
こんにちは、いづみです。
今回は新羅からの使者の話がいっぱい出てくるみたいですね。

記録が比較的細かく残されており、新羅との関係を重視していたことの表れではないかと思います。

和銅7年(甲寅・西暦714年)現代語訳・解説 11月〜12月
孝義の人を顕彰し、課役を終身免除する
11月4日(戊子) 孝義(親孝行や、人として正しい行い)を表彰し、大倭国添下郡の人・大倭忌寸果安、添上郡の人・奈良許知麻呂、有智郡の女性・四比信紗たちの課役を終身免ずることとした。
果安は父母を孝養(親に孝行を尽くすこと)し、兄弟と助け合い、もし病気や飢えに苦しむ人がいれば自らの食糧を携え、巡り見て看護し養った。登美・箭田の2郷の百姓は皆恩義を感じ、親のごとく敬愛した。
許知麻呂はその性格が孝順(親に孝行を尽くし、その意に柔順であること)で、人を怨むことがなかった。かつて後母(継母、ままはは。血の繋がりのない母)の讒言(事実を偽って悪口を言うこと)により父の家に入ることを許されなかったが、怨む様子もなく、孝養はますます篤かった。
四比信紗は氏直果安の妻である。舅姑(夫の父母)への孝行により世間に聞こえ、夫の亡き後は長年にわたって貞節を守り、自分の赤子や幼い子だけでなく、妾(正妻以外の女性)の子の合わせて8人を分け隔てなく撫養(かわいがり養うこと)した。舅姑に仕え、婦人の礼を尽くしたことで、郷里の褒め称えるところとなったのである。大倭國添下郡人大倭忌寸果安。添上郡人奈良許知麻呂。有智郡女四比信紗。並終身勿事。旌孝義也。
果安孝養父母。友于兄弟。若有人病飢。自齎私粮。巡加看養。登美箭田二郷百姓。咸感恩義。敬愛如親。
麻呂立性孝順。与人無怨。嘗被後母讒。不得入父家。絶無怨色。孝養弥篤。
信紗氏直果安妻也。事舅姑以孝聞。夫亡之後。積年守志。自提孩穉并妾子惣八人。撫養無別。事舅姑。自竭婦礼。爲郷里之所歎也。

これは「模範的な人民の顕彰」ということで、当時の律令国家が何を望ましいこととして人民に求めていたのかがよくわかる記事ですね。

本当にそうですね。まさに儒教の倫理である「礼」や父母への「孝」の観念の模範として3人の名前が挙げられています。
大倭忌寸果安
父母に孝行を尽くし、兄弟とも助け合い、自分の食糧を持って周囲に飢えや病気で苦しんでいる人がいないかを見て周り、これを養ったとあります。
「大倭忌寸」といえば、この年の2月9日(丁酉)条で大倭神社の祭祀に関わっている氏族であることが明らかになっており、朝廷においてある程度の立ち位置にあったことがうかがえます。

つまり、単なる名もなき村里の百姓というわけではなく、添下郡の有力一族であるらしく、自分の食糧を飢病者に分け与えるだけの経済的余裕が比較的あった人物なのかもしれません。
奈良許知麻呂
父母に孝行を尽くし、親の言うことによく従った。人に恨みを持つことがなく、以前、継母からのいわれのない悪口により、父の家への出入りを禁じられていたが、恨む様子もなくますます孝行に篤かったとあります。

実父はもちろんのこと、血のつながりのない継母に対しても恨みの顔を見せず孝行の姿勢を見せたことが評価されたんですね。

その後関係は改善したのでしょうか。
この人にはぜひ幸せになってほしいですね。
四比信紗
氏直果安(うじ の あたい はたやす)という人物の妻。舅と姑(夫の両親)への孝行で世間からの聞こえが高かった。夫が亡くなったあとも再婚せずに貞節を守り、自分の子だけでなく妾(正妻以外の女性)の子までも、合わせて8人の子供たちをかわいがり、育てた。このことから、舅姑だけでなく婦人としての礼節をも尽くしたとして、多くの村民が褒め称えた、とあります。

原文の「夫亡之後。積年守志。」は「夫の亡き後、長年、志を守る」ということですが、漢文においては「守志」は寡婦が貞節を守る、再婚をしないという意味に結びついて用いられることがあります。

これが女性としての倫理、「婦礼」ということなんですね。
夫が妾を持つことが公に許容されている一方で、妻は再婚しないことが良しとされるのはいかにも当時の時代を感じさせますね。
新羅使の朝貢
11月11日(乙未) 新羅国が重阿飡(阿飡は新羅の官位17等の第6位で、重阿飡は阿飡内での上位等級)金元静たち20人余りを遣わして朝貢した。入朝の儀衛に充てるため、畿内・七道から合わせて騎兵990人を徴発した。
新羅國遣重阿飡金元靜等廿餘人朝貢。差發畿内七道騎兵合九百九十。爲擬入朝儀衛也。
今回の新羅使(新羅から来日してくる使者)は、時期を見るにおそらく正月朝賀に合わせたものでしょう。
朝貢という語がみえる
朝貢は『デジタル大辞泉』(コトバンク)によると「外国の使者などが来朝して朝廷に貢物を差し出すこと」とあり、従属的な関係を意味する語です。

