
こんにちは、いずみです!♨️
民が窮乏する中、年が明けましたが慶雲2年はどのようにすすんでいくのでしょうか

今回の注目は、久しぶりの天皇行幸と、民を貧窮から救うための有徳の詔ですね☀️
慶雲2年(西暦705年・乙巳)現代語訳・解説
宴を賜う

春 正月15日(丙申) 朝堂(藤原宮の中央政庁)において、宴を文武百寮(全ての官人)に賜った。
慶雲2年は元日朝賀の記事がありません。しかし、記事がないから儀式が行われなかったということではないと思います。『続日本紀』の編集方針として、定例の儀式は逐一記録しなかったのでしょう。

持統上皇が大宝2年12月に崩御し、明けた大宝3年の朝賀は「廃した」とあるため、特記がなければ行われたと解して良いと思います。
叙位
正月19日(庚子) 無位安八万王に従四位下を授けた。
美濃国には安八磨郡があり、安八万王の名はその地に由来があると思われます。当時の皇族は生まれると親元を離れて里子に出されるため、おそらく安八磨郡の豪族に預けられ育てられたためこの名があるのでしょう。
現在の岐阜県の安八郡であり、「あんぱち」という読みは明治時代以降からのもの。その語義には、「安」寧が多い(八)という意味が込められています(「八」という字は数が多いさまを表す)。
安八万王は無位から一挙に従四位下を授けられていることから、これは蔭位の制が適用されたことを意味します。蔭位は特権制度で、親が皇族や貴族の場合、子に高位の位階を授ける制度です。
また、このことから安八万王が何世の王なのかも判別することができます。
律令 選叙令
35(蔭皇親条)
皇親に蔭するときは、親王の子に従四位下、諸王(4世王まで)の子に従五位下を授ける。5世王は従五位下を授け、その子(6世王)には一等下して授けること。(以下略)
選叙令の規定から、従四位下を授けられた安八万王は親王の子、すなわち2世王であることがわかります。

ただし、どの系譜につながる皇族なのかは残念ながら不明です。
天武天皇の長子の高市皇子の子ではないかという説もあるようですが…。
行幸(倉橋離宮)
3月4日(癸未) 車駕(天皇の車のこと。転じて天皇自身を指す)は倉橋離宮に行幸した。
倉橋離宮は『日本書紀』の崇峻天皇紀、用明天皇2年(587)8月条に「この月、倉梯に宮をつくった」とあり、離宮は崇峻天皇がかつて営んだ皇居と同じ場所と思われます。『古事記』では「倉梯柴垣宮」と呼称されており、現在の奈良県桜井市倉橋として地名が残っています。

離宮がつくられたのは慶雲2年からさかのぼること118年。藤原京から東に6kmほどの距離で、少し山に入ったところにありますね。
今回文武天皇がここに行幸を行われた目的は不明ですが、同じく『日本書紀』天武天皇12年(683)10月13日条には「天皇は倉梯にて狩りを行われた」とあり、文武天皇もまた、この地で狩りをされたのかもしれません。

この地は山間にあり、丘もあることから狩りに適した場所だったのでしょう。
今回は持統上皇崩御後初の行幸になりました。

そういえば、去年は一度も行幸がありませんでしたね。
今回の天皇の行幸は、大宝2年(702)7月11日に行われた吉野行幸以来約3年ぶりとなりました。
卒去(豊国女王)
3月7日(丙戌) 正四位下豊国女王が卒した。
豊国とは、九州地方北東部にあたる地のことで、律令制が成立して以後は豊前国と豊後国の2国に分かれました。豊国女王はこの地に由来がある皇族でしょうか。
しかし、他に一切の情報が存在しないため、どの天皇の系統なのかは不明です。
詔(読経、出挙の利息徴収禁止、庸の半減)
夏 4月3日(壬子) 次のように詔した。「朕(天皇だけが使用できる一人称)は菲薄(才能や徳の乏しいこと)の躬(身)をもって王公の上に君臨している。徳は上天(天神)を感応させず、仁は黎庶(人民)に及んでいない。ついに陰陽は乱れ水旱(水害と日照り)は止むことなく、(昨年の)年穀は実らなかった。民は多く菜色(顔色が青く悪いこと)となっている。これを思うたびに朕の心は惻怛(悲しんで心をいためること)している。よって、五大寺をして金光明経を読ませるべし。また、民の苦しみを救わんがため、天下の諸国に今年の出挙の利息(稲の貸し付け制度。利息は5割)を徴収せず、並びに庸(中央での労役)を半減すること」と。

文武天皇、やはり心を痛めておいででした…。

当時、災害や天候不順は神の怒りや陰陽の乱れであり、原因は時の天皇が民を思わず正しい政治を行わなかったからだとされていました。
金光明経とは、この経を読み君主が正しい政治を行えば、四天王をはじめとした仏教の守護神の加護を受け、国家が安らかに治まるとされた経典です。

今回注目すべきところは、詔の文言に初めて天皇の一人称である「朕」が出てくるところだと思います。

そういえば今までなかったですね。文武天皇個人の主体性の表れかもしれないですね。これまでは持統上皇の「院政」で天皇はあまり政治に関わっていなかったと思いますが、崩御後にやはり流れが変わったのかも?
全国に巡察使を派遣
4月5日(甲寅) 使者を派遣して天下諸国を巡省させた。
記事に文言はありませんが、「巡省」とあることから、使者とは太政官に臨時に設置される巡察使のことと思います。
律令 巻第2 職員令
2(太政官条)
(前略)巡察使 職掌は、諸国を巡り察ること。常置はしない。内外の官のうち清正灼然(人となりが清廉で、明快であるさま)たる者を仮に任じること。巡察の事情やその人数は臨時に勘案して決めること。
土地を賜う
4月11日(庚申) 三品刑部親王に越前国(福井県)の野100町を賜った。

100町ってどのくらいですか?

