続日本紀

元明天皇紀(708-715)

【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅2年④ 平城遷都で動揺する庶民。天皇、再び平城へ

翌年の3月に迫る平城京遷都。おそらく和銅2年末には京の造営は大詰めに入っており、あとはどのタイミングで遷都を決行するかという段階に入っていたのではないだろうか。12月、天皇は藤原京から最後の平城宮行幸をとり行った。
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【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅2年③ エミシ征討将軍の凱旋。天皇、平城を行幸し百姓を巡撫し給う

今の山形・秋田の蝦夷(蝦狄)の征討軍はどうやら戦果を得たようで、節刀を賜った将軍は藤原京に凱旋し元明天皇はこれを嘉した。これと並行して天皇は第2回目の平城宮視察を実施。宮の造営もどうやら順調に進んでいるようで治世の先行きに明るさを感じさせる。
元明天皇紀(708-715)

【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅2年② 新羅使入京、右大臣・藤原不比等と懇談する。

時期不明ながら大宰府に到着していたと思われる新羅使の一行が藤原京に到着する。元明女帝即位後初めての新羅使来朝である。藤原不比等は執政の大臣として史上初めて使者と懇談を行い、2カ国の誼(よしみ)を結ぶのであった。
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【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅2年① 蝦夷征討軍の徴発と持節将軍の任命

平城京の造営が進められているさなか、突如越後と陸奥の蝦夷の征討軍が組織される。皇化に馴染まぬ夷狄が良民を害しているのだと『続日本紀』は伝えている。遠江、駿河、信濃、甲斐、越前、越中、上野など多数の国から兵を招集し朝廷はどうやら本気のようだ。
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【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅元年⑥ 大嘗祭に臨む天皇、緊張感の中で歌を詠む

即位後、初めて11月を迎えた元明天皇。この月は天皇一世一代の重要祭祀である大嘗祭が執り行われる。天皇はこのときに御製を詠まれており、そのときの心境が天皇の姉である御名部皇女の答歌により推察することができる。天皇個人の感情を知ることのできる貴重な史料が今に残されていたのである。
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【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅元年⑤ 平城京予定地、視察の旅へ

和銅元年9月、元明天皇即位後初めての行幸について。天皇の平城京予定地の視察は、単なる下見ではなかった。岡田離宮・春日離宮への行幸から、新都造営に向けた周到な国家戦略を読み解きます。
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【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅元年④ 和同開珎銅銭の流通開始

和銅元年(708)7月〜8月の記事を現代語訳&解説。近江国での銅銭鋳造、和同開珎銅銭の通用開始など、銀銭から銅銭へ移る流れを解説します。
元明天皇紀(708-715)

【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅元年③ 和同開珎の銀銭の流通開始。天皇、高官たちに訓示を下す

和銅改元が行われ、その記念硬貨と言うべき「和同開珎」はこの年の5月と7月に、銀銭と銅銭の鋳造がそれぞれ開始されるのであった。世にいう「皇朝十二銭」の魁である。貨幣そのものはこれより以前にも日本にはあったが、今回の貨幣は本格的な流通を目指していたと思われるが、実態はどうだったのだろう?
元明天皇紀(708-715)

【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅元年③ 和銅の新体制、春の管理職人事。国防の要職に護衛武官を賜う

和銅に改元され、新しい天皇の時代が本格的に始動した。国政を主導する太政官の人事が行われ、元老と呼ばれるにふさわしい69歳の忠臣・石上麻呂が右大臣から昇進し首席として左大臣に任じられる。しかし、当時の政権の中心は麻呂と入れ替わりに右大臣に就任した藤原不比等だった…?
元明天皇紀(708-715)

【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅元年①正月 和銅改元

和銅元年(708)正月、武蔵国秩父郡から和銅が献上され、元号は慶雲から和銅へ改められた。改元の詔の現代語訳をもとに、大赦・高齢者への給付・課役免除・官人の叙位、金上无ら渡来系人物などについて解説。
元明天皇紀(708-715)

【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 慶雲4年② 凡為政之道、以礼為先。全ての政道は礼を先とする

君主の代替わりは政変が起きやすいもの。そこで朝廷は新たに授刀舎人寮を設置した。これはのちの近衛府の原型組織であり、天皇や皇太子の側衛を担ったと思われる。そして元明天皇は官吏の綱紀粛正を図って改めて正しい礼法の徹底を命ずる。
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【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 慶雲4年①7月 元明天皇即位。史上唯一、子から母への皇位継承

『続日本紀』元明天皇の慶雲4年(707)7月。文武天皇には皇子がいた。しかし、未だ幼少であり皇位継承は不可能だった。病に倒れた天皇は母に譲位することを決断し、かしこまって皇位を継ぐ決断をしたのだった。
巻3(大宝3年正月〜慶雲4年6月)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲4年② 文武天皇の崩御、宝算二十五

