
こんにちは、みちのくです☀️
今回は出羽国への移住というできごとがあります。
同年3月には豊前国から大隅国への移住というケースもあり、こちらも同数の200戸でした。

和銅7年は人民大移動の年ですね。
和銅7年(甲寅・西暦714年)現代語訳・解説 7月〜10月

7月は記事数ゼロなので、8月からスタートとなります。
散事五位の禄について
8月10日(乙丑) 次のように制定した。散事(位階はあるが特定の官職に就いていない者。散位)の五位に禄(給与)を賜う際には、今後は職事(律令に規定された官職に就いている者)の正六位に準ずることとする。
制。散事五位如應賜祿。自今以後。准職事正六位焉。
五位の位階(正五位上〜従五位下)の持つ官人のうち、現在特定の官職に就いていない者(=散事)に支払う給与は、今後は特定官職に就いている者(=職事)の正六位の額に準じて支払うこととする、としたものです。
つまり、散事五位は身分上は五位の貴族であるものの、国家の職務には直接従事していない状態です。禄は出すには出しますが、国家貢献度を考慮して五位ではなく正六位待遇でお願いしますね。ということでしょう。

官職に就いていないということは散事の人は昼寝でもしてたのでしょうか。

ま、まあもしかしたら1人くらいはいたかもしれませんね。
現実的には「散位寮」という官司でこうした人たちの名簿が管理されていて、必要に応じて朝廷に出仕したり、臨時の使者やその他業務にあたることがあったみたいです。

五位ともなれば貴族ですから、下手に雑用も任せられないでしょうし扱いが難しそうですね。

そう。散事五位は「働かせる仕事がない」というより、任せられる仕事の格が限定されるため、適当な仕事を見つけにくい人材だったのかもしれません。
官銭を選り好みすることを禁ずる

9月20日(甲辰) 次のように制定した。今後は、銭(和同開珎)を選り好みしてはならない。もし正しい官銭(国が正式に発行している銭)であることを知りながら、たやすくこれを忌避し選り好みする者があれば、勅により杖百を科する。
ただし、濫銭(私鋳銭、偽造銭をいう)があった場合は、主客(取引の双方の当事者)が立ち会ってこれを破壊し、市司(平城京の東西の市場を管轄した官司)に送ること。制。自今以後。不得擇錢。若有實知官錢。輙嫌擇者。勅使杖一百。
其濫錢者。主客相對破之。即送市司。
原文の「擇錢」とは、銭を選ぶこと、つまりここでは和同開珎を外見の良し悪しで選り好みし、「悪い」銭での取引を断る者がいたことを意味しています。

外見の悪い銭ですか…。外見がどうあれお金はお金ですよね。

その通りです。色が悪かろうが、傷があろうが1文は1文であり、貨幣価値は変わりません。しかし、貨幣の導入間もない当時は「銭に傷が入っている」ことは単なる外見の好みの問題ではなく「価値が低い」と認識される場合があったようです。
これを正すため、勅により杖罪という、杖で100発叩くという刑罰を科すこととしています。
一方で、正式に発行された銭(官銭)ではなく、偽造された銭(濫銭)である場合は、売買の双方が立ち会った上でこれを破壊し、市司に届け出ることとしています。市司は市場で商品の真偽、価格、不正取引などを監督し、私鋳銭(私的に貨幣を製造すること)の摘発にも関わっていました。
異例の叙位(従五位下)

9月28日(壬子) 正七位上柏原村主磨心に従五位下を授けた。
授正七位上柏原村主磨心從五位下。
柏原村主磨心(かしはら の すぐり まごころ)は、前年の和銅6年11月16日(丙子)条にも見え、彼は元明天皇の詔により類稀な錦・綾の織成技術を褒められ、彼の子孫を雑戸という差別的な身分から解放することとされた人物です。
今回はさらに、磨心本人の位階を一気に5階も上げ、従五位下を授けることとなりました。一般的に工業技能に関わる人物はあまり高い位階に上ることはない印象ですが、これはそのイメージを覆すものです。

