【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲元年①正月 日本流お辞儀、廃止へ

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みちのく
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こんにちは、みちのくです☀️
今回から慶雲元年の記事を取り上げていきます。ただし、大宝から慶雲に改元されるのは5月ですので、それまでは大宝4年ということになります。

いづみ
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改元ですか!何がきっかけだったんでしょう?タイミング的にこれも持統上皇の崩御が関係してるのかも…?いろいろ考察できて楽しいですね。

当サイトでは、『続日本紀』の記載に則って「慶雲元年」としています。




慶雲元年(大宝4年・甲辰・西暦704年)現代語訳・解説 正月

朝賀の儀

春 正月1日(丁亥ひのとい) 天皇は大極殿におわし、朝賀を受けられた。初めて五位以上の者の座にしじ(長椅子)を設けた。

天皇御大極殿受朝。五位已上座始設榻焉。

 前年(大宝3年)は、持統上皇の崩御により朝賀の儀が行われなかったため2年ぶりとなりました。
 この年から、五位以上、すなわち貴族たちは特別待遇として初めて「しじ」という腰掛けの座が設けられました。

いづみ
いづみ

朝賀のイメージって、大極殿の高みに出御した天皇を、臣下が並び立って壇の下から見上げるような光景ですよね。五位以上は儀式の途中で座る場面があったのでしょうか。

みちのく
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儀式の最中に座っているとは考え難いですし、天皇が出御する待機時間に腰掛けるためとかですかね…?

 朝賀の拝礼中はもちろんですが、だからといって天皇が出御するまでの待ち時間に座っていたというわけでもなさそうです。ただし、座が設けられている以上、一連の儀礼のどこかでは、五位以上が榻に着座したと考えるのが自然です。

 朝賀は、単に全員が並んで拝礼して即解散するだけではありません。官人の集合・整列、天皇への拝礼、賀詞、宣命・禄物の授与、退出後の上級官人の着座など、複数の段階から構成されます。後世にまとめられた律令の施行細則である『延喜式』には、群官の朝賀が終わって退出したあと、次侍従以上が着座して禄物を受ける手順が見えます。

いづみ
いづみ

なるほど、そうしたら上級官人、つまり五位以上だけに榻が用意された理由も納得ですね。

みちのく
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単なる特別待遇で、高官だから座ってもいいよというものではなさそうですね。
高官には高官の儀式があり、それを執り行うための座と考えるのが良さそうです。

榻について

榻のイメージ画像。
低く、長めの台だが、その具体的な形状や実際の座り方は明らかでない。

 榻は、精選版 日本国語大辞典(コトバンク)では、今回の慶雲元年正月条を引用して、その意味を「腰かけ、寝台」としていますが、これはつまり、長椅子や寝台のような形をした長く幅の広い座具と考えられます。ただし、具体的な形状や座り方は明らかではありません。




(右大臣任官、昇叙)

大安麻呂『前賢故実』

正月7日(癸巳みずのとみ) みことのりにより、大納言従二位石上いそのかみ朝臣麻呂を右大臣に任じた。
 無位長屋王に正四位上を、無位大市おおち王・手嶋王・気多王・夜須王・倭王・宇大王・成会王に従四位下を授けた。
 従六位上高橋朝臣若麻呂、従六位下若犬養宿禰檳榔いぬかいのすくねあじまさ、正六位上穂積朝臣山守、巨勢こせ朝臣久須比くすひ大神おおみわ朝臣狛麻呂、佐伯宿禰垂麻呂、従六位下阿曇宿禰虫名あずみのすくねむしな、従六位上采女うねめ朝臣枚夫ひらふ、正六位下おお朝臣安麻呂、従六位上阿倍朝臣首名おびとな、従六位下田口朝臣益人、正六位下笠朝臣麻呂、従六位上石上朝臣豊庭、従六位下大伴宿禰道足、曽禰連足人そねのむらじたるひと、正六位上文忌寸尺加、従六位下秦忌寸百足、上村主かみのすぐり大石、米多君北助めたのきみほぞ、王敬受、従六位上多治比真人三宅麻呂、正六位上うてな忌寸八嶋に従五位下を授けた。

