【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 霊亀元年③ 4月 その労を憐れむなり

元明天皇紀(708-715)
いづみ
いづみ

こんにちは、いづみです♨️
今月の記事は全体的に何だか地味ですね。

みちのく
みちのく

そうですね。特に大きな事件もなく、制度に関わるものが多いです。
でも歴代の天皇陵の話は現代にも繋がるので、奈良時代前期の山陵はどのように管理されていたのかを知る貴重な情報です。

※霊亀への改元はこの年の9月なので、正確には霊亀元年4月は和銅8年です。
しかし、『続日本紀』は改元が行われた年の正月に遡って「元年」とする形式なので、これに従っています。



霊亀元年(乙卯・和銅8年・西暦715年)現代語訳・解説 4月

天皇陵を守る戸を置く

夏 4月9日(庚申かのえさる) 櫛見くしみ山陵【生目入日子伊佐知天皇いくめいりひこいさちのすめらみこと(垂仁天皇)の陵】に陵を守る戸(世帯)として3戸を充てた。
 伏見山陵【穴穂天皇あなほのすめらみこと(安康天皇)の陵】には4戸とした。

櫛見山陵。〈生目入日子伊佐知天皇之陵也。〉充守陵三戸。
伏見山陵。〈穴穗天皇之陵也。〉四戸。

陵(みささぎ)、または山陵は、天皇が葬られた墓です。

いづみ
いづみ

この記事は、過去の天皇の山陵を維持・管理・警備などをする戸を割り当てたということですね。

持統天皇5年 天皇陵に陵戸を置くことを定める

『日本書紀』持統天皇5年(691)10月8日(乙巳)条では、「詔により、先皇の陵戸を置く」とされ、その数は5戸以上と定められたことが見えます。

みちのく
みちのく

陵戸はやはり、天皇陵の維持管理等をする戸ですが、霊亀元年4月に置かれた「陵を守る戸」と完全に同一のものなのかは分かりません。

この持統5年の「5戸以上」という原則から考えると、霊亀元年の戸の設置記事は、

  1. 定められた陵戸5戸だけでは山陵を維持できなかったから増員した。
  2. 垂仁天皇陵と安康天皇陵の陵戸が5戸未満になっていたため、霊亀元年に4戸ないし3戸を置いて補充した。

このいずれかである、と理解するのが自然ではないでしょうか。

垂仁天皇陵

垂仁天皇は第11代天皇。
山陵は奈良市尼辻西町にあり、古墳名は「宝来山古墳」で、宮内庁は「菅原伏見東陵」として治定(確定)しています。

いづみ
いづみ

『続日本紀』は「櫛見山陵」としており今と名前が違いますが、今の垂仁陵と同一のものと見て良いのでしょうか?

みちのく
みちのく

名前に変遷はありますが、垂仁天皇陵については江戸時代の元禄10年調査により所在が明らかにされた「分明陵」であるとされており、『続日本紀』からの連続性が認められそうです。

「大和学」への招待 -郡山の歴史と文化(天理大学)歴史文化学科准教授 天野忠幸(天理大学、PDF)


宝来山古墳は、4世紀後半築造と推定される全長227mの大型前方後円墳

安康天皇陵

みちのく
みちのく

一方で、安康天皇陵は事情が違うようです。

安康天皇は第20代天皇。
現在宮内庁が安康天皇陵としているのは、奈良市宝来4丁目の「菅原伏見西陵」で古墳名は「古城1号墳」。

現在宮内庁が治定している「菅原伏見西陵」は、結論から言うと安康天皇陵ではない可能性が高いです。

『国史大辞典』によれば、安康陵は「後世久しく所在不明となり、文久3年(1863)11月に現在地へ考定された」とあり、さらに近年の調査により、これは古墳ではなく中世の山城である「宝来山城」の跡ではないかとされています。

いづみ
いづみ

天皇陵どころか古墳ですらなかった…?
本当の安康天皇陵はいったいどこに行ってしまったのか…。

陵墓データベース 菅原伏見西陵(國學院大学「古典文化学」事業)


