
こんにちは、いづみです♨️
「首」はあの方のご本名…遂にあの方がご誕生されたんですね。

はい、聖武天皇ですね。
大宝元年(辛丑・西暦701年)現代語訳・解説 11月〜12月
大赦を下す
11月4日(壬申) 天下に大赦した。ただし、盗犯者はこの赦に入れなかった。老人、病人及び僧尼に、それぞれ差をつけて物を賜った。
大赦天下。但盜人者不在赦限。老疾及僧尼賜物。各有差。

大赦ですか。なんだか脈絡なく出てきた感じがしますが、何が理由でしょう?
行幸の関係ですかね?

おそらくですが、関連は薄いと思います。
行幸についてはすでに関連した恩典は下されていますし、「曲赦」というある地域に限定した赦が武漏郡に行われています。
首皇子誕生が理由?
今回の大赦は、文武天皇の男子であり、後に聖武天皇として即位することとなる首皇子の誕生が関わっている可能性が高そうです。

首皇子誕生??
そんな記事はこれまで一切なかったと思いますが…

『続日本紀』には具体的な月日は書かれていないのですが、大宝元年中に首皇子が誕生したようなのです。このことは、12月条の次の「この年」条にあります。
皇子誕生を祝しての大赦は後例があり、神亀4年(727)10月5日条では、聖武天皇に皇子が誕生した際、「皇子誕生のため、天下の大辟罪以下を赦した」と、しています。
そのため、首皇子誕生が大赦の理由であることに不自然さはありません。
首皇子が和銅7年の何月何日に生まれたのか『続日本紀』には明らかでないものの、この大赦が皇子誕生を祝してのものであるとすれば、10月中や11月頭に誕生した可能性が高そうです。
造大幣司の任命
11月8日(丙子) 初めて造大幣司を置き、正五位下弥努王・従五位下引田朝臣爾閇を長官とした。
始任造大幣司。以正五位下弥努王。從五位下引田朝臣爾閇爲長官。

造大幣司…貨幣の製造を担当したところでしょうか?

この場合の「幣」は貨幣ではなく、神事に使われる幣帛のことのようです。
幣帛とは、神前に奉る供え物のことです。「大幣」ですから多数の神社に用いられることを以って「大」としているのか、重要な儀式に用いることを以ってなのかはわかりません。
翌大宝2年(702)3月12日条では、天皇自らが斎戒して幣帛を分かち給われたとあるので、これを以って「大幣」としているのかもしれません。ただし、造大幣司自体律令に規定がなく、直接的な言及もないため具体的には不明です。

長官が2人いるというのも変わってますね。
皇族と臣下で1名ずつ代表して役割分担したのかな?
翌年に造大幣司の働きが示される
翌大宝2年2月13日には、大幣を頒布するために諸国の国造が京へ召集され、同年3月12日には畿内および七道の諸社へ幣帛が頒布されました。

そのため、今回の造大幣司の設置は、この全国規模の奉幣を準備するためのものだったと考えられます。

年明け2月からですから、3ヶ月後のことですか。
全国規模の奉幣に備えるにしては急ごしらえの感はありますね…
弾正台に巡察を行わせる
11月9日(丁丑) 弾正台に畿内(ここでは、大倭国・山背国・河内国・摂津国)を巡察させた。
令彈正臺巡察畿内。
弾正台の官位相当は従四位上。職掌は、律令の職員令に以下のように規定されています。
職員令第58【弾正台条】要約
尹(長官)1人。職掌は、風俗を粛清(厳しく取り締まって不正をなくすこと)して、内外(藤原京内と、その外側)の違反を奏上すること。
弼(次官)1人、大忠(三等官)1人。職掌は、内外を巡察して、違反を取り締まること。
弾正台は、社会の風俗を厳しく取り締まるとともに、内外の違反を糾弾して天皇に奏上する監察機関です。ここでいう「風俗」には、官人の綱紀だけでなく、民衆の習俗や「礼」倫理を中心とした社会秩序を取り締まることも含まれていました。
この年の8月7日(丁未)条では、禄を支給される日には、五位以下の官人は大蔵省に集まるようにお達しがあり、これに従わない者は弾正台が取り締まる、とされています。

監察機関、これは腐敗や堕落を防ぐ重要な官司ですね。
「内外」の「内」は藤原京内、「外」は藤原京外の全て、すわなち全国を指すと解されています。つまり弾正台は、理屈上は全国に取り締まりの権限を及ぼせることになります。しかし、実際の運用では、京畿内が中心であり、それ以遠の国々には太政官が臨時に巡察使を派遣していたようです。