以大納言從二位石上朝臣麻呂爲右大臣。
无位長屋王授正四位上。无位大市王。手嶋王。氣多王。夜須王。倭王。宇大王。成會王並授從四位下。
從六位上高橋朝臣若麻呂。從六位下若犬養宿祢檳榔。正六位上穗積朝臣山守。巨勢朝臣久須比。大神朝臣狛麻呂。佐伯宿祢垂麻呂。從六位下阿曇宿祢虫名。從六位上采女朝臣枚夫。正六位下太朝臣安麻呂。從六位上阿倍朝臣首名。從六位下田口朝臣益人。正六位下笠朝臣麻呂。從六位上石上朝臣豊庭。從六位下大伴宿祢道足。曾祢連足人。正六位上文忌寸尺加。從六位下秦忌寸百足。正六位上佐太忌寸老。漆部造道麻呂。上村主大石。米多君北助。王敬受。從六位上多治比眞人三宅麻呂。正六位上臺忌寸八嶋並授從五位下。

石上麻呂、右大臣に

 石上麻呂が新たに右大臣に任じられ、臣下の最高位に立つこととなりました。
 前年の大宝3年(703)閏4月1日に右大臣の阿倍御主人が亡くなって以来、太政官には臨時の筆頭官「知太政官事」である刑部親王がいたものの、大臣が1人もいない状況になっていました。

 この時は、石上麻呂のほか、藤原不比等も大納言でしたが、両者のうち麻呂が右大臣に抜擢されたのは、すでに麻呂は65歳で政界の重鎮となっていたからではないでしょうか。

みちのく
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このとき、不比等は44歳前後です。

 また、従六位上石上豊庭は麻呂の子で、従五位下に昇叙、つまり貴族としてのスタートラインに立ちました。このことは石上氏の栄達と見ることもできます。

長屋王の初見記事、破格の厚遇

 無位からいきなり正四位上に叙されている長屋王は、神亀6年(729)2月、謀反の罪を着せられ滅ぼされる「長屋王の変」で著名な人物で、『続日本紀』においてはこの記事が名前の初見です。
 天武天皇の孫で、父親は壬申の乱で活躍した高市皇子。母親は天智天皇皇女の御名部皇女。

 皇親(皇族)には優遇制度があり、「蔭位」という、親が天皇の近親であることにより特別に高い位階が授けられます。

律令 選叙令第35【蔭皇親条】
 皇親におんするときは、親王の子には従四位下、諸王(4世王まで)の子には従五位下を授ける。5世王には従五位下を授け、その子(6世王)には一等下して授けること。(以下略)

みちのく
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律令によると、親王の子、つまり天皇の孫である2世王には従四位下を授けることとなっていますが、長屋王はこれを3階も上回る正四位上を授けられています。

いづみ
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大市王をはじめとする他の王たちは律令の規定通り、無位から従四位下に叙位されてるところを見るに、長屋王だけ明らかに特別待遇ですね!

 上述の通り、長屋王は天武天皇の孫、高市皇子の子であり、母は天智天皇皇女の御名部皇女でした。この血統の尊貴性と、次に述べる父・高市皇子の政治的地位が、長屋王の待遇の背景として考えられます。

高市皇子の存在

 高市皇子は天武天皇の第1皇子ですが、母は宗形氏という地方豪族出身の女性であり、諸皇子たちと比べて血統的地位は高いものとは言えませんでした。ところが壬申の乱では、大海人皇子(天武天皇)から軍事を委ねられて不破方面の軍を指揮し、天武政権の成立に大きく貢献しました。

 さらに草壁皇子亡き後の持統天皇4年(690)には太政大臣となり、持統朝の政治を実質的に支える皇族筆頭の立場に立ち、『日本書紀』では「後皇子尊のちのみこのみこと」とも呼ばれています。これは高市皇子が、少なくとも通常の皇子とは明らかに異なる、特別な地位にあったことを示します。

みちのく
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後皇子尊」これは、草壁皇子が「皇子尊」と呼ばれていたことに対応するもののようで、高市皇子が草壁亡き後その立場を受け継いだものとする見方もあるようです。
ただし、高市皇子自身は皇太子になることはありませんでした。

いづみ
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長屋王はそんな父の存在を受け継ぎ、さらに母親は天智天皇の皇女。
これはあまりにも強い血統と言えますね。
…だからこそ長屋王の変で消されたのでしょうか

