【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 霊亀2年② 4月 朕は国司に何を任せればよいのか

元正天皇紀(715-724)
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
元正天皇は、調を運ぶ人夫たちの窮状を知り、国司や郡司を厳しく叱責しています。

いづみ
いづみ

でも重い荷物を背負って遠くから徒歩なんですよね?
国司や郡司ばかり責めるのは、ちょっと気の毒じゃないですか。



霊亀2年(丙辰・西暦716年)現代語訳・解説 4月

壬申の乱の功臣の子息に功田を賜う

夏 4月8日(癸丑みずのとうし) 詔により、壬申みずのえさるの年(壬申じんしんの乱があった天武天皇元年(672))の功臣である、贈少紫村国連小依の男子・従六位下志我麻呂、贈大紫星川臣麻呂の男子・従七位上黒麻呂、贈大錦下坂上直熊毛の男子・正六位下宗大、贈小錦上置始連宇佐伎の男子・正八位下虫麻呂、贈小錦下文直成覚の男子・従七位上古麻呂、贈直大壱文忌寸知徳の男子・従七位上塩麻呂、贈直大壱丸部臣君手の男子・従六位上大石、贈正四位上文忌寸禰麻呂の男子・正七位下馬養、贈正四位下黄文連大伴の男子・従七位上粳麻呂、贈従五位上尾張宿禰大隅の男子・正八位下稻置たち十人に、それぞれ差を付けて田を賜った。

詔。壬申年功臣贈少紫村國連小依息從六位下志我麻呂。贈大紫星川臣麻呂息從七位上黒麻呂。贈大錦下坂上直熊毛息正六位下宗大。贈小錦上置始連宇佐伎息正八位下虫麻呂。贈小錦下文直成覺息從七位上古麻呂。贈直大壹文忌寸知徳息從七位上塩麻呂。贈直大壹丸部臣君手息從六位上大石。贈正四位上文忌寸祢麻呂息正七位下馬養。贈正四位下黄文連大伴息從七位上粳麻呂。贈從五位上尾張宿祢大隅息正八位下稻置等一十人。賜田各有差。

この記事は、壬申の乱(天武元年・672)から44年を経て、大海人皇子(天武天皇)方で功績を挙げた10人の功臣の子息に田を与えたというものです。

みちのく
みちのく

この田は、功績に対して与えられる「功田」と考えられます。
「贈」と書いてあることから、功臣本人は既に亡くなっていると分かります。
なので今回は功田を子に与えたという形ですね。

いづみ
いづみ

壬申の乱は44年前ですか。
当時の平均年齢が今よりも短いことを考えると、実際に従軍した世代もかなり少なくなってきていそうですね。

律令に規定がある

後の養老令では、功臣の子孫が恩典を受け継ぐことを認める規定があります。
今回の記事で直接関係するのは、田令第6【功田条】と第10【応給功田条】です。

① 功田条

功績の大小によって、功田を子孫に伝えることが認められています。

功績の等級功田の継承
大功永代にわたって継承
上功三世まで
中功二世まで
下功子まで
② 応給功田条

これには、
「功田を給付されるべき者が、もしもまだ申請をしていない場合、または所定の額に満たないうちに死亡した場合には、その子孫に給付する」
と規定されています。

なお、①も②も同様趣旨の規定が大宝令にもあったとされています。

後に、功田の詳細が明らかになる

みちのく
みちのく

なんと41年後の天平宝字元年(757)12月9日条になって、今回登場した10人の功臣について、功田の面積と功績の等級が明らかになります。

  • 尾張宿禰大隅:40町。上功と判定され、三世まで継承。
  • 村国連小依:10町。中功と判定され、二世まで継承。(『日本書紀』では「男依」と表記)。
  • その他8人:4〜8町。いずれも中功で、二世まで継承。

