
こんにちは、みちのくです☀️
今回から『続日本紀』の第3巻に入りますよ〜。文武天皇の治世6年目です。

前回は大宝2年12月に持統太上天皇が崩御されましたね。
そうなると、翌年の正月は…。
大宝3年(西暦703年)現代語訳・解説
元日廃朝
春 正月1日(癸亥) 廃朝した。親王以下百官は太上天皇(持統上皇)の殯宮(天皇の遺体を本葬の前に安置する仮の建物)を拝した。

廃朝とは、天皇が政務を取りやめることです。
日蝕のときや近親者に不幸があったときに廃朝とされることがあります。

いつもは正月1日は朝賀の儀式があるんですよね。盛大にとり行われる朝賀はこの年は取りやめですか…。
巡察使の派遣

正月2日(甲子) 正六位下藤原朝臣房前を東海道に、従六位上多治比真人三宅麻呂を東山道に、従七位上高向朝臣大足を北陸道に、従七位下波多真人余射を山陰道に、正八位上穂積朝臣老を山陽道に、従七位上小野朝臣馬養を南海道に正七位上大伴宿禰沼田を西海道に、道別に録事(書記官)1人を遣わして、国司の政治を巡検し寃枉(冤罪)を申告させ理にかなった説明をさせた。

巡察使の派遣ですね。記事中に「巡察使」の語は出てきませんが…。
律令に規定がある官で、太政官直轄で臨時に設置されました。
律令 巻第2 職員令
2(太政官条)
(前略)巡察使 職掌は、諸国を巡り察ること。常置はしない。内外の官のうち清正灼然(人となりが清廉で、明快であるさま)たる者を仮に任じること。巡察の事情やその人数は臨時に勘案して決めること。

選ばれた人を見てみると、八位の人もいますね。どういう基準で選ばれたんだろう?

律令に「清正灼然」な人を選ぶとあるので、あくまで人柄重視で官位はあまり重視されなかったのかもしれません。あとは、現地の事情に詳しい人が選ばれたとか?

それにしても、正月2日から地方に派遣とは大変ですね。これも持統上皇の崩御が関係してるのでしょうか…?
持統上皇の法要

正月5日(丁卯) 太上天皇のために斎会(僧尼を招き仏事として行う食事会)を大安寺、薬師寺、元興寺、弘福寺の4寺に設けた。
大安寺は、当時は「大官大寺」という名前で、大安寺に改称されたのは平城京に遷都されたあとのこととなります。
もともとは第34代舒明天皇が聖徳太子の願いにより開いた寺で、百済大寺と名付けられましたが、高市大寺、大官大寺、そして大安寺と移転を繰り返し、それにより名称が何度も変わります。

「大官大寺」つまり、国家(大官)の寺という意味です。
仏教は国を平安に治めるために欠かせない存在になっていました。
新羅国王の訃報

正月9日(辛未) 新羅国が薩飡(新羅の官位。17階の8番目)金福護、級飡(新羅の官位。薩飡の1つ下)金孝元らを遣わして来日し、国王の喪を告げてきた。

おとなりの新羅でも国王が亡くなられたんですね。

はい。亡くなったのは、新羅の第32代孝昭王です。
西暦692年から10年間在位し、702年に亡くなったようです。
5歳で即位したので亡くなったときは15歳前後で、後継者がおらず、次代は弟が国王(聖徳王)になりました。

15歳ですか…。文武天皇が即位したのも15歳でしたね。
国王の訃報を聞いて文武天皇はどう感じたでしょうか。
任官(主礼)など
(続き)
この日、主礼6人を任命した。もともと大舎人から任命していたため、これに準じて主礼たちの課役を免除することとした。

主礼は律令に定められた官で、中務省の内礼司に所属して、宮中の礼儀や違反行為の監察を任務としました。律令にも定員6名とあります。
大舎人も同じく律令に定められており、左大舎人寮・右大舎人寮という役所がありました。定員は左右800人ずつとあり、総勢で1600人もいたようです。宮中や天皇に近侍して雑務に従事したり、行幸に従ったりすることが彼らの仕事でした。