「朝」の字にはもともと「君主にお目見えし、拝する」という意味があります。

新羅は日本に従属した国ということでしょうか。
日本側が新羅に従属的な関係を求めていたことは正しいでしょう。
「朝貢」という語は『続日本紀』内ではこれが初見であり、以前の新羅使でも「調物を献上」、方物(地方の産物)を「献上」などとあり、また新羅使を朝賀に参加させて臣下の礼をとらせるなど、自国の下位に置こうとする意思が明確に見て取れます。

新羅側も、主に唐や北方の渤海国などに対して国防の都合上、少なくとも外形上はこの関係を許容していたものと思います。
しかしその後、新羅が唐との関係を安定させると、日本に対して対等な関係を強く主張するようになります。天平7年(735)には新羅使が自国を「王城国」と称したことを日本側が不遜とみなして追い返し、のちには両国の関係が悪化しました。この展開は、日本の求めた上下関係が新羅側に恒常的に承認されていたわけではないことを示しています。

少なくとも、和銅の時代においては、新羅自身が「朝貢」の姿勢を受け入れてまで日本と友好的な関係を保つことが最も「メリットがあった」ということなんですね。
具体的な規模が初めて示される
ここでの騎兵は「入朝の儀衛に充てるため」とあるように、新羅使が朝廷に参上する際に配置される、儀礼用の警護・儀仗部隊です。単に道中の護衛をするためだけとは限りません。
実際、徴集されたのは総数990人とあるところ、12月26日条では三崎(平城京南端の羅城門の南にある、佐保川にかかる橋とされる)で新羅使を迎えたのは170人の騎兵であることが示されています。

騎兵による迎接の例については、慶雲2年(705)10月の騎兵大将軍任官からも前例があることが分かります。しかし、990人という具体的な規模が示されたのは『日本書紀』と『続日本紀』に見える新羅使の例では今回が初めてです。
また、新羅使の人数としては、『日本書紀』には大化5年(649)の「金多遂の従者37人」、天武天皇2年(673)の「金承元ら中客以上27人」など先例がすでにあるものの、今回の和銅7年の「20人余」という人数については『続日本紀』においては初見であり、規模が示された貴重な例と言えます。

騎兵990人とは、規模感としてはどうなのでしょう?20人余りの新羅使を迎え、護衛するにしてはかなり大袈裟なような気がしますが…。

確かに大袈裟であると言えます。20人余りということは、新羅使1人あたりに50名以上の騎兵がつく計算になります。これについては、「あえて」演出して大袈裟にしたものと思います。
誰に見せるための990人だったのか
第1には新羅使です。
先述の通り、日本側は新羅使を「朝貢」に来た蕃国使として扱っています。これを示すため、日本は全国から集めた騎兵990人という圧倒的な規模を見せることにより、天皇を頂点とする国家の威勢を演出したのでしょう。

警護というより、威嚇・牽制込みの歓迎パレードですね。
そして、見物人は新羅使だけではありません。翌年の元日条によると、朝賀には朝廷の官人や新羅使のほか、
- 皇太子が初めて参列
- 陸奥・出羽の蝦夷
- 奄美・夜久など南嶋の人々
が集まりました。さらに同条では、騎兵と鼓吹を朱雀門に並べたとあり、新羅使だけでなく、皇太子自身、蝦夷・南嶋人にも、新しい平城京と律令国家の威容を見せる舞台だったと考えられます。

なので、990人という規模感は儀容の演出として必要な人数だったと言えます。
5年半ぶりの新羅使
今回の新羅使は、和銅2年(709)3月14日に金信福らを迎えて以来、およそ5年半ぶりとなります。

これまでの『続日本紀』に記録されている新羅使の記録を表にまとめました。
| 回数 | 最初の記事 | 主な使節 | 目的・性格 | 主な経過 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 文武元年(697)10月28日 | 一吉飡・金弼徳、副使の奈麻・金任想ら | 朝賀参列など | 10月に来朝。翌698年正月の朝賀に参列し、1月3日に調物を献上。2月3日に帰国。 |
| 2 | 文武4年(700)11月8日 | 薩飡・金所毛 | 喪を告げる使者 | 新羅王の母である神穆王后の死を告げた。金所毛は翌年1月14日に日本で死去し、絁・綿・布が贈られた。 |
| 3 | 大宝3年(703)1月9日 | 薩飡・金福護、級飡・金孝元ら | 喪を告げる使者 | 新羅王(孝昭王)の死を告げた。閏4月に難波館で饗宴を受け、5月2日に帰国。 |
| 4 | 慶雲2年(705)10月30日 | 一吉飡・金儒吉、薩飡・金今古ら | 朝賀参列など | 12月27日に入京。翌706年元日の朝賀に参列し、1月4日に調物を献上、7日に饗宴を受け、12日に帰国。 |
| 5 | 和銅2年(709)3月15日 | 金信福ら | 方物献上 | 海路・陸路の二道から召し寄せられた。5月20日に方物を献上し、27日に朝堂で饗宴を受けた。藤原不比等とも会見し、6月2日に帰国。 |
| 6 | 和銅7年(714)11月11日 | 重阿飡・金元静ら20人余り | 朝貢 | 今回の記事。畿内・七道から騎兵990人を徴発。11月15日に筑紫へ迎使を派遣し、12月26日に入京。翌年正月の儀礼・饗宴・大射に参加し、3月23日に帰国した。 |

