
こんにちは、みちのくです☀️
今年は秋の空気をはっきり感じることができ、過ごしやすいですね。
僕は10月に和歌山県南西部の海沿いを旅してきました。

和歌山ですか!秋の海沿いの旅、気持ちよさそうですね。
今回はどちらへ行かれたんですか?

今回は白浜を中心に、みなべや千里浜、岩代、藤白まで紀伊の海沿いを巡ってきました。
実はこの一帯、『日本書紀』や『万葉集』などに登場する古代の行幸や有間皇子ゆかりの地が点在しているんです。

1400年近く前の人たちも、同じ海を見ながら温泉に入っていたんでしょうか。
そう思うと、今と昔のつながりを感じますね。
『日本書紀』ではまず有間皇子が「牟婁温湯」を訪れ、その翌年には斉明天皇が同地とみられる「紀温湯」に訪れています。さらにそれからおよそ40年後、
『続日本紀』と『万葉集』では、大宝元年(701)10月8日に文武天皇と持統上皇が並んで「武漏温泉」に行幸をしたことで知られています。

今回は探訪記ということで、行幸の舞台となった地を巡ります。
『日本書紀』斉明天皇と有間皇子
斉明天皇は第37代天皇で、天智天皇や天武天皇の母です。
有間皇子は斉明天皇の甥にあたり、第36代孝徳天皇の子です。
有間皇子「景色を見ただけで病が消え去ってしまったようです」

ーーあのあたりの景色を少し見ただけで、病がひとりでに消え去ってしまったようです。
『日本書紀』より、斉明3年(657)9月のこと。
女帝・斉明天皇は、牟婁温湯での保養を終え飛鳥に戻ってきた有間皇子からこのように聞かされました。喜ばれた天皇は自らもそこに行ってみたいと思われました。
天皇は実際に、その翌年の10月15日から明くる年の正月3日まで、年をまたいで2ヶ月以上も滞在しています。

皇子の言葉をそのまま受け取ると、温泉そのものというより景勝を賞賛した感じですね。私もそれくらいずっと温泉地で羽を伸ばしていたいです(切実)


この地の景勝を称えた有間皇子の名は今でも立派な石碑が建てられ顕彰されています。

1400年も前の人の名前がこんなに大きく伝わってるって改めて考えるとすごいことですよね。
斉明女帝、傷心の旅
愛する孫、建王の死

実は斉明天皇はこの行幸の前に孫を亡くされています。
中大兄皇子の王子で、名前は「建王」。まだ八歳でした。
『書紀』によると、天皇は当時65歳ごろで、
「天皇はかねてより建王の素直な性格を愛しておられたので、ひどく悲しまれて、お嘆きになった」
とし、「自分の死後は、必ず陵に合葬するように」と命じたそうです。

可愛い盛りのお孫さんを亡くされて…その悲しみは想像もつきません。
まして自分の死後に合葬を命じるというのはよほどのことだと思います。

この行幸は結果として、建王を失った斉明天皇にとって傷心を抱えた旅ともなりました。
建王をしのぶ天皇の御歌

天皇は、当地で建王を追憶し、悲痛な思いで次のように歌われました。
一 山越えて 海渡るとも おもしろき 今城の中は 忘らゆましじ
(こうして旅に出て、山を越え海を渡っても、建王と過ごした今城の中のことは忘れられないだろう)二 水門の 潮のくだり 海くだり 後も暗に 置きてか行かむ
(海峡の激しい潮の流れの中を舟はくだっていく。王のことを暗い気持であとに残していくことであろうか)三 愛しき 吾が若き子を 置きてか行かむ
『日本書紀』斉明天皇4年10月15日条より
(かわいい私の幼い子を、あとに残していくことであろうか)

このように歌われ、「この歌を後世に伝え、忘れさせることのないように」と命じられました。今城というのは建王の殯(葬送儀礼として、遺体を一定期間安置すること)が営まれた地であり、その周辺で王と過ごした日々が忘れられないということでしょう。

