【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅6年⑥ 難波津から大宰府へ…防人大船団と馬を飛ばす専使、疲弊する人馬。

元明天皇紀(708-715)
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
今回面白かったのはラストに取り上げている防人についてのお話です。

いづみ
いづみ

防人大船団…馬を飛ばす専使、なんだかドラマを感じさせますね。
大船団って聞くと壮大ですけど…その船に乗っていた人たちは、きっとみんな家に帰りたかったんですよね、、



和銅6年(癸丑・西暦713年)現代語訳・解説 8月〜10月

遣新羅使の帰国

8月10日(辛丑かのとうし) 従五位下道公首名みちのきみおびとなが新羅から帰国した。

從五位下道公首名至自新羅。

 道公首名(みち の きみ おびとな)は遣新羅使として新羅に渡っていましたが、無事に帰国が果たされました。

和銅5年(712)9月19日(乙酉) 遣新羅使に任命される。
同年10月28日(甲子) 辞見(出発前に天皇に別れの挨拶をする)。

 なお、日本を出発した時期は不明ですが、船を出す季節から考えて、辞見が終わったあとの翌年(和銅6年)3月以降のことと思われます。

大風の被害

8月24日(乙卯きのとう) 大風が吹き、木を根こそぎにし、家屋を吹き飛ばした。

大風。抜木發屋。



任官(国守)

8月26日(丁巳ひのとみ) 正五位下大伴宿禰道足おおとものすくねみちたり弾正尹だんじょうのいん(弾正台の長官。官人の不正を監察する)に、従四位下大石王を摂津大夫せっつのだいぶ(摂津職の長官。摂津国の国政を担当)に、従五位下榎井朝臣広国えのいのあそんひろくにを参河守に、従五位下大神朝臣興志おおみわのあそんおこしを讃岐守に、従五位下道君首名を筑後守に任じた。

以正五位下大伴宿祢道足。爲彈正尹。從四位下大石王爲攝津大夫。從五位下榎井朝臣廣國爲參河守。從五位下大神朝臣興志爲讃岐守。從五位下道君首名爲筑後守。 

弾正尹 大伴道足

 前職は讃岐守。
 大伴道足は、弾正尹以後、民部大輔・権参議・参議・右大弁など、京官・議政官として出世コースを歩むことになります。

摂津大夫 大石王

摂津国(Wikipediaより)

 前職は弾正尹。
 摂津大夫は摂津国の国守に相当する職ですが「摂津守」とは呼ばれません。摂津国には難波宮・難波津があったため、他の国とはやや扱いが違い「摂津職」という特別な官司が置かれました。
 大石王は、国守としては尾張守に任じられた経験があります。

参河守 榎井広国

 榎井広国については情報は少ないですが、この年の正月23日(丁亥ひのといに従七位下から従五位下まで8階昇叙された記録があります。一気に8階もの昇叙は尋常ではないですが、国守の官位相当は従五位下ですので、これは「広国を国守に任命するための措置」だったとも考えられます。

讃岐守 大神興志

 大神興志も榎井広国と同じく情報は少ないですが、広国と同じタイミングで正七位下から従五位下まで6階昇叙されており、やはり「国守に任命するために必要な位階まで上げた」という話かもしれません。

筑後守 道君首名

 道君首名は遣新羅使として8月10日に新羅から平城京に帰還したばかりでしたが、それから16日後のこの日に筑後守に任じられています。したがって、帰還後またすぐに九州へ赴任することになったわけです。もっとも、これは朝廷において「辞令があった日」であり、この日にただちに筑後へ着任したことを意味するものではありません。

いづみ
いづみ

新羅から帰ってきて、またすぐ九州にとんぼ返りですか…大変です。

みちのく
みちのく

遣新羅使として日本に帰国し、その後すぐ筑後守ということは朝廷は非常に首名の能力を買っていたのだと思います。それに首名は大宝律令の撰定メンバーでもあり、知識人でもありました。

⭐️参考 文武天皇4年(700)6月17日(甲午)条 大宝律令の撰者たち

 なお、首名の氏姓である「道君」ですが、「道公」とも書かれることがあり、表記揺れがあり一定しないようです。



去(大伴手拍)

9月17日(丁丑ひのとうし) 造宮卿従四位下大伴宿禰手拍おおとものすくねたうちしゅっ(四位・五位の者が死去すること)た。

造宮卿從四位下大伴宿祢手拍卒。

⭐️大伴手拍 『日本書紀』と『続日本紀』 これまでの記録
持統天皇3年(689)6月2日(癸未) 務大参(従七位上相当) 撰善言司に任じられる。
文武天皇2年(698)11月23日(己卯つちのとう 直広肆(従五位下相当) 大嘗祭の楯と矛を立てる。
慶雲2年(705)5月8日(丁亥ひのとい 正五位下 尾張守に任じられる。
和銅元年(708)3月13日(丙午ひのえうま 正五位上 造宮卿に任じられる。
和銅2年(709)正月9日(丙寅ひのえとら 従四位下を授けられる。

