
こんにちは、みちのくです☀️
今回は、飛騨国の神馬の話です。なんと、この馬一頭のおかげで全国の税が軽減されるんですよ。

私のところにも一頭来てほしいですね。
大宝2年(壬寅・西暦702年)現代語訳・解説 4月
賀茂祭で、群衆が武器を持って騎射をすることを禁ずる

夏 4月3日(庚子) 賀茂神を祭る日に、徒衆(群衆)がより集まって仗(刀や戟などの武器)をとり、騎射することを禁じた。ただし当国(山背国。京都府)の人はこの禁止の範囲に含めなかった。
禁祭賀茂神日。徒衆會集執仗騎射。唯當國之人不在禁限。
賀茂神を祭る日、つまり賀茂祭のことです。
4年前の文武2年(698)3月21日にも、大勢が集まって騎射をすることを禁じる命令が出されています。
ただし今回は賀茂社のある山背国の人による騎射は認められました。

わずか4年後に再び禁令が出されているということは、騎射の全面禁止は反発が強かったのかもしれないですね。

この記事を素直に読むと、山背国の人であれば武器を持って集まって良いと解釈できそうですが…どうだったのでしょう。
祥瑞(飛騨国が神馬を献上する)

4月8日(乙巳) 飛騨国が神馬を献上したため、天下に大赦した。ただし、盗人はこの赦に含めなかった。
飛騨国司の目(国司の四等官の第4)以上と神馬が発見された郡の大領(郡司の長官)には、それぞれ位を一階進ませ、差をつけて禄(給与)を賜った。
百姓に3年間、税や労役などの負担を免除した。
神馬を捕えた僧・隆観の罪を免じて入京させた【流されていた僧・幸甚の子である】。
また、すべての親王以下、畿内の位階を有する者に物を賜った。
諸国の今年の田租を免じ、並びに庸の半数を減じた。飛騨國獻神馬。大赦天下。唯盜人不在赦限。
其國司目已上。出瑞郡大領者。進位各一階。賜祿有差。
百姓賜復三年。
獲瑞僧隆觀免罪人(入か)京。〈流僧幸甚之子也。〉
又普賜親王以下畿内有位者物。
免諸國今年田租。并減庸之半。
神馬

神馬と聞くと神社に奉納する馬をイメージしますが、ここでは「祥瑞」としての神馬です。

具体的にはどんな馬が神馬だったのですか?

神馬とされる条件は、体色が青みがかった黒毛で、たてがみと尾が白のものといわれています。『続日本紀』の神馬に関わる記事には他に次のようなものがあります。
天平3年(731)12月2日(丙子) 甲斐国が神馬を献上した。その馬は黒い体に、白いたてがみと尾があった。
同年12月21日(乙未) 献上された神馬を調べてみると、『符瑞図』には「神馬は河の精である」とある。『孝経援神契』には「王の徳が遠く山にまで至ったときに、神馬が出現する」とある。まことにこれは大瑞である。
神護景雲2年(768)9月11日(辛巳) 『孝経援神契』には「王道による政の徳が、遠く山にまで行き渡ったとき、沢から神馬が出現する」とある。

神馬は「河の精」で、天皇の徳治が実現されたとき、深山の沢から姿を現す…ですか…。初めて聞きましたし、今の私たちには馬にそういうイメージってありませんよね。
飛騨国の百姓の税や労役などを免除
「百姓に3年間、税や労役などの負担を免除した」というのは文脈から考えて、飛騨国の百姓を対象にしたものだと思います。
ここで興味深いのは、
養老令では飛騨国の特例として、匠丁(木工の技術者)を中央に派遣する代わりに庸調を免除されることとなっていることです。
養老令 賦役令第39【斐陁国条】
斐陁国(飛騨国)は庸調を共に免除する。里ごとに匠丁を10人を選ぶ。一年交替とする。
ただし、大宝令においては「庸調」の部分は「課役」と書かれていたとされています。
律令において「課役」というのは一般的には庸調と雑徭を指すものです。なお、田租は課役に含まれません。

じゃあ今回改めて免除されなくても、もとより課役は免除されてたんですね。
今回の負担免除は具体的には何を対象にしたものだったんでしょうね?

そこは謎で、課役に田租は含まれないので、これも3年間免除するということかもしれません。今回の恩典では諸国が「この年」の田租を免除される一方、飛騨国では「3年間」という優遇を施したものとも考えられます。
または、単純に大宝2年4月時点では「飛騨匠」の制度があってもまだ運用が始まっておらず、そのために百姓の庸調も実際には免除されていなかったのかもしれません。
神馬を捕らえた僧・隆観
その父・幸甚(行心)
隆観の父・幸甚は朱鳥元年(686)10月2日に起きた大津皇子の変(皇子の謀反事件)に連座したため逮捕され、10月29日、持統天皇(当時は皇后)の「詔」により飛騨へ遷された人物です。

『日本書紀』では新羅僧・行心(こうじん)とされています。
隆観はその子で、彼も飛騨国にいたようですね。

今回は神馬を発見したことで罪を許されて飛騨国から藤原に帰ってきたと。
正しくは隆観の罪ではなくて、お父様の罪だと思いますが…。
その後、隆観は大宝3年(703)10月16日条に登場し、還俗(僧侶をやめ、俗人に戻ること)しています。
杠谷樹の桙根を献上し、伊勢神宮に奉納する
4月10日(丁未) 従七位下秦忌寸広庭が杠谷樹の八尋(非常に大きいこと)の桙根を献上したため、使者を遣わしてこれを伊勢大神宮に奉った。
從七位下秦忌寸廣庭獻杠谷樹八尋桙根遣使者奉于伊勢大神宮。
「杠谷樹」はこの年の正月8日にも献上があり、これによると俗名「ひひらぎ」とされ、今でいうところの柊(ヒイラギ)に関連する樹木と思われます。
桙根とは何なのか


