【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 大宝3年① 正月〜2月 刑部親王、初代知太政官事に就任

大宝年間(701-704)
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
持統上皇の崩御から間もない大宝3年正月、刑部親王が初代「知太政官事」に任命されました。

いづみ
いづみ

初めて聞く役職ですね!太政官ということは、かなり偉い人なんでしょうけど……いったい何をする役職なんですか?




大宝3年(癸卯・西暦703年)現代語訳・解説 正月〜2月

『続日本紀』第三巻 巻頭

続日本紀 巻第3【大宝3年正月から慶雲4年6月まで】
従四位下行民部大輔兼左兵衛督皇太子学士臣菅野朝臣真道等が奉勅し撰す。
天之真宗豊祖父天皇〈文武天皇 第42代〉

續日本紀卷第三〈起大寶三元年正月、盡慶雲四年六月〉
從四位下行民部大輔兼左兵衛督皇太子学士臣菅野朝臣眞道等奉勅撰。
天之眞宗豐祖父天皇〈文武天皇 第卌二〉




朝賀を取りやめる

春 正月1日(癸亥みずのとい) 廃朝した。親王以下、百官人(朝廷に仕える官人の総称)は太上だいじょう天皇(上皇。譲位した天皇。ここでは持統上皇)の殯宮ひんきゅう(天皇の遺体を本葬の前に安置する仮の建物)を拝した。

廢朝。親王巳下百官人等拜。太上天皇殯宮也。
みちのく
みちのく

廃朝とは、基本的には天変地異などにより天皇が政務を取りやめることを言いますが、今回具体的には、持統上皇の崩御により朝賀を取りやめたということでしょう。

いづみ
いづみ

いつもは元日に朝賀の儀式があるんですよね。親王以下百官が新年に天皇を拝する大儀ですが、この年は取りやめですか…。先月崩御された直後ですもんね。

持統太上天皇は前年の大宝2年(702)12月22日に崩御しています。




巡察使の派遣

藤原房前『前賢故実』より藤原不比等の子で北家の祖

正月2日(甲子きのえね) 正六位下藤原朝臣房前ふささきを東海道に、従六位上多治比真人たじひのまひと三宅麻呂を東山道に、従七位上高向朝臣たかむくのあそん大足を北陸道に、従七位下波多はた真人余射を山陰道に、正八位上穂積朝臣老を山陽道に、従七位上小野朝臣馬養を南海道に正七位上大伴宿禰大沼田を西海道に、道別に録事(書記官)一人を遣わして、政績(政治における業績)を巡省し、寃枉えんおう(冤罪)を申理(不当な扱いを明らかにして正すこと)させた。

遣正六位下藤原朝臣房前于東海道。從六位上多治比眞人三宅麻呂于東山道。從七位上高向朝臣大足于北陸道。從七位下波多眞人余射于山陰道。正八位上穗積朝臣老于山陽道。從七位上小野朝臣馬養于南海道。正七位上大伴宿祢大沼田于西海道。道別録事一人。巡省政績。申理寃枉。
みちのく
みちのく

記事中にその名は出てきませんが、これは「巡察使」の派遣ですね。
太政官直轄の臨時官で、中央から派遣された官人が地方の政治状況を巡視するのが役目でした。

職員令第2【太政官条】要約
巡察使 職掌は、諸国を巡察すること。常置はしない。内外の官のうち、人となりが清廉で明快な者を臨時に任ずる。その巡察の事情と人数は臨時に勘案して決める。

巡察使派遣は、文武天皇4年(700)2月22日以来です。
ただしこの時に派遣されたのは東山道のみでした。

表 大宝三年正月の巡察使たち

派遣先名位階
東海道藤原朝臣房前正六位下
東山道多治比真人三宅麻呂従六位上
北陸道高向朝臣大足従七位上
山陰道波多真人余射従七位下
山陽道穂積朝臣老正八位上
南海道小野朝臣馬養従七位上
西海道大伴宿禰大沼田正七位上
いづみ
いづみ

全員が六位以下ですね。八位の人も一人。どういう基準で選ばれたのでしょうか。

みちのく
みちのく

律令には「人となりが清廉で明快な者」とあるだけなので、位階は基準にならないみたいですね。とはいえ、国守は五位または六位が選任される職なので、視察に来た使者が国守よりも地位が下、という状況になるのは興味深いです。

いづみ
いづみ

なるほど…あとは、現地の事情に詳しい人が選ばれたとかでしょうか。
もしかして、これも持統上皇の崩御が何か関係してるんですかね…?

