
こんにちは、いづみです♨️
旅行のために五つの国にお宿を造らせるなんて、すごいですね。

宿を予約するんじゃなくて、建てるところから始まるんですからね。
大宝2年(壬寅・西暦702年)現代語訳・解説 9月
日蝕

9月1日(乙丑) 日蝕があった。
日有蝕之。
この日蝕は日本から観測可能だった日食です。
NASAによると、皆既日食で、最大食時間は世界時で7:27、日本時間で16時27分ごろです。
最大食地点はモンゴル周辺。そのため日本からの観測が可能だったとみられます。

最大食地点のモンゴルと日本は位置がそこそこ近いですし、藤原京からも大規模な皆既日食が観測できたみたいですね。
律令制における「日蝕」
日蝕はただの天文現象や宇宙ショーではなく、朝廷の政務に影響を与える「異変」でした。
詳しくはこちらの記事で解説しています。
告朔に使われる文書の処理
9月14日(戊寅) 次のように制定した。諸司の告朔文は、主典(四等官の第4)以上が弁官に申し送り、弁官はこれをすべて中務省に送付すること。
制。諸司告朔文者。主典以上送弁官。惣納中務省。
告朔(こうさく)とは、毎月1日に各官司が前月分の業務報告の文書を天皇に奏上し、天皇がこれを閲覧する定例行事です。
後の養老令の儀制令第5【文武官条】にはその次第として、各官司から取り集められた公文書を、五位以上の官人が朝庭の案(つくえ)の上に置き、大納言がこれを天皇に奏上することが定められています。

これは後に儀式化し「告朔の儀」と呼ばれるようになりました。

ついたち「朔」に業務を報「告」する儀式というわけですね。
公文書の伝達の流れを整理した
今回の制では、その文書を弁官(太政官内の部局で、公文書処理を行う実務官)に提出し、弁官はそれを取りまとめた上で、天皇の補佐をつかさどる中務省に文書を送付することと決められたのです。
諸官司の主典以上
(行政文書を弁官に申し送る)
↓
弁官
(文書をとりまとめる)
↓
中務省
(文書を受けとる)

告朔の日に天皇がその文書を閲覧するわけですね。

ところで、9月1日には日蝕があったので、この月の告朔は行われていないと思われます。
というのも、日蝕が予報される日は、天皇は執務を行わないことと律令で定められているからです。
隼人征討の軍士に勲位を授ける
(続き)
薩摩の隼人を征討した軍士に、各自その功績に応じて勲位を授けた。
討薩摩隼人軍士。授勲各有差。
これは8月1日に行われた「薩摩・多褹の征討」の論功行賞です。
ここでいう「勲位」は、戦功などに対して授けられる勲一等〜勲十二等の勲位のことです。
8月1日には明確に書かれていませんでしたが、やはり征討の対象は南九州に勢力があった「隼人」だったようです。

一方で、1日条では「薩摩・多褹」とあったところ、今回は単に「薩摩の隼人」としか書いておらず「多褹」の語が見えません。
多褹(たね)は主に種子島を中心にした周辺の島々で、大宝2年中に「多褹嶋司」という行政区分として成立します。

多褹もひっくるめて「薩摩隼人」だったのか、それとも多褹の征討は賞の対象にしなかったのか、果たしてどちらなのでしょうか…?
飢饉の発生(駿河・伊豆・下総・備中・阿波)

9月17日(辛巳) 駿河・伊豆・下総・備中・阿波の五国に飢饉が発生した。使いを遣わして存恤(慰問して恵みを施すこと)させた。
駿河。伊豆。下総。備中。阿波五國飢。遣使存恤。
特筆すべきは、駿河国と下総国には前月にも災害が記録されていることです。
8月5日条には、両国は大風によって家屋が壊れ、農作物にも被害が出ていました。

となると、この二国の飢饉は、8月の暴風被害が影響した可能性を考えられますね。
五カ国に行宮の造営

9月19日(癸未) 使いを伊賀・伊勢・美濃・尾張・三河の五国に遣わして行宮を造営させた。
遣使於伊賀。伊勢。美濃。尾張。三河五國。營造行宮。
行宮(あんぐう)は、天皇が行幸先や通過する国に宿泊するために造営された仮住まいの宮です。
または仮宮、頓宮ともいいます。

これは10月10日から行われる持統上皇の三河国行幸のために造られるものでしょう。

10月10日となると、行宮造営の命令から行幸開始までわずか21日しかないですね。
造営を命じられた五国は、行幸の帰路にも登場します。
11月13日:尾張国
11月17日:美濃国
11月22日:伊勢国
11月24日:伊賀国
なお藤原宮の帰着は11月25日です。
賜姓(出雲狛に臣姓を賜う)
9月21日(乙酉) 従五位下出雲狛に臣の姓を賜った。
從五位下出雲狛賜臣姓。
出雲狛は、壬申の乱で天武天皇側について戦った人物です。
また、この年の8月1日には従五位下に叙されており、今回の賜姓と合わせて壬申の乱の功績として授けられたのかもしれません。
壬申の乱での活躍

