【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅6年③ 全国の『風土記』編纂、はじまる

元明天皇紀(708-715)
いづみ
いづみ

こんにちは、いづみです♨️
風土記は聞いたことがあります!

みちのく
みちのく

中学や高校の歴史教科書にも登場することがあるみたいですね
大体の場合、古事記・日本書紀・万葉集と合わせて紹介されることが多いようです。




和銅6年(癸丑・西暦713年)5月 現代語訳・解説

全国『風土記』撰進の官命

風土記 上 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

5月2日(甲子きのえね) 次のように制定した。畿内及び七道諸国の郡名と郷名にはい字を付けること。その郡内で見られる、銀・銅・彩色(顔料などの、着色に用いるもの)・草木・禽獣・魚虫などの物はその色目しきもく(種類、種目)を詳細に記録し、土地の沃塉よくせき(土地の質の良し悪し)や、山川・原野の名前の由来、また古老が相伝する旧聞きゅうぶん(古い話)や異事(珍しいこと、変わったこと、変事)は史籍(歴史を記述した書物)に載せて言上すること。

制。畿内七道諸國郡郷名着好字。其郡内所生。銀銅彩色草木禽獸魚虫等物。具録色目。及土地沃塉。山川原野名号所由。又古老相傳舊聞異事。載于史籍亦宜言上。
みちのく
みちのく

記事中にその名が出てくるわけではありませんが、これは有名な『風土記』の編纂を命じたものと知られており重要な記事です。全国の地名には「好字」を使うこととし、その土地の産物、見られる動植物、土地の良し悪し、山川・原野の名の由来、古い言い伝えなどを書物にまとめ、朝廷に提出する命令が出されました。

いづみ
いづみ

これはつまり、その土地の「地誌」というものですね!
地方の国情の把握に当時の朝廷がいかに心を砕いていたかがよく分かります。出羽国、丹後国、美作国、大隅国の建国の流れとも間接的に関連がありそうです。

和銅6年(713)4月3日(乙未きのとひつじ)条参照 「丹後国、美作国、大隅国の設置など」

「風土記」名称の初出はいつか

 先述の通り、当初は「風土記」という名称はありませんでした。いつ頃からこの名で呼ばれるようになったのでしょうか?
 研究によると、現存史料で「風土記」の語が確実に見える早い例は、延喜14年(914)の三善清行みよしのきよゆき意見封事十二箇条いけんふうじじゅうにかじょう」です。また、同時期の矢田部公望「日本紀私記」、さらに延長3年(925)の太政官符に「風土記」の名が見えると整理されています。

三善清行「意見封事十二箇条」

 これは、学者である三善清行が備中国の国司(次官の備中介)の経験をもとに、醍醐天皇に提出した政治意見書です。その中で清行が風土記に触れたのは、備中国の1つの郷の衰退ぶりを示して、国家全体の疲弊を論じる文脈においてでした。

みちのく
みちのく

醍醐天皇の時代は律令国家が衰退に向かっていた時代でした。

 清行は、自分がかつて備中介だったことを述べたうえで、備中国下道郡の邇磨にま郷を例に出します。そこでここに彼の国の風土記を見るに」として、備中国風土記に載る過去の記録を引きます。内容は、皇極天皇6年(実際には皇極天皇6年は存在せず、正確には斉明天皇6年(660))にこの郷から試みに兵を徴発したところ、2万人の軍士を得たという話です。

 そして清行は、その古い記録と自分の時代の実情を比較します。つまり、昔は1つの郷だけでそれほどの兵力を出せたのに、今ではこんなにも衰えてしまった、という落差を示したのです。
 つまり、ここでの「風土記」呼称は、地名由来を語るためでも、古代の風俗を愛でるためでもなく、過去の地方社会の規模を示す記録として引用するためだったわけです。

みちのく
みちのく

清行にとって風土記は「昔はこうだった」という比較の基準になる地域記録でした。

いづみ
いづみ

天皇に提出する意見書に、学者として風土記の例を出すくらいですから、それくらい信用に値する史料だったと言えますね✨



「好字」の解釈

いづみ
いづみ

好字」とはどういう意味なのでしょうか?

