
こんにちは、いづみです♨️
今回のタイトルは「廃嬪事件」ですか。なんだか不穏な響きです…。

そうですね。後宮に関わる出来事で、『続日本紀』はほとんど何も語っていないのですが、実はなかなか気になる記事です。順番に見ていきましょう。
和銅6年(癸丑・西暦713年)現代語訳・解説 11月〜12月
伊賀国などが言上(大風の被害)

11月1日(辛酉) 伊賀国(三重県西部)、伊勢国(三重県北部及び中部)、尾張国(愛知県西部)、参河国(愛知県東半部)、出羽国(秋田県、山形県)などが次のように言上した。「大風により秋稼(秋に収穫する作物)が損なわれました」と。よって、調と庸を免除した。ただし、すでに輸送した者については、租税の稲をもってこれに充てることとした。
伊賀。伊勢。尾張。參河。出羽等國言。大風傷秋稼。調庸並免。但已輸者。以税給之。
伊賀・伊勢・尾張・参河の4国と出羽国なので、東海地方と東北地方の日本海側に被害があったようです。そこで、これらの国の調・庸を免除することとなりましたが、すでに調・庸の物品を輸送した場合においては、これに代えて稲を支給する救済措置がとられました。
嬪の号を剥奪する
11月5日(乙丑) 石川氏と紀氏の2人の嬪号を貶め、嬪と称することを禁じた。
貶石川紀二嬪号。不得稱嬪。
その2人の名は、紀竈門娘と石川刀子娘です。文武天皇元年(697)8月20日(癸未)条にて文武天皇の「嬪(ひん)」すなわち配偶者に立てられました。
しかし、理由は不明ながら、今になってその地位を取り上げられ「嬪」を称することを禁じられる処分が下されました。

「貶」は「おとしめる」という意味ですから、制裁や排除の意図が感じられますね。
かなり不穏ですが、一体何があったんですか…?

まあ、その前に嬪について確認しておきましょう。
嬪とは
「嬪」は律令が定める、天皇の配偶者としての称号のひとつであり、皇后・妃・夫人に次ぐ地位にありました。
| 序列 | 呼称 | 読み | 定員 | 資格・条件 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|
| ー | 皇后 | こうごう | 規定なし | 規定なし | 律令には規定されていない |
| 1 | 妃 | ひ | 2名 | 四品以上の内親王 | 皇族に限られる |
| 2 | 夫人 | ぶにん | 3名 | 三位以上 | 高位の臣下出身 |
| 3 | 嬪 | ひん | 4名 | 五位以上 | 夫人より下位の臣下出身 |
藤原不比等と県犬養三千代の策謀?

不穏ですね、一体何があったんですか…?(2回目)

史料はこれ以外に何も触れていないので、不明と言わざるを得ないです。
ですが、やや強めに推測することは可能です。まず、文武天皇にはこの2人の嬪の他に藤原宮子という夫人がおり、その間に首皇子(のちの聖武天皇)を産んでいました。
結論を言うと、今回の処分は、宮子と首皇子の地位を盤石に固めるための措置として行われたものだと思います。

紀氏・石川氏の2人の嬪は後宮から排除されたということですか…。宮子さんの地位を固めるため、つまりは藤原氏による行いと言ってもよさそう。これはもうほぼ「政変」ですね…。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
実際、研究においてもそのような推理がされており、辞書類には次のような記述があります。
「夫人藤原宮子娘の産んだ首皇子の立太子を実現するためであったらしい。陰謀の主役は、藤原不比等と県犬養宿禰三千代であったと推定される。」
『国史大辞典』 「石川刀子娘」より
「文武天皇元年(697)紀竈門娘とともに天皇の嬪となるが,和銅6年ふたりともその称号を禁じられた。首皇子の擁立にからむ藤原不比等,県犬養三千代の陰謀によるといわれる。」
『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 「石川刀子娘」より
不比等の妻、県犬養三千代の立場

県犬養三千代は不比等の妻。のちの聖武天皇の皇后(光明皇后)である光明子の母でもあります。さらに、首皇子の育ての母的な立場でもあり、元明天皇の信任を得て後宮においてかなりの影響力があったと見られています。


三千代さんは首皇子の育ての母だった…。
実母の宮子さんはどうしていたのでしょうか?