安康天皇陵(古城1号墳)は、方丘(方墳)



長く勤めた直丁を憐れみ、考選の対象とする

4月19日(庚午かのえうま) 直丁じきてい(諸官司で種々の労役に従事する成年男子)のうち20年以上労役に従事した者は、考選(人事考査と昇進)の例に入れることとした。その労を憐れんでことである。

諸直丁經廿年已上者。預考選例。憐其勞也。

直丁

直丁は、諸国から徴発された「仕丁」のうち、中央官司に配属されて雑役を実際に担当する成年男子です。

まず大枠としての仕丁は、後の養老賦役令の第38【仕丁条】に規定があり、
「仕丁は、50戸ごとに2人を出す【そのうちの1人を廝丁していに充てる】」

とあります。
廝丁は、直丁の生活の世話をした者です。

みちのく
みちのく

諸国の一般成人男性から、50世帯ごとに2人を徴発して、1人を「直丁」として中央官司で様々な労働に従事させ、もう1人を「廝丁」として直丁の世話をさせる…という制度になっています。

いづみ
いづみ

仕丁の中には「直丁」と「廝丁」の2種があって、実際に労働に従事するのが直丁なんですね。

実際、養老令の職員令には直丁の定員が規定されており、例えば兵部省は直丁4人、春宮坊は直丁3人というように定められています。

「その労を憐れみ」の重み

20年以上直丁として働いた者は、その労苦を憐れんで考選の対象とすることとなりました。

考選とは、人事考査(考)と、その考査を積み重ねた結果に基づく昇進・任官などの選叙(選)のことです。考では、原則として所属官司の長官が、部下の1年間の勤務成績を評価しました。

いづみ
いづみ

これまで『続日本紀』で説明されるのは結果だけで、理由についてはあまり説明されることはなかったと思います。その中で今回「労を憐れみ」と書いてあるのは他に例が見られないですね。

みちのく
みちのく

地元を20年間も離れて雑用に従事するわけですから、当時の平均寿命などを考えてもかなりの「労苦」であり、『続日本紀』のこの一文にはなんだか重みを感じてしまいますね。

いづみ
いづみ

人生の働き盛りをずっと都の役所の雑役に使われているわけですからね…。さすがにそれはないんじゃない?となったのでしょうか。

なお、前掲の養老賦役令【仕丁条】には仕丁の任期が定められており、原則3年で交替とあります。
ただし霊亀元年時点ではまだ養老令は存在せず大宝令の時代なので、大宝令にはこの規定が存在しなかった可能性があります。



賜姓(阿刀連)

4月22日(癸酉みずのととり) 上村主通かみのすぐりとおるの姓を改めて、阿刀連あとのむらじを賜姓した。

上村主通改賜阿刀連姓。

上村主(かみ の すぐり)の氏姓を持つ人物に阿刀連(あと の むらじ)を賜姓した事例は以前にもあります(慶雲元年(704)2月20日条)。

ただし、上村主という氏族全体が阿刀に改められたというわけではなさそうです。
というのも、その後も『続日本紀』で上村主を称する人物は確認されるため、一部の人物ないし一族に対する賜姓だったのではないでしょうか。



(成選人の叙位)

4月25日(丙子ひのえね) 詔により、成選じょうせん(官人が、勤務評定の結果、叙位の資格があると認められること)の人に叙位を行った。従三位粟田あわた朝臣真人に正三位、正五位下長田王・大神おおみわ朝臣狛麻呂・田口朝臣益人に正五位上、従五位上小治田おはりだ朝臣安麻呂・県犬養あがたいぬかい宿禰筑紫・平群へぐり朝臣安麻呂に正五位下、従五位下三国真人人足・佐味朝臣加作麻呂・阿倍朝臣秋麻呂・坂本朝臣阿曽麻呂・日下部宿禰阿倍老くさかべのすくねあべのおゆ・阿倍朝臣安麻呂に従五位上を授けた。