みちのく
みちのく

「好字」とは具体的に何なのかを官命で明らかにしていない以上、解釈が必要になります。

① 縁起の良い字説(通説)

 最も広く流通している解釈で、縁起の良い2文字を当てることというものです。全国の地名は全て瑞祥(めでたい)地名に統一されたという理解がこれにあたります。特に「2文字にする」というのが主眼だったように思われ、以下の例があります。

上毛野国かみつけぬのくに上野国こうづけのくに 「毛」という国名のアイデンティティの核心を削ってまで2文字化したもの。

下毛野国しもつけぬのくに下野国しもつけのくに  同上

泉郡→和泉いづみ 読みは同じで「和」という縁起の良い字を足して1字から2字にしたもの。

多吉たき郡→多伎たき 「吉」という縁起の良い字を変えて、読みはそのままで「伎」にしたもの。一見すると「好字」の例の逆を行くパターンだが、「伎」には仏教的な意味もあり、芸能・福徳をつかさどる女神を指す場合があり、また「わざ・たくみ・はたらき」という意味もあるため「伎」もまた縁起の良い字であるといえる。

安八万あはちま郡→安八あんぱち 「万」という縁起の良い字を削って3字から2字にしたもの。

小丹生をにふ郡→遠敷をにふ 用字は完全に変わったが、「遠」は「を」と読み、「敷」は「ふ」と読むため「丹」の字を犠牲にして2文字化し、元の読みはそのままで「遠敷」としたもの。また「敷」は縁起の良い字といえる。

みちのく
みちのく

上毛野国・下毛野国・安八万郡のように、あえて縁起の良い字を削って2字にした例もあるので、縁起の良さはさておき「2文字化」が大前提のテーマだったのかもしれません。

いづみ
いづみ

遠敷をにふ」は「」の字がなくなった都合上、「をにふ」と読むのが困難になりましたが、そうした不都合を飲んでまで2文字にしてるわけですから、2文字にするということそのものが「縁起の良い」「祥瑞化」だったのかも?

② 国家の権威・唐にならった説

 国史(日本書紀や古事記)の編纂とも関連して、唐風をもって国の権威にしようとしたこの時期の国家の方針だったという解釈で、政治的・外交的な動機を前面に出すものです。実際、中国の地名も、かつて(周・春秋時代ころ)は1文字だった地名が、秦の天下統一(前221年)により急速に2文字に改められた経緯があり、隋・唐時代には2文字が主流になっていました。

③ 行政の実用性を重視した説

 2文字化は戸籍の作成に便利だったという、実用的な面があったとする解釈です。また、和銅以前は同じ地名に複数パターンの字が当てられることがあり、複雑になっていたため行政の効率化、誤読など、ミスの防止のため用字を統一したことが考えられます。

いづみ
いづみ

1文字の地名だと他の地名と重複して区別が付かない場合もありそうですね。



なぜ多くの風土記は失われてしまったのか?

みちのく
みちのく

そんな風土記ですが、全国に編纂を命じたものの、残念ながら今に現存しているのは出雲、常陸、播磨、豊後、肥前の5カ国だけです。この中でもほぼ完本として残っているのは『出雲国風土記』のみです。

いづみ
いづみ

それは本当に残念ですね…💦
風土記に限らずですが、そもそも古い史料はなぜ失われてしまうのですか?(素朴な疑問)

①素材が弱い

 古代・中世の史料は紙や木簡が多く、紙は湿気・虫・カビ・火に弱い。日本は高温多湿なので、とくに保存に向きません。石碑みたいに硬い素材でない限り、放っておけば傷みます。