即位から10年、数々の厄災が日本を襲う中、文武天皇は崩御する。宝算は25。当時において、そもそも天皇即位には30歳以上であることが不文律として存在していたため、15歳で即位し、25歳で崩御した文武天皇は非常にイレギュラーな存在だったことは間違いない。
巻3(大宝3年正月〜慶雲4年6月)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲4年① 遷都…?ケガレまみれの藤原京。不比等、天皇から激賞される

悪い意味で極まった藤原京ー。京中は死穢が蔓延し悪臭が漂う。とうとう詔により遷都のことが会議されることになった。そのような情勢の中、重臣であり天皇の岳父である藤原不比等には大命(おおみこと)にもとづき尋常じゃないレベルの領地が授けられる。こんな調子で大丈夫か日本!?
巻3(大宝3年正月〜慶雲4年6月)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲3年⑤ 難波…天皇最後の行幸

晩秋9月、文武天皇は神武東征の時から語られ、歴代の天皇が宮を建てたこともある摂津国難波に行幸した。大飢饉や疫病の大流行する中、文武天皇は難波の地に何を見たのだろうか。このときは、これが天皇最後の行幸になるとは知る由もなかったことだろう。
巻3(大宝3年正月〜慶雲4年6月)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲3年④ 頻発し、やまぬ山火事

各地で山火事が頻発する。当時、自然発生する火災は「神火」といい神の怒りによって引き起こされたものと考えられていた。天皇がつい数ヶ月前行幸に訪れた地でも山火事が起き、何かの意思を感じずにはいられない。
巻3(大宝3年正月〜慶雲4年6月)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲3年③ 天皇、詔して王公諸臣に仁・義・礼を説き給う

災害級の天候不順、飢饉、疫病、ついには京・畿内におびただしい数の盗賊が出没するようになり、藤原京は死穢・汚穢の悪臭が漂う都となってしまった。盗賊追捕のさなか、文武天皇は詔により仁義礼を説き、百姓に横暴をはたらく王公諸臣を戒める。
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【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲3年② 大宝律令、修正される〜慶雲の改革〜

大宝律令施行から早5年。対外的に「日本国」と号令し独立国としての道を歩み出した我が国。しかし丹精込めて作り上げた大宝律令は早くも現実に合わない不合理な規定もあり、改正の必要が生じていた。文武天皇は詔を発し慶雲の律令改革が断行されるのであった!
巻3(大宝3年正月〜慶雲4年6月)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲3年①正月〜2月 元日、新羅使をもてなす。忠臣大神高市麻呂の死去

災害や飢饉などの窮状に苦しむ姿を見せまいと、国の威信をかけ外国の使者をもてなす日本。文武天皇は新羅の聖徳王に外交文書として国の平安を祈り、王の消息を尋ねる。春首未だ寒し、国王つつがなしや。
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【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲2年④ 天智天皇の孫、葛野王の卒去と人物伝

天智天皇の孫であり、壬申の乱で敗死した大友皇子の子である葛野王が亡くなった。葛野王は敗者の血統にあり、乱後を生きながらも持統天皇に対しまっとうな皇位継承策を奏上する。持統天皇は葛野王の奏言を喜び、まだ若い孫へ皇位を繋ぐことを決意する。
巻3(大宝3年正月〜慶雲4年6月)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲2年③ 八咫烏神社の創建と八咫烏の降臨? 騎兵大将軍任官

日照りが続くというのは、太陽の力が強すぎるということ。日本においては太陽は天照大神であり、皇室の祖神である。そのため日本は天照大神の使いである八咫烏(やたがらす)を祭ることを決める。そして越前からはなんと八咫烏のヒナが献上されるというにわかに信じ難い記事が…。
巻3(大宝3年正月〜慶雲4年6月)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲2年② 飢ゑる国民 ゴーストタウンと化す藤原京

熱心な祈雨も天には通じず、とうとう8月を迎えても雨が降らない慶雲2年。刑部親王という文武天皇の強力なサポーターや大納言という高官が相次いでこの世を去ってしまう。窮まった朝廷はとうとう藤原宮の正門を閉鎖してしまう…。
巻3(大宝3年正月〜慶雲4年6月)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲2年① 約3年ぶりの天皇行幸 朕、民を救わんが為…

水害、日照り、疫病などの諸問題を抱えたまま明けた慶雲2年。民を思い心を痛める文武天皇は「民の苦しみを救わんがため」と有徳の詔を煥発する。果たして天皇の思いは天を感応させるのだろうか?
巻3(大宝3年正月〜慶雲4年6月)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲元年⑤ 止まない災害、失われる秋稼

国の平安を祈り慶雲に改元したものの災異はやまず、とうとう文武天皇は詔によりこの年の全国の税や労役を全て免除するという思い切った手段に出た。というのも当時、災害や疫病は神の怒りであり、天子の不徳がその原因であるとされてきたのである。天皇のご心中は穏やかでない。
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【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲元年④ 衝撃を受ける遣唐使。君子国、日本

2年前に出発した遣唐使が唐から無事に帰国した…!遣唐使たちから聞かされた話に朝廷は衝撃を受ける…!!国史に記録された当時のエピソードをその目で確認せよ…!!!