「根」と言っても、杠谷樹の根っこをそのまま献上したというものではなさそうです。調べてみたらいろいろと面白いことがわかりました。
「桙根」は、ヒイラギの木で作った祭祀用の矛を指している可能性が高いです。
『古事記』の景行天皇条に、倭建命(ヤマトタケル)が東征に向かう際、天皇から授かったものとして、「比比羅木之八尋矛」が登場します。

かなり古い時代からいわれがあったんですね。
矛といえば武器ですから、征討の際に天皇の王権を示すものみたいに思えます。後世の「節刀」みたいですね。
日本大百科全書(ニッポニカ)には「矛」の説明として『古事記』のこの話を引用し「比々羅木(ひひらぎ)の八尋(やひろ)矛、赤矛、黒矛などは木製で、呪術(じゅじゅつ)的な象徴的武具であったことを物語る。」としています。

他にも矛は国づくり神話の「天沼矛」などでも登場するように、神聖さを持つ武具であったことが分かりますね。だからこそ今回伊勢神宮に奉納された理由にも納得がいきます。

そういえば、大嘗宮の門前には桙と楯を立てたという記事もありました。
(文武天皇2年(698)11月23日条参照)
ただし、桙根の「根」が具体的に何を意味するのかは不明です。
詔(国造の氏を定める)
4月13日(庚戌) 詔により、諸国の国造の氏を定めた。その名は『国造記』に詳しい。
詔定諸國國造之氏。其名具國造記。
国造(くにのみやつこ、こくぞう)とは、律令制成立よりも以前から大和朝廷により任命され、地方を治めていた豪族です。天武天皇の時代に制度としての国造は廃止されたとみられますが、その後も地方で影響力を保ち、大宝律令制定後も郡司の多くは国造の中から任命されていました。
「国造の氏を定めた」というのは、「国造として認める氏族を定めた」という意味でしょう。

天武天皇の時代に制度上は終了したけど、今回のように詔で国造としての氏を定めたわけですね。

そう、それぞれの豪族の地方支配や祭祀権は朝廷から郡司に任命されることで引き続き認められていたわけですね。
実際、『続日本紀』では新たに国造を任じたという記事が散見されます。
天平元年(729)3月27日:正八位上の紀直豊島を紀伊国造に任命
天平18年(746)3月7日:外従七位下の出雲臣弟山を出雲国造に任命
など
国造記と国造本紀
『国造記』は今では失われていますが、この書を原資料に編纂し、平安時代前期の9世紀後半に完成した『国造本紀』は現存しています。
『国造本紀』は全国の約130もの国造の成り立ちや系譜を列挙しているため、重要な史料になっています。
筑紫と越後から采女と兵衛を貢上させた
4月15日(壬子) 筑紫(九州の島を指す)の七国と越後国(新潟県)に采女・兵衛を簡點(人を考査して任用すること)させ、これを貢上させた。ただし、陸奥国からは貢上させなかった。
令筑紫七國及越後國簡點采女兵衛貢之。但陸奥國勿貢。
筑紫の七国
この七国は、筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向です。
薩摩と大隅は当時は成立していませんでした。

このときはまだ「九州」ではなかったということですね。
国の領域が大きく変わった越後

越後国は前月の3月17日条で越中国の四郡が編入されたばかりです。
領域の大幅な拡張によって、越後国から采女・兵衛を徴発できる体制が整ったという可能性は考えられそうです。
陸奥国

陸奥国は最終的には今の福島県から青森県に及ぶ広大な国でしたが、この当時の陸奥国は北部の境界がが明らかではなく、『日本歴史地名大系』 「陸奥国」の解説によると、成立当初の範囲は、現在の福島県・宮城県南部が中心となっていたようです。
采女(うねめ)
采女は、宮廷で働く下級の女官です。
養老令の後宮職員令では采女に任命される条件として、
「郡司の少領(郡司の次官)以上の姉妹または娘のうち、13歳〜30歳の容姿端麗な者」とされていました。
下級女官とはいえ、天皇や皇族と比較的近い位置におり、天皇の子を産むなど深い関わりを持つ女性もいたようです。

たとえば、大友皇子(天智天皇の子)の母は伊賀采女宅子娘という女性でした。おそらく伊賀の豪族の女性でしょう。

もともと容姿端麗な人を選んで採用しているのですから、そうなってもまったく不思議ではないですね。
兵衛(ひょうえ)
兵衛は、左右兵衛府に所属して内裏の門の警備を行い、天皇の行幸のときは行列の前後を守備しました。
采女と同じく、郡司の子弟から選抜され、体力があり、身体が丈夫で弓馬の術が優れている男性が郡ごとに1人選ばれました(養老軍防令「兵衛条」)。
そして、貢上される采女と兵衛は一体の関係となっており、同じく「兵衛条」には、
・采女を貢進する郡は、兵衛を貢進しない。
・一国の郡のうち、3分の2は兵衛、3分の1は采女を貢進する。
とされていました。

兵衛の方が多く求められていたんですね。
次回の記事 大宝2年5月〜6月





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