらは、令和元年(2019年)11月23日に行われた、今の天皇陛下の大嘗祭のお宮(大嘗宮)で、祭祀終了後に一般公開されました。
11月23日というと、「勤労感謝の日」ですね!
みんなはお休みだけど天皇陛下は大切なおつとめの日なんですね…!
はい。もともと、天皇のおつとめは、神々をお祀りして国の安寧をお祈りすることです。なので、神と食事をともにするという大嘗祭の存在が、天皇を天皇たらしめているといえます。
だからこそ、神話の時代から現代に至るまで大切に続けられているのですね。
勤労感謝の日は、天皇陛下のおつとめに感謝の日ですね♨️
牛黄の献上、対馬の金鉱石精製
11月29日(乙酉) 下総国(茨城県南部)が牛黄を献上した。
12月5日(辛卯) 対馬島司に、金鉱石を冶金させた。
牛黄については、同年正月8日にも記事があります。(文武天皇2年①正月8日)
冶金とは、鉱石から金属を取り出し、精製して加工品にすることです。
当時の金の用途として想定されるのは、仏像の素材、寺院の装飾などです。
対蝦夷策(岩船柵修理)、多気太神宮(不詳)の遷御
12月21日(丁未) 越後国に、岩船柵を修理させた。
岩船は、現在の新潟県村上市岩船です。
地名は今も残っていますが、柵があった場所は特定されていないようです。
大化4年(648年)孝徳天皇の時代に初めて置かれたことが『日本書紀』にみえるので、以下に引用します。
磐舟柵をつくって蝦夷に備え、越と信濃との民を選んではじめて柵戸を置いた。
『日本書紀』巻第二十五 天万豊日天皇 孝徳天皇紀・大化4年是歳条より
柵とは、外敵(蝦夷)に対する防御施設です。
当時、まだ新潟県北部から北は朝廷の支配が及んでいなかったようです。
「柵」という字には「とりで」、「小規模の城」の意味があり、これを国史に掲載しているという事実からして、決して簡易なものではない重要施設だったのでしょう。
この間出た「高安城」などの「城」も、同じく「き」と読ませていますが、
「柵」と「城」はどんな違いがあるのでしょうか?
規模の違いなのか、それとも材質(木造や石造)の違いでしょうか…?
すみません、わかりません。
12月29日(乙卯) 多気太神宮を度合郡に遷した。
多気太神宮については、現在同名の神社はありませんが、度合郡(度会郡)の位置と「多気」という名から、伊勢神宮の別宮「瀧原宮」ではないかという説があります。
また、『続日本紀』の異本では「多気太神宮寺」と「寺」の字があり、神宮寺であった可能性があります。
その場合、史料における「神宮寺」の初見であり、一般的には平安時代ころから始まったとされる神仏習合の観念はすでにこのころから発生し始めていたことになります。
神仏習合とは、文字通りですが、神の祭祀と仏の礼拝の融合です。
神社の境内に仏教寺院が並立しているのが神宮寺です。
日本在来の神の祭りと、外国伝来の仏教が相互に影響し合った結果ですね。
参考書籍など
次回予告
文武天皇3年(699年)正月から6月までをとりあげます☀️
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