
こんにちは、いづみです♨️
大隅国は以前にも登場しましたね。今の鹿児島県の東半分あたりの位置にあって、日向国から分立したという話でした。

その通りです。しかし大隅分立に至るまでには隼人からかなりの抵抗があったようでした。
和銅7年(甲寅・西暦714年)現代語訳・解説 閏2月〜3月
吉蘇路開通の関係者に給う

閏2月1日(戊午) 美濃守従四位下笠朝臣麻呂に封戸(食封収入と定めた戸)を70戸、田を6町賜った。少掾(国司の序列第3)の正七位下門部連御立と、大目(国司の序列第4)の従八位上山口忌寸兄人の位階を進めた。匠である従六位上伊福部君荒当に田2町を賜った。
吉蘇路を開通させたことを以ってである。賜美濃守從四位下笠朝臣麻呂封七十戸。田六町。少掾正七位下門部連御立。大目從八位上山口忌寸兄人。各進位階。匠從六位上伊福部君荒當賜田二町。
以通吉蘇路也。
前年の和銅6年(713)7月7日(戊辰)条、吉蘇路、すなわち今で言うところの国道19号線・JR中央本線の辺りを通過する「木曽路」が開通しました。同条では「美濃国と信濃国の境は道が険しく狭いため、吉蘇路を開かせた」とあります。

今回はその功労賞ということですね…

う〜ん、美濃国と信濃国の境の道を開いたのに、なぜ美濃側の賞だけあって信濃側がないのでしょう?

やはりそこは気になりますよね。
なぜ信濃国司たちは功賞されていないのか?
2国の国境にまたがる以上、信濃国司の関与はあったと見るのが自然ですが、褒賞記事を見る限りでは、少なくとも「中央から見た主担当は美濃国であった」と見るべきでしょう。
後世に編まれた律令の私撰注釈書『令集解』にも、この件を「笠太夫が伎蘇道を作ったので封戸を増された」例として引いています(笠太夫=笠朝臣麻呂)。つまり後世でも、この功績は「美濃守笠麻呂が木曽道を作った事例」として記憶されていたわけです。
古くからある木曽谷南部の「国境論争」
現在の県境付近

木曽谷の南部は古くから、美濃国の範囲なのか、それとも信濃国の範囲なのかの争いがあったようです。
平安時代前期、3代の天皇の時代を扱う国史『日本三代実録』元慶3年(879)9月4日(辛卯)条には次のようにあります。
『日本三代実録』元慶3年(879)9月4日(辛卯)条(要約)
両国は古来から境界を互いに争い、未だ決着していない。
貞観(859-877)の時代に、当国の境界に派遣された藤原正範らは古記録(続日本紀か)を引いて吉蘇、小吉蘇の両村は、美濃国恵奈郡絵上郷の地であるとした。
古記録によると、「和銅6年7月、美濃・信濃の両国の境は道が険しく狭いため、行き来が甚だ困難であったため、吉蘇路を開通させた。翌和銅7年閏2月、美濃守従四位下笠朝臣麻呂に封戸70戸、田6町を給い、少掾の正七位下門部連御立と、大目の従八位上山口忌寸兄人の位階を進めた。吉蘇路を開通させたことを以ってである」と記されている。
今この地は美濃国府を去ること10日余りの遠方の地であり、もしここが信濃の地と言うのであれば、なぜ美濃国司がこの道を開くことがあるだろうか。
よって、この正範の言に従い国境を定めた。

これはかなり興味深い記述ですね。というより確定ではないですか?
つまり、和銅の時代から吉蘇路の国境付近は「美濃国の範囲」と認識されていて、だから開通工事の褒賞も美濃国司だけになったということ。

引用の最後の部分が説得力ありますね。
10日もかかるような遠方の地にわざわざ美濃国司が工事を行った理由は、つまり「そこが信濃国ではなく、美濃国の領域だから」です。
「匠」は、土木建築の専門技術者か
「匠」と聞くと「大工」を初めとした作業に従事する職人のイメージがありますが、律令制では「匠」は普通の労働者ではなく、技術労働者、つまり木工・建築・土木などの専門技能と知識を持つ者と整理されています。
⭐️参考 日本大百科全書(ニッポニカ) 「賦役令」 コトバンクより

匠である従六位上・伊福部君荒当さんですが、「従六位上」という高い位階が単なる労働者ではないことを証明していますね。
行幸(甕原離宮)
閏2月22日(己卯) 甕原離宮に行幸した。
行幸甕原離宮。
甕原離宮へは前年6月23日(乙卯)にも行幸しています。