大舎人だけで1600人!?
宮中は私が想像しているよりも大勢の人が働いていたみたいです…。
詔(知太政官事の任命)
正月20日(壬午) 三品刑部親王に詔して、知太政官事に任命した。


刑部親王は天武天皇の皇子で、大宝律令選定の最高責任者を務めた皇室の有力者の1人です。知太政官事は、律令には規定がなく詳細は不明ですが、その名称や親王が任命されていることから考えると、太政官の統括者というポジションでしょう。

太政官を「知る」ということですもんね。
でも太政官のトップは太政大臣ですよね。それとの関係はどうなのでしょう??

なぜ刑部親王が太政大臣に任命されなかったのかについては明確な理由は記録されていません。ただし、過去に太政大臣に任命された人物を振り返ってみるとヒントがあると思います。
★これまでに太政大臣に任官された人物(『日本書紀』より)
天智天皇10年(671)正月5日 大友皇子(天智天皇の皇太子だったが、壬申の乱で敗死)
持統天皇4年(690)7月5日 高市皇子(天武天皇の長子で、壬申の乱で活躍。持統天皇10年(696)7月10日薨去)

以上の2人が過去太政大臣に任命されましたが、共通点としてはいずれも皇位継承の有力者です。刑部親王を太政大臣に任命したとなれば、文武天皇の皇嗣のようなポジションになってしまい、これでは非常に都合が悪いわけです。

文武天皇の子でのちに聖武天皇になる首皇子は生まれてますけど、まだ小さな子供ですから皇位継承問題はかなり不安定な情勢だったわけですね。
これなら意図して太政大臣の任命を避けたことも納得です。

また、文武天皇は当時20歳。まだまだ当時としては若すぎる天皇でした。にもかかわらず、祖母であり先帝として多大な影響力を持っていた持統上皇が崩御し、文武天皇を支える存在がいなくなってしまったわけです。
そのため、皇族の重鎮ともいえる刑部親王があくまで臨時として天皇の補佐を期待されたのです。それが知太政官事の役割だったのでしょう。
★参考 この時点での太政官の構成員
知太政官事 三品刑部親王
太政大臣 空席
左大臣 空席
右大臣 従二位阿倍御主人
大納言(定員4名) 正三位石上麻呂・藤原不比等、従三位紀麻呂
参 議 従三位大伴安麻呂、正四位下粟田真人、従四位上高向麻呂、従四位下下毛野古麻呂・小野毛野
(中納言は大宝元年3月に廃止)
詔(律令選定の褒賞)
2月15日(丁未) 次のように詔した。「従四位下下毛野朝臣古麻呂たち4人は、律令の制定にあずかったため、その功賞を評議すべし。」と。
ここにおいて、古麻呂および従五位下伊吉博徳に田10町、封50戸。贈正五位上調忌寸老人の子に田10町、封100戸。従五位下伊余部連馬養の子に田6町、封100戸を賜った。その封戸は本人のみに授けられ、田は子の世代にのみ継承することとした。
封戸とは、官人に給与として与えられた土地で、その土地に住む公民が納める租税の半分と調庸の全部を個人のものとすることができる制度です。封は領地、戸は世帯を数える単位です。
賜姓
2月4日(丙申) 従七位下茨田足島、衣縫造孔子に連の姓を賜った。
連は、天武天皇が定めた8種類の姓(八色の姓)のうち第7位(下から2番目)です。
持統上皇の49日法要
2月17日(癸卯) この日は、太上天皇の七七の日(49日)にあたる。使いを四大寺及び四天王寺、山田寺など33の寺に遣わして斎会を設けさせた。
四大寺とは、朝廷の祈願所である格の高い4つの寺で、大官大寺(聖徳太子の発願が源流にある寺。のちの大安寺)、薬師寺(天武天皇が皇后の病気平癒のために建立)、元興寺(蘇我馬子建立の寺。飛鳥寺とも)、興福寺(藤原氏の氏寺)を指します。

国家鎮護の寺ですね!

