【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 霊亀元年④ 5月 朝廷、国司・郡司への不信あらわ?

元明天皇紀(708-715)
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです。
5月は非常に情報量が多く、国司・郡司、各地での災害、陸奥移住など地方に関わる事柄がメインです。

いづみ
いづみ

祥瑞も1件あったみたいですが、これが霞んで見えなくなるくらい激動ですね。

※霊亀への改元はこの年の9月なので、正確には霊亀元年5月は和銅8年です。
しかし、『続日本紀』は改元が行われた年の正月に遡って「元年」とする形式なので、これに従っています。

霊亀元年(乙卯・和銅8年・西暦715年)現代語訳・解説 5月

勅(国司・郡司に対する警告など)

5月1日(辛巳かのとみ) 諸国の朝集使(毎年一度、国司の中から選ばれ、諸国の状況を報告するために中央に送られた使者)に次のように勅した。
「 天下の百姓の多くが本貫ほんがん(本籍)に背き、ほしいままに他の地に流浪して巧妙に課役を逃れている。その浮浪や逗留(旅先に長期間とどまること)が三ヶ月以上に及んでいる者は、その国の法に従って調庸を輸納させよ。
 また、百姓をで導き、農桑(農業と養蚕)を奨励し、字育じいく(養い育てること)の心を持ち、よく飢えと寒さを救うことは、まことに国司と郡司による善政である。一方、その身分が公にありながら心に私利を抱き、万民の農業を妨げ奪い、食い荒らす者があれば、これはまことに国家を大いに蝕む害虫である。
 よって、国司・郡司のうち、百姓の生業を奨励し、その資産を豊かにさせた者を上等とし、奨励を加えたものの、なお衣食が乏しい場合は中等とし、田畑が荒廃して百姓が飢えと寒さに苦しみ、その為に死に至らしめた場合は下等とし、さらにその人数が10人以上であれば現職を解任する。
 また、四民(あらゆる階層の人々。国民)にはそれぞれ本来の生業がありながら今、失職・流散している者がいる。これもまた国・郡司の教導が無方むほう(道に外れていること)だからであり、甚だいわれのない不当なことである。このようなことがあれば、必ずその国・郡司には顕戮けんりく(見せしめに厳しく罰すること)を加えよ。今後は巡察使を遣わし、分担して天下を巡らせ、風俗をよく見極めさせる。敦徳たいとく(徳が厚いこと)の政の道を実現するよう努めよ。
 今より、諸国の百姓が往来する際に用いる過所かしょ(通行証)には、その国の国印を用いることとせよ」と。

勅諸國朝集使曰。天下百姓。多背本貫。流宕他郷。規避課役。其浮浪逗留。經三月以上者。即云斷輸調庸。隨當國法。
又撫導百姓。勸課農桑。心存字育。能救飢寒。實是國郡之善政也。若有身在公庭。心顧私門。妨奪農業侵蛑万民。實是國家之大蠧也。
宜其勸催産業。資産豊足者爲上等。雖加催勸。衣食短乏者爲中等。田疇荒廢。百姓飢寒。因致死亡者爲下等。十人以上。則解見任。
又四民之徒。各有其業。今失職流散。此亦國郡司教導無方。甚無謂也。有如此類。必加顯戮。自今以後。當遣巡察使。分行天下。觀省風俗。宜勤敦徳政。庶彼周行。
始今。諸國百姓。往來過所。用當國印焉。
いづみ
いづみ

勅の内容をざっくり現代語訳で箇条書きにすると次のような感じです。

・全国の人民が本籍地を離れて浮浪して帰ってこない。そのため課役を逃れている状況である。浮浪したまま3ヶ月以上帰ってきていない者については、浮浪者が滞在している国の法に従って調と庸を納めさせること。
・農業と養蚕を奨励して人民を飢えと寒さから救うことは国司と郡司の善政である。一方で、公職でありながら私利私欲を考えて民の農業を妨げたり奪ったりする者は、国家を食い荒らす害虫である。
・国司と郡司のうち農業と養蚕を奨励して人民の生活を豊かにした者を上等、奨励はしたが、なお人民が貧しいままなら中等、田畑が荒れ果て人民が飢えと寒さに苦しみ死亡しているような状況なら下等と判定する。しかもその死亡が10人以上に及んだ場合は解任する。
・人民にはそれぞれの生業があるのに失職や浮浪があるのは国司と郡司が無法だからである。このような者は他への見せしめのために厳しく罰することとする。
・今後は巡察使を派遣して国内の行政と人民の生活ぶりを見させるから、徳の厚い政治を行うようにせよ。
・また、今後は諸国の人民の移動に使う通行証には、その通過する国の国印を用いること。

朝集使は国司から選ばれる

いづみ
いづみ

朝集使に勅したとありますが、これはなぜ朝集使に言ったのでしょうか?

