薨卒記事

元明天皇紀(708-715)

【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅7年⑤5月〜6月 皇太子、元服。

和銅7年(714)5月〜6月の『続日本紀』を現代語訳。大伴安麻呂の薨去と大将軍職、三つ子への給付、若帯日子・国造人・寺人の改姓、職分資人の処遇、旱魃への祈雨、首皇子の元服・立太子、天下の大赦、大津連賜姓まで詳しく解説します。
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【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅7年④4月 小野妹子の孫、薨去する

和銅7年(714)4月条を現代語訳。小野妹子の孫・小野毛野の薨去と経歴、庸綿の納入基準、租を納める倉のサイズ規格化、多褹嶋(種子島)への印鑑支給について、わかりやすく解説します。
元明天皇紀(708-715)

【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅7年①正月 食封の加増。氷高内親王、即位の兆し?

和銅7年(714年)正月の記事を、現代語訳とともに解説。親王らへの食封加増、食封田租の全給開始。即位の準備ではないかとも言われる、突然の氷高内親王(後の元正天皇)への食封1000戸加増などを読み解きます。
元明天皇紀(708-715)

【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅6年① さらに進める蓄銭の道。お米の売買を奨励

【悲報】郡司は和同開珎を6000枚貯めないと出世できないことが決定しました。
元明天皇紀(708-715)

【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅5年⑤ 出羽国と陸奥国、進む東北経営

和銅5年(712)に陸奥国の最上郡・置賜郡が出羽国へ移された理由を、『続日本紀』の原文と現代語訳で解説。奥羽山脈・最上川舟運・行政運営の観点から読み解きます。
元明天皇紀(708-715)

【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅4年③ 大宝律令10周年、叱責の詔勅

701年大宝律令施行から10年。節目として律令制が当初の想定通り正しく機能しているかの決算を行いたかったのか、朝廷は数々の叱責するような詔勅を渙発。
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【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅4年② 雲漢より、恵みの雨降る

祈雨が実ったのか?実りすぎたのか?元明天皇による恵みの雨を慶ぶ詔や、地方で織成(しょくせい)技術の教習を担った挑文師(あやとりのし)の役割をピックアップ。史料の流れを平易にまとめました。
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【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅4年① 駅家の拡充 多胡碑の碑文からよみがえる古代

遷都は完了したが、遷都事業そのものは終わっていない。国の統治は都だけで完結するものではなく全国を掌握する必要がある。それには中央と地方の連絡に便宜を図るため道路網を整備する必要があるのだ。
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【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅3年② 平城京での治世開始

新京での国づくりが始まったものの、さっそく日蝕という天変が連続する。また、雨乞いを必要とするほどの日照りが起きて飢饉が発生するなど出鼻を挫かれたとも言える異変が頻発。
元明天皇紀(708-715)

【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅3年① 平城京へ遷都。飛鳥時代の終焉と奈良時代の始まり

和銅3年(西暦710年)、元明天皇は藤原京からの遷都を実行に移し平城京を新たな都とした。時代区分としては、平安京遷都に始まる794年までの84年間「奈良時代」の始まりである。
元明天皇紀(708-715)

【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅2年④ 平城遷都で動揺する庶民。天皇、再び平城へ

翌年の3月に迫る平城京遷都。おそらく和銅2年末には京の造営は大詰めに入っており、あとはどのタイミングで遷都を決行するかという段階に入っていたのではないだろうか。12月、天皇は藤原京から最後の平城宮行幸をとり行った。
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【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅2年② 新羅使入京、右大臣・藤原不比等と懇談する。

時期不明ながら大宰府に到着していたと思われる新羅使の一行が藤原京に到着する。元明女帝即位後初めての新羅使来朝である。藤原不比等は執政の大臣として史上初めて使者と懇談を行い、2カ国の誼(よしみ)を結ぶのであった。
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【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅元年④ 和同開珎銅銭の流通開始

和銅元年(708)7月〜8月の記事を現代語訳&解説。近江国での銅銭鋳造、和同開珎銅銭の通用開始など、銀銭から銅銭へ移る流れを解説します。
元明天皇紀(708-715)

【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅元年③ 和同開珎の銀銭の流通開始。天皇、高官たちに訓示を下す

和銅改元が行われ、その記念硬貨と言うべき「和同開珎」はこの年の5月と7月に、銀銭と銅銭の鋳造がそれぞれ開始されるのであった。世にいう「皇朝十二銭」の魁である。貨幣そのものはこれより以前にも日本にはあったが、今回の貨幣は本格的な流通を目指していたと思われるが、実態はどうだったのだろう?
元明天皇紀(708-715)