功田は一定の条件で子孫への継承が認められており、壬申の乱の功績が次世代の経済的基盤にもつながっていたことがわかります。

いづみ
いづみ

さすがに永代で継承を認める「大功」の人はいなかったみたいですね。



霰(あられ)が降った

4月13日(戊午つちのえうま) 霰あられが降った。

雨霰。

原文には「雨霰」とありますが、「雨」はここでは動詞で「降る」という意味で使われています。

霰ではなく雹(ひょう)の可能性

旧暦4月中旬は現在の暦ではおおむね5月下旬ごろに当たるため、春の終わりから初夏にかけて霰が降ったというのは珍しい気象記録です。

みちのく
みちのく

これは現在の定義で言うところでは、霰というよりも「雹」(ひょう)にだったのではないでしょうか。雹は5〜7月頃、とりわけ初夏に発生しやすい現象です。

現在、気象庁は氷の粒の直径によって両者を区別しています。

  • 霰:5mm未満
  • 雹:5mm以上
いづみ
いづみ

今では「雹」に当てはまるものでも当時は「霰」と言った可能性は十分あり得そうですね。

どの程度降ったのか、被害はどの程度だったのかは分かりません。
場所は記されていませんが、書かれていないということは都である平城京周辺で起きたものと解釈して良いかと思います。



和泉監の設置

和泉国(画像:ウィキペディア)

4月19日(甲子きのえね) 河内国の大鳥、和泉、日根の三郡を分割し、初めて和泉監いずみのげんを設置した。

割大鳥。和泉。日根三郡。始置和泉監焉。

和泉監(いずみのげん)は、現在の大阪府南西部に置かれた特別な行政機構です。
一般の国とは異なり、珍努宮(ちぬのみや)の管理・運営を目的として設置されたと考えられています。

いづみ
いづみ

3月27日には和泉・日根の二郡から珍努宮造営のための費用や労力を負担させることになっていましたね。今回はこれに大鳥郡を加えて「和泉監」という行政単位が発足したということでしょうか。

みちのく
みちのく

その通りです。「監」というのはこれまでにはなかった特殊な単位ですね。
和泉監は後に廃止され再び河内国に編入されますが、さらにその後「和泉国」として成立することとなります。

なお、「監」については他に「芳野監よしののげん」も知られており、大和国の吉野地方に置かれ、吉野離宮の管理・運営を担当したものと考えられています。
和泉監と同時期に置かれたと一般的に理解されていますが、記録はないため正確な時期は不明です。

霊亀2年(716) 和泉監を設置
天平12年(740) 和泉監を廃止し、三郡を再び河内国に編入
天平勝宝9年(757) 三郡を再び河内国から分離し、和泉国を設置



詔(国司の功過、訓示)

4月20日(乙丑きのとうし) 次のように詔した。
「 およそ調を貢納する脚夫が入京する日は、所司が直接立ち会い、その道中の食糧などの備えが十分であるかを検査すること。
 もし国司が務めて農桑のうそう(農業と養蚕)を勧課(奨励すること)し、以前の命令によくかなっているならば、人民を字育じいく(養い育てること)して穏やかに恵みを施し、所部の秩序を保っているとして、最さい(優れた勤務成績)を与えよ。教喩(教えさとし、導くこと)を行わずに衣食を欠かすことが有れば、撫養の方法が適切ではなく、国内を荒蕪こうぶ(土地が荒れて雑草などのおい茂ること)させた過失とせよ。これらの功過(功績と過失)により必ず黜陟ちっちょく(功の有無により官位を上げ下げすること)をせよ。
 また、比年(毎年、近年)の計帳(調庸などの徴収ための原簿)には、詳細に功があるかのように書かれており、その物の数を推勘すいかん(詳しく調査すること)すると、身を覆うに足りる数となっている。ところが、入京してくる人夫の衣服は破れてぼろぼろになっており、顔色を悪くしている者がなお多い。ただ空しく公帳に書き連ねて徒いたずらに声誉せいよ(良い評判。名声)を得ようとし、欺瞞(欺き、だますこと)により良い考課(勤務評定)を求めることに努めているのである。国郡司がこのようでは朕(天子の一人称)は何を任せられるというのか。
 よって、今後は民の隠れた苦しみを救い、委ねられた職責に応えるようにせよ。そして、部内の豊倹ほうけん(豊かなことと不足していること)と農桑の増益を記録して言上すること」と。

