
こんにちは、いづみです♨️
真弓さん、信濃から大宰府へ旅ですか

長旅ですね。
今回は慶雲改元前であるため、正しくは大宝4年ですが、当サイトでは、『続日本紀』の記載に則って「慶雲元年」としています。
慶雲元年(大宝4年・甲辰・西暦704年)現代語訳・解説 2月〜4月
日蝕

2月1日(丙辰) 日蝕があった。
日有蝕之。
この時の日蝕は、日本では観測できなかったようです。NASAによると、最大蝕は日本時間で23時50分ころであり、完全に夜でした。したがって今回の日蝕記事は、「暦・天文計算上の日蝕記事」であると見られます。
ちなみに今回の日蝕は「金環皆既日食」という、「ある地点では金環日食に見え、またある地点では皆既日食に見える」という珍しいタイプの日蝕だったようです。

う〜ん、日本の裏側では珍しい天文現象が起きてたんですね。
律令制と絡めた日蝕の解説については↓の記事で取り上げています。

大宮主の勤務形態を長上にする
2月8日(癸亥) 神祇官の大宮主を長上(常勤の者)の例に入れることとした。
神祇官大宮主入長上例。
宮主・大宮主については律令原典には書かれていません。
しかし、10世紀初めに編まれた律令の施行細則『延喜式』によると、朝廷の祭祀や神社行政をつかさどる官司である神祇官において、亀卜(亀の甲羅を焼いて、その亀裂の形で吉凶を占う)などの占いを担当する卜部の中から優秀な技能を持つ者を任用するとあり、これを宮主と呼びました。

となると大宮主は、選ばれた宮主の中でも筆頭の者ということでしょうか?

字面だけを見るとそう思いそうですが、実はそうではないようです。
大宮主は、天皇本人や天皇の宮、すなわち「大宮」に奉仕する宮主であると理解する説が有力です。
賜姓
2月20日(乙亥) 従五位上上村主百済の姓を改めて阿刀連を賜った。
從五位上上村主百濟。改賜阿刀連姓。
名前が読みづらいですが、この人物の位階と名前は分解すると、
従五位上(じゅごいのじょう) … 位階
上(かみ)… 氏(うじ)
村主(すぐり)… 姓(かばね)
百済(くだら)… 名
となります。
原文を「従五位上村主百済」としているソースがありますが、これは「上」の字がひとつ脱落した誤植とみられ、正しくは「従五位上上村主百済」と思われます。
この人物は『日本書紀』にも登場します。持統天皇5年(691)4月1日条には大学博士として学業を奨励するため租税の稲千束を賜り、持統天皇7年(693)3月5日条には「大学博士・勤広弐・上村主百済」と見え、食封30戸を与え儒学を勧めさせたとあります。

つまり、慶雲元年にはすでに長年朝廷の学問・教育に携わった高位の学者だったことになりますね。
「村主」をかばねに持つ氏族は主として大陸からの渡来人(帰化人)の子孫です。しかし、この人物が新たに授かった賜姓の「阿刀連」は「饒速日命」という日本の神を祖とする氏族が従来から名乗っていたものであり、なぜ渡来系を出自とする上村主百済が阿刀氏に改姓されたのか、事情は不明です。
疫病の流行

3月29日(甲寅) 信濃国(長野県)に疫病が流行した。よって薬を支給して治療させた。
信濃國疫。給藥療之。
信濃国は前年の大宝3年(703)3月17日(戊寅)条でも疫病の流行が記録されています。
諸国印の製作
夏 4月9日(甲子) 鍛治司に命じて諸国の国印を鋳造させた。
令鍜冶司鑄諸國印。
印章、特に国印の役割は、
・その文書が国衙(国庁、国の政庁)によって正式に作成されたこと
・国司がその内容に責任を負っていること
・文書が正規の行政手続を経たこと
これらを証明することです。

この点については、現代で使われている印鑑と変わるところはないと言えますね。

日本はハンコ文化の国と言われますけど、役所が公文書に印章を押す制度は、この頃に全国へ整備されていったんですね。
国印の寸法、用途

国印の寸法については律令の公式令第40【天子神璽条】に、寸法と用途が明記されています。
公式令第40【天子神璽条】部分要約
諸国の印の寸法は、一辺二寸とする。京にたてまつる公文書とその控えとする文書、及び調の貢納物に押印すること。
国印の印面は、「一辺二寸」つまり、縦2寸×横2寸の正方形です。
現代の長さに直すと、おおむね1辺約6センチです。
国印の材質