律令の田令には、田10段(面積120アール)が1町とあるので、100町は12,000アール(120ヘクタール)となります。これは東京ドーム25個分、サッカー場30個分の面積に相当します。
刑部親王は皇族の重鎮として、まだ20歳そこそこの文武天皇の補佐を期待され、大宝3年(703)正月20日に臨時に太政官を統括する「知太政官事」に任命されています。
勅(大納言の定員削減と中納言の新設)
4月17日(丙寅) 次のように勅を下した。「大宝律令の官員令によると、大納言の定員は4名となっているが、職責の重さは大臣と並ぶものであり、官位もまた諸卿を超える。朕はこれを思うに、大納言の任は重く、適任者により定員を満たすことができない。よって2名を削減し、新たに中納言3名を置く。これをもって大納言の不足を補うべし。その職掌は敷奏(天皇に意見などを申し上げること)、宣旨(天皇の命令を伝えること)、待問(天皇からの下問に対応する)、参議することとし、その禄(給与)は大宝令に基づき商量(考えはかること)して施行すること」と。
大納言は、太政官(中央の最高行政機関)の構成員で、序列としては、太政大臣・左大臣・右大臣に次ぐ第4位のポストです。律令の規定によると、大納言は定員4名で職掌は「諸事に参議すること。敷奏、宣旨、侍従し献替すること」とあります。

侍従とは側近として天皇のもとに仕えること。献替とは、物事の是非を天皇に説くことをいいます。善を進言し、非を排除する天皇の意思決定の補佐をする役目ですね。

今回新しく設置された中納言の職掌には、この侍従・献替はありませんね!
中納言は大宝元年(701)3月21日、大宝律令制定時に廃止されていましたが、大納言の定員削減に合わせて復活することとなりました。

ちなみに、この時点での太政官の構成は以下のとおり。
★参考 この時点での太政官の構成員
知太政官事(臨時の官) 三品刑部親王
太政大臣 空席
左大臣 空席
右大臣 従二位石上麻呂
大納言 正三位藤原不比等、従三位紀麻呂
参議 従三位大伴安麻呂、正四位下粟田真人、従四位上高向麻呂、従四位下下毛野古麻呂・小野毛野
奏上(中納言の待遇)
(続き)
太政官が次のように議奏(審議のうえ奏上すること)した。「中納言の職は大納言に近く、事は機密に関わるため、禄はたやすく軽いものとするわけにはいきません。そのため官位相当を正四位上とし、1人あたりに封戸を200戸、資人(雑務や警護を行う下級官人)を30人支給することを要請します」と。
これを奏可(奏上した内容を受け入れること)した。
封戸とは、官人に給与として与えられた土地で、その土地に住む公民が納める租税の半分と調庸の全部を個人のものとすることができる制度です。封は領地、戸は世帯を数える単位です。
采女の肩巾の田の復活

(続き)
これより先、諸国の采女の肩巾の田を、令によって停止していたが、ここに至って旧に復した。
采女は諸国の郡司を務める家の女性のうち容姿の優れた者から選出され、宮中で働く女官です。肩巾(領巾とも書く)とは采女が両肩にかけていた細長い布で、古くは害虫や毒蛇を寄せ付けない呪力を持つものとされていましたが、この時代には単純な装飾品となっていたようです。

天女の羽衣みたいなものですね♨️
『日本書紀』天武天皇11年(682)3月28日条の詔によると、采女は肩巾を着用してはならないと禁制が出ています。
「采女の肩巾の田」がどういうものかはよく分かりませんが、おそらくすべての采女が肩巾を着用できたわけではなく、采女の中でも実力のある者に限られ、そういった者の生活の資にあてるための田という意味ではないでしょうか。
任官(中納言、左大弁など)

4月22日(辛未) 天皇は大極殿に御して正四位下粟田朝臣真人、高向朝臣麻呂、従四位上阿部朝臣宿奈麻呂3人をもって中納言に任じた。
従四位上中臣朝臣意美麻呂を左大弁に、従四位下息長真人老を右大弁に任じた。
従四位上下毛野朝臣古麻呂を兵部卿に、従四位下巨勢朝臣麻呂を民部卿に任じた。
4月17日に復活した中納言の任官者が決定しました。これにより、太政官の構成は以下のようになりました。
★参考 この時点での太政官の構成員
知太政官事(臨時の官) 三品刑部親王
太政大臣 空席
左大臣 空席
右大臣 従二位石上麻呂
大納言 従二位藤原不比等、従三位紀麻呂
中納言(新設) 正四位下粟田真人、従四位上高向麻呂、従四位上阿部朝臣宿奈麻呂
参議 従三位大伴安麻呂、従四位下下毛野古麻呂・小野毛野
粟田真人と高向麻呂は大宝2年(702)5月21日に参議に任命されており、今回中納言に昇進しました。阿部宿奈麻呂は昨年慶雲元年(704)11月21日に支族の引田朝臣から宗族の阿部朝臣に改姓して阿部氏の氏上(氏族のリーダー)となっており、今回の中納言任官にいたりました。
駅鈴と伝符の支給

(続き)
大宰府に飛駅の駅鈴8口、伝符10枚を、長門国(山口県)に駅鈴2口を支給した。
飛駅などについての解説はこちらにあります。駅鈴とは、駅に配備された馬を利用するための証明として使者が携帯するものです。伝符は飛駅のような緊急の要件以外の場合に使われる馬(伝馬という)の利用証明になるものです。


次回

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