みちのく
みちのく

面白い推察ですね。
確かに天皇(上皇)崩御後は政情不安になりやすいですから、全国に目を配るために派遣したという見方もできそうです。




持統上皇のために斎会を催す

正月5日(丁卯ひのとう) 太上天皇のために斎会さいえ(僧尼を招き食事をふるまう仏事)を大安寺、薬師寺、元興寺、弘福寺の四寺に設けた。

奉爲太上天皇。設齋于大安。藥師。元興。弘福四寺。

斎会については、持統上皇の病気快癒のために前年の12月25日にも行われており、その意義も同記事で解説しています。

四大寺

この四寺は「四大寺」ですね。朝廷の祈願所である格の高い四つの寺で、

大官大寺(聖徳太子の発願が源流にある寺。大安寺)
薬師寺(天武天皇が皇后(当時の持統)の病気平癒のために建立)
元興寺(蘇我馬子建立の寺。飛鳥寺とも)
弘福寺(川原寺とも)

を指します。

いづみ
いづみ

薬師寺は天武天皇と持統上皇に縁があるお寺なんですね。




新羅国王の訃報が告げられる

正月9日(辛未かのとひつじ) 新羅国が薩飡さつさん(新羅の官位。17階中の第8)金福護、級飡きゅうさん(新羅の官位。薩飡の1階下)金孝元らを遣わし、国王の喪を告げてきた。

新羅國遣薩飡金福護。級飡金孝元等。來赴國王喪也。
いずみ
いずみ

おとなりの新羅国でも国王が亡くなってしまわれた…!?

みちのく
みちのく

そうなんです。亡くなったのは、新羅の第32代国王の「孝昭王」です。

西暦692年から10年間在位し、702年に亡くなったようです。
5歳で即位したため亡くなったときは15歳前後であり、それゆえに後継者がおらず、次代は弟が国王(聖徳王)になりました。

いづみ
いづみ

15歳ですか…。文武天皇が即位したのも15歳の時でしたね。年は下でも君主としては孝昭王の方が先輩だったというのも面白いです。
国王の訃報を聞いて文武天皇はどのように感じられたのか気になります。

孝昭王の没年に、史料間の食い違いがある

『三国史記』の新羅本紀では、孝昭王は西暦702年7月に崩御したとされています。慶州の皇福寺址三層石塔から出土した金銅舎利函の銘文にも、702年7月27日の崩御が記されています。

一方、『続日本紀』の大宝3年(702)閏4月1日条には、金福護の上表文を示し、
「702年秋に発病し、703年春に崩御した」という報告があったとされています。

いづみ
いづみ

なるほど…これは『三国史記』や金石文の記録とは食い違ってますね…。
しかもわざわざ上表文の内容まで公開してるのに一致しないのも不自然です。




主礼六名の課役免除

(続き)

 この日、次のように制定した。主礼しゅらい六人は、もともと大舎人おおとねり(宮中で宿直や警護、雑務に従事した下級官人)から充てていたため、この例に準じて六人の課役(調、庸、雑徭)を免除することとした。

是日。制。主礼六人。元以大舍人爲之。宜准斯例蠲其課役。

主礼(しゅらい)について、養老令の職員令第12【内礼司条】には、次のようにあります(要約)。

主礼の定員は六人。【職掌は、非違を監察すること。】

内礼司は中務省の所属で、主礼は宮中の違法・不正行為を監察する役割を担っていました。定員は6人。

みちのく
みちのく

したがってこの記事は、新たに六人を任命したという意味ではなく、定員六名の主礼についての待遇を規定したものですね。




詔(刑部親王を知太政官事に任命)

正月20日(壬午みずのえうま) 三品刑部親王さんぽんおさかべしんのうに詔して、知太政官事ちだいじょうかんじに任じた。

詔三品刑部親王知太政官事。

知太政官事(ちだいじょうかんじ)

知太政官事は、奈良時代前半の政治構造を見るうえでかなり重要な官職です。

まず名称どおりに捉えれば、「太政官の事を知る」つまり、太政官の政務を統括する職です。
律令には規定されていない官職(令外官)で、今回の刑部親王がその初代です。
その後歴代は、穂積親王・舎人親王・鈴鹿王の計4人だけで、全員が天武天皇の系統にある皇親(皇族)でした。

いづみ
いづみ

「知る」とか「知らす」は当時は「治める」「統治する」という意味もありましたよね。知太政官事もそれに連なる意味と見て良いと思います。
でも本来、太政官のトップは太政大臣ないしは左大臣・右大臣ですよね。それとの関係はどうなのでしょう?