【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅元年③ 和銅の新体制、春の管理職人事。国防の要職に護衛武官を賜う

和銅に改元され、新しい天皇の時代が本格的に始動した。国政を主導する太政官の人事が行われ、元老と呼ばれるにふさわしい69歳の忠臣・石上麻呂が右大臣から昇進し首席として左大臣に任じられる。しかし、当時の政権の中心は麻呂と入れ替わりに右大臣に就任した藤原不比等だった…?
元明天皇紀(708-715)

【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 慶雲4年② 凡為政之道、以礼為先。全ての政道は礼を先とする

君主の代替わりは政変が起きやすいもの。そこで朝廷は新たに授刀舎人寮を設置した。これはのちの近衛府の原型組織であり、天皇や皇太子の側衛を担ったと思われる。そして元明天皇は官吏の綱紀粛正を図って改めて正しい礼法の徹底を命ずる。
巻3(大宝3年正月〜慶雲4年6月)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲3年③ 天皇、詔して王公諸臣に仁・義・礼を説き給う

災害級の天候不順、飢饉、疫病、ついには京・畿内におびただしい数の盗賊が出没するようになり、藤原京は死穢・汚穢の悪臭が漂う都となってしまった。盗賊追捕のさなか、文武天皇は詔により仁義礼を説き、百姓に横暴をはたらく王公諸臣を戒める。
巻3(大宝3年正月〜慶雲4年6月)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲3年①正月〜2月 元日、新羅使をもてなす。忠臣大神高市麻呂の死去

災害や飢饉などの窮状に苦しむ姿を見せまいと、国の威信をかけ外国の使者をもてなす日本。文武天皇は新羅の聖徳王に外交文書として国の平安を祈り、王の消息を尋ねる。春首未だ寒し、国王つつがなしや。
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【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲2年④ 天智天皇の孫、葛野王の卒去と人物伝

天智天皇の孫であり、壬申の乱で敗死した大友皇子の子である葛野王が亡くなった。葛野王は敗者の血統にあり、乱後を生きながらも持統天皇に対しまっとうな皇位継承策を奏上する。持統天皇は葛野王の奏言を喜び、まだ若い孫へ皇位を繋ぐことを決意する。
巻3(大宝3年正月〜慶雲4年6月)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲2年② 飢ゑる国民 ゴーストタウンと化す藤原京

熱心な祈雨も天には通じず、とうとう8月を迎えても雨が降らない慶雲2年。刑部親王という文武天皇の強力なサポーターや大納言という高官が相次いでこの世を去ってしまう。窮まった朝廷はとうとう藤原宮の正門を閉鎖してしまう…。
巻3(大宝3年正月〜慶雲4年6月)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲2年① 約3年ぶりの天皇行幸 朕、民を救わんが為…

水害、日照り、疫病などの諸問題を抱えたまま明けた慶雲2年。民を思い心を痛める文武天皇は「民の苦しみを救わんがため」と有徳の詔を煥発する。果たして天皇の思いは天を感応させるのだろうか?
大宝年間(701-704)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 大宝3年② 右大臣阿部御主人没す。天皇、新羅国王の弔使をねぎらう

大宝3年、宮中がざわつく――右大臣・阿倍御主人が薨去。悲嘆のさなか新羅国王の弔意と使節が到着し、饗応・儀礼の段取りに朝廷は奔走する。続日本紀(文武天皇紀)を現代語で追い、詔や日付の流れまで丁寧に整理。
大宝年間(701-704)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 大宝2年④ 持統上皇最後の行幸…そして崩御

天皇時代から行幸を愛した持統上皇最後の行き先は…やはり吉野?いや、三河国(愛知県東半部)だった!『万葉集』に残る和歌で、行幸に従駕した当時の人々の思いに心を傾けてみよう!!
大宝年間(701-704)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 大宝元年⑦11月〜12月 首皇子誕生

大宝元年(701)11月〜12月の『続日本紀』を現代語訳。天下の大赦、造大幣司の設置、弾正台の畿内巡察、恩赦手続の変更、位袋や官人妻の服色、大伯内親王の薨去、後の聖武天皇となる首皇子の誕生について詳しく解説します。
大宝年間(701-704)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 大宝元年⑥ 天皇・上皇、紀伊国に行幸

大宝元年(701)8月〜10月の『続日本紀』を現代語訳。文武天皇・持統上皇の紀伊国行幸を中心に、大宝令の講義、皇親への禄、高潮・蝗害と救済、高安城の廃止、調忌寸老人への追贈、行幸後の免税まで解説します。