みちのく
みちのく

朝集使は「地方官の勤務実績を中央へ報告する窓口」だからです。
これについて、後の養老令では次のように規定してあります。

考課令第61【大弐以下条】要約
大弐以下、国司の目(国司の四等官の4番目)以上は、毎年交替で朝集せよ。その管内の官人たちの現任者・離任者を問わず、すべて把握すること。また、それぞれが任官して以来の年別の業績について問われたら、これに回答すること。

つまり、朝集使自身が国司の一員であり、各国の行政成績・国郡司の勤務評定を中央に報告し、中央から質問を受ける立場でした。

3年前の和銅5年(712)5月16日には同類の達しがあり、有能な郡司はその名前を書いて朝集使に付けて中央に報告せよ、というものがありました。
ここでは朝集使自身にもかなり厳しい警告指導が入っており、国司の着任以来の業績や履歴は全て把握し、問われた時には答えられるようにしておくこと、これを怠れば罰則を科すとされました。

痛烈な文言

キクイムシ

原文には、「侵万民」「實是國家之大」という文言が現れます。

蛑と蠧はいずれも農作物などを食い荒らす害虫で、辞書によると、
蛑はネキリムシ。農作物の根を食べる害虫。
蠧はキクイムシ。木を食う虫。または、シミ(紙魚)。衣類や書籍などを食う虫。
とされています。

みちのく
みちのく

民の農業や養蚕を妨げて私利私欲のために用いるのは国家を食い荒らす害虫だと言っているわけですね。かなり強い言葉です。

いづみ
いづみ

おそらくですけど、国司や郡司が私的な財を肥やすために人民を無法に使い走りさせるといったような実態があったのでしょうね。だから人民は本来の仕事ができないわけで…。
国家の衣食は、農民の農作業と養蚕にかかっているわけですから、それをさせない国郡司は害虫にも等しいと言っているということ。

また、「顕戮」(けんりく)という文言もあり、原義は「見せしめのために殺す」といういわゆる「公開処刑」を意味する言葉ですが、これは本当に処刑するわけではなく「厳しく罰する」という意味で使われているものと思われます。いずれにしてもかなり強い言葉です。

国司と郡司を上、中、下の三等級で評価する

みちのく
みちのく

これは、人民が本籍地を逃亡し放浪するのはもとをただせば国司と郡司に責任がある、と言っているわけです。

「百姓が貧乏なのは本人の責任」で終わらず、「飢えさせたら国郡司の勤務評定を下げる。10人死なせたらクビ」と明文化しています。
地方官にはかなり重い責任を負わせていることが分かります。

巡察使の派遣

巡察使は太政官に直属し、臨時に任命されて諸国に派遣され、主に国司の行政の実態を視察させるものです。

いづみ
いづみ

今後は巡察使を全国に見てまわらせるから不正や私利に走ることは許されないぞ、と言っているわけですね。

みちのく
みちのく

朝集使自身が国司のメンバーですから、上中下の評価基準を作っても実態が正しく反映されないかもしれません。なので中央から派遣される巡察使に視察させるわけですね。

なお、前掲の和銅5年にも同じような調子で「今後は毎年巡察使を派遣する」、と釘を刺しています。

過所(通行証)に国印を押させる

越中国印(複製品。高岡市万葉歴史館にて)

今後は、人民が関所を通過する時に提示する過所には、その通過する国の国印を押すこととしました。その直接的な目的は、おそらくまず「通行証の真正性を保証し、人の移動を確実に把握する」ことでしょう。

みちのく
みちのく

過所には書式があり、通行者の所属や姓名を記入することとなっています。
なので本人の身分証明書にもなりました。

いづみ
いづみ

浮浪して本籍地を離れた人の行方を突き止めることに有効ですし、そもそも浮浪の防止にも有効ですね。

仮説 元正天皇への代替わりに備えたものか

これは仮説ですが、今回の「過所に国印を押す」という運用は、元明天皇の譲位と元正天皇即位にともなう反乱や事件を警戒したものかもしれません(この年の9月2日に代替わりが行われる)。