『続日本紀』の後の記述によると、宮子はこの時精神を病んでいたようです。そのため首皇子とは長い間対面することができない状況でした。
ただし、当時皇子・皇女には乳母が付き、実母以外の女性やその背後の氏族が養育に深く関わる仕組みがあったので、三千代が育ての親であること自体は特異なことではないでしょう。

なるほど…三千代さんにとって首皇子は、自分が養育に関わった皇子であり、将来自分の娘が皇后となって結びつく存在だったわけですね。
夫の不比等と利害を共有していますし、三千代さんも策謀に関わっていた可能性は高そうです。
また、宮子が病んでいて実質的に首皇子の後ろ盾が期待できない状況だったことも、藤原氏の危機感に繋がっていたとも考えられます。
石川刀子娘には文武天皇の2人の皇子がいた?
石川刀子娘には文武天皇との間に「広成」と「広世」という皇子がいたという説があります。『続日本紀』上においてその名が見えるのは、「石川朝臣広成」、「高円朝臣広世」という「臣下」としての名前でした。
つまり、今回の「廃嬪事件」により、2人の皇子は皇族の身分を剥がされ、臣籍に下ったのではないかということです。

その目的はもちろん、首皇子のライバルたる2皇子を皇位継承から排除することです。

なんと…これまで『続日本紀』では一切触れられてこなかったのに、皇子は首皇子以外にもいたんですね。

ただし、その『続日本紀』では、2人が臣籍に下ったという記述は一切ないことに注意が必要です。あくまで文武天皇の皇子として史上に見えるのは、初めから首皇子ただひとりです。

でも石川刀子娘に皇子がいないとしたら、なぜこのような処分が行われたのか?という話になりますよ。私は広成・広世2人の皇子がいた説を支持します。

そこのところ、史書が完全に沈黙していて詳細が一切不明というのがかえって疑惑を深めているんですよね…。
岩永省三氏の「文武大嘗宮論」でも、この説を紹介し、文武天皇の皇子は首皇子のみではなかった可能性があり、石川刀子娘の生んだ広成・広世2皇子が首皇子の強力なライバルとなったために石川刀子娘は嬪号を落とされ、広成・広世は皇籍を剥奪されたとしています。
九州大学総合研究博物館研究報告第23号・文武大嘗宮論・岩永省三
石川氏は蘇我系の名族
石川氏は蘇我氏から出た名族で、持統天皇や元明天皇は蘇我氏を母に持ちます。よって、石川刀子娘には皇子の母として藤原氏に十分対抗し得る「血統的尊貴性」があったとみられます。

元明天皇も母方が蘇我氏ということは、今回の処分は天皇自身にもダメージが行くものだったのではないですか?

その可能性は高いです。にも関わらず実行したということは、ダメージを上回るメリットがあったということだと思います。
おそらく最大のメリットは、文武天皇から首皇子という直系継承路線を確定させることで、長屋王など他の皇族や貴族による皇位の主張を封じることができる点だったと思います。
元明が仮に首皇子の立太子を見送り続けた場合、次の皇位継承をめぐる争いが激化するリスクがありました。立太子は、自身の治世の安定化にも直結するということです。
状況証拠 翌年に首皇子が立太子している
このような中で、首皇子は、翌年の和銅7年(714)6月25日に元服の儀が行われ、同時期に皇太子になったと見られます。当時皇子は14歳でした。

廃嬪事件からおよそ半年後に立太子、確かにタイミング的に怪しい感じがしますね。

石川の嬪と広成・広世2皇子を追い出し、首皇子を皇太子にする万全な状況が完成していたのかもしれません。
この事件の面白いところは「広成・広世皇子説は断定はできない。しかし、そう考えないと廃嬪の理由が説明不能」という不気味さにあると思います。
詔(錦綾の織成技術を褒賞する)

