【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 大宝2年⑧ 10月〜11月 三河国。持統上皇、最後の行幸

大宝年間(701-704)
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
持統太上天皇は三河国まで行幸されましたが、その目的は史料に記されていません。謎です。

いづみ
いづみ

一か月半もお出かけして、行き先だけ報告しておしまいとは…
お土産とかはなかったんですかね?




大宝2年(壬寅・西暦702年)現代語訳・解説 10月〜11月

卒去(路登美)

冬 10月1日(乙未きのとひつじ) 従四位下路みち真人登美が卒しゅっし(四位、五位が亡くなること)た。

從四位下路眞人登美卒。

経歴(日本書紀より)

みちのく
みちのく

彼の経歴は『日本書紀』で確認できます。
名前の「登美」は、「跡見」や「迹見」とも表記されています。

天武天皇14年(685)9月15日条 南海使者に任命され、国司・郡司や人民の実情を巡察した。
持統天皇11年(697)2月28日条 春宮大夫に任命され、皇太子・珂瑠かる皇子(後の文武天皇)に仕えた。

いづみ
いづみ

文武天皇が皇太子の時にお世話になった人なんですね!

みちのく
みちのく

そうなんです。
この時の天皇の思いが語られているわけではありませんが、思い出深い人だったかもしれません。

登美の経歴が確認できるのは『日本書紀』のみで、『続日本紀』ではこの条だけです。

路真人(みち の まひと)

「真人」姓は天武天皇の時代の新たな氏族序列制度「八色やくさの姓かばね」のひとつで、8種のうち最上位です。
天皇の系譜から分かれ、皇族から臣下になった氏族(皇別氏族)に授けられました。

みちのく
みちのく

路氏は、第30代敏達天皇の皇子・難波皇子の子孫とのことです。
敏達天皇は聖徳太子の伯父にあたる方ですね。




隼人平定のお礼参り。薩摩に柵と兵士を配置する。

10月3日(丁酉ひのととり) これより先、薩摩の隼人を征するときに、大宰府管内の九所の神に祈祷をした。実に神威を頼みとして、遂に荒々しい賊を平定することができた。ここに幣帛へいはく(神への供え物)を奉ってその神助に報いた。
 唱更しょうこう国司(辺境の守備に当たる国の国司か)【今の薩摩国である】たちが次のように言上した。
「 国内の要害の地において柵を建て、守備兵を置いて守らせます」と。
 これを許可した。

先是。征薩摩隼人時。祷祈大宰所部神九處。實頼神威遂平荒賊。爰奉幣帛以賽其祷焉。
唱更國司等〈今薩摩國也。〉言。
於國内要害之地。建柵置戍守之。
許焉。

これは先の薩摩隼人の征討に関する記事ですね。

大宰府の九社にお礼参り

2ヶ月ほど前にさかのぼる8月1日条によると、薩摩・多褹(種子島周辺の島々)を朝廷の命令に従わないことを理由に征討し、戸口を調査し官吏を置くこととなりました。

みちのく
みちのく

征討に先立ち大宰府管内の九社の神に祈願していたようで、今回は征討が無事に完了したことへの「お礼参り」が行われたというものです。

「唱更」とは?

唱更(しょうこう)という語は、交替で軍事的な勤務に就くことを意味しており、今回の記事の場合で言えば、「国内の要害の地」を防衛する任務のことを言っているものと思われます。

つまり「唱更国司」というのは、固有の国名「唱更国」の国司ではなく、
「『唱更』という、防衛任務を帯びた国」の国司ということになります。

みちのく
みちのく

ただし、この部分は解釈が分かれていて、「唱更国」という固有名の国が実際に成立していたとする研究もあります。

いづみ
いづみ

本文の注記にも【今の薩摩国である】とありますもんね。
「唱更国」が固有名でないとしたら、「じゃあ大宝2年当時は何という名前の国だったの?」となります。

みちのく
みちのく

そう。鹿児島県は大宝2年に「薩摩国が設置」されたと解説していますが、実際に当時から「薩摩国」と呼ばれていたとは限らないことに注意が必要です。

鹿児島県と鹿児島市で解釈が二分している

鹿児島県の解説では、「唱更国司」を辺境守備の任務を負った国司と解釈しています。
薩摩国の成立(鹿児島県)