しかも、つづく5月14日には、調庸輸送などを怠る国司の責任追及、さらに巡察使に諸国の武器を点検させています。

みちのく
みちのく

断定はできませんが、人の移動を把握することで代替わりの時の不測の事態を未然に防ぐという効果も期待されたのかもしれません。



飢饉(丹波・丹後)

(続き)

 丹波、丹後の二国に飢饉があったため、使者を使わして賑貸しんたい(貧民救済のために、無利子で穀類などを貸し与えること)した。

丹波丹後二國飢。遣使賑貸。

国司・郡司たちへの痛烈な詔があったその日に、飢饉による救済の使者を送っています。これは、詔が理念的なものではなく、現実の飢饉を受けてのものであったと考えると説得力が出てきます。



京職に印を支給する

5月9日(己丑つちのとうし) 初めて京職きょうしき(平城京内の行政全般を担当した官司)に印を支給した。

始充京職印。
みちのく
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かなり簡潔な記事ですが、これは5月1日の過所の規定と直接的につながっている可能性が高いです。

5月1日では、「諸国の百姓が往来する際の過所(身分証明書)には、その国の国印を用いよ」とありました。

過所は諸国民だけのものではなく、律令制では、地方民なら郡司を経て国司へ、京の住民なら京職へ申請し、国司または京職が過所を発給するという仕組みでした。

いづみ
いづみ

つまり、厳密に言えば京職の印は「国印」ではないけど、京内住民を管轄する役所として、過所には京職印を押すという運用にしたわけですね。

ちなみに、現存する京職印の印影は

之左
印京

之右
印京

となっており、左京・右京の印に分かれていたことも分かっています。



祥瑞(伯耆国に甘露)

5月12日(壬辰みずのえたつ) 伯耆国が、甘露が降りたことを言上した。

伯耆國言。甘露降。

甘露は祥瑞で、以前の和銅元年(708)5月29日条で、長門国でも甘露が降りたことが記録されています。



(国司に行政の是正を求める、武器の見本を提出させる)

5月14日(甲午きのえうま) 次のように詔した。
「 諸国が運び納める調と庸にはそれぞれに定められた期限がある。今、国司たちには緩怠かんたい(いい加減に考え、怠けること)があり、その期限を守らず人民の農耕を妨げている。運送する民はそのために疲弊している。これは国・郡の善政と撫養ぶよう(いたわり、養うこと)の道から外れている。今後もしこのような事があれば、重い処分を下す。
 また、海路で船により庸を運ぶことを、安易に不慣れな民に任せて、これを海に漂失(水に流れて失うこと)させたり、多くを水で湿損させたりしている。これは国司が以前の定めに従わないからである。今後これを改めない者にはその程度に応じて罪を科す。損失した物は国司から徴収する。
 また、五兵(兵器、武器一般)は古より重んじられ、強きを服従させ、弱きを懐けることはすべてこの武徳によるものである。今、六道諸国に器仗(武器)を造らせているが、牢固ろうこ(堅固、頑丈)であるとはいえず、これではどうして事に臨むことができるだろうか。今後は毎年、武器の見本を貢進し、巡察使が出向く日には詳細にこれを校勘こうかん(比較して考えること)せよ」と。

曰。凡諸國運輸調庸。各有期限。今國司等。怠緩違期。遂妨耕農。運送之民。仍致勞擾。非是國郡之善政。撫養之要道也。自今以後。如有此類。以重論之。
又海路漕庸。輙委惷民。或已漂失。或多濕損。是由國司不順先制之所致也。自今以後。不悛改者。節級科罪。所損之物。即徴國司。
又五兵之用。自古尚矣。服強懷柔。咸因武徳。今六道諸國。營造器仗。不甚牢固。臨事何用。自今以後。毎年貢樣。巡察使出日。細爲校勘焉。
いづみ
いづみ

5月1日につづいて、国司の地方行政に対してお怒りですね。

みちのく
みちのく

今回はまたざっくり言うと、
調と庸の輸送を民に無理させるな、
海運を不慣れな民に任せるな、
海に落として失くしたものや水濡れしたものは国司が弁償しろ。
武器の質が悪くて役に立たないから見本を中央に送れ。
巡察使が来た時にはその見本と比較し、武器の質を点検する。
…といった感じです。