詔曰。
凡貢調脚夫。入京之日。所司親臨。察其備儲。
若有國司勤加勸課。能合上制。則与字育和惠肅清所部之最。不存教喩。事有闕乏。則居撫養乖方。境内荒蕪之科。依其功過。必從黜陟。
又比年計帳。具言如功。推勘物數。足以掩身。然入京人夫。衣服破弊。野菜色猶多。空著公帳。徒延聲譽。務爲欺謾。以邀其課。國郡司如此。朕將何任。
自今以去。宜恤民隱以副所委。仍録部内豊儉農桑増益言上。

要約

① 地方から調を運んでくる運脚が平城京に来る日には、その担当者が直接立ち会って、運脚の道中の食糧が十分なものかどうか検査すること。

② 国司が以前の命令に従い、人民に農業と養蚕を奨励して国内が豊かであれば、秩序が保たれているとして「最」の勤務評価を与える。一方、人民を導かず、衣食を欠かすようであれば、国内を荒れさせた過失とせよ。

③ 計帳の数字を見ると功績があるかのように十分な数が書かれているが、実際に入京してくる運脚たちの多くは衣服がぼろぼろで、顔色も悪い。これはいたずらに名誉を得るために書き連ねた欺瞞であろう。これでは私(天皇)は国司と郡司に何を任せれば良いのか。

④ 今後は国司と郡司は民の苦しみを救って、天皇の委任という職責に応えるようにすること。計帳にはその地の豊かなところと貧しいところ、農業と養蚕の増加のことを記録して報告すること。

みちのく
みちのく

といったところです。
詔の前半では主に国司の勤務評価について定め、後半では国司・郡司双方の地方行政の実態を問題にしています。

「以前の命令」とは

国司に課したという「以前の命令」は具体的には、前年の霊亀元年(和銅8・715)5月1日の勅かと思われます。
そこでは、任地を貧しくし荒れさせている国司と郡司を痛烈に批判し、その実績に応じて上等・中等・下等と評価し、さらに貧窮のため10人以上を死に至らしめた者は解任する、としています。

ほか、同年の5月14日の詔では運脚の疲弊を取り上げ、国司たちの怠慢を指摘しています。
和銅5年(712)5月16日では、優秀な郡司とダメな郡司の例を挙げ、その状況を中央に報告することとしています。続いて翌日の5月17日の詔では、毎年巡察使を派遣して国内を調べさせるから、国司は嘘偽りなく正直に申告せよと命令しています。

いづみ
いづみ

数年に渡って同じ性格の命令が国司や郡司に出されていたんですね。
これまでは元明天皇の詔勅でしたが、今回の記事では元正天皇によるもの。
この訓示的な内容を見るに、元正も先帝である元明の方針をそのまま継承していると見てよさそうですね。

国司と郡司だけに責任を押し付けていいのか

今回の霊亀2年詔では、
中央に提出される計帳には十分な数が記入されており、あたかも国が豊かであるように書いてあるが、これは国司が自らの功績を示すための空しい「欺瞞」なのではないかと断じています。

その根拠として、京に来る運脚たちの衣服や顔色を挙げています。
しかし、運脚は地方から徒歩で重たい調庸の物品を運んできます。これは相当に過酷であり、特に遠い地方からやってくるのであれば衣服が擦り切れボロボロになったり、顔色が悪くなるのは自然であり、十分考えられることだと思います。