これは…自らの特殊技能でもって身分的な制約を破り、異例の出世を遂げた例と言えそう。

まさに、
一芸を極めた結果、子孫の身分を解放し、自分は貴族になった男…ですね。

お名前の「磨心」も素敵ですね。
大風により租調を免除する

冬 10月1日(乙卯) 美濃、武蔵、下野、伯耆、播磨、伊予の6国に大風があり、家屋を吹き壊した。よって、当年の租・調を免除することとした。
美濃。武藏。下野。伯耆。播磨。伊豫六國大風發屋。仍免當年租調。
非常に広範囲に大風の被害があったようです。これだけを見ると、10月1日すべて同日にこの被害があったように見えますが、朝廷がこの日に一括して各国からの被害報告を取りまとめたという可能性もあるので、実際には散発的だったのかもしれません。

これだけの国の全ての租・調を免除したということは、稲や貢納物の量としてはかなりのものになりそうですね。それだけ被害も大きかったということでしょうか。
勅(各国の民から出羽柵の柵戸に移住させる)

10月2日(丙辰) 勅により、尾張、上野、信濃、越後国の民200戸を割いて、出羽柵の柵戸に編入させた。
勅割尾張。上野。信濃。越後等國民二百戸。配出羽柵戸。
出羽柵とは、東北地方日本海側の開拓拠点であり、対エミシ防衛拠点でもありました。和銅2年(709)7月1日(乙卯)条には、「蝦狄を征討するため、諸国に命じて兵器を出羽柵に運び送らせた」とあります。
そして、今回「柵戸」として4国の民を移住させているように、柵は単なる軍事施設ではなく人民がそこに定住し生活を営むための施設や行政組織を備えたものであったことがうかがえます。

出羽国は2年前の和銅5年(712)9月に成立したばかりの新しい国です。
単にエミシを服従させるだけではなく、律令国家として開墾を行い、農耕・養蚕を営み、租庸調を納めることのできる国に育てるための植民であると言えるでしょう。

越後、信濃、上野はともかく、尾張は随分遠くからの移住ですね。太平洋側とは環境が全然違うでしょうから厳しい暮らしになりそうです…。
「200戸」の規模感
「戸」は人数ではなく、生計・生活を共にする集団であり、現代的に言えば「世帯」に近い概念です。

つまり200世帯は200組の家族ということでしょうか。

そうですね。ただ、現代の家族をイメージするとそこはズレが出てきてしまいます。
「戸」は1つの家屋に住む1つの家族という意味とは違い、律令制では「複数の小家族・世帯をまとめた行政単位」であり、『日本国語大辞典』では「普通は、二、三世帯を含む大家族が多い」とあります。
同年3月15日(壬寅)条でも、民200戸を移住させたという記事がありました。その時の解説では、行橋市の研究により、試算では1戸平均を25.4人とし、200戸を「25.4人×200戸=5,080人」と計算しています。

同年のことですし、この試算は応用できそうですね。

今回は4国から合わせて200戸ですから、これを単純に4等分すると、1国あたり50戸が移住したことになります。もちろん当時均等に分割されたとは限りませんが…。
出羽柵はどの辺りにあったのか
結論から言うと、出羽柵の位置は確定していません。
しかし、山形県の庄内地方のどこかであることはかなり確実であるようです。
有力な説としては、酒田市の最上川河口付近とするものがあります。和銅2年7月13日(丁卯)条に「越前、越中、越後、佐渡の4国に、船100艘を征狄所に送らせた」とあることが根拠となっています。
山形県酒田市

船を送らせたということは、征狄所が河口付近にあったと考えるのが合理的ですね。

ただし、その征狄所が出羽柵と同じ場所にあったとは確実には言えません。
ほか、鶴岡市の赤川水系周辺に遺跡を求める説もあります。
なお、出羽柵は天平5年(733)に現在の秋田市に移転しており、後に秋田城と呼ばれるようになります。
任官(国守)