11月16日(丙子) 次のように詔した。「正七位上按作磨心は優れた工人で、非凡な才能を持ち、他の同輩の者よりもひとり抜きん出ている。その織り成す錦と綾はまことに妙麗(優れて美しい)である。よって、磨心の子孫は雑戸(特殊技能をもって国家に奉仕する下層身分)の身分を免じて栢原村主の姓を賜うこととする」と。
詔。正七位上按作磨心。能工異才。獨越衆侶。織成錦綾。實稱妙麗。宜磨心子孫免雜戸。賜姓栢原村主。
按作磨心という人物は、錦・綾を織る技術において卓越した技能を持ち、これを顕彰されて子孫を「雑戸」という下級層に置かれた身分から解放することとされました。
雑戸身分からの解放

雑戸は奴婢などの賎民ではなく、良民です。
ただし、一般の良民よりも下層に置かれていました。その立場は、特定の官司に隷属させられ、世襲的に奉仕を義務づけられる…というものでした。

専門分野の技術者だったんですね。世襲・隷属させるというのも、技術を絶やさないためには合理的だというのは理解できます。
でも、高い技術で国に奉仕したのに身分が低いというのも何だかなあという気がしますね。

確かに現代感覚だと、例えば「うちは代々皇室に調度品を献納している」となれば社会的な評価もかなり高そうですが、律令制の古代においてはその評価は逆だったということですね。そこは現代人の僕らからすると理解しがたいと思います。

「雑戸」という名前からして、なんとなくぞんざいな扱いという印象を受けますね。
按作磨心自身は雑戸身分ではなかった?
ただし、按作磨心は記事上で「正七位上」という、雑戸としては異常に高い位階を授けられているため、少なくともこの詔が下される時点においてはすでに雑戸ではなかった可能性が高いです。しかし「子孫」とあるように、磨心の子孫はなお雑戸身分に置かれることも有り得たため、詔で正式に雑戸から解放するとしたのではないでしょうか。
面白いのは、「按作」という氏の改姓もセットで行われているところです。按作というのはいかにも工業技術者を表したような氏で、これを連想させる氏を改姓することで「雑戸イメージ」を取り払おうとしたようにも見えます。

ちなみに賜姓された「栢原」は、大和国葛上郡柏原郷、現在の奈良県御所市柏原に由来する氏だろうとされています。
※「栢」は「柏」の異体字です。
錦綾技術の振興が流れとして見えてくる
なお、関連として、和銅4年(711)閏6月14日条には、挑文師を諸国に派遣して錦・綾を織る技能を教習させたことが見え、翌和銅5年(712)7月15日条には、伊勢・尾張以下21か国で初めて錦・綾を織らせたことが記されています。
今回の按作磨心の記事も、こうした錦・綾を中心とした織物生産の拡充策と無関係ではないでしょう。元明天皇の和銅年間に、国家が高級織物の生産技術を重視した流れの一環と見ることができます。
祥瑞の献上(嘉蓮、木連理、白雉)
(続き)
大倭国が嘉蓮を、近江国が木連理12株を、但馬国が白雉を献上した。
大倭國獻嘉蓮。近江國獻木連理十二株。但馬國獻白雉。
祥瑞は、天皇の統治が徳にかない、よく治っている時に、天がこれを褒めて地上に下した物・動植物、または自然現象のことをいいます。

要するに「縁起の良い物」または「吉兆」です。「瑞兆」とか「瑞祥」とか言ったりもしますね。
全国ではこれを発見したときに、しばしば朝廷に献上しその治世を讃えました。
嘉蓮とは「双頭蓮」1本の茎からふたつの花が咲いた蓮