また、弾正台は太政官の配下に置かれず、制度上は大臣を含む高官の非違についても直接天皇に奏上できる立場にありました。ただし、独自の逮捕権や裁判権を持っていなかったため、その実効性には限界があったと考えられています。
太政官処分(罪人の釈放について)

11月17日(乙酉) 太政官は次のように処分した。「従来、罪を恩赦する日は、例によれば罪人を引率して朝庭に集めさせていたが、今後はこのようなことがあってはならない。赦令が下ったあとは、所司(囚獄司か)が命じて罪人を釈放させること」と。
太政官處分。承前有恩赦罪之日。例率罪人等。集於朝庭。自今以後。不得更然。赦令已降。令所司放之。
朝庭とは、宮中にあって儀式などの場に使用される空間です。

従来は「恩赦の儀式」があったとみられる
この従来の、罪人を獄から引き出し、引率して宮中に入り、朝庭で赦免を言い渡して釈放するという一連の慣行は、唐の例と類似するとの指摘があります。唐の太極宮では、囚人を朝堂前に集め、皇帝が赦免を宣告した儀礼があったようです。
⭐️参考 古代宮殿建築における前殿と朝堂(PDF)

恩赦は、罪人が天皇の徳によって直接許される様子を儀礼として可視化する効果があったわけですね。
今後は「現場で釈放する」 罪穢の観念が影響か
今後はこのような儀式をやめ、獄に繋がれた囚人は、赦が下れば所轄の官司が釈放することとなりました。
このように決定した理由は、朝庭という国家の清浄な儀式空間に罪人を連れてくることに心理的・宗教的な拒否感があったからではないでしょうか。

罪とは穢れであり、「罪穢」とまとめて表現されることもあります。
これは天皇のおわす清浄な宮廷空間で最も忌避されるものです。
罪人は穢れを身にまとう者。宮中に入れてはならないということです。

なるほど、これは単なる赦免手続きの効率化ではなく、精神・宗教的な面があったわけですか。確かに、「今後はこのようなことがあってはならない」と強めの感情を感じさせる命令からも伝わるものがあります。ただ手順を変えるだけなら「所司で釈放せよ」だけで済みますからね。

実はもっと単純な話で、朝庭は親王をはじめとした皇族や大臣などの高位の貴族も多く参集する重要な場所です。一方で赦のために集められるのは獄に拘束されていた「汚れた囚人たち」です。高貴な者たちからすれば「臭い、見たくもない、朝庭に入れるな」と忌むべき人たちではなかったでしょうか。強い言葉で言えば「目が腐る」ような感覚すらあったと思います。

長い間拘禁されてた人なんて絶対臭いキツそうですもんね…。大赦で大勢の囚人がぞろぞろ清浄な朝庭に集まってきたら「今すぐ止めさせろ!二度と入れるな!」となるのも無理からぬことかと…💦
位袋の見本を賜う
12月10日(戊申) 王卿たちに袋の見本を賜った。
賜諸王卿等袋樣。
「袋」とは「位袋」

袋…何の袋ですか?

ここでいう「袋」とはおそらく、「位袋」のことです。
これは唐の「魚符」という朝廷に出入りする官人の通行手形を入れていた「魚袋」の制度にならったものです。いわば、会社員が会社に出勤するときに使う社員証を入れた「パスケース」のようなものですね。
⭐️参考 精選版 日本国語大辞典 「位袋」の意味・読み(コトバンク)
唐の官人の身分証明書は、官職と氏名が書かれた魚の形をした金属板だったようで、これを入れる袋なので「魚袋」と呼ばれていました。
一方で、日本では「魚袋」とは言わず、律令条文上では単に「袋」としています。「位袋」という名称は、平安時代の律令注釈書『令集解』に見えるもので、「『位袋』を養老6年(722)2月に廃止した」という形で現れます。
位袋の外観
位袋は律令の衣服令第5【朝服条】にその外観について細かな規定があります。
衣服令第5【朝服条】要約
袋の色は、着用する朝服の色に合わせる。
親王は緑・緋色の緒を用い、品位によって結び目の数を変える。
一品:4結び
二品:3結び
三品:2結び
四品:1結び諸王の三位以上は、諸臣と同じ規定に従う。
四位・五位の袋の色は、位階に応じて次のように定める。
正四位:深緋
従四位:深緑
正五位:浅緋
従五位:深縹諸臣は、緒の色によって正位と従位を区別する。
正位:紫の緒
従位:緑の緒結び目の数によって「上」「下」を区別する。
上階:2結び
下階:1結びただし、上下の区別がない一位から三位までは、
一位:3結び
二位:2結び
三位:1結び朝庭で公務を行うときに着用する。

これは…相当細部までこだわった規定ですね…!