24人が一斉に「五位」に

 六位の官人24人が一斉に従五位下へ昇っています。従五位下以上は朝廷の上級官人層であり、「貴族」と呼ばれる存在です。ここで24人が一度にその入口へ到達したことになります。

いづみ
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従五位下に昇った官人の中で、姓が1人も重複していないのが特徴ですね。
それぞれの氏族の代表者が選ばれて昇格されたということでしょうか。

古来からの豪族層、渡来系など広範に叙位されている

 高橋・穂積・巨勢・大神・佐伯・阿曇・阿倍・大伴・石上・多治比などは律令以前の古来からの有力豪族。一方、文氏・秦氏・佐太氏・上氏・台氏などは、伝承や自称を含むものの渡来系の氏族とされます。

 これは、大宝律令施行直後の朝廷が、旧来の豪族だけでなく、文書行政や専門技術や知識を必要とされる分野を担うために多様な氏族、特に大陸の先進知識を持つ人物を五位層へ取り込んでいたことをうかがわせます。



封戸の追加支給

正月11日(丁酉ひのととり) 二品なが親王舎人とねり親王・穂積親王、三品刑部おさかべ親王封戸ふこを各々200戸加増した。
 三品新田部親王・四品志紀親王に各々100戸を、右大臣従二位石上朝臣麻呂に2,170戸を加増した。
 大納言従二位藤原朝臣不比等に800戸を、その他三位以下五位以上の位階を持つ14人には各々差をつけて封戸を加増した。

二品長親王。舍人親王。穗積親王。三品刑部親王益封各二百戸。
三品新田部親王。四品志紀親王各一百戸。右大臣從二位石上朝臣麻呂二千一百七十戸。
大納言從二位藤原朝臣不比等八百戸。自餘三位已下五位已上十四人各有差。

 封戸とは、食封として与えられた戸(現代における「世帯」に近いもの)のことです。食封とは、親王や三位以上の位階を持つ者、または大臣や大納言など高位の官職に就いている者に一定数の戸を割り当て、その戸から徴収された租の半数、庸・調の全部を個人の給与とすることを許されていました。

みちのく
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租庸調は本来国家に納められるものです。しかし、親王や高位の者は「食封」として、その利益の一部を個人の収入にすることを許されました。

 ただし今回は、四位・五位も封戸の加増にあずかっているため、大宝律令施行後も依然として廃止はされずに食封の制が適用されていたようです。

いづみ
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食封の制度で富める者はますます富むといった感じですね。特に右大臣に昇進した石上麻呂の2,170戸は圧倒的です。

 長親王・舎人親王・穂積親王・刑部親王・新田部親王、これらはすべて天武天皇の皇子たちです。志紀親王はこの中では唯一天智天皇の皇子です。




(封戸の追加支給)

正月16日(壬寅みずのえとら) 御名部みなべ内親王と石川夫人ぶにんみことのりし、封戸を各々100戸加増した。

。御名部内親王。石川夫人益封各一百戸。

御名部内親王

 御名部みなべ内親王は、先の正月7日条でも触れたように、天智天皇の皇女であり、天武天皇の長子・高市皇子の配偶者で、長屋王の母です。姉妹には後に元明天皇として即位する阿閇あえ内親王がいます。

石川夫人

 「石川夫人ぶにん」は天武天皇の配偶者のひとりである、石川大蕤娘いしかわのおおぬのいらつめです。正月11日条で封戸を加増された穂積親王の母でもあります。

いづみ
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文武天皇にも石川氏の奥さんがいましたよね。

みちのく
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はい。文武天皇のキサキは「石川刀子娘とすのいらつめ」ですね。刀子娘は「夫人」ではなく「ひん」なので「石川夫人」と書かれることはありません。まぎらわしいですが…。

 律令によると、天皇の配偶者には序列があり、妃、夫人、嬪が規定されています。

穂積親王の母、長屋王の母

 御名部内親王は高市皇子の妻で長屋王の母、石川夫人は天武天皇の夫人で穂積親王の母です。今回の記事は、直前(正月11日条)に厚遇された長屋王・穂積親王の母親にも経済的優遇を与えたものと見る余地がありそうです。