出雲狛は『日本書紀』の壬申の乱の記事に2回登場しており、 しかも軍を率いて戦った人物です。
① 7月2日条 玉倉部邑での戦い
近江朝廷軍が玉倉部邑(不破郡関ヶ原町か)を急襲してきたが、狛を派遣し撃退させたとあります。
② 7月22日 三尾城の攻略
羽田公矢国と出雲狛が協力して近江方の三尾城を攻め、降伏させたとあります。

武人だったんですね。
「臣」の姓(カバネ)
姓(カバネ)は天皇から氏族を単位として賜るもので、朝廷における氏族同士の序列を示すものです。
大和朝廷の時代から存在したようですが、天武天皇の時代に8種の新たな姓「八色の姓」が新設され、「臣」は8種のうち6番目に位置付けられています。
出雲臣狛(いずも の おみ こま)の例でいうと、
出雲 … 氏
臣 … 姓
狛 … 名
となります。
大赦
9月23日(丁亥) 天下に大赦した。
大赦天下。
非常に簡潔な記事ですが、特筆すべきは「これが今年3度目の赦免」ということです。
4月8日 神馬の出現を受けて大赦。ただし盗人は対象外
7月30日 天下の罪人を赦免
9月23日 天下に大赦(今回)
4月の大赦は理由が明確ですが、7月と今回の赦免は理由不明です。

理由書いてよって話ではありますが、予想すると、持統上皇の行幸に先立つ大赦かもしれませんね。

それは十分あり得ます。
にしても、こう頻繁に罪人を赦免していては何のために捕まえているのか分からなくなりそうですね。

しかも前回から2ヶ月も経ってませんし、もう許す罪人自体がいなくなってそうですね
詔(天智3年の制で記録されなかった氏族で忌寸以上の者を申告させる)
9月25日(己丑) 次のように詔した。
「 甲子の年(天智天皇3年(664))に氏上(各氏族を代表する統率者)について定めたが、この時の記録に載せられなかった氏族のうち、現在伊美吉(忌寸の別表記)以上の姓を賜っている者は、皆すべて申し出ること」と。詔。
甲子年定氏上時。所不載氏今被賜姓者。自伊美吉以上。並悉令申。
天智3年の制について
「甲子の年に氏上について定めた」というのは、『日本書紀』天智天皇3年(664)2月9日条に記載があり、そこでは、
「天皇は、大皇弟(大海人皇子、のちの天武天皇)に命じて冠位、氏上、民部、家部などの事を布告させた」とあります。
氏上について具体的には「大氏」には大刀を、「小氏」には小刀を賜い、伴造らの氏上には楯と弓矢を賜ったとしています。

この制の意義としては、どの氏族が「大氏」で、どの氏族が「小氏」なのか、または伴造はどの氏族とするのかといった、「氏族の範囲」を明確にすることだったと解釈されています。
『世界大百科事典』の「氏姓制度」(コトバンク)では、この年の「甲子の宣」について次のように解説しています。
「大氏,小氏,伴造氏を定め,それぞれの氏上と,それに属する氏人の範囲を明確にしようとした。」
大宝2年の詔の背景
このいわゆる「甲子の宣」から38年後にあたる大宝2年には、当時登録されていなかった氏族のうち、「伊美吉」以上の姓(カバネ)を持つ者は全て申し出るようにと命じています。
「伊美吉」とは、天武天皇13年(684)に新たに定められた八種類の姓(八色の姓)の第4番目「忌寸」の別表記です。

これは天武天皇の時代の新たな氏族序列であり、第一に「真人」、第二に「朝臣」、第三に「宿禰」、第四に「忌寸」…とあり第八までが定められました。
時系列にすると、
天智3年(664) 甲子の宣で氏族の大・小と、伴造の氏が整理される。
天武13年(684) 八色の姓が定められる。
大宝2年(702) 天智3年の時に整理の対象にされず、なおかつ「八色の姓」で忌寸以上の姓とされた氏族はすべて申し出ることと命じる。
という流れになります。

今回の詔を考えるうえで重要なのは、天智朝の氏上の整理と、天武朝の姓の再編が、必ずしも完全に対応していなかった可能性がある…ということです。

天智3年から38年経ち、その間に「八色の姓」も始まっていたため、氏族の再整理が必要になったということでしょうか。
次回の記事 大宝2年10月〜11月
工事中




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