 大伴手拍は、武門系の氏族らしく文武天皇の大嘗祭で門前に楯と矛を立てる役を務めました。元明天皇の時代に入ると、平城京遷都事業の中核を担う造宮卿に任じられましたが、この日死去して平城宮造営の責任者格として在任中に没したものとみられます。

みちのく
みちのく

面白いのは、武門系氏族でありながら持統天皇の時代には撰善言司(先人の善い言葉や教訓を集めて編纂する事業)に任じられているところです。

いづみ
いづみ

文武両道をおさめた人だったのでしょうか?

摂津国河辺郡を割いて能勢郡を設置

9月19日(己卯つちのとう) 摂津職(せっつしき、つのしき)が次のように言上した。「河辺郡玖左佐村くささむらは山川によって遠く隔てられ、道路は険難(道などが非常にけわしく、通過するのに困難なこと)です。これにより、大宝元年(701)に初めて館舎を建て、雑務や公文書の処理は郡の例に準じています。そのため、郡司を置くことを要請します」と。
 これを許可した。今の能勢のせ(大阪府豊能郡能勢町全域・豊能町の大部分)がこれである。

攝津職言。河邊郡玖左佐村。山川遠隔。道路嶮難。由是。大寳元年始建館舍。雜務公文。一准郡例。請置郡司。
許之。今能勢郡是也。

 摂津国河辺郡にある玖左佐村は郡衙(郡役所)から遠く離れ、山や川により往来が困難なために、大宝元年の時に官舎が建てられて、様々な業務が郡司と同じように行われていました。

いづみ
いづみ

つまり、玖左佐村は河辺郡に所属しながら、実態としては独立した郡のような状態だったわけですね。

みちのく
みちのく

大宝元年ですから、12年間の実績もあり改めて郡を設置することを要請したら認められたとのことです。ちなみに「今の」能勢郡とは、『続日本紀』編纂時点での「今」です。

玖左佐村の「村」は何を意味するのか

 律令制の行政単位は「国ー郡ー里」です(のちに「国ー郡ー郷」)。今回の玖左佐村の「」とは一体どういう単位なのでしょうか。

みちのく
みちのく

結論からいうと、当時の「村」は正式な行政単位ではなく、実態としての村落・地域名を指すものと見た方がよいでしょう。「里」は行政や戸籍の上での単位で、「村」は生活や地理上のまとまりに近いものと考えられます。

いづみ
いづみ

その玖左佐村が「里」ではなく「郡」として成立したわけですから、それだけ規模の大きな村落だったんですね…!

久佐々神社

 当地には久佐々神社があり、由緒には和銅6年(713)創建とあります。これが面白いところで、つまり今回の『続日本紀』の記事と、年がぴったり重なっており、郡成立と神社創建には関連性がありそうです。また、神社説明によると、社殿は能勢郡の郡館が設けられたところと説明されています。

『日本書紀』にも見える「来狭狭村」

いづみ
いづみ

「くささ村」、面白い地名です。

みちのく
みちのく

この地名の歴史は古く、『日本書紀』雄略天皇紀にも見え、表記は「来狭狭村」です。記述によると、天皇の使う食器を献上させるため、この村の人が製作に関わったようです。



(出挙の返済を免除)

(続き)

 次のように詔した。「和銅4年(711)より以前の公私の出挙すいこの稲と粟のうち、返済されていないものについては、全て免除とする」と。

。和銅四年已前。公私出擧稻粟未償上者。皆免除之。

出挙とは

 出挙は本来、春に種籾・食糧を貸し、秋の収穫後に利息を付けて返す制度で、政府が主体となったものを公出挙くすいこ、民間主体で行われたものを私出挙しすいこといいました。
 出挙には利息が付き、律令によると利率は公出挙で5割、私出挙では10割を限度とされ、農民には相当重い負担になり得ました。

いづみ
いづみ

10割ということは、貸付けた分を倍にして返せということですよね…?
これは確かに厳しいです。

みちのく
みちのく

だからこその今回の詔だったのでしょう。出挙の建前は、百姓に稲を貸し、農業生産を助ける制度なのですが、実態としてはだんだん、「強制的に貸し付け、利息を取る制度」の性格を帯びていきました。

 なお、和銅4年(711)11月22日(壬辰)条には、私出挙の利息が5割以下に制限されています。

 今回の詔は、出挙の利息分だけでなく、返済そのものを帳消しにするものでかなり思い切った政策といえるでしょう。

 特に重要なのは、対象が 「公私出挙」 となっている点です。公出挙だけなら、国家・官司側の債権放棄、つまり租税・財政上の救済措置に近いですが、ここでは私出挙も含めています。つまり、民間の貸付にまで国家が介入して、和銅4年以前の未返済分を免除させる形になります。