叙成選人等位。授從三位粟田朝臣眞人正三位。正五位下長田王。大神朝臣狛麻呂。田口朝臣益人並正五位上。從五位上小治田朝臣安麻呂。縣犬養宿祢筑紫。平群朝臣安麻呂並正五位下。從五位下三國眞人人足。佐味朝臣加作麻呂。阿倍朝臣秋麻呂。坂本朝臣阿曾麻呂。日下部宿祢阿倍老。阿倍朝臣安麻呂並從五位上。

成選のための勤務評定は、数年間(勤務形態などにより異なるが、最短でも6年間)の勤務成績により判定され、今回の詔はその結果昇進が決まった「成選人」への叙位となります。

いづみ
いづみ

今回は全員が一階ずつの昇叙となっていますね。

位階についての基礎解説

粟田真人 従三位→正三位

粟田真人『前賢故実』より
いづみ
いづみ

この中で一番の大物と言えばやはり、粟田真人さんでしょう。

大宝律令の編纂に参加し、大宝2年(702)の遣唐使で執節使(大使の上官であり、節刀を持つ最高責任者)を務めた人物。唐側からも人物・教養を高く評価されたことで有名。帰国後は大宰帥などを歴任していいます。

霊亀元年4月時点での真人の官職についてはよく分からず、7年前の和銅元年(708)3月13日の大宰帥任官が最後であり、また、実際に大宰府に赴任しているのかは分かりません。さらに以前の慶雲2年(705)4月22日に中納言に任じられていることも見えますが、霊亀時点で就任中なのかも不明です。

三国人足 従五位下→従五位上

三国真人人足(みくに の まひと ひとたり)は、今回の叙位で唯一「真人」の姓を持つ人物です。
真人姓は「八色の姓」の最上位で、皇族から別れた氏族(皇別氏族)に与えられる姓です。

三国氏は、『日本書紀』継体天皇元年3月14日条で、継体天皇の皇子・椀子皇子を祖に持つとされています。

年月日位階・事項内容
生年不詳三国真人氏の出身。三国氏は『日本書紀』で継体天皇の皇子・椀子皇子の後裔とされ、天武13年(684)に八色の姓の最高位「真人」を賜った氏族。越前国坂井郡を本拠とした。
慶雲2年(705)12月27日正六位上 → 従五位下『続日本紀』で確認できる人足の初見。藤原武智麻呂・藤原房前・多治比県守らとともに従五位下に叙される。これにより貴族身分である五位に入った。
霊亀元年(715)4月25日従五位下 → 従五位上成選人として考選による昇叙を受ける。今回の記事。
養老4年(720)1月11日従五位上 → 正五位下阿倍秋麻呂・佐味加佐麻呂らとともに正五位下へ昇進。『続日本紀』で確認できる人足の最後の記録。
没年不詳『続日本紀』には薨記事が見当たらず、720年以後の官歴も確認できない。

このように、順調に昇進していきますが、どの官職に就いたのかについては一切不明です。

「日下部宿禰阿倍老」は誤植か

従五位下から従五位上に昇叙された「日下部宿禰阿倍老」ですが、名前の構造が特殊になっており、日下部宿禰という氏姓の下に、さらに「阿倍老」(あべ の おゆ)とあるため、この人物は阿倍氏の系譜を汲むものかと思わされます。

みちのく
みちのく

これについては誤植である可能性が高いです。
本来の名前は「日下部宿禰老」であり、「阿倍」は何らかの理由で紛れ込んだ模様です。

これを強く裏づけるのが、同一人物とみられる前後の記録。

『続日本紀』の表記位階など
和銅元年(708)1月11日日下部宿禰老従六位下→従五位下
霊亀元年(715)4月25日日下部宿禰阿倍老(今回の記事)従五位下→従五位上
養老5年(721)1月23日日下部宿禰老正五位上、東宮に侍す
神亀元年(724)2月22日日下部宿禰老正五位上→従四位下

江戸時代後期の『続日本紀』研究書である、『続日本紀考証』でもこの点を「『阿倍』の二字は衍字か」としています。つまり、文中に紛れ込んだ不要な誤字だろうとしています。



次回の記事

更新をお待ちください。



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