一方で鹿児島市は、「当初国名は「唱更」国と表記されていたが、その後、和銅二年にいたるまでのある時期に「薩摩」国と改められたものと思われる。」
と解説して明確に「唱更国」という名前の国があったと解釈しています。
「薩摩国の創置」(鹿児島市,PDF)

いづみ
いづみ

これほど県と市ではっきり解釈が分かれるというのも珍しいのでは…?

みちのく
みちのく

和銅2年(709)6月28日条には「薩摩・多禰両国司」とあり、国名が史料に明確に現れます。

柵と守備兵の設置

柵は防衛設備ですが、どの程度の規模で、どのような形の施設だったのかは分かりません。
他の例では、文武天皇2年(698)12月21日条に見える、蝦夷対策として越後国に置かれた「石船柵」、
和銅7年(714)10月2日条に見える、同じく蝦夷対策して出羽国に置かれた「出羽柵」があります。

いづみ
いづみ

征討が完了し、官吏も設置されたようですが、未だ情勢については予断を許さない状況だったことがうかがえますね。

みちのく
みちのく

そうですね。この約18年後の養老4年(720)2月にも隼人の反乱が記録されているので、そういうことなのかもしれません。



三河国行幸のため鎮祭を行う

(続き)

 鎮祭により諸神を祭った。参河国(三河国)へ行幸しようとしていたためである。

鎭祭諸神。爲將幸參河國也。

行幸に先立ち神々を祭ったという記事ですが、次の10月10日条に示されるように、この行幸の主体は文武天皇ではなく、持統太上天皇(持統上皇)です。

いづみ
いづみ

9月19日に伊賀・伊勢・美濃・尾張・三河の五国に行宮の造営を命令したことは前回取り上げましたね。

9月19日条に移動します。

鎮祭

鎮祭(ちんさい、しずめまつり)は、諸神を祭り、その土地を鎮め固めるための祭儀です。

『精選版 日本国語大辞典』では、今回の記事が「鎮祭」の初出例として挙げられています。

今回の祭祀については、行幸の安全や平穏を祈る意味があったと考えられます。
ただし、具体的にどの神々を祭ったのか、どこで祭祀を実施したのかは記されていません。

『延喜式』に興味深い記述がある

10世紀に成立した『延喜式』には、行幸に直接関連する祭祀が規定されています。

巻3「臨時祭」
行幸の時の臨時の祭祀で、宿泊を伴わない場合は行わないという規定です。
原文:行幸時祭〈若不経宿不祭〉

その次には、次の祭祀が列挙されています。

  • 路次神幣:行幸の道中にある神々への幣帛
  • 堺祭:境界で行われる祭祀
  • 大殿祭:殿舎に関する祭祀
  • 御井並御竈祭:井戸や竈に関する祭祀
みちのく
みちのく

これらの祭祀は注目に値します。
「大殿祭」は造営された行宮を鎮める目的があり、「御井並御竈祭」はその行宮で使われる井戸や竈の利用に関わるものと見て良いでしょう。

いづみ
いづみ

もちろん延喜式は後世のものなので、大宝2年の時に同じ祭祀が行われかは分かりませんが、共通性は見出せそうですね。



持統上皇の三河国行幸が始まる

三河国(画像:ウィキペディア)

10月10日(甲辰きのえたつ) 太上天皇(持統上皇)が参河国に行幸した。よって諸国に今年の田租を納めさせないこととした。

太上天皇幸參河國。令諸國無出今年田租。

太上だいじょう天皇とは、譲位した天皇のことであり、一般的には略称として「上皇」と呼ばれます。
文武天皇の祖母であり、前の天皇である「持統上皇」ですね。

「行幸した」というのは、到着した日付ではなく、藤原京を出発した日を指すと思われます。

いづみ
いづみ

現在の暦だと、11月上旬頃でしょうか。長距離のお出かけをするには季節的にぎりぎりのタイミングに思います。

みちのく
みちのく

たしかにそうですね。
実際、藤原宮への帰着は11月25日ですから現暦では1月頃。冷え込みはどうだったのかは気になります。
ともかくも持統上皇の三河国行幸がスタートしました。

