
こんにちは、みちのくです☀️
出雲国造の神賀詞は、ずいぶん長い祝詞だったようですね。

カンペとかあったんですかね?
途中で噛んだりしたらすごく「やっちゃった感」が出ちゃいそうです。
霊亀2年(丙辰・西暦716年)現代語訳・解説 正月〜3月
雨のため朝賀を中止する
春 正月1日(戊寅) 雨のため廃朝した。朝堂において、五位以上に宴を賜った。
廢朝。雨也。宴五位已上於朝堂。
廃朝というのはここでは、朝賀を廃することで、つまり中止したということです。
朝賀は正月一日に、百官が屋外に整列し、大極殿に御する天皇を拝するという儀礼なので、雨が降った場合は中止される場合があります。
一方、朝堂での宴は屋内の行事なのでこちらは実施されているわけですね。

元正天皇として初めての正月だったので、これは少し残念ですね。
地震
正月4日(辛巳) 地震があった。
地震。
「地震があった」。
大きさや規模、被害などは一切書かれていないため、それ以外のことを見出しにくいですが、当時の地震は被害もたらす災害という意味以外にも「天変地異」という天神地祇からの「警告」の意味もありました。
そのため、地震が正月のはじめに発生したことは、当時の人にとって意味深なものだったかもしれません。

令和6年(2024)には元日に大きな地震が起きましたよね。
現代でも「元日に地震とは不吉な…」と考えてしまう人はいたと思います。
叙位

正月5日(壬午) 従三位長屋王に正三位を授けた。
正五位上長田王、佐伯宿禰百足に従四位下を授けた。
正六位上猪名真人法麻呂、多治比真人広足、大伴宿禰祖父麻呂、小野朝臣牛養、土師宿禰大麻呂、美努連岡麻呂に従五位下を授けた。授從三位長屋王正三位。
正五位上長田王。佐伯宿祢百足並從四位下。
正六位上猪名眞人法麻呂。多治比眞人廣足。大伴宿祢祖父麻呂。小野朝臣牛養。土師宿祢大麻呂。美努連岡麻呂並從五位下。
これは正月の定例叙位ですね。
長屋王が正三位に
長屋王は天武天皇の孫で、父は高市皇子、母は天智天皇の皇女・御名部皇女。
後の「長屋王の変」で死亡することとなる人物として有名ですね。
長屋王の初見は慶雲元年(704)正月7日で、この時は
無位→正四位上 と、通常の二世王の蔭位(親が高位であることにより、子にも高位を授ける制度)よりも三階も高いという初登場時から異様な厚遇をされていました。
和銅6年(713)4月25日では、自らが式部卿であったときに、「式部長官が不在なら官人の勲績について審議してはならない」と定められています。
また、前年の霊亀元年(和銅8年、715)2月25日には、妻・吉備内親王との子を皇孫(二世王)待遇にすることを認められ、長屋王家の権威がさらに強化されています。

初登場から11年、「台頭」という言葉が似合う出世ぶりですね。
墓誌が現存している美努連岡麻呂
美努連岡麻呂(みぬ の むらじ おかまろ)は、『続日本紀』ではここでしか登場しません。

よって、ほとんど何も分からない人物ということになりますが、何と明治5年(1872)になって彼の墓誌が奈良県生駒市で発見されています。
そこには史書には記されていない彼の経歴が記されています。
墓誌は天平2年(730)に作られたもので、その内容は次の通り。
| 年月 | 墓誌に記された事績 |
|---|---|
| 天武13年(684)正月16日 | 連の姓を賜る |
| 大宝元年(701)5月 | 遣唐使として唐に派遣される |
| 霊亀2年(716)正月5日 | 従五位下に昇叙し、主殿寮頭に任官 |
| 神亀5年(728)10月20日 | 67歳で死去 |
| 天平2年(730)10月20日 | 墓誌が作られる |

遣唐使に派遣されたことも、卒去記事も『続日本紀』にはないですね!
しかも、今回の従五位下とともに、実は主殿寮頭に任じられていたことも分かっています。

正史にわずか一度しか登場しない官人の生涯が、1000年以上後になって墓誌が見つかり、具体的に判明したという点は非常に面白いです。
美努岡麿墓
また、昭和59年(1984)の発掘調査では、火葬墓に納められていたことも確認されています。
牧を廃止し、百姓の田畑とすることを許可
2月2日(己酉) 摂津国の大隅と媛嶋の二牧を廃止させ、百姓の佃(山野を切り開いて作った田畑)とすることを許可した。
令攝津國罷大隅媛嶋二牧。聽佰姓佃食之。
牧は牛馬を放牧する場で、「摂津国の牧」ということは官営の牧だったことが分かります。
これを廃止し、百姓の耕作地とすることにしたということですね。