位階により、袋の色、袋を提げるための緒の色、緒の結び目の数が細かく規定されており、このことが「位袋」と呼ばれる所以でしょう。

「朝庭で公務を行うときに着用する」とあることからも、宮門通行証を入れるための袋であるだけでなく、公務を行う際の階級章のような役割もあったわけですね。

年明けの朝賀に備えたものか
翌大宝2年正月は、「大宝」という元号を定め、大宝令が施行されてから初となる朝賀が行われます。王卿たちに位袋の見本を賜ったというのは、年明けの朝賀に備え官人たちに「位階を表示する」という位袋の目的や、着用方法などについて理解させるためのものでしょう。
実際、大宝2年正月の朝賀では、親王・大納言以上が初めて礼服を着用し、それ以下の諸王・臣下は朝服を着用したとあります。ただし、位袋は「朝服」に付属する装着品なので、礼服を着用した親王・大納言以上はその対象外です。

「文物の儀、ここに備われり」としたのが、この年の正月でした。3月には「大宝」という元号を建てて、天皇の統治下での時間支配が成立。そして、服制で威儀を整え、満を持して大宝2年の正月を迎えようと…そういうことですね。
養老6年に廃止となる
先にも触れましたが、位袋は約8年後の養老6年に廃止となります。

廃止となった理由は明らかではありませんが、推測するに、位階に合わせた運用が複雑すぎたことが原因だったのではないかと思います。そもそも、階級表示としての機能は朝服も担っており、朝服と位袋は役割が重複しています。

やはり、、先ほどの衣服令に示された位階別の袋の色、緒の色、結び目の数を細かく分けるのはいささかやり過ぎの感がありましたかね?しかも朝服と違って一目で位階が視認できるものとも思えないですし、その点ではあまり実用的とも言えなかったのかも。
もちろん、宮門を通過するための身分証明書は引き続き必要になった思われるので、その点について別の方法で収納、利用されることになったのでしょう。
五位以上官人の妻の服色について

12月15日(癸丑) 次のように制した。「五位以上の官人の妻は、夫と同じ服色(位階に応じて定められている服色をいう)を身につけてはならない。ただし、朝会(諸臣が朝廷で参加する公の儀式)の日は、夫の服色以下の色を身につけることを許す」と。
制。五位以上婦不得著夫服色。但朝會之日聽著得色已下。
官人の序列は大宝令の官位令で「位階」として定められ、正一位を頂点に、少初位下までの全30階がありました。そして、この位階は服色により一目で判別できるよう決められていました。詳細は、大宝元年3月21日(甲午)条において定められており、黒紫を筆頭に赤紫・深緋・浅緋・深緑・浅緑・深縹・浅縹の順となっています。
| 位階 | 服色 |
|---|---|
| 正一位・従一位 | 黒紫 |
| 正二位・従二位・正三位・従三位 | 赤紫 |
| 正四位上・正四位下・従四位上・従四位下 | 深緋(こきあけ) |
| 正五位上・正五位下・従五位上・従五位下 | 浅緋(うすあけ) |
| 正六位上・正六位下・従六位上・従六位下 | 深緑 |
| 正七位上・正七位下・従七位上・従七位下 | 浅緑 |
| 正八位上・正八位下・従八位上・従八位下 | 深縹(こきはなだ) |
| 大初位上・大初位下・少初位上・少初位下 | 浅縹(うすはなだ) |

今回の対象者は「五位以上の官人の妻」ですね。
なので、例えば正五位上の官人の妻は「浅緋」の色の服を身に付けることはできませんでした。ただし、朝会の時には夫と同じ服色以下の色を身に付けることが許されました。
こちらも、年明け朝賀を意識したものか
12月10日に位袋の見本を官人に賜ったことと同じく、こちらも翌月に迫った正月1日の朝賀を強く意識したものかと思われます。「朝会」は、朝廷で行われる儀式全般を指す語であり、朝賀だけをいうものではありませんが、目前に迫った大儀である朝賀に備えるため、官人とその妻たちの服飾を整理しようという動きが感じられます。