次の行幸に関わる記事は11月13日条です。

諸国の田租の免除はすでに4月に行われている

今回の行幸にあたり、諸国の田租を免除するとありますが、実はこの年は4月8日にも諸国の田租の免除が行われています。同じ年の田租が二度免除されたように見えるため、この点は古くから問題とされていました。

もっとも「諸国」とは具体的にどの国を指すのかは明らかではないものの、「全国」という意味ではないため、4月に対象とならなかった国が今回免除とされたとも読み取れます。

いづみ
いづみ

今回の田租免除は行幸に関わるものなので、たとえば、行宮の造営に関わった国などがその対象になったという推測が可能ですね。




祥瑞(嘉禾)の献上

10月11日(乙巳きのとみ) 近江国が嘉禾かか(めでたい穀物)を献上した。異なる畝から生えたそれぞれの穂が一つに結ばれたものだった。

近江國獻嘉禾。異畝同穗。

嘉禾(かか)は祥瑞(めでたい物。吉兆)として知られるものです。
何度か献上例があり、『日本書紀』天武天皇8年(679)8月22日条にも「異畝同穎」とあり、ほぼ同様の記述があります。
『続日本紀』では和銅5年(712)正月4日にも見え、当記事で詳しく解説しています。

いづみ
いづみ

行幸出発の翌日に献上ですか。
当時としてはどう受け止められたでしょう?幸先は良さそうですよね。




大宝律令を全国に広める

10月14日(戊申つちのえさる) 律令を天下諸国に頒下はんか(上位の機関から下位の機関へ文書などを配り渡すこと)した。

頒下律令于天下諸國。

大宝律令の、「律」と「令」の双方を全国に行き渡らせました。

いづみ
いづみ

これまで律令の講義や頒布を行なったという記事を何度も見てきましたが、未だに全国に伝わってなかったんですね。

みちのく
みちのく

今の時代のように法律を全国一律、一斉にというのは不可能ですからね。
しかも律令の法典は内容が多岐に渡り、その量も膨大です。

いづみ
いづみ

よく考えたら、当時は法文を一文字一句毛筆で手書きしてますもんね…。

大宝律令の制定から、全国頒布までの流れ

年月日出来事
大宝元年(701)3月21日新令に基づいて官名・位階などを改める。
同年4月7日下毛野古麻呂らに初めて新令を講義させ、親王や諸官人に学習させる。
同年6月8日諸政務を新令に従って行うよう命じ、七道に使者を派遣して周知する。
同年8月3日刑部親王・藤原不比等らによる大宝律令の撰定が完了する。
同年8月8日明法博士を西海道を除く六道に派遣し、新令を講義させる。
大宝2年(702)2月1日初めて新律(大宝律)を天下に頒布する。
同年7月10日内外の文武官に新令を読み習わせる。
同年7月30日初めて律を講義する。
同年10月14日律令を天下諸国に頒下する。
みちのく
みちのく

今回の律令頒下で、全国周知、施行について一応の区切りはついたようです。




詔(孝順の家について)

10月21日(乙卯きのとう) 詔により、上は曽祖(曽祖父。曽祖母も含み得る)から下は玄孫(四世孫)に至るまで、奕世えきせい(代々)孝順の者は、その戸の課役を免除し、門閭もんりょ(村里の入り口にある門)に掲げて義家として表彰することとした。