また、山田寺は蘇我氏の分家である蘇我倉山田石川麻呂が創始した寺です。持統上皇の母は、その石川麻呂の娘ですから、そのつながりで山田寺は強い影響力があったはずです。

記述の順番が四大寺、四天王寺の次に山田寺ですからね
大宰史生の増員
(続き)
大宰史生として、新たに10名を増員した。
史生は公文書の処理を行う書記官で、大宰史生は大宰府に置かれた史生のことです。律令制施行に伴い膨大な量の公文書の処理が必要になり、そのための増員と思われます。

律令制が本格的に始まったら、思った以上に人手が足りなかった…といった感じですかね?

ちなみに「史」の古い読みは「ふひと」。文書(ふみ)をつかさどる人ということです。
功田
3月7日(戊辰) 従四位下下毛野朝臣古麻呂に功田20町を賜った。
功田は、いちじるしい功績をあげた人物に報いるために、報酬として田地を授ける制度です。律令には、功の等級として、大功、上功、中功、下功とあり功田の世襲について定められました。ただ、下毛野古麻呂がどの等級だったのかは不明です。
詔(大般若経の読経)
3月10日(辛未) 四大寺に詔し、大般若経を読経させ、100人を度し(出家を許可すること)た。
大般若経は、『西遊記』の三蔵法師のモデルとなった玄奘三蔵がインドで仏教の経典を学び、その経典を唐に持ち帰って翻訳したものです。これが日本の留学僧によって西暦700年前後に伝わりました。

玄奘三蔵!以前も『続日本紀』に登場しましたね。唐に渡った日本の僧である道照和尚が三蔵の弟子になって日本に教えを伝えられたんですよね♨️
玄奘三蔵と道照和尚のステキなエピソードについては、↓文武天皇4年3月10日条参照↓


玄奘三蔵が学んだ経典はなんと全600巻にも及ぶとのことです!まさに「大」般若経と呼ぶに相応しい偉大な経典ですね。
国博士の任命について
3月16日(丁丑) 次のように制定した。「大宝令によると、国博士は当該国内に適任者がいなければ、周辺の国から採用することとしている。しかし、優秀な人材は稀である。よって、もし周辺の国にも適任者がいなければ式部省に申告すること。式部省は人選を詮議し、太政官に処分を請うこと」と。
国博士は律令に定められている学者です。国ごと(大和国や紀伊国などのこと)に1名が採用されて現地の学生(官僚候補生)の教育を担当しました。採用方法は、上記の引用文にあるように、その国内の人を採用することとなっていました。しかし、適任者は容易に見つからないことがほとんどで、結局は中央の優秀な学生が派遣され任に就くことが慣例となったようです。

官僚候補の学生の人数は、大国(最も重要な国)で50人、上国で40人、中国で30人、下国で20人と定員が定められていました。

国にも序列があるのに驚きです…!
郡司の任命について
(続き)
また、才能が郡司にたえる者があるにもかかわらず、もし当郡に三等以上の親族がある者は、その隣の郡の郡司に任命することを許可すること。
郡司は国司の監督下で、それぞれの郡の行政を担った地方官です。現地の有力者(豪族)が選ばれましたが、近親者が郡司職を独占することを防ぐため、その郡司の3親等以内の人を重ねて郡司に任命することを禁じていました。
郡司になれる能力があるのに、すでに3親等内の親族が郡司となっているため任用できない人物を用いるため、その隣の郡の郡司に任命することが許可されたのでした。

貴重な人材ですからね
疫病発生
3月17日(戊寅) 信濃(長野県)・上野(群馬県)2国に疫病が発生した。薬を支給して治療させた。
義淵法師の僧正任命

3月24日(乙酉) 義淵法師を僧正に任命した。
義淵法師は、以前も『続日本紀』に登場したことがあります。文武天皇3年(699年)11月29日条に、「義淵法師に稲一万束を喜捨(した。学業を褒めてのことである。」とあります。
僧正とは、僧侶たちを統制、監督する組織である僧綱の階級です。

学業を評価され、僧正にも任命される。
とても優秀な人だったんですね!
参考書籍など

次回!

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