いづみ
いづみ

なんだか、律令国家の地方支配につきまとう問題をありありと感じさせますね。
中央は地方を信用できないから「百姓を飢えさせるな」「武器をきちんと作れ」といったような命令を出す。命令を出す側は簡単でも、地方では天候による避けがたい凶作、それによる飢饉や病気、調・庸を運ぶにも中央までの距離が遠すぎる、人手も足りないから人民を「私的に」駆り出さざるを得ない。

みちのく
みちのく

それで、「もっと人民をいたわり、養え」と言われても、国司や郡司としてもいっぱいいっぱいだ、という問題もあったはずですよね。
しかし一方で、国郡司も朝廷からの距離が離れているのを良い事に、目を盗んで数字を誤魔化したり、生業のある民を私的に使役したりといった実態もおそらくあったことでしょう。

5月条のこの流れは、中央は地方を信用しきれない、けれど地方官なしでは統治できない。
という律令国家のジレンマがかなり露骨に出ている感じがします。

いづみ
いづみ

後世で律令制が崩壊するのも、結局はこうした限界があったのかもしれないですね。



改姓(画師→倭画師)

5月25日(乙巳きのとみ) 従六位下画師忍勝えしのおしかつの姓を改め、倭画師やまとのえしとした。

從六位下畫師忍勝姓改爲倭畫師。

画師は一般には画家という専門職のことですが、ここでいう「画師」「倭画師」は職名ではなく、姓の名称であり、画師氏という氏族がいることを意味します。

みちのく
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ただし、職名や氏族がつかさどる職掌をそのまま氏の名にしている例もあります。

実際、『新撰姓氏録』左京諸蕃上の大崗忌寸条には、絵画の技術に優れた恵尊が天智天皇の時代に「倭画師」の姓を賜ったとの伝承が見えます。



飢饉の発生(摂津、紀伊、武蔵、越前、志摩)

(続き)

 摂津、紀伊、武蔵、越前、志摩の五国に飢饉が発生したため、賑貸した。

攝津。紀伊。武藏。越前。志摩五國飢。賑貸之。

5月1日に続いて、5カ国に飢饉が発生しました。
1日条と違うのは「使者を遣わして」の文言がないことくらいです。

賑貸は単なる「救済」ではなく、基本的に官の稲などを無利息で貸し与えるものなので、給付を意味する「賑恤しんじゅつ」とは区別されます。



地震(遠江国)

(続き)

 遠江国に地震があった。山崩れが起きて麁玉河あらたまがわをせき止めたために、川の水が流れなくなった。数十日を経て川が決壊し、敷智ふち長下ながのしも石田いわたの三郡の民家170余区を水没し、併せて苗も損なった。

遠江國地震。山崩壅麁玉河。水爲之不流。經數十日。潰沒敷智。長下。石田三郡民家百七十餘區。并損苗。

『続日本紀』は地震を伝える記事自体は多いですが、具体的な被害を伝えるものはあまり見られません。
その中で今回の遠江の記事はかなり異例で、麁玉河・敷智・長下・石田という具体的な地名、民家170余区という詳細な数字(区は家屋を数える単位)が示されています。

いづみ
いづみ

地震→山崩れ→天然ダム化→数十日後の決壊→洪水まで因果関係を書いている点で、かなり情報量が多いですね。古代の災害記事としてはなかなか貴重だと思います。

麁玉河は今の天竜川 ただし…

麁玉河は諏訪湖を水源とする今の天竜川で、静岡県内では浜松市と磐田市の境を流れています。ただし今の天竜川と当時の麁玉河では主流が違っており、それよりも西の馬込川の辺りを流れていたようです。

いづみ
いづみ

馬込川は天竜川と比べればそんなに大きな川ではないようですが、麁玉河と呼ばれた霊亀の時代では大河だったということなんですね。

みちのく
みちのく

そのようです。それが次第に川筋が東へと移動して今の天竜川の位置になったんですね。今の馬込川を見て「こんな小川を山崩れでせき止めて、三郡170戸も水没するか?」と思うと変ですが、当時そこを天竜川本流級の大河が流れていたと考えると一気に納得できます。