大宝服制の本格的なお披露目というわけですね!
薨去(大伯内親王)
12月27日(乙丑) 大伯内親王が薨去した。天武天皇の皇女である。
大伯内親王薨。天武天皇之皇女也。
大伯内親王は天武天皇の皇女であり、母は天智天皇皇女の大田皇女です。同母弟に大津皇子がいます。「大来皇女」と表記される場合もあります。
伊勢の斎王
『日本書紀』によると、天武天皇2年(673)4月、13歳のときに、伊勢神宮の天照大神に奉仕するため、約1年半にわたり泊瀬斎宮(奈良県桜井市初瀬)で潔斎(身を清め穢れを祓い、神に近づくこと)を行い、翌天武3年(674)10月に伊勢に遣わされました。

伊勢の斎宮ですね!

はい、大伯内親王は実在が確実とされる最初の斎王です。
ただし古くは、『日本書紀』崇神天皇6年、「天皇の居所に祀られていた天照大神を『倭の笠縫邑』に皇女の豊鍬入姫命をつけて祀らせた」とあるのが斎王の起源といわれています。
大伯内親王が斎王に定められて13年後の朱鳥元年(686)9月9日、父の天武天皇が崩御し、大伯は斎王を退任することとなります。
さらに、同じ年の10月3日に同母弟の大津皇子が謀反の罪で死を賜ったため、大伯は翌11月に伊勢から飛鳥へ戻っています。

父帝が亡くなり、その直後に弟が謀反の罪で死罪とは…あまりにも激動ですね。
大伯内親王自身も伊勢を去らねばならなくなったと…。

死は神が最も忌み嫌う「穢れ」です。そのため近親者が亡くなると、斎王はその立場を辞さなければならないのです。
なお、この大津皇子の謀反事件は無実であったとする説があります。
大伯内親王の万葉歌
伊勢を去り飛鳥に戻る日、大伯内親王は次の歌を詠みました。
万葉集・巻第2・挽歌(歌番号:163,164)
大津皇子の薨ぜし後に、大伯皇女、伊勢の斎宮より京に上る時に作らす歌二首神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに
(神風が吹くという伊勢の国に居られたら良かったのに、私は何をしに帰ってきたのだろうか。もう君(大津皇子)もいないのに)見まく欲り我がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに
(会いたいと願う君ももういないのに、何をしに来たのだろうか、ただ馬が疲れるだけなのに)

弟を失ったどうしようもない悲しみと、今はもう何も残っていないやるせなさが残りますね…。

飛鳥に戻って14年後、大宝元年の末月に大伯内親王はこの世を去りました。
帰京後の人生をどのように過ごされたのかは記録がなく不明です。
首皇子の誕生

この年 夫人藤原氏(文武天皇夫人の藤原宮子)に皇子(首皇子、のちの聖武天皇)が誕生した。
是年。夫人藤原氏誕皇子也。

ついに文武天皇に皇子が生まれました☀️
首皇子、のちの聖武天皇です。

聖武天皇は全国の国分寺や奈良の東大寺、正倉院宝物などで一般的にも有名ですよね!待ち望まれた皇位継承者の誕生…✨
「この年」なので大宝元年の何月何日に誕生したのかは明らかにされていません。天皇の生まれた月日の記録がないことは不思議です。当時の人は生まれた年はともかくとして、何月何日生まれかというのはあまり重視していなかったのでしょうか?
11月4日(壬申)条の解説で触れたように、11月4日の大赦は首皇子誕生を受けてのものである可能性があり、もしそうであれば皇子誕生は10月中か11月初め頃ではないでしょうか。
聖武天皇系図

ここで聖武天皇の系図を確認しておきましょう。


天武天皇や持統上皇の世代からみると、聖武天皇は3世(曾孫)にあたるんですね。

翌年の12月に持統上皇は崩御します。
想像ですが、自身の血統を受け継ぐ皇位継承者の誕生を見届け、安息のうちに眠ることとなったのではないでしょうか。
後に聖武天皇の皇后となる、光明子(光明皇后、藤原安宿媛)もこの年に誕生しました。光明子もまた、藤原宮子と同じく不比等の女子です。

大宝元年、律令国家体制を整え「文物の儀がここに備わった」日本。後に聖武天皇として、奈良時代を代表する存在となる首皇子の誕生は、新たな時代の始まりとして象徴的な出来事のように思えてきます。
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