2年連続、しかも前回の行幸から1年も経たずに再度の行幸とは、元明天皇は甕原の地をそれだけ気に入られたということですね。
偶然?吉蘇路関係のできごととの関連性

ところで、今回の行幸は閏2月1日の「吉蘇路開通の褒賞」の直後です。
前回の行幸では、その直後に「吉蘇路の開通」記事があります。
これは偶然かもしれませんが、甕原への行幸と吉蘇路はなんらかの形で連動しているように見えてしまいます。
和銅6年は、
6月23日 甕原離宮へ行幸
6月26日 平城宮に還幸
7月7日 吉蘇路が開通する
という流れ。
そして和銅7年は、
閏2月1日 吉蘇路開通の功により、美濃守笠麻呂らに褒賞
閏2月22日 甕原離宮へ行幸
という流れです。
もちろん、『続日本紀』は両者の関係を明示していません。
しかし、甕原離宮行幸と吉蘇路開通記事が2年続けて近接して現れることは、和銅の時代において、甕原の地と東方交通・東国支配の問題が同じ関連性を持っていた可能性を思わせます。

去年の行幸記事でも、甕原は伊賀国を経由して東国へ抜けるルートの途上にあるという話でしたね。
占術を用いるため僧侶を還俗させる
3月10日(丁酉) 沙門(僧侶)の義法が還俗(僧侶をやめること)した。姓を大津連、名を意毘登とし、従五位下を授けた。占術を用いるためである。
沙門義法還俗。姓大津連。名意毘登。授從五位下。爲用占術也。
義法は慶雲4年(707)5月28日(乙丑)条にもその名が見え、学問僧として、義基・総集・慈定・浄達たちと共に新羅から帰国したとされています。

そして和銅7年に及んで、彼の技能である「占術」を国として用いようとしたわけですね。この占術も新羅から学び取ってきたものでしょうか…。

国からお声がかかって、しかも従五位下という高位を授けられていますから余程その能力が評判になっていたのでしょうね。
占術とは?
占術と言っても単なる占い師ではなく、「国家行政の実務」としてのものです。つまり、卜筮(占い)・陰陽・暦術・七曜(天文学)・医術などを含む知識と技術を広く「占術」と呼んでいます。
天平の時代には後進の育成に携わる
実際、後の天平2年(730)3月27日条では、意毘登は「大津連首」と見え、陰陽・医術・七曜・頒暦(暦の作成と頒布)などの国家的専門知識を後進に教授させる者の1人として名が挙げられています。

この天平2年3月条では、これらの学問を「国家要道、不得廃欠」つまり、「国家の要であり、廃れさせてはならない」ものと書かれ、その重要性が強調されています。
豊前国の民を隼人の地に移住させる

3月15日(壬寅) 隼人は愚かで荒々しく、その野心は未だ憲法(基本となる決まり。掟)に馴染んでいない。よって、豊前国(福岡県東部及び大分県の北西部)の民200戸を移住し、隼人らを勧導(教え導かせる)させることとした。
隼人昏荒。野心未習憲法。因移豊前國民二百戸。令相勸導也。
豊前国の住民をどこに移住させたのかは書かれていませんが、「隼人」とあるため南九州方面、特に 和銅6年(713)4月3日(乙未)条で新たに建てられた大隅国に移されたものと思われます。
というのも、続く和銅6年7月5日(丙寅)条では、隼人を征伐した将軍と士卒1,280人に勲位を授けたとあり、大隅国設置にはかなりの抵抗があったことが分かるためです。

なるほど、それで豊前から大隅に民を移住させたというわけですね。
教え導かせるという建前ですが…これは半ば「植民地化」に近いものもありそうですね。言葉が正しいかは分かりませんが。

「憲法に馴染んでいない」の「憲法」は、ここでは律令国家の法・制度・秩序くらいの意味ですね。つまり「隼人はまだ国家の法秩序に馴染んでいない」という趣旨ですが、国家が周辺地域を編入するために外部住民を送り込み、現地社会を律令制に組み替えていく政策という意味では、たしかに「植民」に近い性格があります。
民200戸は何人くらい?
「戸」は現代で言うところの「世帯」に近い概念ですが、1つの家屋に住む1つの家族という意味とは違い、律令制では「複数の小家族・世帯をまとめた行政単位」であり、『日本国語大辞典』では「普通は、二、三世帯を含む大家族が多い」とあります。
今回の和銅7年3月条に示される「200戸」についてはピンポイントにその人数を算出した研究があります。行橋市の試算では1戸平均を25.4人とし、200戸を「25.4人×200戸=5,080人」と計算しています。
⭐️参考 大隅国の成立と豊前国からの移住(行橋市デジタルアーカイブ)

令制では50戸を1単位に「里」としているため、今回の200戸は4里規模の移住だったことになりますね。

国ー郡ー里の3階層制になってたんですよね。
それにしても豊前国の人も荒々しい隼人がいると聞かされている土地に移住するのは怖かったんじゃないですかね?
叙位(従五位上)
3月28日(乙卯) 従五位下上毛野朝臣広人、大伴宿禰牛養に従五位上を授けた。
授從五位下上毛野朝臣廣人。大伴宿祢牛養並從五位上。
今回の叙位は、特別な理由が明記されているわけではないので、「通常の昇叙」に近いと思いますが、上毛野広人は、この年の11月26日条で新羅使を送迎する「迎新羅使右副将軍」に任じられることとなります。そのため、右副将軍に任じるための昇叙であると見れないこともなさそうです。
大伴牛養は、後に参議を経て正三位・中納言まで昇進する人物です。
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