前回の「麦と粟を作るのです」の詔とも通じ、政権は食糧の確保に重点を置いていることが分かりますね。
安閑天皇の時代にさかのぼる二牧

実は、この二つの牧は『日本書紀』にも登場します。
安閑天皇2年(535)9月13日条には、
「牛を難波の大隅嶋と媛嶋の松原に放牧せよ。願わくは、後世に名を残したいものだ」とあります。
つまり、『日本書紀』の記述によれば、約180年前に安閑天皇が牛の放牧を命じた場所ということになります。

「嶋」という字が目立ちますね。当時難波のあたりは河内湖という大きな湖になっていたからそれと関連がありそうです。
出雲国造が神賀詞を奏する

2月10日(丁巳) 出雲国造・外正七位上出雲臣果安が斎戒(神事に臨む前に心身を清めること。潔斎。物忌)を終え、神賀事を奏した。神祇大副(神祇官の次官)中臣朝臣人足はその詞を奏聞(天皇に申し上げること)した。
この日、百官が斎戒した。果安から祝部(祭祀を担当する下級の神職)に至るまで110余人に、それぞれ差を付けて位を進め、禄を賜った。出雲國々造外正七位上出雲臣果安。齋竟奏神賀事。神祇大副中臣朝臣人足。以其詞奏聞。
是日。百官齋焉。自果安至祝部。一百一十餘人。進位賜祿各有差。
出雲国造(いづもこくぞう・いづものくにのみやつこ)
出雲国造は古くから出雲地方に勢力を持った豪族の首長。
令制下では意宇郡の郡司を兼ね、杵築大社(今の出雲大社)や熊野大社をはじめとする出雲国内の神々の祭祀を担っていました。

そういえば以前、意宇郡を出雲や熊野を擁する「神郡」とし、その祭祀一族で郡司を任命することを許可した…という記事がありましたね。(文武天皇2年(698)3月9日条)

その通りで、出雲国造は現地の政治的な役割と祭祀的な役割を併せ持っていたわけです。
出雲国造神賀詞の史料上の初見
今回はその出雲国造が朝廷に参内し、天皇に「神賀詞」を奏上するという神事が執り行われました。
その内容は「賀詞」とあるように天皇の御代を寿ぐ詞であり、ざっくり言えば、
天穂日命(出雲国造の祖神)や大穴持命(大国主命)らにまつわる国譲りの神話を述べ、出雲の神々を祭ったことを報告するとともに、出雲の神宝を天皇に奉り、その御代の長久と安泰を寿ぐ。
といったものです。

これは「国譲り神話」の再現であり、朝廷への服属を表す神事であるという解釈もあります。
今回の記事はこの「出雲国造神賀詞」の史料上の初見とされています。
後世の『延喜式』には、その全文と奏上儀礼の規定が収められていますが、霊亀2年に奏上された「神賀詞」の文言がそのまま現存しているわけではないことに注意です。
神祇大副が重ねて奏聞しているのは何故か

分からないことがひとつあります。
まず出雲国造が神賀詞を天皇に奏する。
そしてその後に神祇官がその神賀詞を天皇に奏聞する。
…という流れになってますが、なぜ2度も天皇に奏上しているのでしょうか?

鋭い疑問だと思います。実は、これは出雲臣果安が直接天皇に奏上したのではなく、神祇大副の中臣人足が天皇に取り次いだと考えられています。
この点について、水林彪氏は2016年の論文「古代天皇制における出雲関連諸儀式と出雲神話」で、霊亀2年の儀礼には元正天皇の出御がなく、中臣氏が神賀詞を取り次いだと解釈しています。
一方で、『続日本紀』天平勝宝2年(750)2月4日(癸亥)条では、天皇が大安殿に出御して出雲国造の神賀詞の奏上を受けたという事例もあるようです。
和泉郡と日根郡に、珍努宮造営を負担させる
3月27日(癸卯) 河内国の和泉・日根の両郡を割り当て、珍努宮の造営に必要な費用と労働力を負担させた。
割河内國和泉日根兩郡。令供珍努宮。
これはかなり意訳が入っていますが、原文の「令供珍努宮」は珍努宮の造営のために諸々の負担を提供したというように解釈されています。
『改訂新版 世界大百科事典』の珍努宮の解説でもこれを「造営の人夫と費用を出させる」と解釈しています。
珍努宮(ちぬのみや)
珍努宮は、元正天皇のために設けられた離宮で、現在の大阪府和泉市付近にあったと考えられています。

残念ながら正確な場所は現在特定されていません。
が、推定地としては「泉井上神社周辺」が候補として挙げられています。
泉井上神社
そして、今回の和泉郡と日根郡の労働力割り当ては、翌月の4月19日条「和泉監」という珍努宮の管理を管掌した特別区の設置に繋がります。
次回の記事
更新をお待ちください。




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