
こんにちは、みちのくです☀️
出羽国、今の秋田県と山形県あたりを領域にした国ですが、和銅の当時は辺境の国で、和銅5年、すなわち2年前にできたばかりの新参の国です。

養蚕、つまりカイコを育てることが始められたのですね。
芋虫は苦手ですが蚕は小学生の頃育てたことがあるので愛着があります✨
和銅7年(甲寅・西暦714年)現代語訳・解説 2月
日蝕

2月1日(己丑) 日蝕があった。
日有蝕之。
NASAによると、この時の日蝕は部分日蝕で、日本、特に平城京周辺からも観測可能だったとみられ、14:44頃に太陽が2割くらい隠れたようです。
ちなみに皆既日蝕としてはインドネシア方面で観測できたようです。
⭐️参考 NASA Eclipse Website
“常”を規格にした布を売買することを禁じる
2月2日(庚寅) 次のように制定した。商布(調庸に出さない交換用の布)は、2丈6尺(約8メートル)を以って1段とし、”常”の単位を用いてはならない。もし常布を蓄えて、私的に生業としている者があれば、今年の12月以前に全て売却するか、又は使用し終わること。もしその貯えが多く全てを売ることができない者は官司に納入し、官は妥当な対価を支払うこととする。この期限が過ぎた後で売買を行なった場合は官物として没収する。糺告(不正を役所などに通報すること)があれば、その布はすべて糺告した者に給うこととする。関所のある国の国司は、旅をする商人が関所を通過する際に厳重に調べ、使者を遣わして言上すること。
制。以商布二丈六尺爲段。不得用常。如有蓄常布。自擬産業者。今年十二月以前。悉賣用畢。或貯積稍多。出賣不盡者。便納官司与和價。或限外賣買。沒爲官物。有人糺告。皆賞告者。其帶關國司。商旅過日。審加勘搜。附使言上。
常布とは?

これは、「常布」の売買を禁じたものです。
常布とは「常」という長さ単位を規格にした布で、1常=約4メートルです。
7つのことが決められた
今回の記事を分解すると、具体的には以下の7つのことが決められました。
- 商売に用いる布は、2丈6尺=1段とする
- 従来の「常」という単位の使用は禁止する
- 常布の売買を生業にしている者は、12月以前に全部売るか、自ら使用すること
- 全部を売り尽くせない者は官に納入すること。その場合、官は対価を支払う
- 12月を過ぎても売買を続けていたら、その常布は没収する
- この不正を通報する者には、その布は通報者に与える
- 関所を通過する商人を厳重に調べて、使者を遣わし報告すること

常布の追放がかなり徹底してますね、なぜここまでするのでしょう?

これについては、当時の商取引や貨幣流通の背景を知らないと伝わらないと思います。
常布は当時、価値換算の基準だった

2年前の(和銅5年)12月7日(辛丑)条では「諸国から送られる調・庸の物を銭に換算するときは、銭(和同開珎)5文をもって布1常を基準とせよ」とあるように、市場において常布は銭貨と同等の価値基準として存在していたことが分かります。

和同開珎発行から7年目、政府はこれまで布や米などの現物が大きな役割を持っていた取引のあり方から、銭を用いた取引へ近づけるため、和同開珎の流通・浸透を図ってきました。

蓄銭叙位令や、街道の端にお米を売買できる場所を設置したりとか…ありましたね。

ですが、社会には依然としてこの「布1常=和同開珎5文」という、「常布あっての銭」の感覚が強くありました。国家は、その常布を市場から退場させることにより、銭を市場の基準に置きたかったのです。

つまりこの時、銭はまだ「布によって価値を説明される存在」に過ぎなかったと…。
これが今回の政府の徹底した規制だったわけですね。

現代の僕たちは、お金の価値を考える時には「円」を使いますよね。円以外に、「この本は布4メートル相当だ」とかいう基準は普通はありません。和銅の政府は、こういう感覚に近付けていくために「常布」を取り除こうとしたわけです。
今後の布の取引には「段」を使う
と言っても、もちろん商布そのものが消えたわけではなく、「常」という単位を止め、新たに「段」を用いることとしました。1段=2丈6尺であり、1常の2倍の長さです。
つまり、消えたのは「常」規格による布の取引だけですが、これを禁止することにより強制的に従来の価値基準を市場から消そうとしたわけです。

徹底した禁止で政府の本気度が感じられます。
上総国が言上

(続き)
上総国が次のように言上した。「京は遥かに遠く、調を貢納する負担は極めて重たいです。よって、細布の納品により負担を軽減することを要請します。その長さは6丈(約18メートル)、幅は2尺2寸(約65センチメートル)とし、1人あたり2丈(約6メートル)を納め、3人を以って1端とします」と。
これを許可した。上総國言。去京遥遠。貢調極重。請代細布。頗省負擔。其長六丈。闊二尺二寸。毎丁輸二丈。以三人成端。
許之。
細布とは?