旅先に来ていても心は未だ大和にあり、思い起こされるのはやはり孫との思い出なのですね…。このご旅行で心が癒されていたら良いのですが。
探訪 行幸芝(斉明天皇の行宮跡)


天皇の行宮(行幸の際に建てられる仮住まいの宮殿)は温泉付近の高台に建てられたとされ、今では「行幸芝」という場所が伝承地となっています。
行幸芝

この行幸芝の高台の下には「崎の湯」があり、白浜町公式は「万葉の時代から続く白浜最古の湯壺」とし、この温泉こそが日本書紀にいう「牟婁温湯」としています。

有間皇子の謀反
謀反が発覚

なんと、天皇の行幸中の11月9日、有間皇子は謀反の疑いにより逮捕され、わざわざ飛鳥から白浜まで護送されてきます。

謀反!?

はい。当時の皇太子・中大兄皇子が自ら尋問を行い、わずか二日後の11月11日には藤白坂という場所で絞首刑が行われました。

あまりに早すぎますね。たった2日間の取調べで処刑とは、初めから処分は決まっていたのではないでしょうか…。この時の斉明天皇の心境もどうだったのか気になりますね…。
有間皇子の護送
探訪:岩代

岩代は和歌山県みなべ町にあり、白浜からは直線距離でおよそ13km北にあります。
岩代の浜松が枝を引き結び ま幸くあらばまたかへりみむ
(岩代の浜にある松の枝と枝を結んでおいて、無事であったなら帰路にまた見ようと思う)
『万葉集』巻2・挽歌 歌番号:141

有間皇子は白浜に護送されている途上、この岩代で歌を詠まれています。

松の枝を結ぶ、これはきっと「まじない」ですよね。
当時そういった習俗があったのでしょうか。それにしても美しい景色です。

はい。「松の枝、草などを結ぶ」行為は、魂を結び込めて生命の安全や幸福を祈る古代の呪術とされています。
デジタル大辞泉 「結ぶ」の意味(コトバンク)には、「誓いや願いを込めて、草や木の枝の端などをつなぎ合わせる。」とあります。

「ま幸くあらば、またかへり見む」…その願いも虚しく、だったわけですね。
この時点ではまだ助かるかもしれないと皇子本人は思っていたのかもしれないです。

無事帰ってきて、この松を見ようという前向きな意思も見て取れます。
またはこの結び松自体が安全祈願として、神の守りを得ようとしたのでしょうね。

探訪:千里浜

記録にあるわけではありませんが、皇子を白浜に護送する一行はおそらく砂浜を歩いたと思います。
僕が歩いた時は潮騒の音だけが響き、風も穏やかでいい天気でした。

旧暦11月ということは、今では12月中旬ごろに当たります。
いくら温暖な地域とはいえ寒さが身にこたえそうです。
千里浜は、後世には熊野参詣の道中にある景勝地として都人に広く知られるようになります。
『伊勢物語』には、紀伊国の千里の浜から趣ある石が都へ運ばれた話があり、『枕草子』でも「千里の浜、広う思ひやらる」と名浜の一つに挙げられています。
さらに『大鏡』には、熊野を巡礼した花山院がこの浜で体調を崩し、浜辺の石を枕として休んだという逸話も残されています。
平安から鎌倉時代になると、紀伊路は熊野参詣の道として多くの上皇・貴族が行き交いました。
処刑場、藤白坂
中大兄皇子からの尋問の末、絞首が決定した有間皇子は、白浜を出発し再び北上。
処刑が行われた藤白坂は、現在の海南市藤白。