いづみ
いづみ

確かに石碑だと紀元前のものもありますし、千年単位で残りますよね。

②戦乱・火災・災害

 木造の都や寺社、役所は火事で焼けやすいし、戦争や政変で文庫ごと失われることも多いです。写しがそこにしかなければ、それで終わりです。

みちのく
みちのく

今でこそ町を焼くような戦火は無くなりましたが、応仁の乱などは京都が焼け野原になりましたからね。近代戦争でもそうでしたし。

いづみ
いづみ

現代で怖いのはやっぱり災害ですよね。大震災レベルの災害が来れば重要な文化財もどうなるか分かりません。

③保存する意思が現代よりも希薄

 さらに大きいのは、「不要になった文書は積極的には保存されない」ことです。現代みたいに「史料として全部残そう」という発想は強くありません。行政文書でも、役目を終えれば廃棄されたり、上書き材料・包装・反故紙として再利用されたりします。
 また、当時は印刷により大量に複製することができなかったため、人力の写本により1冊ずつ書き直す必要がありました。それが尚更「残す文書を選別」する方向に進み、需要がないと判断された文書については放置され失われる運命にあったといえます。

みちのく
みちのく

昔の文書は「残る方がむしろ例外」だったのです。

いづみ
いづみ

そうなると、今に伝えられる古文書は、偶然と選別をくぐり抜けて生き残った“勝者”と言えるのかも…?

参考 常陸国風土記(茨城県)「風土記とは?」



郡司の解職禁止と例外

パワハラ

5月7日(己巳つちのとみ) 次のように制定した。そもそも郡司の大領(郡司の長官)と少領(郡司の次官)は終身職であり、任期により遷代せんだい(他の官職に異動すること)する官職ではない。しかし、良からぬ国司は心に愛憎があり、致仕ちじ(官職を退くこと)を強制し、不合理な理由をもって解却げきゃく(官位を免ずること)している。今後はこのような事があってはならない。
 ただし、もし年齢が従心じゅうしん(70歳)に及び、気力が尫弱おうじゃく(体力・気力が弱々しいこと)、筋骨が衰耗、神識しんしき(精神と意識)の乱れ、または、久しく重病に罹っており日常の生活が困難、しだいに錯乱した言葉を発して時務(その時々に求められる職務)に堪えられないなどの時に、心からの訴えにより田舎に帰って命を静養することが理にかなう場合は、(国司は)その郡司の詳細な手書しゅしょ(自筆の手紙)を得て、所司(式部省)ちょう(官に上申する文書形式のひとつ)を送付し、処分の返答を待つこと。(解任が認められた場合は)替えの者を補任ぶにん(官職に任命すること)する。

制。夫郡司大少領。以終身爲限。非遷代之任。而不善國司。情有愛憎。以非爲是。強云致仕。奪理解却。自今以後。不得更然。
若齒及縱心。氣力尫弱。筋骨衰耗。神識迷乱。又久沈重病。起居不漸。漸發狂言。無益時務。如此之類。披訴心素。歸田養命。於理合聽。宜具得手書陳牒所司。待報處分。撰擇替補。
いづみ
いづみ

この当時の地方の状況をうかがえる貴重な記事ですね。

みちのく
みちのく

郡司はもともと世襲の終身職で、古くからのその土地の有力者(豪族・国造)がその任に就いていました。郡司の大領、少領の任用について、律令には以下のように規定されています。

選叙令第13【郡司条】

 およそ郡司は、性識清廉せいしきせいれんにして、時務に堪える者を大領、少領として採用せよ。

 律令には採用基準が書かれているだけで、誰が主体になって採用するのかは明らかではありません。ただし、今回の記事を見るに、国司は郡司の任用に大きな影響力があったようです。しかしながら、「所司に牒を送付し、処分の返答を待つこと」とあるように、最終的な決定権は中央にあったことが分かります。
 つまり、今回の中央の国司に対する怒りは、「中央を無視して、国司の勝手な好き嫌いで郡司を辞めさせるようなことをするな」ということです。

みちのく
みちのく

国司が郡司に相応しい人物を中央に推薦し、中央がこれを受けて正式に任命する。という構造になっており、それゆえに、郡司は国司に対して従順にならざるを得ず、反抗的であれば解任を強制されるような実態があったのでしょう。

いづみ
いづみ

終身職という建前がありますから、あくまでも形式は「依願退職」という形を取らされたのでしょうね…闇を感じます。




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