いづみ
いづみ

たとえ食糧があったとしても、キツくて当たり前ですよね…。

みちのく
みちのく

この状況を、ただ国司や郡司だけの責任にするのはかなり疑問です。
現代人からの目線にはなってしまいますが、これはそもそも「徒歩で重たい荷物を地方から中央まで運ばせる」という方法自体に無理があるのではないでしょうか。

いづみ
いづみ

数年に渡って同様の命令を出し続けても改善しない理由がそこにある気がします。
しかも訓示っていわば精神論にもつながるもので、具体的な改善を示しているものではないんですよね。

中央が何も対策をしていなかったわけではない

ただし元明天皇は、国・郡司たちに責任を問うだけではなく、運脚の生命を維持するための方策もとっていました。

和銅5年(712)正月16日の詔では、役民たちがそれぞれの郷里に帰る時、食糧がなく行き倒れていることを問題視し、国司に救援を命令しています。また、死亡の場合はその姓名を、戸籍のある国に報告することとしています。

同年10月29日の詔では、役夫たちに、利便性の良い場所で食糧を自由に交易できるようにせよと命じています。

和銅6年(713)3月19日の詔では、「輸送を負担する人々は労役に苦しんでいる」とし、この対策として、運脚に一袋分の銭(和同開珎)を持たせ、国司と郡司には富豪の家に対して街道沿いで米の売り場を設けて自由に売買させるようにせよ、としています。

またこの詔では、
「運脚自身に必要な物資や食糧を備えれば、納入すべき物品の数量を欠かすことになり、だからといって運脚のための荷物を減らせば、旅の途中で飢える」
とし、この制度の核心的な問題にも触れているので重要です。

みちのく
みちのく

こういった対策を講じてきたわけですが、改善があまり見られないようですね。
この状況は、地方から物資を中央に集めることで成り立つ律令国家の、構造的な弱点が表れていると思います。

いづみ
いづみ

中央は国司・郡司の責任を厳しく追及していますが、現代の私たちから見ると、地方官を叱責する中央政府自身が、過酷な輸送制度を維持しているという矛盾も感じますね。



任官(弾正尹、国守)

4月27日(壬申みずのえさる) 従四位下大野王を弾正尹だんじょういん(弾正台の長官)に、従五位上坂本朝臣阿曽麻呂を参河守に、従五位下高向朝臣大足を下総守に、従五位下榎井朝臣広国を丹波守に、従五位下山上臣憶良を伯耆守に、正五位下船連秦勝を出雲守に、従五位下巨勢朝臣安麻呂を備後守に、従五位下当麻真人大名を伊予守に任じた。

以從四位下大野王爲彈正尹。從五位上坂本朝臣阿曾麻呂爲參河守。從五位下高向朝臣大足爲下総守。從五位下榎井朝臣廣國爲丹波守。從五位下山上臣憶良爲伯耆守。正五位下船連秦勝爲出雲守。從五位下巨勢朝臣安麻呂爲備後守。從五位下當麻眞人大名爲伊豫守。

弾正尹以外はすべて国守の任命です。
4月20日に国司を厳しく批判する詔があったばかりなので、かなり気を引き締める必要がありそうですね。

初めて国守となった山上憶良

伯耆国(画像:ウィキペディア)

山上臣憶良(やまのうえ の おみ おくら)は有名な万葉歌人で、「貧窮問答歌」「子等を思ふ歌」などで知られます。この当時、56歳頃と見られます。

大宝元年(701)正月23日には無位で遣唐少録に任じられ、和銅7年(714)正月5日に従五位下へ昇進していました。

みちのく
みちのく

今回は伯耆守任官ということで、地方勤務です。
人民の貧窮を歌った「貧窮問答歌」が詠まれたのは天平3〜5年(731〜733)頃とされているため、国内巡視などの実務経験を反映した歌なのかもしれません。

いづみ
いづみ

そうなると、伯耆守任官は憶良さんにとって官人人生の転機となったかもしれないですね。



次回の記事

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