10月13日(丁卯) 従四位下石川朝臣難波麻呂を常陸守に、従五位上巨勢朝臣児祖父を伊予守に、従五位下津嶋朝臣真鎌を伊勢守に、従五位上平群朝臣安麻呂を尾張守に、従五位下佐伯宿禰沙弥麻呂を信濃守に、従五位下大宅朝臣大国を上野守に、従五位下津守連通を美作守に任じた。
以從四位下石川朝臣難波麻呂爲常陸守。從五位上巨勢朝臣兒祖父爲伊豫守。從五位下津嶋朝臣眞鎌爲伊勢守。從五位上平群朝臣安麻呂爲尾張守。從五位下佐伯宿祢沙弥麻呂爲信濃守。從五位下大宅朝臣大國爲上野守。從五位下津守連通爲美作守。
初代の美作国守?
美作国は前年(713)4月3日(乙未)に、備前国の北部の山間の6郡を分割させて成立したばかりの新しい国です。
『続日本紀』では、今回の従五位下津守連通が美作守の初見ですが、平安時代末期に成立した辞書の『色葉字類抄』には、当時の備前介の上毛野堅身が初代の美作守であると伝えています。
しかし、この当時の国守の任期が4年であったとすると、堅身は1年半程度しか国守に就いていなかったことになります。

推測ですが、備前介からの臨時に転任だったので、備前介着任からの年数をカウントしその4年目に美作守を退任したという形だったのかもしれません。

1年半でクビになったという話ではないということですね。
造宮省史生の増員
10月17日(辛未) 造宮省に史生(書記官)6名を増員した。従来の人数と合計して14名である。
造宮省加史生六員。通前十四人。
造宮省は平城宮の造営任務を負う官司で、律令には規定のない臨時の官です(令外官)。和銅3年(710)に遷都が終わった後も引き続き造営工事は続けられていました。

遷都が終わったからと言って全部が完成していたわけではないんですね。
奈良文化財研究所によると、和銅7年末ごろに大極殿とこれに付属する回廊や庭、大極殿南門(大極門)の造営が一段落したものと整理しています(奈良文化財研究所編『平城宮発掘調査報告ⅩⅦ 第一次大極殿院地区の調査2 本文編』)。さらに大極門から南に広がる朝堂院(官人たちが政務を執る官庁群)も東側は遷都当初より造営が始められており実際に執務に利用されていたようですが、西側については未着手であったようです。

つまり、今回の10月17日の史生増員の段階では、平城宮は
・大極殿本体がまだ仕上げ段階だった
・周囲の門・回廊などの工事をしていた
・完成後に続く朝堂院造営(特に西側)の準備も進んでいた
…という状況だった可能性があります。

この状況を見るに造宮省は臨時とはいえ、なくてはならない官司に違いなかったはず。史生は書記官で文書実務担当なので、工事作業者ではないですが、今回の増員からも平城宮造営が依然続けられていたことがわかりますね。
⭐️参考 これまでの史生増員・設置
大宝3年(703)2月17日(癸卯) 大宰府に10名増員
和銅元年(708)7月7日(丁酉) 内蔵寮に初めて4名設置
同年8月21日(庚辰) 兵部省に6名、左右京職にそれぞれ6名、主計寮に4名増員
和銅5年(712)11月16日(辛巳) 弁官に6名増員
同年12月15日(己酉) 東西の市司に初めて2名設置
和銅6年(713)6月21日(癸丑) 大膳職に初めて4名設置
同年9月21日(辛巳) 大蔵省に6名増員
同年11月25日(乙酉) 兵馬司に4名を仮に設置
同年12月11日(庚子) 中務省に10名増員
同年12月20日(己酉) 宮内省に10名増員
和銅7年(714)10月17日(辛未) 今回の記事
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