詔。上自曾祖。下至玄孫。奕世孝順者。擧戸給復。表旌門閭。以爲義家焉。

孝順は、親・祖父母・年長のきょうだいなどを始めとした尊属に孝行し、その言うことをよく聞く様子のことをいいます。

重要なのは、今回の詔では恩典を個人ではなく、代々孝順を守り続けた「家」そのものを表彰の対象としていることだと思います。

養老令の規定

後の養老令の「賦役令」にはこれに直接かかわる条文があります。

「孝行な子や孫、義夫・節婦など、その行いが国郡に知られるほど優れている者は、太政官に報告して天皇に奏上し、その門閭に表彰のしるしを示すこと」

「その戸に属する者はすべて課役を免除すること。さらに、その誠意が特に優れている者には、別途褒賞を加えること」

みちのく
みちのく

これは儒教思想で、親や兄弟といった目上を敬うことは倫理・道徳の根幹でした。
この観念が「君臣」という天皇への忠誠にも広げられ、国の基本的な倫理観となりました。

いづみ
いづみ

代々理想的な孝順の人がいる家は国を挙げて表彰するということですね。
でも村の入り口に名前を書かれるのは少し恥ずかしいかも。

表彰の実例としては、和銅7年(714)11月4日、霊亀元年(715)9月2日などにあります。




三河国行幸の帰路(1) 尾張国

11月13日(丙子ひのえね) 行幸が尾張国(愛知県西半部)に到着した。
 尾治連おはりのむらじ若子麻呂、牛麻呂に宿禰すくねの姓かばねを賜った。
 尾張守従五位下多治比真人水守に封戸ふこ(租庸調として納められる物品を給与にすることを認める制度で、これに割り当てられた戸)を十戸賜った。

行至尾張國。
尾治連若子麻呂。牛麻呂。賜姓宿祢。
國守從五位下多治比眞人水守封一十戸。
みちのく
みちのく

持統上皇の三河国行幸の記事ですね。
といっても、これはもう帰り道の話で三河から尾張国まで戻ってきたということです。

藤原宮を出発したのが10月10日ということを考えると、この尾張国到着記事は「復路」であると見るのが自然でしょう。
また、藤原宮・三河国間の移動日数を10日〜14日ほどと見積もると、三河での滞在日数は半月〜3週間ほどだったと思われます。

三河国に何日に到着し、どんな活動をしていたのか、一切不明

いづみ
いづみ

ええ、三河国にいつ到着して何をしてたのか一切情報なしですか…?

みちのく
みちのく

はい…。残念ながら一切の記録は残っていません。
この点について愛知県豊川市の文化財係も「三河における古代史上の最大の謎ともいえるであろう」としています。

⑲ 持統上皇行在所伝承地(御津町商工会)

行幸の通過国に恩典を施す

尾治連むらじ若子麻呂と牛麻呂は「尾治」(おはり)という氏から、尾張国の豪族でしょう。
二人に与えられた「宿禰」の姓(かばね)は、「八色の姓」の序列三番目に位置し、「連」は七番目であるため、明確に氏族の地位が引き上げられたことになります。

『万葉集』には行幸の歌が収録されている

『万葉集』には三河国行幸の際に詠まれたことが題詞から確実なものが二首あります。

「引馬野」は三河の地名か

巻第一 雑歌 長忌寸意吉麻呂 歌番号:57 
大宝二年 太上天皇が三河国に行幸した時の歌

引馬野ひくまのににほふ榛原はりはら入り乱れ 衣にほはせ旅のしるしに

(引馬野にて、色づく榛の木の原で、みんなこぞって衣を染めなさい。旅のしるしに)

いづみ
いづみ

「旅のしるしに衣を染めなさい」…ですか!
旅の思い出に服を染めるって、なんだかすごく風流というか洒落てますね。
持統上皇も服を染められたのでしょうか。

ここで問題になるのが「引馬野」の所在地。
現在の愛知県豊川市御津町御馬みとちょうおんま付近とする説と、静岡県浜松市の曳馬付近とする説があります。

みちのく
みちのく

前者であれば三河国内で詠まれたことになりますが、後者なら遠江国です。所在地は確定していません。

いづみ
いづみ

いや、普通に考えて三河国ではないですか?
だって遠江国にはそもそも行幸してないんですから。

みちのく
みちのく

ご指摘もっともです。ただ浜松には中世から「引馬」という地名が確認できるようで、これが遠江説の根拠となっています。
とはいえ『万葉集』の題詞には「三河国」とあるのですから素直に読めば、引馬野も三河国と見るべきでしょう。

