【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲元年④ 止まない災害、失われる秋稼

慶雲
いずみ
いずみ

こんにちは、いずみです♨️
慶雲元年も年末に近づきましたが今回はどんな記事があるでしょうか?

みちのく
みちのく

なにか大きな歴史的事件があるわけではないですが、とにかく災害による農作物の不作、飢饉などの記事が目立ちます…。

いずみ
いずみ

食料が不足すれば栄養が足りなくなり、病気にもかかりやすくなる…すべて連鎖してますよね。

慶雲元年(西暦704年・甲辰)現代語訳・解説

課役と田租免除の詔

冬 10月5日(丁巳ひのとみ) 次のようにみことのりがあった。「水害や日照りにより年間の穀物が実らないことをもって課役と当年の田租を免除する」と。

 課役は律令に規定され、(都に出仕して肉体労働を行う、または絹や布の貢納)・調(絹、綿、糸などの繊維製品や地方の特産物などの貢納)や雑徭(地方における肉体労働)を指します。

 田租()も律令で規定があり、6歳以上の男女に口分田として田地が班給(男性が2段(24アール)、女性はその3分の2)され、収穫された稲の二束二把(約3%)を納めることとなっていました。

いずみ
いずみ

有名な班田収授法ですね!
納める稲が収穫量の3%って意外に少なく感じます。

みちのく
みちのく

それが実はそうでもなく、当時は1人に班田された田だけでは1年間に食べるお米をまかなうことができなかったのです。それでなくとも、米は天候に左右され豊作になるとは限らないし、一口に田んぼといっても、水はけや地質が良好でないものもあり、自給ができない中で3%の納税義務は人民にとって大きな負担でした。

 奈良時代ころにおいて、1段で収穫できる稲は質の良い田であっても0.8ごく(1石が成人男性が1年間に消費する米の量)以下と推定されています。男性であれば2段の班田を受けられますが、当時の水田の質はほとんどが中等以下で、収穫が1石に満たない場合が多かったと考えられています。

いずみ
いずみ

そうなんですね…。とくにこの年は災害で不作ということなので、そんな中で租税をとっていては国民は生きていくことはできないですね。
でも租税は律令という法に規定されていて、国の根幹にかかわることでありながら、天皇の詔という形で免税できるのは、現代と違い柔軟性がありますね。

10月9日(辛酉かのととり) 粟田朝臣真人たちが朝廷を拝した。
 正六位上幡文通はたのあやのとおるを遣新羅大使に任命した。

 粟田真人は遣唐使の最高責任者です。7月1日に唐から大宰府に到着した遣唐使一行はこの日大和国の藤原京に帰還し、天皇に謁見しました。真人は遣唐使の代表として天皇から節刀を授かっていたので、任務を終えたこのときに節刀を返還したものと思われます。

 同日、新羅への使者を任命しました。大使に任命された幡文通の正六位上という位階は、貴族とされる従五位下のひとつ下です。たった1階の差ですが、五位と六位は貴族・非貴族という点で大きな格差がありました(従五位上から上の位階が貴族とされる)。
 そこで前後の遣新羅大使の位階を調べてみました。

文武天皇4年(700)5月13日 直広肆(従五位下相当) 佐伯宿禰麻呂
大宝3年(703)9月22日 従五位下 波多朝臣広足遣
慶雲元年(704)10月9日 正六位上 幡文通
慶雲2年(705)12月27日 従五位下 美努連浄麻呂
和銅5年(712)9月19日 従五位下 道君首名

 このように、これまで遣新羅大使に任命された人物は従五位下でしたが今回は六位ということで、幡文通が優秀な人物であったか、新羅を軽視した結果なのか…?

みちのく
みちのく

以後に任じられる遣新羅大使の位階はまた従五位下に戻っていることから、幡文通が優秀な人物だった可能性が高いと思います。

賜姓(幡文造)

10月16日(戊辰つちのえたつ) 遣新羅大使の幡文通にみやつこかばねを授けた。

 10月9日に遣新羅大使に任じられた幡文通はこれまで無姓でしたが、大使という職の重みにかなった格を与えるためなのか、「造」の姓(カバネ)が授けられました。造は天武天皇の定めた8種類の姓(八色の姓)にはなく、古来より大和朝廷から地方豪族に授けられてきた古い姓です。

いずみ
いずみ

八色の姓が制定されてからも、それ以前からあった姓が授けられることがあったんですね。

伊勢神宮に神宝を奉納

11月8日(庚寅かのえとら) 従五位上忌部宿禰子首いんべのすくねこおびとを遣わして幣帛(供え物)、鳳凰鏡、窠子錦かしにしきを伊勢大神宮に奉らせた。

 窠子錦は「錦」とあるように絹織物のようです。「」は瓜を輪切りにしたものを模した紋様とか、蜂の巣の模様のことといわれます。そのためこういった紋をあしらった高級な錦のことだったのではないでしょうか。