細布(さいふ)は、細い麻糸・苧麻(カラムシ)糸などで織った、上質で軽めの布と考えてよさそうです。
辞書でも、「奈良・平安時代、細い麻糸などで織った上質の布」と説明され、原料は麻・苧など、一般の調布よりも長く、軽い布と説明されています。
なので「細布」の「細」は、単に幅が細いというより、むしろ、調として納められる布よりも「繊細で軽く上質である」という意味だと思います。

つまり、上総国の言い分としては、「京から遠過ぎて調を運ぶ負担が重すぎる。でも細布に替えれば、かなり負担を減らせる」ということなんですね。
しかも、調の布よりも上質だから、中央にとっても納得できる提案だったと。

中央と上総国でWin-Winだったわけです。
上総国には細布を納品できる下地があったようで、後に有名になる上総細布や望陀布(望陀郡で織られた最高級の布)のような高品質の麻布生産があります。

上総特産品になったんですね✨
もしかしたら、この和銅7年の細布納入が認められたから生産が盛んになって、それが品質の向上に繋がったのかも?
詔(人民のため、糸・綿・布を備蓄させる)
2月3日(辛卯) 次のように詔した。
「 人は衣食が足りて礼節を知る。身が貧窮に苦しむ時は競って姦詐(うそや計略で人を陥れようとすること)をなす。よって、今、絁・糸・綿・布の調を納めている国は、調庸で納める物の他、1人【15歳以上65歳以下の者をいう】ごとに糸1斤・綿2斤・布6段を備蓄させ、生活の元手とさせ、窮乏に苦しませてはならない。
国司と郡司はよく監察を加え、務めてその数を備蓄させた者は、考(勤務考査の評価)を一等加える。また、里長(郡の下にあり、50戸を1単位とした里を監察する)はその年の調を免除する。もし虚妄(虚偽)を報告すれば、国司と郡司はただちに解任とし、里長からは調を徴収し、その職掌を停止する」と。詔曰。
人足衣食。共知礼節。身苦貧窮。競爲姦詐。宜今輸絁絲綿布調國等。調庸以外。毎人儲絲一斤。綿二斤。布六段。〈謂年十五以上。六十五以下者。〉以資産業。无使苦乏。
國郡能加監察。務依數儲備者。加考一等。或里長者免當年調。若以虚妄。顯稱。國郡司即解見任。里長徴調止掌。
詔により、人民が調として納める「絁・糸・綿・布」の他、別枠で貧窮に備えるための「糸・綿・布」を人民各自に用意することを、国司・郡司に命じたものです。

全部を調で持っていかれてしまっては人々の生活は危機になりますからね。
国司と郡司は各世帯を見てまわり、糸1斤・綿2斤・布6段という数量をそれぞれに備蓄させることを達成できれば、勤務考査に加えることとし、里長は調を免除することとなりました。

ただし、嘘の報告をしたら国司と郡司は解任とし、里長は調の免除は無しとされた上、職掌を停止することとなりました。国司・郡司と違い、里長はクビになるわけではないようですが、仕事はできないようです。

でも新しい里長が選べなかったらその里は困ってしまうのでは?
里長は国・郡の下にある「里」を統率した存在で、画一的に50戸を1里としていました。里長は現地の有力者を任命していたようです。里長が職務停止のままではその里が回らないのはその通りで、実務上では、郡司の指導のもとで何とか対応していたものと思われます。

里のナンバー2を事実上の「里長」として業務を行わせた…などですね。
氏上を任命する
2月9日(丁酉) 従五位下大倭忌寸五百足を氏上(氏の代表者、首長)とし、神の祭りを司ることとした。
以從五位下大倭忌寸五百足爲氏上。令主神祭。

氏上に神の祭祀を行わせたという記事ですね。疑問なのですが、一般論として氏上がその氏神を祭るというのは普通のことなのではないですか?
なぜわざわざ『続日本紀』に独立した記事を立てたのでしょうか?