「嘉」はめでたいという字義、つまりめでたい蓮です。具体的には双頭蓮という1本の茎からふたつの花が咲く突然変異の蓮のことだと思われます。
『日本書紀』舒明天皇7年(635)7月条には「めでたい蓮が咲いた」とあり、それは「ひとつの茎にふたつの花が咲いた」とまさに双頭蓮そのままの蓮が祥瑞として記述されています。
奈良文化財研究所のブログにおいても、平成26年(2014)夏に双頭蓮が発見されたとし、これを祥瑞のひとつとしています。
⭐️参考 平城宮の祥瑞(なぶんけんブログ | 2015年7月15日)

現代でも発見されると「良いことが起きる兆しとされている」と報道されることもあるみたいです🌟

きれいな蓮の花がひとつおまけについてますからね🪷✨
古代人から見れば、まさに「祥瑞」として朝廷に献上したくなりそう。
木連理12株

木連理とは、根の異なる2本の木の枝が1本につながっているもののことです。根本の違う木が上の方で合体する様が調和の象徴とみられ、それが「天皇と臣下」また「国家と人民」が和合している→徳治が行われている、とされたため祥瑞として扱われました。

これを12株献上ということは、まさかとは思いますがこれを12本伐り倒して献上したなんてことはないですよね…?

さすがにそれは現実的ではないので、「株」というのはおそらく木そのものを指す単位のことで伐り倒したわけではないでしょう。連理木のように献上できないものは律令で次のように規定があります。
律令 儀制令第8【祥瑞条】現代語訳・部分要約
鳥獣の類で、これを生け捕りにした時は、その本性を遂げて山野に放つこと。その他はすべて治部省に送ること。もし捕えることができないもの、及び木連理の類で送ることができないものは、所在の官司がこれを調査のうえ虚偽でなければ、その詳細図を書いてたてまつること。

なるほど、12本の連理木が報告されたら官人が本当かどうか確認して、その上で図にして中央に提出するということですね!
白雉
白い動物はしばしば祥瑞視されました。

とは言っても、もとから白い動物ではなく、普通は白くないのに異常などで「白く変化した」動物です。

アルビノ個体と呼ばれるものですね!
近年の発見例
近年においても白い雉は発見報告の例があります。たとえば、👇
令和2年(2020)6月 岩手県久慈市夏井町にて
デーリー東北の記事で、珍しい白いキジが見つかり、撮影されたと報じられています。撮影者も「白いので最初はニワトリかと思った」と話しており、今回の続日本紀の記事を読むうえでもかなりイメージしやすいです。
久慈で珍しい白いキジ 石崎さん撮影「白いのでニワトリかと思った」(デーリー東北。会員限定記事)
令和3年(2021)3月〜5月ごろ、千葉県船橋市北部にて
船橋北部で白いキジの目撃情報が相次ぎ、バードウォッチャーが集まったという記事があります。最初の目撃は3月24日、農作業中の女性が撮影したものとされます。
別記事でも、地元の人が「完全にニワトリだと思った」が、キジの鳴き声だったので驚いた、という証言が紹介されています。
船橋北部での「白いキジ」目撃情報が話題に、一目見ようとバードウォッチャーが集まる(MyFuna.net)


こ、これはあまりにも🐓ですね…!
ここまでの『続日本紀』に見える、白い動物が献上された前例
| 年月日 | 献上した国・人 | 白い動物 | 原文 |
|---|---|---|---|
| 文武天皇元年(697)9月3日 | 近江国 | 白鼈=白いスッポン | 近江國獻白鼈 |
| 文武天皇元年(697)9月3日 | 丹波国 | 白鹿 | 丹波國獻白鹿 |
| 文武天皇3年(699)3月9日 | 河内国 | 白鳩 | 河内國獻白鳩 |
| 文武天皇4年(700)8月10日 | 長門国 | 白亀 | 長門國獻白龜 |
| 慶雲元年(704)7月3日 | 左京職 | 白燕=白いツバメ | 左京職獻白燕 |
| 慶雲元年(704)7月3日 | 下総国 | 白烏=白いカラス | 下総國獻白烏 |
| 慶雲3年(706)7月28日 | 周防守・引田朝臣秋庭ら | 白鹿 | 周防國守從七位下引田朝臣秋庭等獻白鹿 |
| 和銅5年(712)3月19日 | 美濃国 | 白雁 | 美濃國獻木連理并白鴈 |
| 和銅6年(713)正月4日 | 備前国 | 白鳩 | 備前國獻白鳩 |

