【現代語訳】続日本紀 文武天皇2年①正月 藤原宮大極殿 朝賀の儀

巻1(文武天皇元年8月〜4年12月)
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
今回は元日朝賀から始まり、新羅関係の記事が多く見られます。

いづみ
いづみ

即位後初めての朝賀ですね。



文武天皇2年(丙戌・西暦698年)現代語訳・解説 正月

朝賀

春 正月1日(壬戌みずのえいぬ) 天皇は、大極殿だいごくでんおわし朝賀を受け給われた。
 文武百寮(多くの文官と武官。百官)及び新羅の朝貢使が拝賀した。その儀式は、常例と同じだった。

天皇御大極殿受朝。
文武百寮及新羅朝貢使拝賀。其儀如常。

 朝賀は毎年正月1日に、大臣から下級の官人にいたるまで多くの官人(百官)が列立し、大極殿に出御する天皇を拝賀する儀式です。

みちのく
みちのく

「朝」という字にはもともと、「朝廷参内して天子におにかかる」という意味があります。

藤原宮大極殿の初見

 藤原京に遷都したのは持統天皇8年(694)で、このことは『日本書紀』に見えますが、藤原宮の大極殿が史料上に見えるのは今回が初めてです。大極殿は藤原宮の中心施設であり、即位や朝賀などの重要な儀式・行事に用いられました。

 今回は文武天皇が即位して初めての朝賀であり、しかも新羅使が列席している中での儀であるため、「毎年恒例の行事」というよりは、国と天皇の権威を内外に示す絶好の場として大極殿が利用されたと見ることができます。

いづみ
いづみ

おそらく今の「新年一般参賀」のような感じではないと思いますが、新天皇を拝賀するという特別感もあり、新築の大極殿の前で盛大に行われたのでしょうね。

みちのく
みちのく

文武天皇はこの時数えで16歳、当時としては前例のない若年の天皇であり、その地位は盤石とは言えませんでした。そのため百官の前に出御する朝賀の儀式を大極殿で執り行うことは大きな意味があったはずです。

大極殿はいつ完成したのか

 藤原宮大極殿がいつ頃完成したのかは明らかではありません。前年8月1日に即位した文武天皇も『続日本紀』には「大極殿に於いて即位した」という表現も見られません。よって、完成は文武天皇即位後からその年の12月末までの間である可能性がありますが、この点は仮説に過ぎません。

「其儀如常」からわかること

 記事の最後にある「其儀如常」は、「その儀式は常のものと同様であった」といった意味ですが、この文言からは、文武天皇2年正月時点で、すでに朝賀の儀式次第は「わざわざ書く必要のないレベルで定例化していた」ことが分かります。

 実際、『日本書紀』の大化2年(646)正月1日条にはすでに拝賀の儀式が行われていたことが確認できます。

いづみ
いづみ

でもこの文言が書かれたのって『続日本紀』の編集者ですよね。
この「如常」は編集時点でのことなのか、それとも文武天皇2年時点でのことなのかどちらなのでしょう?

みちのく
みちのく

結論を言うと、文武天皇2年時点で既に「如常」だったと考えられます。
というのも、3年後の大宝元年(701)正月朝賀ではその儀式の変更点について詳述されており、この事をもって「文物の儀がここに備わった」と記しています。

いづみ
いづみ

なるほど、文武天皇2年時の朝賀は「文物の儀が備わった」と評される前段階の話なので、その時点における「如常」と理解するのが自然というわけですね。




新羅使が貢ぎ物を献上

西暦700年ごろの朝鮮半島(統一新羅時代)

正月3日(甲子きのえね) 新羅使の一吉飡(新羅の17官等のうち第7位)の金弼徳たちが調物(貢ぎ物)を献上した。

新羅使一吉飡金弼徳等貢調物。

 金弼徳一行は前年の文武天皇元年(697)10月28日に来朝しており、正使が一吉飡・金弼徳で、副使が奈麻・金任想でした。年を越して元日の朝賀に参加し、3日に調物を献上した、という流れですね。



牛黄の献上

土佐国

正月8日(己巳つちのとみ) 土左国(土佐国。今の高知県)牛黄ごおうを献上した。

土左國獻牛黄。
いづみ
いづみ

牛黄とはまた聞き馴染みのないものが出てきましたね。

牛黄は貴重な医薬品

牛黄

 牛黄は、牛の胆のうなどにできる結石を乾燥させた生薬(自然素材から薬効のある部分を取り出して乾燥させるなど簡単な加工で作った医薬品)で、漢方薬などに用いられます。

現代でも医薬品として使用されており、解熱・痙攣を抑える・強心(心筋の収縮力を強くする)などの効能があるようです。

みちのく
みちのく

牛黄は非常に希少で高価な生薬で、現在では日本で使用されるものは主として海外から輸入されているとのこと。

いづみ
いづみ

牛の胆のうの結石ということは、牛を飼育していれば手に入る可能性はありそうですが…非常に希少ということはそう単純な話ではないと言うことですね。

みちのく
みちのく

その通りで、牛黄は牛1000頭中に1頭程度からしか採れないらしく、その1頭から採れる量もごくわずかで、何万頭も処理してようやくkg単位になる世界だそうです。

養老令には牛黄の献上規定がある

いづみ
いづみ

土佐国が献上してきたということは、土佐ではかなりまとまった頭数の牛の解体があったということなのでしょうか?