安礼の崎

巻第一 雑歌 高市連たけちのむらじ黒人 歌番号:58

いづくにか舟泊はてすらむ安礼あれの崎 漕ぎ廻たみ行きし棚なし小舟

(今頃どこに舟を停泊しているのだろう。安礼の崎を漕ぎめぐって行った、あの棚なし小舟は)

いづみ
いづみ

詠み手が船に乗っているのではなく、漕ぎ去っていった小舟の行方を気にかけている歌ですね。
何となく印象に残っていて、「あれ、今頃どうしてるんだろう」みたいに気になることって確かにあります。

安礼の崎は三河湾沿岸とする説があります。
特に、愛知県豊川市御津町御馬付近には、江戸時代・延享3年(1746)の古地図に「安礼野崎」という地名があり、有力とされています。

みちのく
みちのく

御津町御馬は先ほどの「引馬野」の歌の舞台ともされており、場所が正しければ、二歌はこの地の「野」と「崎」の双方をそれぞれ歌ったということになりますね。

③ 万葉遺跡 安礼崎 / 御馬湊(御津町商工会)


豊川市御津町御馬




三河国行幸の帰路(2) 美濃国

11月17日(庚辰かのえたつ) 行幸は美濃国(岐阜県南半部)に到着した。
 不破郡の大領(郡司の長官)宮勝みやのすぐり木実に外従五位下を授けた。
 美濃守従五位上石河朝臣子老に封戸を十戸賜った。

行至美濃國。
授不破郡大領宮勝木實外從五位下。
國守從五位上石河朝臣子老封一十戸。

尾張国から美濃国まで戻ってきました。その所要の日数は4日。

いづみ
いづみ

「戻ってきた」とは言っても、尾張から藤原宮に向かう最短のルートで考えれば美濃国って通過する必要は本来なさそうですよね。

みちのく
みちのく

それは確かにそうで、興味深いところです。伊勢方面に行かず、わざわざ迂回して山の方に向かってますからね。実際、この後の11月22日条では伊勢に到着しています。

今回注目すべきは、外従五位下に叙された「不破郡大領の宮勝木実」です。
宮勝木実(みや の すぐり このみ)は現在でも神社の祭神として祀られています。

神社の由緒によると、木実は壬申の乱(672)の際に大海人皇子(後に天武天皇となる)を支持し、不破の要衝を守ることで勝利に貢献したといいます。その功績によって不破郡の大領となり、今回の持統上皇の行幸に際して外従五位下を授けられた、という伝承です。

岐阜県不破郡垂井町宮代代峯1734-1 大領神社(たいりょうじんじゃ)

敢えて不破を経由した可能性 壬申の乱の旧跡を訪ねたか

いづみ
いづみ

9月19日にはすでに美濃国にも行宮の造営を命じていますから、美濃への訪問は出発前から計画されていたことになりますよね。

みちのく
みちのく

宮勝木実の話の通り、不破は壬申の乱との繋がりが深く、大海人皇子はここを本拠として近江朝廷と戦いました。持統上皇にとっても、夫の天武天皇が勝利を収めるうえで重要だった土地です。
しかも、大宝二年(702)は壬申の乱(672)からちょうど30年後というのも象徴的です。

このことから、壬申の乱の旧跡を訪ねることが行幸の目的の一つだったのではないかというのは、十分推測できると思います。




三河国行幸の帰路(3) 伊勢国

伊勢国(画像:ウィキペディア)

11月22日(乙酉きのととり) 行幸は伊勢国に到着した。
 伊勢守従五位上佐伯宿禰石湯に封戸を十戸賜った。

行至伊勢國。
國守從五位上佐伯宿祢石湯賜封一十戸。

行幸が美濃の不破から伊勢国に戻ってきました。所要日数は5日間。

「円方」を訪れたか 『万葉集』より

巻第一 雑歌 舎人娘子とねりのをとめが従駕(行幸に従うこと)して作る歌 歌番号:61 

ますらをのさつ矢手た挟み立ち向ひ 射る円方まとかたは見るにさやけし

(勇ましい男子が幸矢さつや(幸の多い矢。矢の美称)を手に挟み、立ち向かって射る円方の景色は見るほどにすがすがしいものです)