鳩、つばめ、カラス、雁、雉…全体として鳥が多いですね。

ちなみに、この後の12月16日(乙巳)条でも再び白雉が献上されています。
太政官処分(諸司の評価について)

(続き)
太政官は次のように処分した。諸司の功過(功労と過失。てがらと、あやまち)についてはすべて弁官に申し送り、太政官から式部省に下すこと。
太政官處分。凡諸司功過者。皆申送弁官。乃官下式部。
各官司の官人の勤務評価は、まずは弁官(太政官に所属し、太政官と八省の間で交わされる文書を連絡する役割を担った)に送り、その後で、弁官が「太政官の名で」式部省に下すことと決められました。なので流れとしては、
諸司→弁官【太政官】→式部省 ということになります。
兵馬司に史生を置く

11月25日(乙酉) 仮に、兵馬司に史生(四等官の下に置かれた書記官)を4名置いた。
權充兵馬司史生四人。
原文に「権」とありますが、これは「仮」という意味で、史生を仮に置いたという意味です。

試みに置いてみたという感じでしょうか。面白いですね

「司」は律令官制の序列では「省→職→寮→司」の一番下で、まだ「司」規模の官司だと史生の設置事例がほとんどないですからね。
前年(和銅5年)12月15日(己酉)に東西の市司に2名を置いたことしか前例にありません。

数ある「司」の中からなぜ兵馬司が選ばれたんですかね?
兵馬司は兵部省の管下で職掌は、牧・兵馬(軍馬)・駅・公私の牛馬の管理をつかさどりました。
つまり、単に「馬を管理する役所」ではなく、
駅馬(駅に置かれた馬)・駅家(街道沿いに置かれた駅)・駅使(駅を利用する使者)・人馬の徴発・国司との連絡を処理する官司だったわけです。

なぜ兵馬司かというと、僕はまず「駅制・馬の管理の事務負担が重くなっていたから」 と見ます。
特に前回でも触れた和銅6年10月28日(戊午)条には、「防人を任地へ送る際に専使を遣わしていたため、駅使が繁多となり、人馬が疲弊した。そこで逓送方式(リレー方式)に改める」
とあります。これはまさに兵馬司の、「駅をつかさどる」役割に直撃します。

なるほど…兵馬司は「司」と言えども中央と地方、あるいは地方同士を結ぶ血管の役割を果たしていたわけですね。律令制は現代国家とも共通点が多く、文書主義ですから駅使の往来の記録、運んだ物の記録、牛馬の頭数管理などその他いろんな場面で史生の働きが期待されますね。

交通インフラそのものですからね。文書国家化が進むと、こういう交通部門が真っ先に詰まるのはかなり納得感があります。
丹取郡を設置
12月2日(辛夘) 新たに陸奥国に丹取郡を設置した。
新建陸奥國丹取郡。
丹取郡は当時の陸奥国の北辺に位置し、その範囲は不明ながら現在の宮城県大崎市あたりに位置するようです。つまり、これを新たに設置したということは、少なくとも、律令国家が郡として影響を及ぼし得る北辺の1つだったということになります。
薨去(石川宮麻呂)
12月6日(乙未) 右大弁従三位石川朝臣宮麻呂が薨去(三位以上の者が亡くなること)した。近江朝(天智天皇の時代)の大臣・大紫(天智朝の冠位で、正三位に相当)連子の第5男である。
右大弁從三位石川朝臣宮麻呂薨。近江朝大臣大紫連子之第五男也。