神郡の郡司に、親族の連任を許す

正月22日(戊申つちのえさる) 伊勢国多気たけ度会わたらいの2郡の少領(郡司の次官)以上には3等以内の親族を連任することを許可した。

伊勢國多氣度會二郡少領已上者。聽連任三等已上親。

連任

連任は、『精選版 日本国語大辞典』(コトバンク)によると、「ある親族内の者などが、二人以上同時に、同種の任務につくこと」とあり、同じ人が連続して同じ任務につくという意味ではありません。

 律令では、同じ官司の主要官人に三等以内の近親者を同時に任用することは原則として禁止されていました。

律令 選叙令第7【同司主典条】要約

 同じ官司の主典以上(長官・次官・第3等官)は、三等以内の親族を任用してはならない。

多気郡と度会郡は「神郡」

 多気郡と度会郡は伊勢神宮を擁する特別な土地として「神郡」と呼ばれました。郡の行政は神宮の影響力が加わり、郡司には神宮経営の関係者が就任。少領とは郡司の次官なので、長官の大領と共に、神宮とその親族による共同統治が公認されたということです。

みちのく
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たとえば、大領と少領を父子・兄弟などの近親者が占めることを、特例として認めたものと理解できます。

 今回と同様の事例は過去にもあります。

『続日本紀』文武天皇2年(698)3月9日(己巳つちのとみ)条

 次のようにみことのりした。「筑前国宗形むなかた郡と出雲国意宇おう郡の郡司ぐんじは、これを任命するときに3等以内の親族の任命を許すこと」

いづみ
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これは宗像大社と出雲大社における同様の事例ですね。



跪伏の礼を停止

正月25日(辛亥かのとい) 初めて百官が行う跪伏きふくの礼を停止した。

始停百官跪伏之礼。

跪伏の礼とは

みちのく
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跪伏の礼は、跪(ひざまず)くお辞儀のことで、跪礼きれいともいいます。

いづみ
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つまり土下座ですか…!?

土下座(匍匐礼。ただし顔面まで地面につけたかは不明)
みちのく
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土下座も確かに跪いていますが、跪礼は顔を地につけることはありません。ただ、今でいう土下座のような方法も存在したようで、そちらは「匍匐ほふく礼」といいます。

 『魏志』倭人伝にも倭人の習俗として「身分の下の者は、高位の者にすれ違ったときは、これを避けて草に入り、ひざまずいたり、うずくまったりする。両手を地について恭しく敬意を示す」とあります。
 このように跪礼は日本古来の礼式であり、古墳時代の埴輪にも跪礼をしていると思われるものが存在します。

6世紀前半のもの。群馬県太田市塚廻り古墳出土。

日本書紀に見える跪伏の礼

『日本書紀』推古天皇12年(604)9月条

 詔により朝廷における拝礼の規定を次のように改めた「宮門を出入りするときは、2つの手をもって地を押し、2つの脚をもって跪き、とじぎみ(敷居)を越えてから立って通ること」と。

みちのく
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聖徳太子の十七条憲法が定められた数ヶ月後のことです。

 しかしその後、天武天皇の時代に入ると、跪礼や匍匐礼は禁止されました。

『日本書紀』天武天皇11年(682)9月2日(壬辰)条

 今後、跪礼や匍匐礼は停止し、難波朝(孝徳天皇の時代)の立礼を用いることとした。

いづみ
いづみ

続日本紀には「初めて」と書いてありますが、実はもっと前からすでに禁止されていたんですね。

みちのく
みちのく

そうですね。ただ、なにぶん魏志倭人伝の時代にすでにあった古来の礼式ですから、禁止しようにも長年染みついた習慣を変えることは難しかったのでしょう。

いづみ
いづみ

実際に今でも、お作法として正座からのお辞儀とか、お客をお出迎えするときに膝をついてお辞儀をしたり、最大級の謝罪をするときには跪いて土下座をする文化(?)がありますし、これは日本特有だそうですね…。
そもそもどうして廃止しようとしたのでしょう。服が汚れるからですか?

みちのく
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儀式や礼式を唐風にならったものだといわれています。
外国使節に跪礼は後進的だと思われることを避けたのでしょう。
服が汚れるというのも、単純ながらもっともな理由だと思います。




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