みちのく
みちのく

太政大臣は律令上、適任者がいなければ欠員にする「則闕官そっけつのかん」で、古くは大友皇子・高市皇子のような皇族が就いていました。
大宝令以後は太政大臣を常置せず、一方で皇族専用の知太政官事が置かれました。
太政大臣の代わりと見てもよさそうですが、その職掌や大臣との厳密な上下関係は史料がなく研究上も明らかになっていません。

ただし注意点は、知太政官事は太政大臣そのものではないということです。
刑部親王死去後、慶雲2年(705)に後任となった穂積親王の待遇は「季禄は右大臣に準じて支給する」とあります(慶雲3年(706)2月7日条)。
とはいえ、これをもって「知太政官事の政治的地位も右大臣級」とはならないでしょう。

歴代の知太政官事
知太政官事就任系譜
刑部親王大宝3年(703)正月20日天武天皇皇子
穂積親王慶雲2年(705)9月5日天武天皇皇子
舎人親王養老4年(720)8月4日天武天皇皇子
鈴鹿王天平9年(737)9月高市皇子の子=天武天皇孫

これを見ると分かる通り、知太政官事は皇親(特に天武天皇系)代表が就任する地位です。
「太政大臣の代わり」というより、皇親を太政官の上層に組み込み、臣下を統括するための特別な官だったと考えると理解できそうです。

みちのく
みちのく

また、当時の背景を考えると文武天皇は当時20歳頃であり、まだまだ当時としては若すぎる天皇でした。
しかも祖母であり先帝として影響力を持っていた持統上皇が崩御し、天皇をバックで支える存在が失われたという状況でした。

いづみ
いづみ

なるほど、これも持統上皇崩御の影響と見て取れそうですね。
皇親の長とも言える刑部親王がまだ若い天皇の補佐を期待された。それが知太政官事の役割だったと考えるとすっきりします。

参考 当時の太政官(議政官)の成員

官職位階氏名備考
知太政官事三品刑部親王今回就任
太政大臣―空席
左大臣―空席大宝元年(701)の多治比真人嶋薨去以来
右大臣従二位阿倍朝臣御主人
大納言正三位石上朝臣麻呂
大納言正三位藤原朝臣不比等
大納言従三位紀朝臣麻呂
参議従三位大伴宿禰安麻呂
参議正四位下粟田朝臣真人
参議従四位上高向朝臣麻呂
参議従四位下下毛野朝臣古麻呂
参議従四位下小野朝臣毛野
※中納言は大宝元年3月21日に廃止。当時大納言は定員四名なので一名欠員あり。




詔(大宝律令撰定の功賞を評議する)

2月15日(丁未ひのとひつじ) 次のように詔した。従四位下下毛野しもつけぬ朝臣古麻呂たち四人は、律令の撰定にあずかったため、その功賞を評議すること。
 ここにおいて、古麻呂と従五位下伊吉連いきのむらじ博徳に田十町と封戸50戸、贈正五位上調忌寸つきのいみき老人の男子に田十町と封戸100戸。従五位下伊余部連いよべのむらじ馬養の男子に田六町と封戸100戸を賜った。その封戸は本人にのみ授けられ、田の相続は一世(子の世代)のみとした。

詔。從四位下下毛野朝臣古麻呂等四人。預定律令。宜議功賞。
於是。古麻呂及從五位下伊吉連博徳。並賜田十町封五十戸。贈正五位上調忌寸老人之男。田十町封百戸。從五位下伊余部連馬養之男。田六町封百戸。其封戸止身。田傳一世。

封戸(ふこ)は一定の官人に対して人民の戸(世帯)を割り当て、その戸から納められる租の半数(後に全給)と調・庸の全部を個人の給与とすることができる制度です(食封じきふの制度)。

功労者位階功田封戸受給者
下毛野朝臣古麻呂従四位下10町50戸本人
伊吉連博徳従五位下10町50戸本人
調忌寸老人贈正五位上10町100戸息子
伊余部連馬養従五位下6町100戸息子

