
こんにちは、みちのくです☀️
今回は大宝2年9月から12月です、大宝2年ラストになります。同時に、『続日本紀』の第2巻がこれで終了となります!

かけぬけましたね。
大宝2年(西暦702年)現代語訳・解説

日蝕、告朔の儀に使われる文書について、叙勲
9月1日(乙丑) 日蝕があった。
9月14日(戊寅) 次のように制定した。「諸司の告朔の文書は、主典(四等官の最下級官)以上は弁官に提出し、弁官はそれをすべて中務省に送付すること」と。
薩摩の隼人を討伐した軍士に、おのおの差をつけて勲位を授けた。
告朔とは、毎月ついたち(朔)に各役所が前の月の業務報告の文書を天皇にたてまつり、天皇がその文書を閲覧する行事です。のちに形式化し「告朔の儀」と呼ばれ儀式のひとつとなりました。

ついたち「朔」に業務を報「告」する儀式ですね♨️
今回の記事では、その文書を弁官(左大弁をトップに右少弁まである)という公文書の処理を行う実務官に提出し、弁官はそれを取りまとめ、天皇の補佐をつかさどる中務省に文書を送付することと決められたのです。

ところで、9月1日には日蝕があったのでこの月の告朔は行われていないはずです。
日蝕のときは天皇やもろもろの役所は廃務することと律令で定められています。
(詳しくは文武天皇2年(698)7月1日条参照)
飢饉の発生、行宮の造営
9月17日(辛巳) 駿河・伊豆・下総・備中・阿波の5カ国に飢饉が発生した。使いを遣わして存恤(慰問して恵みを施すこと)させた。
9月19日(癸未) 使いを伊賀(三重県西部)・伊勢(三重県の大部分)・美濃(岐阜県南部)・尾張(愛知県西部)・三河(愛知県東部)の5カ国に遣わして行宮を造営させた。
行宮とは、天皇が行幸先や通過する国に宿泊するために造る臨時の御所です。これは10月に行われる持統上皇の三河国行幸のために造られるものです。

仮宮、頓宮ともいいます。今回の行幸は天皇ではなく太上天皇(上皇)ですが、その場合も行宮といいますね。
賜姓、大赦
9月21日(乙酉) 従五位下出雲狛に臣の姓を賜った。
9月23日(丁亥) 天下に大赦した。
出雲狛は、壬申の乱で天武天皇側について戦った武人です。8月1日には従五位下に叙されて貴族の待遇が与えられており、今回の賜姓と合わせて壬申の乱の功績として授けられたのでしょう。

姓(カバネ)というのは、天皇から氏族を単位にして授けられるもので、朝廷における身分の高さを示すものです。古墳時代の昔から存在したようですが、天武天皇の時代に8種が新設され、「臣」は8種のうち上から6番目です。
今回の場合でいうと、「出雲」が氏の名称で、「臣」がカバネ、「狛」が個人名(いわゆる、「下の名前」)です。

6番目ですか、あんまり高くはないんですね。出雲氏ってきっと出雲大社の祭祀とかに関わってる氏族ですよね…。

カバネそのものが与えられていない氏族もいたようですからそこはまあ…。
出雲狛も、表記通りこれまではカバネがなかったのでしょう。
藤原氏は上から2番目の「朝臣」のカバネ。たとえば藤原朝臣不比等は、「藤原」が氏、「朝臣」がカバネ、「不比等」が個人名です。「藤原朝臣」をまとめて氏姓(しせい、うじかばね)と言ったり、単に姓(せい、しょう)などと言ったりします。
氏上に関する詔
9月25日(乙丑) 次のように詔した。「甲子の年【天智天皇3年(664年)】に氏上(氏族の代表者)を定めたが、このときに含まれなかった氏族のうち伊美吉以上の姓を授かるべき者は、全員申し出ること」と。

『日本書紀』の天智天皇3年2月9日に「天皇は、大皇弟(大海人皇子、のちの天武天皇)に命じて氏上のことを人々にお告げになった」という記事があります。

「このときに含まれなかった」というのは、天智天皇3年のときに氏上を定められなかったということでしょうか…。
伊美吉とは、天武天皇が新たに定めた8種のカバネのうち4番目「忌寸」の美称です。
路登美の卒去
冬 10月1日(乙未) 従四位下路真人登美が卒した。
卒、卒去とは高貴な人が亡くなることで、律令制において具体的には四位・五位の人の死去をいいます。

路登美の経歴は『日本書紀』で確認できます。名前の登美は、跡見または迹見とも表記されています。
『日本書紀』
天武天皇14年(685)9月15日条 南海道巡察使 南海道(四国地方)各国の百姓の様子を巡察させた
持統天皇11年(697)2月28日条 春宮大夫(皇太子の身の回りのことを担当する官職。このときの皇太子は珂瑠皇子(のちの文武天皇))

なんと、文武天皇が皇太子時代にお世話になった人なんですね!