これは題詞で明確に書かれてはいないものの、今回の行幸の歌と思われ、伊勢国の「円方」の情景が歌われています。

みちのく
みちのく

弓矢の「的」と、「円方」の「円まと」が掛かっています。
この歌は、武人が矢を射る「的」に掛けて、円方という土地の景色を讃えたものです。

実際に行幸先で射的が行われたのかは分かりませんが、武人が弓矢を構える勇ましい姿が、地名「円方」を導くための序詞じょことば(ある特定の語句を導き出すために前置きとして置かれる表現技法)として用いられています。

円方は、現在の三重県松阪市東黒部町付近に比定される古代の地名です。


万葉遺跡 円方




三河国行幸の帰路(4) 伊賀国

11月24日(丁亥ひのとい) 伊賀国に到着した。
 行幸で通過した尾張、美濃、伊勢、伊賀国の郡司たち、及び百姓にそれぞれ差を付けて叙位を行い、禄を賜った。

至伊賀國。
行所經過尾張。美濃。伊勢。伊賀等國郡司及百姓。叙位賜祿各有差。

伊勢国から伊賀国に戻ってきました。その間の所要日数は二日。

ここでは、これまでの行幸全体のまとめとして、通過国の郡司たち、そして百姓に叙位や賜禄を行ったことが記されています。ただ、この中になぜ三河国が含まれていないのかは不明です。

なお、尾張・美濃・伊勢の国守には封戸をそれぞれ10戸賜っているところ、伊賀国守にはそういった記録はありません。

名張に行宮があったか

巻第一 雑歌 歌番号:60 長皇子ながのみこの御歌みうた

宵よひに逢ひて朝面無あしたおもなみ名張なばりにか 日け長く妹いもが廬いほりせりけむ

(夜に会い、翌朝には顔をなばる(「隠す」の古語)という名張の地で、あの子は長い時を仮住まいしていたのだろう)

みちのく
みちのく

長皇子は天武天皇の皇子。名張は伊賀国の南部にあり、今の名張市です。
妻が行幸に従っており、藤原京に残っている皇子は、名張で仮暮らしする妻の様子を思っているようです。

行幸に従っていた人が名張で仮暮らしをしたということは、9月19日に造営された行宮もその付近にあった可能性が高そうです。

いづみ
いづみ

奥さんを行幸に送り出したんですね。持統上皇は女性ですから、お付きの人も女性が多く採用されたんでしょうね。




三河国行幸の帰路(5) 藤原宮に帰着

11月25日(戊子つちのえね) 車駕しゃが(天皇の車。ここでは持統上皇自身を指す)は、参河国の行幸から帰還した。
 従駕(行幸に従うこと)の騎士の調を免除した。

車駕至自參河。
免從駕騎士調。
いづみ
いづみ

これで10月10日に始まった約1か月半の三河国行幸が終了しましたね。

伊賀国からの帰路にかかった日数は1日で、尾張国からの日数は12日間です(三河国をいつ出発したのかは記録がないため総日数は不明)。

みちのく
みちのく

行幸の往路のことや、三河国内での活動などが一切『続日本紀』に記録されていないのは惜しいなと思います。

持統上皇の最後の行幸になった

みちのく
みちのく

この行幸の終了から間もなく、持統上皇は病に倒れます。

日付出来事
11月25日三河国行幸から還幸
12月13日持統上皇の病気により、大赦や仏教儀礼を実施
12月22日持統上皇が崩御

このことから、今回の三河国行幸が結果的に持統上皇の最後の行幸となりました。

いづみ
いづみ

還幸から1ヶ月経たずして亡くなられてしまったんですね。
やはり寒い時期での行幸が体に負担だったのでしょうか…。



次回の記事 大宝2年12月

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