みちのく
みちのく

その背景としては、和銅4年以前の出挙債務が長く残り、返済不能のまま累積していた百姓が多くいた可能性がありますね。

いづみ
いづみ

しかも利息がつく以上、滞納が長引けばそれだけ負担も大きくなったはずですよね。
国家が強制的に膨らみ続ける債務を消滅させたということですか。

大蔵省史生の増員

9月21日(辛巳かのとみ) 大蔵省の史生ししょう(下級書記官)を6名増員した。

加大藏省史生六員。

 史生が全体として増員される流れが強くなっています。

⭐️参考 これまでの史生増員・設置
大宝3年(703)2月17日(癸卯みずのとう 大宰府に10名増員
和銅元年(708)7月7日(丁酉ひのととり 内蔵寮に初めて4名設置
同年8月21日(庚辰かのえたつ 兵部省に6名、左右京職にそれぞれ6名、主計寮に4名増員
和銅5年(712)11月16日(辛巳かのとみ 弁官に6名増員
同年12月15日(己酉つちのととり 東西の市司に初めて2名設置
和銅6年(713)6月21日(癸丑みずのとうし 大膳職に初めて4名設置



制定(諸寺の田野占有を抑制)

冬 10月8日(戊戌つちのえいぬ) 次のように制定した。諸寺は多く田野を占有し、その数には限りがないほどである。よって今後は、きゃく(律令の修正法)に定めた限度を超過している場合は、これを還収(一度他人の手に渡ったものを取りもどすこと)すること。

制。諸寺多占田野。其數無限。宜自今以後。數過格者。皆還收之。

 寺院が「数に限りがない」ほどに広大な「田野」を所有していた実態があったようです。それも格に定める限度を超えているようなものもあったことをうかがわせます。
 「田野」とは単に「田畑」より広く、田地+原野・未開墾地くらいのイメージです。

この年の4月17日(己酉)に、「諸寺の田記に誤りがあったため、これを訂正し、1通を所司に保管し、もう1通を諸国に頒布した」、という記事があるのが重要です。つまり、田記を訂正し、調査や照合を進めていった結果、記録と現状が一致していないことが判明したのかもしれません。

みちのく
みちのく

その調査・照合の流れの中で今回の10月に至り、格の規定よりも超過した分は還収、つまり国家に返すように命じたのでしょう。

 また、2年前の和銅4年(711)12月6日(丙午)条では「親王以下、豪強の家が多く山野を占有し、百姓の生業を妨げている」とあり、こういった土地の占有が皇族や豪族以外に寺院もその傾向があったことが分かります。

板屋司の官位相当を寮に準じることとした

10月10日(庚子かのえね) 板屋司いたやのつかさに所属する官人のちつ(官位相当、俸給)を寮に準じることとした【思うに、法用司を改めて板屋司としたのであろう】。

板屋司班秩。一准寮焉。〈蓋改法用司爲板屋司也。〉

 律令制の官司(役所)は官人の規模や職掌の重要度のほか待遇、国家行政上の位置づけに応じて、省→職→寮→司という階層構造になっています。そのなかで板屋司の官人は「司」でありながらも「寮」クラスの待遇を受けるものと決められました。

いづみ
いづみ

板屋司とはそもそもなんですか?板屋だから木材に関することでしょうか

みちのく
みちのく

研究はされているようですが、詳細は不明とのことです。
また、「法用司」とは和銅2年(709)3月23日(庚辰)に見える「造雑物法用司ぞうぞうもつほうようし」のことを指すと見られ、「造雑物」ですから平城京・平城宮造営に関わる種々の物品を調達・管理・製作などを行った官司とも考えられます。

いづみ
いづみ

となると、それが「板屋司」に改称されたということは、やはり木材を中心に造営に関わるさまざまなものを作っていたということ…なんですかね?

⭐️参考
奈良文化財研究所でも「板屋は板葺きの建物。造雑物法用司の後身とみられる。何らかの造営に関わる官司と考えられるが、詳細は不詳。」という趣旨の説明があり、分かっていません。
平城宮編年史料集成(稿)』9頁、史料25。

みちのく
みちのく

はっきり言えることは、この板屋司は「司」でありながら「寮」に準じるレベルの官司であり、それだけ重要視されていた…ということですね。

 なお、原文の「秩」が「帙」となっているソースがあるようですが、文脈からかなり強く「秩」が正しいと思われます。「帙」は書物などの傷を防止するための巻物を意味する字です。