このように、数年間隔ごとに新羅使が来日しています。ただし、日本から新羅への使い(遣新羅使)もありますから、交流自体はもっと頻繁に行われています。
新羅使を筑紫で迎える

11月15日(己亥) 使いを遣わし、新羅使を筑紫で迎えさせた。
遣使迎新羅使於筑紫。
筑紫には外国使節を受け入れる客館があり「筑紫館」(つくしのむろつみ)といい、後には「鴻臚館」(こうろかん)と呼ばれました。
筑紫で新羅使を迎えた例として記録に残っているのは、文武天皇元年(697)11月11日の事例があります。
将軍、副将軍の任命
11月26日(庚戌) 従四位下大伴宿禰旅人を左将軍に、従五位上多治比真人広成と従五位下久米朝臣麻呂を副将軍に任じた。また、従四位下石上朝臣豊庭を右将軍に、従五位上上毛野朝臣広人と従五位下粟田朝臣人を副将軍に任じた。
從四位下大伴宿祢旅人爲左將軍。從五位上多治比眞人廣成。從五位下久米朝臣麻呂爲副將軍。從四位下石上朝臣豊庭爲右將軍。從五位上上毛野朝臣廣人。從五位下粟田朝臣人爲副將軍。
新羅使迎接のための臨時編成

この将軍任命は、11月11日に徴発された騎兵990人を統率するための臨時的な任命とみてよいでしょう。
この編成を図にすると、
| 軍 | 将軍 | 副将軍 |
|---|---|---|
| 左軍 | 従四位下・大伴旅人 | 従五位上・多治比広成、従五位下久米麻呂 |
| 右軍 | 従四位下・石上豊庭 | 従五位上・上毛野広人、従五位下・粟田人 |
大伴旅人、石上豊庭、粟田人は「将軍」経験者
大伴旅人は、和銅3年(710)正月1日の朝賀でも左将軍となり、朱雀路に騎兵を並べ、隼人・蝦夷を率いて進ませています。今回の任命は、その経験を買われたものと考えられます。
石上豊庭と粟田人も、和銅4年(711)9月4日に平城宮造営の役民が多数逃亡した際、将軍として兵庫の警備を命じられた人物です(粟田人は「粟田必登」として見える)。

単に位階の高い官人ではなく、騎兵や警備の指揮経験を持つ者が選ばれたみたいですね✨
また、大伴氏・石上氏・久米氏はいずれも伝統的に軍事との関係が深い氏族です。
南嶋の民が率いられ来朝する
12月5日(戊午) 少初位下太朝臣遠建治たちが奄美(奄美大島)・信覚(通説では石垣島とされる)・球美(久米島)の島民52人を率いて南嶋から帰朝した。
少初位下太朝臣遠建治等率南嶋奄美信覺及球美等嶋人五十二人。至自南嶋。

これは、信覚と球美の人々が史書に現れる最初の記事とされています。

奄美の人々は以前にも来朝していましたね!

はい。文武天皇3年(699)7月19日条にて、奄美の人々は以前にも来朝していますが、今回の和銅7年記事によって朝廷が認識する「南嶋」の範囲が、久米島、さらに通説に従えば石垣島にまで及んだことになります。


本土はもちろん沖縄本島からも遠く離れ、台湾に近い石垣島までを当時の朝廷が認識していたことは驚きですね。
遠建治らは翌年元日の儀礼に間に合わせるため、南嶋人を伴って帰朝したのではないかと推測されています。後の聖武天皇である首皇子が皇太子として初めて臨む朝賀に、北方(蝦夷)・南方・国外から来た人々を一堂に集め、天皇を中心とする世界秩序を演出したわけです。
新羅使が入京する
12月26日(己卯) 新羅使が平城京に入京した。従六位下布勢朝臣人、正七位上大野朝臣東人を遣わし、騎兵170人を率いて三崎(「三椅」ともされ、大和郡山市の下三橋町・上三橋町付近とされる)でこれを出迎えた。
新羅使入京。遣從六位下布勢朝臣人。正七位上大野朝臣東人。率騎兵一百七十迎於三崎。
新羅使が平城京に入京。騎兵の総勢990人のうち、170人が率いられて出迎えに従事しました。
三崎は異本によると「三椅」とも表記され、「椅」は「橋」を意味する語です。このことから、新羅使を出迎えたのは羅城門(平城京の出入口で、中央南端に位置する)の南にある佐保川に架かる橋の付近のことではないかとされています。
平城京・羅城門趾

羅城門のすぐ横には佐保川が流れていますね。

現在の地名は「三橋」であることから繋がりを感じます。
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