いづみ
いづみ

山の形は1000年くらいではそう変わるものではないですが、川は常に流れ続けてますから、浸食・堆積を繰り返しますし、洪水が起きれば一気に流路が変わることもありますよね。そう考えると不思議ではなさそうです。

日本歴史地名大系 「敷智郡・敷知郡」の解説(コトバンク)



太政官奏上(義倉に納める粟について)

5月19日(己亥つちのとい) 太政官が、戸から義倉ぎそうあわを納めるための法を改定し、戸を九等に分けることを奏上した。その内容は別に記載するきゃく(律令の修正法)に詳しい。

太政官奏。更定義倉出粟法。分爲九等。語在別格。

義倉は非常のための食糧保管庫であり、その収納物品のメインは粟(あわ)でした。その理由は、粟が当時広く栽培され、長期保存にも適した穀物だったことが大きいとされています。納める粟は人民の各戸から徴収されました。

みちのく
みちのく

戸には富裕なところもあれば貧しいところもあるので、一律徴収ではなく、戸に等級付けをしてその納める数量を分けていました。

ただし「戸を9等に分ける」とありますが、和銅6年(713)2月19日条でも同様の格が出されており、その時にすでに「上上戸」から「下下戸」までの9等が決められています。

表 戸の等級基準の改正前・改正後

それでは、今回の霊亀元年格で何が変わったのかというと、九等区分の数値基準です。

戸等和銅6年(713)霊亀元年(715)変更
上上戸100貫以上30貫以上大幅引下げ
上中戸60貫以上25貫以上引下げ
上下戸40貫以上20貫以上半減
中上戸20貫以上15貫以上引下げ
中中戸16貫以上10貫以上引下げ
中下戸12貫以上6貫以上半減
下上戸8貫以上3貫以上大幅引下げ
下中戸4貫以上2貫以上半減
下下戸2貫以上1貫以上半減
等外2貫未満1貫未満義倉負担対象が拡大
『令集解』より 1貫は銭1000枚(1000文)
いづみ
いづみ

かなり大胆に引き下げられましたね。

和銅6年:かなり富裕な戸だけを九等戸として負担の対象にする

霊亀元年:九等の資産基準を全体的に引き下げ、より広い層から粟を徴収する

という変更です。研究でも、和銅6年基準では義倉穀の収納量が少なかったため、霊亀元年に対象範囲を拡大したものと説明されています。



任官(中納言、左右大弁、卿、左衛士督、国守、大宰帥)

5月22日(壬寅みずのえとら) 従三位巨勢朝臣麻呂を中納言に任じた。
 従四位上多治比真人三宅麻呂を左大弁に任じた。従四位上巨勢朝臣邑治を右大弁に任じた。
 従四位上大伴宿禰旅人を中務卿に、従四位下阿倍朝臣首名を兵部卿に、従四位上阿倍朝臣広庭を宮内卿に、従四位下多治比真人県守を造宮卿に任じた。
 従五位上大伴宿禰宿奈麻呂を左衛士督に任じた。
 正五位上大神朝臣狛麻呂を武蔵守に、従五位上阿倍朝臣安麻呂を但馬守に、従五位下石川朝臣君子を播磨守に任じた。
 従三位多治比真人池守を大宰帥に任じた。

以從三位巨勢朝臣麻呂爲中納言。從四位上多治比眞人三宅麻呂爲左大弁。從四位上巨勢朝臣邑治爲右大弁。從四位上大伴宿祢旅人爲中務卿。從四位下阿倍朝臣首名爲兵部卿。從四位上阿部(倍か)朝臣廣庭爲宮内卿。從四位下多治比眞人縣守爲造宮卿。從五位上大伴宿祢宿奈麻呂爲左衛士督。正五位上大神朝臣狛麻呂爲武藏守。從五位上阿倍朝臣安麻呂爲但馬守。從五位下石川朝臣君子爲播磨守。從三位多治比眞人池守爲大宰帥。

中央の高官の任命が目立つ記事であるほか、大宰帥任命が大きなポイントです。

巨勢氏から2名が太政官に 中納言、右大弁任官

みちのく
みちのく

巨勢氏の中納言任官はこれが初めてです。
孝徳天皇の時代には巨勢徳太が左大臣、天智天皇の時代には巨勢比等が御史大夫(後の大納言)になっていますが、これは律令以前のこと。