石川氏…11月5日に石川の嬪が廃されて、今度はその高官が亡くなってしまいました。

しかも従三位という位階からみて、おそらく石川氏の氏上である可能性が高いです。
廃嬪事件と関連はないにしても、これは石川氏にとっては痛手ですね。
『続日本紀』に見える、石川宮麻呂の経歴
| 年月日 | 位階 | 官職・内容 |
|---|---|---|
| 大宝3年(703)10月9日(丁卯) | 正五位下 | 持統上皇の御葬司の次官に任じられる |
| 慶雲2年(705)11月28日(甲辰) | 従四位下 | 大宰大弐に任じられる |
| 和銅元年(708)3月13日(丙午) | ー | 右大弁に任じられる |
| 和銅4年(711)4月7日(壬午) | 正四位下 | 正四位下を授けられる |
| 和銅6年(713)正月23日(丁亥) | 従三位 | 従三位を授けられる |
| 和銅6年(713)12月6日(乙未) | ー | 右大弁在任中に薨去 |
宮麻呂は『日本書紀』には登場しないようです。
中務省に史生を増員
12月11日(庚子) 初めて中務省に史生を10名増員した。
始加中務省史生十員。
中務省は文書行政の中心にあると言ってよい官司です。つまり、最も史生を必要とする官司のひとつと言えます。
職掌としては、主に天皇に関することで、律令によると以下のように規定されています。
- 侍従する(側近として仕える)
- 献替する(善いことを建言し、悪いことを排除する)
- 宮中での礼儀について補佐し導く
- 詔勅の文案を審査して署名する
- 覆奏する(天皇の命令で間違いないか確認のための奏上をいう)
- 宣旨(天皇の命令を下に伝える)
- 天皇からの労問(勅により慰労し、安否を問うこと)を伝える
- 臣下からの上表文を受け付ける
- 国史を監修する
このように、文章の読み書き、それも書式に従って正確に、きれいに書く能力が求められます。
祥瑞の出現(慶雲、白雉)
12月16日(乙巳) 近江国が次のように言上した。「慶雲が現れました」と。
丹波国が白雉を献上した。よって2国に曲赦(特定の地方に限定して罪人を許すこと)した。近江國言。慶雲見。
丹波國獻白雉。仍曲赦二國。
慶雲は大瑞
祥瑞にはランクがあり、大瑞・上瑞・中瑞・下瑞の4段階がありました。慶雲は文武天皇治世の元号にもされたほどにめでたい祥瑞で、大瑞とされました。
慶雲の詳細については👇下の記事をご覧ください👇

宮内省に史生を増員
12月20日(己酉) 宮内省に史生を10名増員した。
始加宮内省史生十員。
こちらも12月11日条の中務省と同様の性質があり、特に史生の働きが求められる官司と言えるでしょう。
和銅6年紀はこれで終了になりますが、見てきたように、史生を初めて設置、または増員したという記事が和銅5年後半から6年にかけて集中しています。
⭐️参考 これまでの史生増員・設置
大宝3年(703)2月17日(癸卯) 大宰府に10名増員
和銅元年(708)7月7日(丁酉) 内蔵寮に初めて4名設置
同年8月21日(庚辰) 兵部省に6名、左右京職にそれぞれ6名、主計寮に4名増員
和銅5年(712)11月16日(辛巳) 弁官に6名増員
同年12月15日(己酉) 東西の市司に初めて2名設置
和銅6年(713)6月21日(癸丑) 大膳職に初めて4名設置
同年9月21日(辛巳) 大蔵省に6名増員。
同年11月25日(乙酉) 兵馬司に4名を仮に設置。
同年12月11日(庚子) 中務省に10名増員。
今回の記事 宮内省に10名増員。
これは、大宝元年(701)時点、つまり大宝律令が施行された時点で想定されていた史生の人員が、現実とはあまりにかけ離れていたことの現れではないでしょうか。

つまり、思っていた以上に事務処理が間に合わなくて現場が回らなくなっているということですね。




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