民部省史生の増員

10月27日(丁巳ひのとみ) 民部省にさらに史生を6名増員した。

更加民部省史生六員。

 大蔵省に続き民部省も史生を増員。

⭐️参考 これまでの史生増員・設置
大宝3年(703)2月17日(癸卯みずのとう 大宰府に10名増員
和銅元年(708)7月7日(丁酉ひのととり 内蔵寮に初めて4名設置
同年8月21日(庚辰かのえたつ 兵部省に6名、左右京職にそれぞれ6名、主計寮に4名増員
和銅5年(712)11月16日(辛巳かのとみ 弁官に6名増員
同年12月15日(己酉つちのととり 東西の市司に初めて2名設置
和銅6年(713)6月21日(癸丑みずのとうし 大膳職に初めて4名設置
同年6年9月21日(辛巳かのとみ 大蔵省に6名増員。

いづみ
いづみ

兵部省・大蔵省・民部省。
「省」レベルだと6名で一定してますね。



(任地に赴く防人の移送について)

10月28日(戊午つちのえうま) 次のように詔した。「防人さきもり(大宰府に所属し、筑紫・壱岐・対馬などの防備にあたった兵士)が任地に赴く時には専使(臨時の任務のために特に派遣する使者。特使)を差し遣わしている。このために駅使(官馬に乗り街道にある駅を使って往来する使者)の往来が非常に繁多となり、人馬ともに疲労している。よって、移動は逓送ていそう(つぎつぎに順送りにすること)により行うようにせよ」と。

。防人赴戍時差專使。由是。驛使繁多。人馬並疲。宜遞送發焉。
いづみ
いづみ

防人は有名ですね!
東国からはるばる九州の大宰府まで旅をして防衛の任務に就いた人です。

みちのく
みちのく

今回の記事は、防人を大宰府まで移送するときの国家側の体制についてですね。

律令規定に見る、防人の移送

 防人の移送の方法については、もともと律令には次のような規定があります。

律令 軍防令第20【衛士向京条】(要約)

 衛士が京に向かうとき、または防人が津(船着場)に到着するまでの間は、国司が自ら部領(人や物を監督しながら輸送すること)すること。津から出発する日には、専使が部領して、大宰府まで引率すること。(以下略)

 「津」とは船着場、港を意味する一般名詞ですが、具体的には摂津国にある「難波津」であると言われています。

疲弊する専使とその乗馬

その上で防人の動きを整理するとこうです。

それぞれの国から国司に率いられ出発 → 難波津からは専使に率いられ船で移動 → 大宰府に到着

いづみ
いづみ

なるほど、船移動ならいくらか楽そうではありますね。
専使」が遣わされるというのも、律令の条文と今回の詔とが一致してます。
でも今回はその運用方法が改正されたということですよね。

みちのく
みちのく

そうですねでは「専使」と言っているように、今回関係するのは、難波津から大宰府までのルートになるということです。それによると、専使(駅使)の往来が頻繁に行われており、人馬ともに疲弊しているということでした。

いづみ
いづみ

……なぜ難波津から船移動なのに、人はともかくとして「馬」が疲れるのですか?

みちのく
みちのく

疑問はもっともで、僕もおかしいなと思ってました。

船移動なのに馬が疲れる謎を推理

 これは推測ですが、船で移動するのは防人だけで、専使は馬での移動だったのではないでしょうか。諸国から難波津に集結した防人の一団は千人規模の大所帯であり、船は船団を組んでの移動だったことが分かっています(天平10年『周防国正税帳』)。

みちのく
みちのく

これだけ大規模な人数を大宰府で迎えるとなると、それなりの事前準備が必要になります。なので、専使だけは馬で先行して大宰府入りし、用意を整えておくことが求められますよね。

いづみ
いづみ

なるほど、いきなり大宰府に千人規模で訪れても向こうが困っちゃいますよね。
それにしても防人ってそんなに大規模なんですね…!

 少数で馬を走らせれば、大規模船団で動きに制約がある防人たちよりも、専使の方が早く大宰府に到着できる可能性は高いです。

専使をやめ、「リレー方式」へ改正

 ですが、専使は「防人たちよりも先に、できるだけ早く大宰府に着かなければならない」わけですから、スケジュール的にも、精神的プレッシャーにおいても人馬ともに負担が大きかったのでしょう。今回の詔で、この方式が見直されることとなったのでした。

 『続日本紀』記事中の「逓送ていそう」とは、かわるがわる、順送りにするという意味で、要するに「リレー方式」のことです。専使が自分で難波津から大宰府まで一貫して走り抜けるのではなく、

人数
出身国
到着予定
引き渡し先
食料・船・宿泊の準備
大宰府への報告事項

などの情報を記した書状を、街道にある駅家うまや国衙こくが郡衙ぐんが(国や郡の政庁)などの担当者がリレーで伝達する方式にしたのではないでしょうか。




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