
こんにちは、みちのくです☀️
改元が行われましたが、続いて今回は遷都の詔が発せられました。

平城京遷都は710年ですね!
つまりその2年前に宣言が出されたというわけですか。
和銅元年(戊申・西暦708年)現代語訳・解説 2月
催鋳銭司の設置

出典: Wikipedia
2月11日(甲戌) 初めて催鋳銭司を設置し、従五位上多治比真人三宅麻呂をこの任にあたらせた。
始置催鑄錢司。以從五位上多治比眞人三宅麻呂任之。
文武天皇3年(699)12月20日に「初めて鋳銭司を設置した」とあり、今回の催鋳銭司との関係が気になります。「催」とはうながす、急き立てるという意味なので、新銭(つまり「和同開珎」)の鋳造を推進させるための官司だったのでしょう。
しかし、文武3年の鋳銭司と同じく設置された場所については書かれておらず、京内なのか、和銅が見つかった武蔵国なのか、あるいはその他の場所なのかは不明です。

文武3年鋳銭司と同一のものか分かりませんが、和銅2年(709)8月2日条には「河内の鋳銭司」という名称が現れます。これとの関係性について断言はできませんが、河内鋳銭司では実際に銭の鋳造作業を担当し、催鋳銭司では銭鋳造に関わる管理・監督などの業務を担当したのではないでしょうか。
元・東山道巡察使 多治比三宅麻呂
催鋳銭司を任された多治比三宅麻呂は、大宝3年(703)正月2日に東山道巡察使に任じられています。巡察使は臨時に任命されて、諸国を巡り地方政治を調査し、郡司の勤務成績や不正・冤罪などを中央へ報告する役目です。和銅が発見された武蔵国は東山道に属していたので、三宅麻呂が武蔵国を巡察し、現地の行政事情や有力者について知っていた可能性があります。

この人事は、三宅麻呂さんと和銅との関わりがあってのものだったのかもしれませんね。
疫病の発生(讃岐国)

(続き)
讃岐国(香川県)に疫病が発生したため、薬を支給してこれを治療させた。
讃岐國疫。給藥療之。
翌月の3月2日には、山背国、備前国の2国でも疫病が発生しており、感染が拡大しているのかもしれません。

疫病というのは、伝染する病気のことをいうのでしょうか?

はい。「疫」は古くから、多くの人々が同時に病む流行病を表す語でした。
平城京遷都の詔

正月の改元の詔に続き、遷都の詔が発せられました。
前年の慶雲4年(707)2月19日、王臣に遷都のことを会議させており、それからおよそ1年、今回正式に決定したようです。

とうとうあの有名な平城京が出てきましたね!
「なんと(710)きれいな平城京」で覚えました♨️
① 王公・大臣から遷都の言上があった
2月15日(戊寅) 次のように詔した。「朕(天子の一人称)は祇しんで上玄(天)を奉り、宇内(天下、国の内)に君主として臨み、菲薄の徳(徳の乏しいこと)でありながらも紫宮(天子の宮殿)という尊き場所にいます。常に思うには、これを造営する者は労が重い一方、ここに住む者は気ままに安楽である。
遷都の事は、未だ心にこれを行う余裕がありませんでした。王公(皇族、高位の貴族)や大臣は皆言上するに、「(歴代の天皇は)往古から近代に至るまで、日を揆り、星を瞻(仰ぎ見る)て宮室の基を起こし、世を卜し(占う。卜世は君主の世がどれだけ長く続くかを占うこと)、土地を相て帝皇の邑(ここでは天皇の住む都城をいう)を建てられました。定鼎(都を定めること)の基は永く固く、無窮(永遠)の業はここにあります」と。
(王公、大臣たちの)衆議は退けることは難しく、その心は深切(切実)です。則ち、京師は百官の府であり、四海の帰するところであり、どうして朕ただ独りが逸予(気ままに、安楽に)することがあるでしょうか。いやしくも皆に利益があるのなら、これ(遷都すること)を遠ざけるべきではありません。詔曰。朕祗奉上玄。君臨宇内。以菲薄之徳。處紫宮之尊。常以爲。作之者勞。居之者逸。
遷都之事。必(「心」か)未遑也。而王公大臣咸言。往古已降。至于近代。揆日瞻星。起宮室之基。卜世相土。建帝皇之邑。定鼎之基永固。無窮之業斯在。
衆議難忍。詞情深切。然則京師者。百官之府。四海所歸。唯朕一人。豈獨逸豫。苟利於物。其可遠乎。
⭐️ざっくり現代語訳
私は、不徳の身でありながら天を奉じ、国の内に天皇として君臨し、君主の尊い宮殿にいます。しかし、宮殿を造る者は重い負担を課せられる一方で、これに住まう者は負担もなく気ままに安楽です。
遷都については、まだ私の心にこれを行うだけの余裕がありませんでした。しかし、王公や大臣たちは「ご歴代の天皇は古くから近い時代に至るまで、天を見て、王朝の長さを占い、土地の地勢や吉凶を占って帝都を建てられました。都を定めて国の基礎を永く固めることで、天皇の代は永遠となるのです」と言います。
彼らの切実な言上を無視して退けることは難しく、都は多くの官人の集う中央であり、世界の中心であり、私ひとりのためだけのものではありません。仮にも皆に利益があるのなら、遷都のことを遠ざけるべきではありません。
かつては慣例として、天皇の代が替わると新しい宮を別の場所に遷し、その都度宮殿の造営が行われていました。