特に語られてはいませんが、文武天皇にとって思い出深い人だったかもしれません。
「真人」は先の記事でも触れた、天武天皇の時代に新設された8種類の姓(カバネ)のひとつで、最上位の姓です。天皇から分かれ皇族から臣下に下った氏族に授けられました。

今回は姓(カバネ)にかんする話題が多いですね!路真人姓はいつの天皇から分かれたのでしょうか。

第30代敏達天皇の皇子・難波皇子の子孫とのことです。敏達天皇は聖徳太子の伯父にあたる方です。今の皇室直系のご先祖です!
隼人征討完了のお礼参り、薩摩の柵・兵士の配置など

10月3日(丁酉) これより先、薩摩の隼人を征するときに、大宰府管内の神社9社に祈祷をした。まことに神威の助けにより、ついに荒々しい賊を平定することができた。ここに幣帛を奉ってその神助に報いた。
唱更国【今の薩摩国である】の国司たちが言上した。「国内の要害の地において柵を立て、戍(兵士)を置いて守備したいと思います」と。これを許可した。
諸神を祭り鎮めた。三河国に行幸するためである。
種子島の隼人の征討についての記事ですが、これによるとかなり大きな成果を得られたようです。ただ、今回つくられた柵や設置された兵士は、何を警戒して置かれたものなのかがよくわかりません。このときすでに、唐や新羅とは交易を行なったおり、これらの国の軍事侵攻はさほど警戒されていない段階になっています。

だとすると、隼人の中でまだ抵抗する勢力が残っていたということなのでしょうか。

この約10年後にも大隅国(鹿児島県の右半分)で隼人の反乱があったと『続日本紀』に記録があるので、そういうことなのかもしれません。
もしくは、単に律令に規定されている「軍団」を設置したということなのかも?
持統上皇の三河国行幸、祥瑞(嘉禾)の献上
10月10日(甲辰) 太上天皇(持統)が三河国(愛知県東半部)に行幸した。よって諸国の今年の田租を徴収しないこととさせた。
10月11日(乙巳) 近江国(滋賀県)が嘉禾(めでたい稲)として、異なる畝から同じ稲穂をつけたものを献上した。
「行幸した」というのは、到着した日付ではなく、藤原京を出発した日付でしょう。

今の暦だと、11月の末あたりでしょうか。長距離のおでかけをするには季節的にぎりぎりのタイミングに思います。

たしかに、でも行幸の翌日というタイミングでめでたい稲も献上されましたし、持統上皇の行幸は神様のお墨付きで「正しいこと」となり、追い風になったのではないでしょうか。
大宝律令を全国に施行
10月14日(戊申) 律令を天下諸国すべてに頒布した。

いまだに全国に伝わってなかったんですね

今の時代のように法律を全国一律、一斉に施行というのは難しいでしょう。
電話などの通信もない、車もない、正確な時計もない時代の情報伝達は今よりも途方もなく時間がかかってしまうんですね。

瞬時に全国と繋がるのが当たり前になってる現代のほうがむしろおかしいのかもしれませんね…
詔(孝順の家について)
10月21日(乙卯) 次のように詔した。「上は曽祖、下は玄孫にいたるまで、代々孝順の家には、その戸の税を免除し、村里の門閭(村里の入り口にある門)に義の家として掲示せよ」と。
曽祖は祖父母の親、つまり3世代前の先祖。玄孫は4世の子孫です。孝順というのは、親孝行し、親の言うことをよく聞くことをいいます。

これは儒教の思想で、家庭において親や目上の人を敬うことは道徳の根幹にありました。この道徳観が、臣下の天皇に対する忠誠心にも広げられ、国家を支える基本的な倫理観になりました。