当時の太政官は空席者が多く、左大臣・石上麻呂や中納言・粟田真人は平城京にいなかった可能性もあり、かなり手薄でした。

表 霊亀元年5月現在の太政官
官職現職者位階任官・備考
知太政官事穂積親王一品慶雲2年(705)9月5日から知太政官事。霊亀元年正月10日に一品へ昇叙
太政大臣空席適任者がいなければ置かれない
左大臣石上麻呂正二位和銅元年(708)3月13日任。藤原京留守司となっていた
右大臣藤原不比等正二位和銅元年(708)3月13日、大納言から昇進
大納言空席和銅7年5月1日に大伴安麻呂が薨去して以来空席
中納言粟田真人正三位慶雲2年(705)4月22日任。大宰帥として赴任の可能性。霊亀元年4月に従三位→正三位
中納言阿倍宿奈麻呂従三位慶雲2年(705)4月22日任(和銅元年にも改めて任官記事)。和銅2年正月に従三位
中納言巨勢麻呂従三位霊亀元年5月22日、新任
参議該当者なし

卿の補充人事

中務・兵部・宮内・造宮の各省の卿、つまり長官が任命されました。
これらの卿は前任者の死去により空席だったと見られ、その補充の人事が行われました。

表 前後の卿の任命状況
官職直前に確認できる前任者前任者の離任事情今回の新任者位階
中務卿小野朝臣毛野和銅7年(714)4月15日薨去大伴宿禰旅人従四位上
兵部卿大神朝臣安麻呂和銅7年(714)正月27日卒去阿倍朝臣首名従四位下
宮内卿多治比真人水守和銅4年(711)4月15日卒去阿倍朝臣広庭従四位上
造宮卿大伴宿禰手拍和銅6年(713)9月17日卒去多治比真人県守従四位下
いづみ
いづみ

太政官が手薄な上に省のトップも空席が多かったんですね…。

7年ぶりの大宰帥任官

大宰帥への任官は、和銅元年(708)3月13日に任じられた粟田真人以来、7年ぶりです。

みちのく
みちのく

後の歴史を知っている側から見ると、こうした高位幹部層の人事も元明天皇の譲位と元正天皇の即位に備えたものかと勘繰りたくなりますね。



地震(参河国)とその被害

5月26日(丙午ひのえうま) 参河国(三河国)に地震があった。正倉47棟が壊れ、また、百姓の廬舍ろしゃ(家屋)があちこちで陥没した。

參河國地震。壞正倉卌七。又百姓廬舍往々陷沒。
いづみ
いづみ

租税の稲が収納されている正倉が壊れたのは非常にまずいですね。それに47も…。
しかも前日の25日にも遠江で地震があったばかりですね。

みちのく
みちのく

そうなんですよ、しかも飢饉が5月1日に丹波・丹後、5月25日に摂津・紀伊・武蔵・越前・志摩の7国で発生していて、霊亀元年5月は「災害の月」と言ってもよさそうです。



富民1000戸を陸奥に大量移住させる

5月30日(庚戌かのえいぬ) 相模、上総、常陸、上野、武蔵、下野の六国の富民1000戸を陸奥に配置した。

移相摸。上総。常陸。上野。武藏。下野六國富民千戸。配陸奥焉。
みちのく
みちのく

6カ国の大規模移住です。前年の和銅7年(714)10月2日には、尾張など4国から出羽国へ200戸が移されており、一連の奥地開拓事業のようにも見えます。

1000戸はかなりの大規模です。戸は今で言う「世帯」ですが、現代のような1世帯数人というものではなく、1戸あたりおよそ20人という規模でした(「御野国加毛郡半布里戸籍」からの試算)。
この規模を採用すれば、1000戸移住は人数にして2万人規模になります。

重要なのが 「富民」を移したことで、わざわざ貧民や浮浪人ではなく、六国の富裕な戸を1000戸選んでいます。

これはおそらく、単に人口を増やせばよいのではなく、農業経営に必要な資財を持ち、自立して生産活動を行い、周辺地域の開発・律令的な郡里編成を支えられる戸を陸奥へ投入しようとしたのでしょう。

いづみ
いづみ

時代的におそらく「強制移住」の性格が強かったでしょうし、富民とはいえ地理が違い、冬の気候も厳しい陸奥への移住は大変だったでしょうね…。



次回の記事

更新をお待ちください。

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