ナイス疑問です。確かに氏上が氏神を祭るのは一般的であり、大倭氏だけの特別ではありません。なので、これは単なる大倭氏の内輪の話ではなく、国家レベルの重要な取り決めであるということになります。
大倭神社の祭祀であるとみられる
『世界大百科事典』の説明では、この和銅7年2月条について、「これは大倭神社(大和坐大国魂神社,《延喜式》)を氏神としてまつったことをさす。」とあります。(大倭忌寸五百足(コトバンク))
大倭神社は、大倭氏だけの狭い氏社ではなく、かなり国家中央の祭祀と近い神社です。
というのも、『日本書紀』持統天皇6年(692)5月26日条には、藤原京造営を伊勢・大倭・住吉・紀伊大神に奉告したとあり、同年12月24日条には新羅の調を伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足に奉ったとあります。
後の『延喜式』でも「大和社三座」は名神祭・祈雨神祭などに見え、朝廷祭祀の対象となっています。(神道・神社史料集成(古代)大和坐大国魂神社 國學院大学デジタルミュージアム)

これは単なる氏族内部の話ではなく、大倭国の神を祭る権限を誰に担わせるかという、律令国家の祭祀秩序に関わる任命だった可能性が高いと思います。

大倭国は平城京がある国の中心であり、天皇のおわすところですから、その国の祭祀ともなればそれは重要にもなりますよね。
⭐️参考 大和神社(天理市観光協会)
大和神社
神託により上位の姓を授けられる
『続日本紀』天平9年(737)11月22日(壬辰)条では、
「大倭忌寸小東人と大倭忌寸水守たち2人に『宿禰』の姓を賜った。その他の大倭忌寸たちには『連』の姓を賜った。神託があったためである」
とあり、これは大倭忌寸一族が神の祭りに携わる氏族であることを象徴する記事と言えます。
詔(国史の撰定事業に任命する)
2月10日(戊戌) 詔により、従六位上紀朝臣清人、正八位下三宅臣藤麻呂に国史の撰定を命じた。
詔從六位上紀朝臣清人。正八位下三宅臣藤麻呂。令撰國史。

またしても不思議な記事が登場しましたね…。
国史というとおそらく『日本書紀』のことだと思うのですが、その撰定メンバーが位階の高くない、たった2人の官人というのはおかしいです。

これは確かに不審で『続日本紀』は説明が足りてませんね。
「国史」の意味するところはおそらく『日本書紀』で合ってます。日本書紀は養老4年(720)、つまりここから6年後に完成し、当時は『日本紀』と呼ばれていたようです。
今回の記事の意味するところは、紀清人と三宅藤麻呂に「国史編纂メンバーに加わることを命じた」というものと思われます。

『古事記』はすでに2年前の和銅5年に完成しており、『日本書紀』と『古事記』は原史料を同じくするところも多いため、古事記完成の時点ですでに日本書紀もある程度は編纂が進んでいたと見るのが自然でしょう。

なるほど、編纂事業の真っ最中だった日本書紀の、執筆などの実務メンバーにこの2人を加えたと見れば納得がいきますね。
出羽国に養蚕を行わせる

2月13日(辛丑) 初めて出羽国(山形県、秋田県)に養蚕を行わせた。
始令出羽國養蚕。
蚕はその繭から糸が採れ、それが絹や絁のような織物、または真綿や生糸に加工された状態で「調」として中央に納品されました。『続日本紀』には頻繁に「絹絁綿糸」の語が現れ、律令にも調の中心物品として規定されています。

つまり、養蚕は古代律令国家の基幹産業であると言えます。
その蚕を育てるには食草の桑を栽培する必要があり、これを「産業」として体系的に行うには戸籍による人員把握が必要になったはずです。
蚕を飼う
桑を育てる
繭を取る
糸・綿・絹・絁を作る
それを調として国家に納める
これを行うには「組織力」が必要になるはずですね。

2年前に新しく編成されたばかりの出羽国を、調を納められる国に育てる意思を感じます。
それにしても、当時の国は蚕なくして成立しないくらい重要な存在に見えてきますね。「蚕」の字の上に「天」がある意味が分かる気がします。
出羽国は和銅5年(712)9月23日(己丑)条に越後国から分立したばかりです。

出羽国に養蚕を命じるというのは、北方の新領域に対して、蝦夷対策としてただ城柵を置く・兵器を運ぶだけではなく、桑を植え、蚕を飼わせ、繊維製品を生産させ、国家財政に組み込むという段階に入ったことを示していると思います。

全国の囚人を記録させる
2月14日(壬寅) 七道諸国(畿内以外の全国)に使いを遣わして、囚徒(牢獄に入っている罪人、囚人)について記録させた。
遣使于七道諸國。録囚徒焉。

この年の6月28日に全国に大赦を行っており、あらゆる罪をその重さに関わりなく全てを赦しています。したがって、この2月14日の囚徒調査はこの大赦を行うための前準備だったのではないかと思われます。

全国の囚人について調査するなら4ヶ月くらいは必要ですよね。
時間間隔としても違和感はなさそう。
ちなみに、この6月28日の大赦は、同月25日に行われた首皇子(後の聖武天皇)の元服によるものです。よって、この大赦は元服にからむ一連の行事であり、数ヶ月前から周到に準備されたものである可能性が高いです。

首皇子の元服…重要イベントが近付いてきましたね♨️
次回の記事
更新をお待ちください。



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