だからそういう家を国が主体になって表彰したんですね。ほかのみんなも見習えよ〜ってことですね!でも村里の入り口に名前とか家の名前を書かれるのは少し恥ずかしいかも、、
持統上皇の三河国行幸、その帰路


『続日本紀』と『万葉集』に出てくる地名により想定した行幸ルートです。

これを見ると、だいたい片道2週間くらいみたいですね。帰りは今の暦だと1月過ぎ。寒そうです〜…。
『万葉集』巻第1 雑歌(以下同じ)歌番号:57 長忌寸意吉麻呂
引馬野ににほふ榛原入り乱れ 衣にほはせ旅のしるしに
(現代語訳)
引馬野に色づいている榛の原で、みんなこぞって衣を染めなさい。旅の思い出に。
歌番号:58 高市連黒人
いづくにか舟泊てすらむ安礼の崎 漕ぎ廻み行きし棚なし小舟
(現代語訳)
今頃どこに舟を停泊しているのだろう。安礼の崎を漕ぎめぐって行った、あの棚なし小舟は。

まずは目的地の三河国で詠まれた歌です。

旅のしるしに衣を染めなさい…ですか。
旅先で服を染めるってなんだかすごくおしゃれですね✨
尾張国

ここからは、三河国からの帰路です。
行幸で通過した国の国司や郡司たち、百姓たちが労をねぎらわれたようです。
三河を出発したのは11月10日ころのことと思われます。
11月13日(丙子) 行幸が尾張国(愛知県西半部)に到った。
尾治連若子麻呂、牛麻呂に宿禰の姓を賜った。尾張守従五位下多治比真人水守に封(領地)10戸を賜った。
美濃国
11月17日(庚辰) 行幸は美濃国(岐阜県南半部)に到った。
不破郡の大領(郡司の長官)宮勝木実に外従五位下を、美濃守従五位上石河朝臣子老に封10戸を授けた。
伊勢国
11月22日(乙酉) 行幸は伊勢国(三重県)に到った。
伊勢守従五位上佐伯宿禰石湯に封10戸を賜った。
歌番号:61 舎人娘子、従駕(行幸に従うこと)にして作る歌
ますらをのさつ矢手挟み立ち向ひ 射る円方は見るにさやけし
(現代語訳)
ますらお(立派な男)が幸矢(さつや。幸の多い矢。矢の美称)を手に挟み、立ち向かって射る円方の景色は見るほどにすがすがしい

弓矢の「的」と、松阪市東部にある「円方」の「円」を掛けています。
行幸先では武人による射的と、その観覧が行われていました。
伊賀国、そして還幸
11月24日(丁亥) 行幸は伊賀国(三重県西部)にご到着になった。行幸のさいに通過された尾張・美濃・伊勢・伊賀の国司と郡司及び百姓におのおの差をつけて叙位をし、禄を賜った。
11月25日(戊子) 車駕(持統太上天皇)は、三河国から還幸された。行幸に従った騎士の調を免除した。
歌番号:60 長皇子の御歌
宵に逢ひて朝面無み名張にか日長く妹が廬りせりけむ
(現代語訳)
夜に会い、翌朝(恥ずかしくて)顔をなばる(「隠す」の古語)という名張の地で、あの子は長い時を仮住まいしていたのだろう

長皇子は天武天皇の皇子。名張は伊賀国の南部にあり、今の名張市です。
妻を行幸に従わせ、皇子はその行幸の途中にある名張の地での妻の仮暮らしを都から慮っているのです。

奥さんを行幸に送り出したんですね。持統上皇は女性ですから、お付きの人も女性が多く採用されたんでしょうね。

無事に都に帰還。
この行幸が、持統上皇の最後の行幸となりました。
勅(天皇の忌日について)
12月2日(甲午) 次のように勅を下した。「9月9日【天武天皇】、12月3日【天智天皇】は、先帝の忌日(命日)である。よって諸司はこの日はすべて廃務とすること」と。
異変
12月6日(戊戌) 星(金星か)が昼間に見えた。
これは異常現象の記録です。記事中では「星」としか書かれていないため、どの星なのかは分かりませんが、昼間に見える星といえば一般的には金星です。金星が昼間に見えることは、通常は金星が太陽の近くに位置しているため、視覚的に目立つことがなく、普通の時期には夜に見ることができるため、昼間に現れる金星は「特別な」現象とされました。

そのため、古代では金星の出現が不吉な兆しと解釈されたことがあります。
おそらく、持統上皇崩御の伏線としてこの記事を置いたのだと思います。
岐蘇道(木曽路)の開通
12月10日(壬寅) 初めて美濃国の岐蘇の山道を開いた。
岐蘇の道、今でいう木曽路です。木曽と呼ばれるようになったのは、平安時代後期の木曾義仲の活躍が知られるようになってからのこと。

「木曽路」という日本料理のチェーン店がありますね!

