
こんにちは、いづみです♨️
今回は元明天皇として初の行幸が行われますね。

これは静養ではなく、視察のための「国見」といえます☀️
新都として相応しい地であるかどうか、天皇自身の目で確かめることは重要なことですね。
和銅元年(戊申・西暦708年)現代語訳・解説 9月
任官(治部卿、左京大夫、摂津大夫)
9月4日(壬戌) 従四位下安八王を治部卿(治部省の長官)に任じた。
従四位下息長真人老を左京大夫(左京職の長官)に任じた。
正五位上大神朝臣安麻呂を摂津大夫(摂津職の長官)に任じた。以從四位下安八万王爲治部卿。
從四位下息長眞人老爲左京大夫。
正五位上大神朝臣安麻呂爲攝津大夫。
治部卿は5月30日に亡くなった美努王の後任です。
左京大夫は、3月13日から任じられていた布勢耳麻呂の後任です。
摂津大夫は閏8月8日(ひとつ↑の記事を参照)に亡くなった高向麻呂の後任です。
菅原に行幸。平城京予定地の視察
9月14日(壬申) 菅原に行幸した。
行幸菅原。
菅原は平城京が造営された地の一角をなす土地です。この行幸はこの年の2月15日(戊寅)条で発せられた平城遷都の詔に関連したもので、元明天皇は9月14日から次の記事の20日までのおよそ7日間、菅原の地を拠点とされて平城京の造営予定地を視察されたのでしょう。
「菅原」の名は、今でも奈良市菅原町として残っていますが、当時はもっと広い範囲を指していたようです。町内には菅原天満宮があり、菅原道真公の祖神が祀られています。

道真公の出身地ではありませんが、菅原氏の本籍地はこの地です。
平城京の地を視察

9月20日(戊寅) 平城を巡幸しその地形をご覧になった。
巡幸平城。觀其地形。
この年の2月15日に発せられた平城京遷都の詔にもあるように、平城の地は「四禽の図に叶い、三山が鎮めを作す」とされています。これは、東西南北にそれぞれの方位を守護する神獣がいる理想的な地形であるとともに、都城を囲むように山々の守りがある立地条件を満たすものです。

四禽とは東西南北を守る四神の青龍・白虎・朱雀・玄武のことですね!

「巡幸」とありますので、元明天皇はみずから平城京予定地の立地を巡り見て、視察されたのでしょう。
3月13日(丙午)には造宮省という専門の官司が設置されており、すでに工事は始まっていたかもしれません。行幸後には、9月30日(戊子)に造平城京司の任命、以後も10月2日(庚寅)伊勢大神宮への奉幣、11月7日(乙丑)菅原の人民の移転、12月5日(癸巳)平城宮の地鎮祭といった記事が続きます。
そして、実際に遷都が行われるのは、今回の行幸からおよそ1年半後の和銅3年(710)3月10日(辛酉)のこと。

元明天皇はどのようなお気持ちで新都の地を拝見されたのでしょうか?
9月20日ですから今の暦で11月頭くらいですね。涼しい気候ですし、良い視察になりましたか…。

病や悪臭や盗賊のはびこる藤原京を捨てて新天地に行くわけですから、急ぎとか焦りの方が強かったかもしれませんね。平城京は唐の長安城にならった造営で、国家の一大事業なのに、1年半後にはもう遷都ですから。

そう考えると、かなりの急ピッチで造営工事が進められていたんですね
岡田離宮に行幸
9月22日(庚辰) 山背国相楽郡(京都府南端部)の岡田離宮に行幸した。
通過した国の国司の目(国司の序列第4)以上に袴と袍それぞれ1領を、行宮(天皇の旅先につくられる宿泊のための宮)を造営した郡司にそれぞれ差を設けて禄を下賜した。並びに、百姓の調を免除した。特に、賀茂と久仁の2つの里の戸には稲30束を賜った。行幸山背國相樂郡岡田離宮。
賜行所經國司目以上袍袴各一領。造行宮郡司祿各有差。并免百姓調。特給賀茂。久仁二里戸稻卅束。
岡田離宮はどのあたりにあった?
賀茂と久仁の2里については、木津川市公式は、今の「岡田鴨神社」と「岡田国神社」のある地域一帯であると解説しています。
⭐️参考 岡田鴨神社(木津川市)
岡田鴨神社
この2つの里に稲を賜っていることから考えると、岡田離宮もこの周辺に建てられたと見るのが自然です。
岡田離宮は「行宮」
岡田離宮の名称は、後にも先にもこの和銅元年9月の行幸にしか出てきません。それはこの離宮が、今回の行幸のために造営された「行宮」だったからではないでしょうか。行宮とは、天皇の行幸先に建てられる仮の宮であるため、恒常的に建てられていたものではないと見られます。

和銅6年以後にはこの近くに「甕原離宮」が造営され、複数回行幸が行われており、岡田離宮は一度限りの宮だったのかもしれません。
⭐️参考
和銅6年6月23日(乙卯) 甕原離宮の行幸
和銅7年閏2月22日(己卯) 甕原離宮の行幸
なぜ岡田離宮まで行ったのか?