紀伊の港が近く、白浜から飛鳥に戻る身からすると、「いよいよ山の向こうは飛鳥」といった位置にありますね。
探訪:有間皇子神社、有間皇子の墓碑


藤白には有間皇子の御霊をお祀りする「有間皇子神社」があり、毎年命日の11月11日には慰霊が行われています。
考察 皇子は本当に謀反を企んでいたのか
有間皇子神社の説明によると、皇子は「悲劇のプリンス」と呼ばれています。
『万葉集』には後世の人物が皇子の死を追悼する歌も残されており、「本当に謀反を企んでいたのか」は実はかなり怪しいところがあります。
『日本書紀』は、皇子は飛鳥宮で蘇我赤兄に謀反をそそのかされ「自分もいよいよ武器をとるべき年齢になった」と話したとしています。
そのため、皇子はまったくの無実ではないようにも思われます。
皇子は先述の通り孝徳天皇の皇子であり、有力な皇位継承資格者でした。
そのため中大兄皇子とは潜在的に競争関係にあったことも、今回の「謀反事件」に関わりがありそうです。
しかし皇子はこのとき19歳になったばかりと伝えられ、一方の中大兄皇子は既に33歳で、しかも皇太子として政権の中枢にいました。
「武器をとるべき年齢になった」とはいえ、19歳はまだ多くの人物を率いるような年齢ではなく、まして当時の皇位継承はおおむね30歳以上の年長であることが求められる不文律があったと研究されています。
実際に『日本書紀』が引く「ある本」には「皇子は19歳になられたばかりで成人に達しておられません」と諌められたとあります。

このことから考えると、有間皇子が皇位を窺っていたというのは真実かどうか怪しいところがあると思います。

蘇我赤兄と中大兄皇子の共謀のように思えてならないですね…。
自分でそそのかしておいて「謀反の心あり」もひどい気がします。
とはいえ、それに乗せられてしまった有間皇子も結果的には謀反につながる意思を持ってしまった。これはどう考えたらいいのでしょうね。

赤兄に煽られて19歳の皇子が罠にはめられたというのがやはり実態に近かったのかもしれませんね。
40年後、文武天皇と持統上皇の行幸

斉明天皇の行幸から43年後、大宝元年(701)には文武天皇が紀伊国へ行幸し、10月8日に「武漏温泉」へ到着しました。『万葉集』からは、祖母の持統上皇も同行していたことが分かります。

持統上皇は斉明天皇の孫、文武天皇はひ孫(3世孫)にあたります。
つまり、同じ皇統の人々が世代を越えて再び紀伊の温泉を訪れたことになります。
大宝の行幸は万葉集に多くの歌が残されており、その中には有間皇子を偲んだ「結び松」が歌われました。
後見むと君が結べる岩代の小松が末をまたも見むかも
(「後でまた見よう」と結んだ君(有間皇子)の岩代の松の枝を、皇子はまた見たのだろうか)
巻第二 挽歌 歌番号:146 柿本人麻呂歌集より

有間皇子の死から40年以上が経っても、その記憶は紀伊の道に残っていたのですね。

おわりに 南紀は都人の「南国」だった
飛鳥、藤原、平城京、そして平安京はいずれも山に囲まれた地です。
そこで暮らしていた「都人」にとって、目の前いっぱいに広がる海、海沿いの複雑な地形、浮かぶ島々、温泉、そして水平線が見えるほどに遠くまで見渡せるという世界はまさに非日常だったでしょう。
これを「南国リゾート」というと現代的な表現になりますが、古代の天皇・皇族や貴族が何度もこの地に足を運んだと思えば、都人にとって特別な保養地・景勝地だったことは間違いないでしょう。
今回実際にその道を歩いてみて、『日本書紀』や『万葉集』に記された海や浜、峠が、単なる地名ではなく具体的な景色として感じられるようになりました。
世は移り遠き昔のことなれど海風鳥の声こそ絶えね

世は移り変わって、遠い昔のことになりましたが、海風の音や鳥の声だけは当時と変わらず絶えることがない…ということですね。これは誰の歌ですか?

これは僕の自作の短歌です。



コメント