
こんにちは、みちのくです☀️
今回は即位直後というだけあって、これに関連した話題が続きます。

即位したての若い天皇の治世ですね✨
文武天皇元年(乙酉・西暦697年)現代語訳・解説 8月〜9月
食封を賜る
8月29日(壬辰) 王親及び五位以上に、各々差をつけて食封を賜った。
賜王親及五位已上食封各有差。
王親とは皇族のことで、大宝律令以後においては、「皇親」と呼称されます。
「五位以上」というのは従五位下よりも上の位階を授けられている者のことで、この位階以上になると「貴族」であるとされます。
食封とは?
食封とは、国家が租庸調として徴収する利益を、個人に対して一定の額を収入として得させる制度です。のちに定められる律令では次のように規定されています。
禄令第19【食封条】要約
食封は、以下のように支給する。
一品に800戸、二品に600戸、三品に400戸、四品に300戸(内親王はこの半数)。
太政大臣に3000戸、左右大臣に2000戸、大納言に800戸。
正一位に300戸、従一位に260戸、正二位に200戸、従二位に170戸、正三位に130戸、従三位に100戸。
五位以上四位以下は、食封の対象としない。

一品〜四品というのは、親王と内親王、つまり天皇の子供たちに授けられる位階です。「戸」は今で言う「世帯」のようなものと考えると良いでしょう。
つまり、一品の親王であれば、与えられた封戸800世帯から得られる収入(租庸調)を自らの物にすることができたのです。これが食封の制度です。

五位以上四位以下は食封の対象外ということはつまり…食封は高位高官・貴い人たちにしかあずかれない制度だったということですね!
「食」は「食い扶持」で、「封」は「領地を与えて領主とする」という意味があります。
もっとも、律令制度においては「領地を与えて私有財産とする」ことを認めるわけではなく、あくまで、本来国家が徴収する財産について、その人の給与にすることを認めるという制度です。

食封を支給された者は、その領内の戸(封戸)から徴収された租の半数と、庸・調として納められた物品の全てを個人の給与にすることが許されました。

いかにも特権的ですねぇ…。
祥瑞の献上(嘉稲、白鼈、白鹿)
9月3日(丙申) 藤原京の人、大神大網造百足の家に嘉稲(めでたい稲)が生えた。
近江国(滋賀県)が白い鼈を献上した。
丹波国(京都府中部、兵庫県北東部)が白鹿を献上した。京人大神大網造百足家生嘉稻。
近江國獻白鼈。
丹波國獻白鹿。
変異などで起きた普通とは違う動植物や自然現象を「祥瑞」または「瑞祥」といいます。天皇が徳をもって良く国を治めると、天がこれを褒めて、そのしるしとして地上に下すと言われています。

でもまだ即位してから1ヶ月しか経ってませんよ?

そうですね。なのでこの祥瑞の献上は、天が文武天皇の即位を祝福するものと見て良いでしょう。
嘉稲(よきいね)

この嘉稲だけは「献上」ではなく、発見者の家に「生」えたとあるのが面白いです。しかも発見者の大神大網造百足(おおみわ の おおよさみ の みやつこ ももたり)は藤原京の住民であり、さらに彼は大和国の大神神社の祭祀に関わる大神氏の同族で、その神社の祭神は国づくりの神「大物主神」です。

象徴的な要素が詰まってますね!
嘉稲は普通のものよりも穂を多くつけた稲と見られ、「嘉禾」と書かれることもあります。
「禾」は穂を垂れる穀物一般を意味する字であり、「嘉稲」はこれを稲と特定するものでしょう。

中国ではかつて「嘉禾」が元号として用いられたこともあるようです。
白鼈(白いすっぽん)

白い亀の他、祥瑞としての亀は多く発見・献上例がありますが、すっぽんは例が少なく『続日本紀』においては他に類例がありません。

そもそも亀とすっぽんってどう違うんです?
すっぽんは亀の仲間ですが、甲羅に大きな違いがあり、亀の甲羅は角質化して硬くなっている一方、すっぽんは角質化せずに、やわらかい皮膚に覆われています。


確かに甲羅が柔らかそうですね。
亀の仲間ですけど、亀甲模様が薄いです。

写真のように、すっぽんはもともと白い体色をしていませんが、突然変異で白くなった個体が「祥瑞」として神からの賜り物とされたのです。
白鹿
先のすっぽんと同じく、白く変異した個体です。

白い鹿は現代でも発見報告があります。
令和7年(2025)10月17日報道により、岩手県気仙郡住田町に白鹿が現れたことが伝えられています。

思った以上に真っ白ですね✨
もともと白くない生き物が白くなるのは、その外見からして神聖さを感じますよね。
古代の人が神からの賜り物と信じたのも納得です。

ニュース記事でも、撮影者が「縁起がいいね」と話しており、今でもそういう意識はちゃんと残っています。
叙位(丸部君手)
9月9日(壬寅) 勤大壱(正六位上相当)丸部臣君手に直広壱(正四位下相当)を賜った。壬申の年(672年に起きた壬申の乱を指す)の功臣である。
賜勤大壹丸部臣君手直廣壹。壬申之功臣也。
壬申の乱での功績
丸部臣君手(わにべ の おみ きみて)は、壬申の乱の経過について記す『日本書紀』天武天皇元年(672)6月22日(壬午)条に「和珥部臣君手」の名で登場します。
大海人皇子(後の天武天皇)が吉野で挙兵を決意したとき、村国連男依・和珥部臣君手・身毛君広の3人に急使を命じて美濃国に向かわせ、不破関を閉鎖する工作を行わせました。
不破関閉鎖に成功し、その後7月2日(辛卯)条では、君手たちは数万規模の軍勢を率いて不破から近江へ出撃し各所で近江朝廷軍を破る戦果を揚げています。

挙兵初期から天武天皇に従って、さらに戦いでも大きな戦果があったんですね。

勤大壱から直広壱への昇進は、大宝律令後の位階で見ると一気に7階もの昇進に相当します。
壬申の乱からすでに25年経ってますが、功績に相応しい昇進だと言えそうです。

不思議なのは、なぜ25年経ってから叙位を行ったのか、ですね。
即位直後の不安定さを意識したか

これはやはり、即位直後というタイミングを意識しているのではないでしょうか。
特に文武天皇は15歳という前例のない若さでの即位となったので、これをよく思わない臣下もいたはずです。

なるほど、そこで積年の功臣、特に壬申の乱で大きな活躍をした人物を褒賞することで「若く新しい天皇が父祖の時代に敬意を示している」意思を発したということですね。
特に重要なのは、文武天皇の即位が、
天武天皇 → 草壁皇子 → 文武天皇
という「天武直系・草壁系」の継承を実現するものだったことです。文武本人は天武天皇の孫ですが、父の草壁皇子は即位前に亡くなっている。だからこそ、文武天皇は「血統としては天武直系だが、実際の皇位継承としては1段飛んでいる」という微妙さも持っていました。

草壁皇子は天武天皇の皇太子となっていましたが、即位する前に亡くなってしまいました。その結果、文武天皇が15歳という若年で即位することとなったのです。
その状況で壬申の乱の功臣を顕彰することは、
- 天武天皇の創業を忘れていない
- 壬申の乱で天武側についた功臣を尊重する
- 文武天皇の皇位は、その天武天皇の延長線上にある
- 若年即位であっても、背後には天武・持統以来の正統性がある
というメッセージになり得ます。
次回予告





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