本人ではなく息子に支給しているのは、本人がすでに亡くなっているからでしょう。
調忌寸老人の位階に「贈」とあるのは、死後に高い位階を授ける「贈位」です。

霊亀2年(716)4月8日の記事でも、功臣に与えられた功田について詳しく解説しています。

後世に四人の功績は「下功」と明記されている

実は、この四人に与えられた功田の等級は後世の記録で明示されています。
天平宝字元年(757)12月9日条には、

「大宝二年の律令編纂の功績によって、それぞれ功田十町が与えられた。四人の功績はいずれも下功に相当し、その功田は子の代まで相続させるものとしている」

とあり、功績は具体的に「下功」と評価されています。




二名に連の姓を賜う

2月4日(丙申ひのえさる) 従七位下茨田まんた足島、衣縫造きぬぬいのみやつこ孔子に連むらじの姓かばねを賜った。

從七位下茨田足嶋。衣縫造孔子。並賜連姓。

連(むらじ)の姓は、天武天皇が定めた八種類の姓(八色やくさの姓かばね)のうち第七番目です。

衣縫造孔子は、造(みやつこ)姓から連姓に変わり、衣縫連孔子となりました。
茨田足島については、文武天皇2年(698)8月1日条にも同様の「連姓を賜った」という記事があり、どちらか一方が編集上のミスにより重複してしまったものと思います。

みちのく
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さらにこの記事は「2月4日(丙申)」であり、2月15日(丁未)条の後に掲載されていて掲載順の乱れもあります。




持統上皇の四十九日法要

2月11日(癸卯みずのとう) この日は、太上天皇の七七の日(四十九日の日)にあたる。よって、使者を四大寺及び四天王寺、山田寺など33箇所の寺に遣わして斎会さいえを設けた。

是日當太上天皇七七。遣使四大寺及四天王山田等卅三寺。設齋焉。

斎会についてはこちらの記事で、四大寺についてはこちらの記事で解説しています。
「七七の日」はつまり、持統上皇の崩御から7週間目(49日目)にあたる「四十九日法要」の日ですね。

斎会の規模に注目

今回、興味深いのは斎会が行われた寺院の数です。
正月5日 大安寺・薬師寺・元興寺・弘福寺の四大寺
2月11日 四大寺・四天王寺・山田寺など33寺

みちのく
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斎会の実施寺院が大幅に増えています。
また、山田寺を建立した蘇我倉山田石川麻呂は、持統上皇の母方の祖父に当たる人物です。その山田寺が四大寺や四天王寺と並んで特記されているのも興味深いところですね。




大宰府の史生を十名増員

(続き) 

 大宰府の史生(下級書記官)を更に十名増員した。

大宰史生更加十員。

史生は、各官司で文書の作成や記録などを担当した下級職員です。
後の養老令の職員令では、大宰府の史生の定員は20人と規定されています。

大宝令では10人だったとする推定もあり、今回の増員によって20人体制になった可能性がある。

みちのく
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つまり、大宝律令施行からわずか2年程度で、大宰府の事務職員を増やす必要が生じたわけです。

いづみ
いづみ

律令制の運用が本格的に始まったら、思っていた以上に大変で実務をとる人が足りなかった…といった感じですかね?

みちのく
みちのく

大宰府は西海道(九州)各国を統括する機関ですからね。
普通に考えれば事務職員が十人で足りるとはとても思えないのですが…。

実際、今後各官司では史生の新置や増員が繰り返し行われます。

⭐️参考 以後の史生増員・設置例
大宝3年(703)2月17日(癸卯みずのとう) 大宰府に10名増員(今回の記事)
和銅元年(708)7月7日(丁酉ひのととり) 内蔵寮に初めて4名設置
同年8月21日(庚辰かのえたつ) 兵部省に6名、左右京職にそれぞれ6名、主計寮に4名増員
和銅5年(712)11月16日(辛巳かのとみ) 弁官に6名増員
同年12月15日(己酉つちのととり) 東西の市司に初めて2名設置
和銅6年(713)6月21日(癸丑みずのとうし) 大膳職に初めて4名設置
同年9月21日(辛巳かのとみ) 大蔵省に6名増員
同年11月25日(乙酉きのととり) 兵馬司に4名を仮に設置
同年12月11日(庚子かのえね) 中務省に10名増員
同年12月20日(己酉) 宮内省に10名増員




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