木曽路と言いつつ店舗は全国にあるようです。
それはさておき、岐蘇の道は信濃国(長野)と美濃国(岐阜)を結ぶ道です。これらの国には馬を飼育する牧場が多くあり、移動に使われる馬や軍馬を育てるため非常に重要な土地でした。また、それでいて蝦夷の地とも近く、これらの国をつなぐ道を開通させることは国家戦略として求められていたのです。
持統上皇の病、そして崩御、薄葬の遺詔

12月13日(乙巳) 太上天皇(持統上皇)が不予(天皇の病気)となった。そのため天下に大赦を下した。100人を出家させ、4畿内国に金光明経を講じさせた。
12月22日(甲寅) 太上天皇が崩御した。遺詔として「素服(喪服)は着用せず、挙哀の礼をしてはなりません。内外の文武官はいつものように勤務し、葬儀のことは努めて倹約に従うようにすること」と。
持統上皇の年齢は『続日本紀』には記載がありませんが、『日本書紀』に記録される生年が645年のことなので、崩御のときには58歳でした。
挙哀とは中国から伝わり、皇帝が亡くなったときに悲しみを表明するために声を上げて泣く儀礼です。日本においては『日本書紀』に初例があり、持統上皇の夫である天武天皇の崩御時には2年間にも渡って挙哀の礼が行われました。

とうとうこのときが来てしまいましたね。
寒気の中での三河国行幸が祟ったのでしょうか…。

あるいは、自分の先が長くないことがあらかじめ分かっていたから無理を押して最後の行幸を行ったのかもしれません。
葬儀関連
12月23日(乙卯) 二品穂積親王・従四位上犬上王・正五位下路真人大人・従五位下佐伯宿禰百足・黄文連本実を作殯宮司に任命し、三品刑部親王・従四位下広瀬王・従五位上引田朝臣宿奈麻呂・従五位下民忌寸比良夫を造大殿垣司に任命した。
12月25日(丁巳) 斎会(僧尼を招き仏事として行う食事会)を四大寺に設けた。
12月29日(辛酉) 西殿において殯(遺体を納棺し、御陵に葬るまでの間、仮に安置する葬送儀礼)を行なった。

国が悲しみに包まれた年末になってしまいましたね。
大祓の中止
12月30日(壬戌) 大祓を廃した。ただし、東西文部の解除は慣例通りにとり行った。
大祓は6月と12月の晦日(月末)に、天下の人々の罪や病気を払い落とす神事です。12月31日の大祓は持統上皇の崩御により中止になりました。
解除は、神祇の祭祀を担当する氏族の卜部氏が担当し、罪や穢れを払い落とす神事です。

解除と大祓って同じでは?どう違うのでしょう

解除は大祓の神事の一部分です。大祓の儀式次第は律令で以下のように定められています。
神祇令 18 大祓条
凡そ6月、12月の晦日の大祓は、中臣が御祓麻をたてまつること。東西の文部は祓の刀をたてまつり祓詞を読むこと。終了したら百官の男女は祓所に集合すること。中臣が祓詞を宣し、卜部が解除のことを行うこと。

難しいですが、今回は御祓麻や刀をたてまつったり祓詞を読んだりはせずに、解除だけを行ったということですね。
参考書籍など




この1冊で持統天皇のすべてが分かる!?
次回??(感想)

今回はかなり長い記事になってしまいました。少し詰め込みすぎたかもしれません。

持統上皇の行幸、そしてまもなくの崩御と歴史上で大きなイベントが連続しましたね。今回は和歌も多く登場して、そのときの様子や当時を生きた人の感情を多少でも知ることができたのがよかったです。

『万葉集』には『続日本紀』に記されていない情報を補完できる内容が豊富にあり、行幸などの様子を詳しく知ることができます。これからもよく調べて引き続き書いていきたいと思います!
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