織田家の家紋「織田木瓜」

みちのく
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瓜を模した紋様は割とオーソドックスのようです

持統上皇の700日法会

11月11日(癸巳みずのとみ) 太上天皇(持統上皇)の700日の斎会(僧尼を招き食事を伴う法会)を諸寺に設けた。

 持統上皇が崩御してから700日目の節目として法要が営まれました。死後7日ごとに行われる法要(初七日や四十九日など)の延長と思われますが、700日目の斎会というのはあまり他に例がないように思います。

賜姓(阿部朝臣)など

11月14日(丙申ひのえさる) 従四位下引田朝臣宿奈麻呂の姓を改めて阿部朝臣を賜った。
 正四位下粟田朝臣真人大倭やまと(奈良県)の田20町・穀1000ごく(容積の単位)を賜った。遣唐使として絶域(遠く隔たった地)に赴いたことをもってである。

 引田氏(引田朝臣)は阿部氏の支族(分家のようなもの)で、もともと阿部氏と同族です。阿部氏は支族が多く、大宝律令施行後初めて右大臣になった阿部御主人みうし布勢氏(布勢朝臣?)を名乗っていたことから、布勢氏が阿部氏全体を取りまとめる一族(本家)だったのでしょう。

 今回、支族である引田朝臣から本家の阿部朝臣に改姓されたことは何を意味するのでしょうか?
 布勢氏をさしおいて引田氏が阿部朝臣を名乗るということは、阿部氏内での力関係に変化があったのかもしれません。宿奈麻呂の父は軍船を率いて秋田の蝦夷を征伐したことで有名な阿部比羅夫(引田臣を名乗る)です。

阿倍比羅夫像 日本を飛び出し粛慎という満州の部族をも従えヒグマを生け取りにしたという記述が『日本書紀』にのこる

藤原宮の地を定める(?)

11月20日(壬寅みずのえとら) 初めて藤原宮の地を定めた。家屋が宮中の範囲に入る百姓の1505えん(炊事などの煙(烟)から、世帯を表す単位か?)にそれぞれ差をつけて布を賜った。

みちのく
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初めて藤原宮の地を定めたとなると、まるで今まで宮がなかったということになってしまいますが、そんなはずはありませんので別の意味でしょう。ここでいう「定めた」とは完成したという意味ではないでしょうか。

 藤原宮の出土木簡によると、平城京遷都(710年)が迫っている時期においても藤原京の土木工事が続いていたようです。

いずみ
いずみ

完成を示す記事だとするとけっこう重要ですね

 自宅が宮地と重なってしまう百姓たちに布を下賜したということから、藤原宮の宮域を拡張したという意味かもしれません。藤原宮は京域の中央のやや北寄りにありましたが、宮域が中央北端にある唐の長安城にならって北に範囲を広げた可能性があり、そのことを指しているのかもしれません。

奉幣

12月10日(辛酉かのととり) 幣帛へいはく(供え物)を諸社に供えた。

 11月8日の伊勢神宮への奉幣につづき、この類の記事が目立ちます。これも災害、疫病、飢饉からの復興を祈ってのものでしょうか。
 ところで律令には12月11日、月次つきなみという百官が神祇官(祭祀を担当する役所)に集まって、中臣氏が祝詞のりとを読み上げて全国の神々に幣帛を分つ祭祀が行われます。この記事は月次祭の前日ということで何か関係がありそうです。

大宰府からの被災報告

12月20日(辛未かのとひつじ) 大宰府が次のように言上した。「去る秋に大風が樹を抜き倒し、年穀を損ないました」と。

疫病の発生

 この年の夏 伊賀・伊豆の2国に疫病が発生し、医師と薬を支給して治療させた。

いずみ
いずみ

慶雲元年は災害、疫病、飢餓が多い年でしたね…

みちのく
みちのく

(おそらく)これ以上の災害を避けるために行われた慶雲への改元を行っても、流れを変えることはできませんでした…。現代の視点でみれば、「そりゃそうでしょう」となりますが、当時としては災害や疫病の蔓延は天子(天皇)の徳がなく、良い政治を行っていないことの表れとされていたので、朝廷としてはかなりの焦りを感じていたことでしょう。

いずみ
いずみ

文武天皇の心中はいかほどだったでしょうか…。

みちのく
みちのく

慶雲元年の災害や疫病についてまとめてみました。

3月29日 信濃国に疫病
夏 伊賀・伊豆の2国に疫病
4月19日 讃岐国に飢饉
4月27日 備中・備後・安芸・阿波4国で稲が損なわれる
5月16日 武蔵国に飢饉
秋 大宰府管内で大風により作物が損なわれる
7月9日 雨が降らない
8月5日 伊勢・伊賀2国でイナゴの被害
8月28日 周防国で大風による稲の被害

いずみ
いずみ

特に夏から秋にかけて被害が大きかったようですね。9月以降は報告がないようですが、10月に全国の税と労役が免除になったところをみると、やはり全国的に不作だったのでしょうね…

みちのく
みちのく

天皇や中央の貴族としても、租庸調や労働の免除は自身の衣食住の元手を断つ行為ですから、身を切る政策であるといえるでしょう。

参考書籍など

続日本紀(上)全現代語訳








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