平城京予定地の視察を終え、さらに北東へ旅したわけですが、これは一体どういう目的だったのでしょう?
あらかじめ行宮を造っていたわけですから、事前に計画されていたということですよね。

平城京の地形を見るだけなら、その周辺で完結してよいはずです。それなのに、わざわざ山背国相楽郡の岡田まで行っている。
ということは岡田離宮行幸は、平城京視察の単なる延長ではなく、別個の目的を持って予定された行程であった可能性が高いと思います。
この行幸には、
- 平城京の北東部・木津川流域の確認
- 近江・東国方面へ向かう交通路の把握
が重なっていたと見られます。
賀茂・久仁の地は大和から伊賀に抜けて、近江方面や東国へ向かう道の玄関口であり、国家の交通にとって要衝の地であったことが分かります。


先ほど言った通り、後には同地に甕原離宮が建てられ、さらに聖武天皇の時代には恭仁京が造営されて遷都が行われます。このことからも久仁・賀茂の地は重要な地であったことが分かります。

つまり岡田離宮行幸は、「平城京そのものを見る」から一歩進んで、「平城京がどのように他の交通圏とつながるのかを見る」行動だった可能性があるんですね!
春日離宮に行幸
9月27日(乙酉) (天皇の行幸は)春日離宮に到った。大倭国添上郡(奈良市東部。平城京の東側から東大寺周辺地域)と添下郡(同市西部。平城京の西側一帯)の2郡は、今年の調を免除することとした。
至春日離宮。大倭國添上下二郡勿出今年調。
奈良で「春日」といえば奈良公園南にある春日大社が思い浮かびます。春日離宮はまさに春日大社と同じく今の奈良市東部にあった添上郡の地名の「春日」に由来しますが、同社の創建は神護景雲2年(768)のことなので、このときにはまだ存在しません。
今の奈良豆比古神社の地か
春日離宮の故地は、現在の奈良豆比古神社付近とする伝承があり、神社は奈良時代後期の宝亀2年(771)に春日離宮の地に創建されたとのことです。
⭐️参考 奈良豆比古神社(奈良県観光)
奈良豆比古神社

平城京の東北方面ですね。
岡田離宮からの帰路

この春日離宮の行幸は、普通に考えれば岡田離宮から藤原宮への帰路の途上で泊まった場所であり、それ以上の意味はなさそうです。

確かに、翌日の9月28日には藤原宮にお帰りになっていますし、単なる中継地点で泊まったということなんですね。
春日は平城京の北と接する丘陵地

と、言いたかったのですが、やはりそれだけではないと思います。
春日離宮の地は、平城京の北から東北に広がる丘陵地に関わる場所と考えられ、平城遷都の詔にいう「三山が鎮めを作す」という地勢観とも響き合う位置にあった可能性があります。

となると、春日離宮を最後の宿泊地とすることは、行幸の締めくくりとして意味を見出せそうですね。
全体を通して見ると、この行幸は最初から最後までかなり用意周到に準備されてきたと言えそうですね…!
春日離宮に訪れたのは、新京の中心予定地だけでなく、その東方・北方を取り巻く山地・丘陵を実地に確認するという意味を持っていた可能性があります。
また、元明天皇陵は奈良豆比古神社のすぐ東隣に営まれており、元明天皇自身がこの地に深い思い入れがあった可能性もあります。
藤原宮に還幸
9月28日(丙戌) 車駕(天皇の乗る御車のこと。転じて天皇自身を指す)は宮(藤原宮)にお帰りになった。
車駕還宮。
9月14日から約2週間かけて行われた行幸が終了しました。
出羽郡の建郡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(続き)
越後国(新潟県)が次のように言上した。「新たに出羽郡を建てたいと思います」と。これを許可した。
越後國言。新建出羽郡。許之。
出羽というと、秋田県と山形県の旧国名ですが、当時はまだ出羽国は存在せず越後国の一部であったことが分かります。

秋田県と山形県の範囲が丸ごと今の新潟県だったと思うと、越後国はかなり広大な国だったってことですね…。

出羽は確かに大きな国ですが、この時点の「出羽郡」としての領域はまだ北に長くなく、今の山形県の庄内地方辺りではないかと思います。
ちなみに出羽国として成立するのは和銅5年(712)9月23日(乙丑)のことです。
任官(造平城宮司の長官、次官、大匠など)
9月30日(戊子) 正四位上阿倍朝臣宿奈麻呂、従四位下多治比真人池守を造平城京司の長官とした。従五位下中臣朝臣人足、小野朝臣広人、小野朝臣馬養を次官とした。従五位下坂上忌寸忍熊を大匠とした。判官7人、主典4人とした。
以正四位上阿倍朝臣宿奈麻呂。從四位下多治比眞人池守。爲造平城京司長官。從五位下中臣朝臣人足。小野朝臣廣人。小野朝臣馬養等爲次官。從五位下坂上忌寸忍熊爲大匠。判官七人。主典四人。
造平城京司、その名の通り平城京の造営を担当する官司です。
9月14日〜9月28日の平城京予定地とその周縁地の行幸を受けたもので、新京造営事業が本格的に発足したものと言えそうです。
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