鍛治司ということは、名前からして金属加工が専門の官司ですよね。
原文にも、鋳造を意味する「鋳」の字がありますし、当時のハンコは金属製だったんですね。

そうですね、上に掲げた復元品の越中国国印は、外観から青銅製に見えます。
ただし、奈良時代の官印の実物としては、「山邊郡印」などの銅印が残っており、軍団印の「遠賀団印」も鋳銅製であるものの、国印については現存するものはなく、実物の材質については厳密には不明であり、「金属製」、「銅製」または「青銅製」である可能性が高いと言えるにとどまります。
信濃国の弓を大宰府に充当
4月15日(庚午) 信濃国(長野県)が献上した弓1,400張を大宰府に充てた。
以信濃國獻弓一千四百張充大宰府。
東国では弓の製作が盛んに行われていた
弓が献上されたという記事は、2年前の大宝2年(702)2月22日(己未)条と、同年3月27日(甲午)条にも見られます。
大宝2年2月22日(己未)条
歌斐国(のちの甲斐国、現在の山梨県)が梓弓500張を献上した。これを大宰府に充てることとした。大宝2年3月27日(甲午)条
信濃国が梓弓1,020張を献上した。これを大宰府に支給した。
甲斐・信濃などの東国は、古くから弓の主要な供給地として知られていました。とりわけ信濃は、『万葉集』にも「信濃の真弓」と詠まれ、10世紀初めの『延喜式』でも信濃国から梓弓を進上することが定められています。「真弓」とは弓の美称です。
『万葉集』巻第2・相聞歌
久米禅師、石川郎女を娉ふ(求婚する、恋慕う)時の歌(歌番号:96,97)み薦刈る信濃の真弓我が引かば貴人さびていなと言はむかも 禅師
(私が信濃の真弓を引くようにあなたの手を引けば、貴人ぶって「否」と言うのでしょうね)み薦刈る信濃の真弓引かずして弦はくるわざを知ると言はなくに 郎女
(信濃の真弓を引かずして弦を張る方法などを知っているとは、言わないものですよ)

このように、「信濃」と言えば「真弓」が付いてくるほど弓のイメージが定着していたことが分かります。

現代風にいえば、信濃の梓弓は一種の「地域ブランド」になってたということですね✨
「1,400張」はこれまでで最大の供給量
この信濃国の1,400張の弓は大宰府に充当されたわけですが、この数量はこの時点において、前掲の大宝2年2月の500張と、3月の1,020張と比べ最大の供給量となっています。
大宰府は西海道(九州地方)において、南方の隼人(中央の統治に従わず抵抗した)の征服や半島の新羅、あるいは唐に対する防衛の前線を担っており、その関係から多くの弓を武器として備えておく必要性があったことと思われます。

6月3日(丁巳)条には、大宰府とは書いていないものの、各国軍団の訓練を行うように勅が出されていますから、訓練にも用いられたのかもしれません。

弓の備えと軍事訓練とは、何かを想定してのことだったのでしょうか?

新羅とは使節の交換が継続しており、緊張状態にあったようには思えません。
なので、具体的に想定するとしたら隼人との戦闘ではないでしょうか。
この2年前(大宝2年(702)8月1日)には、薩摩・多褹(種子島)で朝廷の支配に対する抵抗が起きており、同年10月3日には薩摩に柵と兵士を置くこととなりました。さらに和銅6年(713)7月5日条には大隅国設置に絡んだものと見られる隼人との戦闘もあり、隼人とはしばしば緊張状態にあったようです。
飢饉の発生

4月19日(甲戌) 讃岐国(香川県)に飢饉が発生した。よってこれを賑恤(病人や被災者などに物品を支援すること)した。
讃岐國飢。賑恤之。
原因は前年の凶作か
前年大宝3年(703)7月5日条に「年穀が実らない」とあるように、前年は全国的に凶作だったと見られます。旧暦の4月半ばは、今の暦では6月初旬辺りなので収穫前です。

つまり、前年が凶作であったため翌年の収穫待たずに備蓄穀物が尽きてしまい、飢饉に陥ったのではないかと思われます。
苗の損失

4月27日(壬午) 備中(岡山県西部)・備後(広島県東半部)・安芸(広島県西半部)・阿波(徳島県)4国の苗に損失があったため、これらの国に賑恤を加えた。
備中。備後。安藝。阿波四國苗損。並加賑恤。
4月19日の讃岐国の飢饉に続き、これら4カ国には苗の損失が起き、賑恤が行われました。

このところ、災害・飢饉・疫病の記事がつづきますね…。
苗が失われたということは、翌年の食糧も心配です。
次回の記事
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