みちのく
みちのく

1頭の牛からたまたま偶然大きな牛黄が手に入った可能性もないとは言い切れず、だからこそ「土佐国が牛黄を献上した」という独立した記事を立てたとも言えます。
正月に献上されたということで、ある種の「祥瑞」として発見されたと見ることもできそうですね。

後の養老令の厩牧令には牛黄を朝廷に献上することとした決まりがあります。

厩牧令第26【官馬牛条】
 官の馬・牛が死んだ場合は、それぞれ皮・脳・角・胆を収めよ。もし牛黄を得たならば、別に進上せよ。

凡官馬牛死者、各収皮脳角胆。若得牛黄者、別進。

この条文を見る限り、屠殺を含め、飼育していた牛馬が死亡した場合についての規定と見るべきだと思います。

養老令は後に定められたものであり、文武天皇2年時には存在しませんが、古代には、死亡した牛馬から利用可能な資源を回収する慣行が存在したと考えられています。

いづみ
いづみ

牛や馬の死を無駄にしないで活用する…なんだかとてもいいですね!




新羅の貢ぎ物を神社に奉納

正月17日(戊寅つちのえとら) 新羅の貢ぎ物を、諸社(複数の神社)に奉納した。

供新羅貢物于諸社。

 正月3日に新羅使から献上された貢ぎ物を、諸社に奉納しました。諸社が具体的にどの神社で、いくつの神社を指すのかは不明です。さらに正月19日には大内山陵(天武天皇陵)にも奉納されています。

みちのく
みちのく

これは特殊例とは言えず、翌年の文武天皇3年8月8日には、南島の民からもたらされた貢ぎ物を伊勢大神宮と諸社に奉納したことが記されています。
このことからは、外国・辺境からもたらされた貢物を神や山陵へ供えることが、国家祭祀や統治のあり方だったことがうかがえます。

いづみ
いづみ

新羅からの貢ぎ物…一体何をいただいたのでしょう?
神社に供え、山陵にも供え…当時の日本にとってよっぽど価値のある物がもたらされたんでしょうね。
そういうところもちゃんと書いてくれたらいいんですけどね…。

みちのく
みちのく

記録が残ってるだけありがたいと思わないとですよ。



天武天皇陵に新羅の貢ぎ物を奉納

天武・持統合葬陵(檜隅大内陵)

正月19日(庚辰かのえたつ) 直広参じきこうさん(正五位下相当)土師宿禰馬手はじのすくねうまてを遣わして、新羅の貢ぎ物を大内山陵おおうちのみささぎ(天武天皇陵)に奉納した。

遣直廣参土師宿祢馬手。獻新羅貢物于大内山陵。

 山陵(みささぎ、さんりょう)は、天皇の墓で、「大内山陵」は天武天皇の山陵を指します。後に持統上皇も同じ山陵に葬られることとなります(合葬という)。なお、現在の宮内庁の整理では、「檜隅大内陵ひのくまのおおうちのみささぎ」と命名されています。

いづみ
いづみ

持統上皇は天武天皇の皇后ですね!

みちのく
みちのく

そうです。
今、「大内山陵」というと第59代宇多天皇の山陵のこととなってしまうため、訪れる時はご注意ください。

すでに触れたように、正月3日に貢納された新羅使からの貢ぎ物が天武天皇陵に奉納されました。
新羅からもたらされた物は、単なる外交上の贈呈品ではなく先帝の山陵祭祀にも用いられたことになります。

特に文武天皇から見れば、天武天皇は祖父です。しかも文武天皇の皇統は、天武―草壁皇子―文武という直系ですから、即位したばかりの文武天皇において、新羅の貢物を天武陵へ奉納することには、かなり象徴的な意味があったと考えてよさそうです。

いづみ
いづみ

壬申の乱に勝利し、現皇統の礎を築いた祖父・天武天皇を大きく讃えているというわけですね。これは天武皇后だった持統上皇のご意志も強く関わっていそうです。




次回予告

コメント

タイトルとURLをコピーしました