この時点の都は藤原京ですが、以前には飛鳥の多くの宮が造られており、難波や大津へ国の政治の拠点が遷されることもありました。古くは天皇の代替わりに伴って宮を新しくする「遷宮」が行われていたのです。
ただ、当然ながら、宮殿や都を造営するというのは、民に多大な負担を強いるのことにもなります。

今回は、元明天皇ご自身が宮殿を造る者に負担がのしかかることを気にされており、遷都をするための心理的ハードルがあったことが述べられていますね。
でも、王公・大臣によると、天文・地勢を見て良い土地を定めて天皇の代ごとに宮を建てることが古い慣例、「しきたり」のようなものがあったのでしょうね。

しかし、藤原京・藤原宮がそうであるように、すでに元明天皇を含めて、持統天皇以来3代の天皇がこの地を宮都としてきました。
これには、律令国家の整備に関連があると思われ、官僚制を動かすための官庁や儀式や行事で必要な恒久的な空間・都市が必要になってきたことが大きな理由ではないかと考えられています。

うーん、そうすると「新たな天皇には新たな宮を」、という旧来の考えもありつつ、ひとつの恒久的な宮都を構える必要性も生まれつつあったというわけですね。
これは時代の転換期というやつでしょうか。

そうですね。藤原京は16年間、次の平城京は74年間、次に長岡京という10年の短い都を挟みつつも、平安京に至って完全に定着し、「千年の都」となりました。
② 殷・周の故事
(続き)
昔、殷王は5度都を遷して中興(衰えていたものを再び繁栄させること)の号を受け、周王は3度都を定めて太平の世をつくったと称えられました。よって、長く国を安んずるために都を遷すべきです。
昔殷王五遷。受中興之號。周后三定。致太平之稱。安以遷其久安宅。
中国の古代王朝である殷と周の故事を引き、遷都には多くの前例があり、称えられるような例もあったことを説いています。当時の日本の文物や思想は大陸から由来したものが多く見られ、特に殷・周時代の「名君」「賢主」とされた君主の例を引用し、これを模範として、政策の正当化に利用されることがありました。
③ 平城に新都を建てることを命じる

東寺で開催された唐彩画展より
(続き)
方今(まさに今)、平城の地は四禽に叶い、三山が鎮めを作しています。亀筮(亀甲の占いと筮竹による占い)の相も良く、この地に都を造営することとします。必要な資材は項目を立て、これに従って奏上すること。また、秋の収穫を待ち、その後に路橋を造ることとし、子来(天子を慕って集まりくる民)の義に対して労擾(疲れ、乱れること)をいたすことなく、制度が決められた後になってから新たに負担を加えてはなりません」と。
方今平城之地。四禽叶圖。三山作鎭。龜筮並從。宜建都邑。宜其營構資須隨事條奏。亦待秋収後。令造路橋。子來之義勿致勞擾。制度之宜。令後不加。
⭐️ざっくり現代語訳
まさに今、平城の地は四神の構図に見合い、三山が国の鎮守となるものです。占いの結果も良いことから、この地に都を立てることとします。資材は状況に応じて必要なものを奏上すること。また、秋の収穫を待ってから道路や橋を造ること。天皇を慕う人民の義があるからといって、無用な労役を課すことなく、制度が決まった後になってから新たな負担を加えてはなりません。

ここにおいて、元明天皇は新都に平城の地を選んだことを表明しました。

平城は「なら」と読み、その語源は、土地を平らに「ならす」ことから来ています。平らにならされた土地…要するに盆地であり、今の奈良盆地を指します。
「四禽叶図」とは何か?
四禽とは四神ともいい、東西南北の4方位を守護する神獣です。

「四禽の図」は古代中国の思想に基づく都市の配置理論で、四方にそれぞれの象徴的な神獣がいる理想的な地形を意味します。
- 青龍(東):川などの流水があることが理想(守りと発展)→ 佐保川
- 白虎(西):街道が通っている(商業や交流)→ 河内国や摂津国につながる街道
- 朱雀(南):開けた平地(発展・拡張) → 奈良盆地南部の開けた土地
- 玄武(北):高い山(守り・安定) → 平城山丘陵
これらがすべて整っていることを「四神相応」と言います。


確かに地図を見ると、北には丘陵、南は開けた盆地、東は佐保川、西は河内に通じますね☀️
「三山作鎮」とは?
「三山作鎮」つまり、「三山が鎮めをなす」とは、都の北・東・西の3方位に山があり、これが天然の砦となって都市の守りとなることをいい、四神と並び国家鎮守とされました。

北方は平城山丘陵、東方は若草山と春日山、西方は生駒山地がこれにあたります。
ちなみに藤原京も耳成山・畝傍山・香具山という3つの山、「大和三山」に守られています。

確かに、山に囲まれていると守られている安心感がありますねぇ。
私が山に囲まれたところの出身だからかもですが…。

その気持ちはわかります。
最後まで「民の労苦」を気に掛ける元明天皇
詔では、最初から最後まで、元明天皇が「宮殿を造作する民の労苦」を気にかけていることが強調されています。

詔の冒頭では、「宮殿を造る者は苦労し、そこに住む者は安楽である」と言っていますね。

この問題意識が、具体的な工事命令まで貫かれていることがよく伝わります。
農作業が大詰めを迎える秋の収穫時期に造営工事を行うのを避け、その後に道路や橋を造ることとしています。また、天皇の徳を慕って工事に従事する民を疲れさせることなく、一度決められた制度を後になってから変更し、新たな負担を強いるようなことになってはならないと、民を動かすことについてかなり慎重な姿勢を取っているように見えます。
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