
こんにちは、いづみです♨️
前回は祥瑞の賀がありましたが、今回は人間たちからお祝いがあるみたいですね。

「人間たち」って言い方…
文武天皇元年(乙酉・西暦697年)現代語訳・解説 10月〜閏12月
蝦夷が産物を献上
10月19日(壬午) 陸奥(東北地方の太平洋側)の蝦夷が貢ぎ物として方物を献上した。
陸奥蝦夷貢方物。
『続日本紀』における蝦夷の初出記事です。
『日本書紀』の景行天皇27年2月12日(壬子)条では、蝦夷は
「東方にある広大な『日高見国』に棲み、男女とも入れ墨をした蛮族である」
と伝えられています。

東は陽が昇る方角ですから「日高見国」なんでしょうね☀️

古代の人たちのネーミングセンスはレベルが高いですね♨️
献上された「方物」
「方物」とはその土地の産物のことを言いますが、ここで献上された物は単なる贈り物ではなく、陸奥の蝦夷が朝廷に対して服属・朝貢の姿勢を示すための地方産物と見てよさそうです。

こちらもやはり「文武天皇即位直後」であることを加味して考える必要がありそうですね!

そうですね。文武天皇は8月に即位したばかりであり、陸奥の蝦夷が方物を献上したことは、朝廷に対する服属・朝貢儀礼として理解して良さそうです。
12月18日(庚辰)条では、反対に日本海側の「蝦狄」には朝廷が物を賜っており、方向性は違えど東北・北陸方面の異勢力を囲み、懐柔する意思が見えます。
新羅使の来日

10月28日(辛卯) 新羅使の一吉飡(新羅の17官等の第7等)金弼徳、副使の奈麻(第11等)金任想らが来朝した。
新羅使一吉飡金弼徳。副使奈麻金任想等來朝。

『続日本紀』に見える最初の対外記事です。
面白いのは、対外関係が唐ではなく新羅から始まることです。
7世紀後半の日本にとって、現実に最も頻繁に向き合う相手は唐ではなく、新羅でした。白村江の戦い(天智天皇2年・663年)以後、百済は滅び、高句麗も滅び、朝鮮半島を押さえた新羅が、日本外交の第1の相手になっていました。

白村江の戦いでは、日本も唐・新羅連合軍と戦って大敗していますね。
この経緯から考えると、敵対していた新羅としっかり正式な外交関係を結んでいるのはすごいことですね。
使者の目的は「天皇即位の慶賀」か
文武天皇即位からおよそ3ヶ月、このタイミングを見るに、新羅使の来日目的はこれの祝賀のためではないでしょうか。年明けの文武2年正月1日(壬午)条では新羅使が朝賀に参列したことも見えます。
新羅使を送迎させる
11月11日(癸卯) 務広肆(従七位下相当)坂本朝臣鹿田、進大壱(大初位上相当)大倭忌寸五百足らを陸路で、務広肆土師宿禰大麻呂、進広参(少初位上相当)習宜連諸国らを海路にて遣わし、新羅使を筑紫において迎えさせた。
遣務廣肆坂本朝臣鹿田。進大壹大倭忌寸五百足於陸路。務廣肆土師宿祢大麻呂。進廣参習宜連諸國於海路。以迎新羅使于筑紫。
外国からの使者を誰に出迎えさせるかというのは重要な人事なはずですが、これを見ると、従七位下や少初位上相当といった下級の官人が選ばれているというのはいささか謎です。
先に触れたように、年明けの文武2年正月1日(壬午)条では新羅使が朝賀に参列したとあるため、決して新羅使を軽く扱ったというわけでもなさそうです。

それに、筑紫までわざわざ陸路と海路で分けて遣わしているので、人員と手間をかけた大掛かりなものにも感じます。

僕の予想ですが、まさにその「多くの人員」をかけたというところがポイントではないでしょうか。
新羅使を迎える外交儀礼的役割を持つのは「筑紫の責任者」であり、陸海路で遣わされた使者は引率などの実務に関わる官人で高い地位を持っている必要はなかったと理解されていたのではないでしょうか。

筑紫には外国使節を受け入れる客館があり「筑紫館」(つくしのむろつみ)、後には「鴻臚館」(こうろかん)と呼ばれました。

筑紫の責任者ですか。おそらくですけど、これは前にも登場した「筑紫総領」ではないですか?
多くの人員は、ここで新羅使を出迎えて式典のような行事に出席するとか、いろいろな雑務に従ったり、藤原京まで引率するための威儀の列を整える…などの役割もありそうです。

後の事例だと、慶雲2年(705)11月13日(己丑)条に「騎兵大将軍」という新羅使送迎のため臨時の専門職を任命してますね。
文武天皇元年の時点だと、まだその前段階という感じがします。
蝦狄に物を賜る
12月18日(庚辰) 越後(新潟県北部から庄内方面)の蝦狄に、各々差をつけて物を賜った。
賜越後蝦狄物。各有差。
「越後」とはいっても、この時点では後世の越後国、すなわち現在の新潟県の範囲とそのまま重なるものではありません。この頃の越後は新潟県北部地域から山形県の庄内地方辺りが範囲となっていたものと思われます。

大宝2年(702)3月17日(甲申)条で、今の富山県・新潟県の境界と重なるようになります。

文武天皇元年時点では、北陸の北部地域はまだ朝廷にとって未開の地であり、統治が行き届いていなかったことが分かりますね。
蝦夷ではなく「蝦狄」
用字が蝦夷ではなく、蝦「狄」となっています。
蝦夷の「夷」は東方の異民族を指す字であり、陸奥方面、すなわち太平洋側の蝦夷に用いられました。
一方、「狄」は本来、中国で北方の異民族を指す字であり、越後・出羽方面、すなわち日本海側・北方辺境の人々に対して用いられたと考えられます。

漢字辞典によると「狄」はキジ、または「遠い地」を意味する漢字とのこと。
確かに畿内にある朝廷から見て北陸とさらにその先は未開の遠隔地ですね。

「蝦」は「えび」「かえる」特に「ひきがえる」という意味があるみたいです。
なぜにえびやカエル…?

古代において、まず彼らの呼称として「エミシ」が先にあり、そこから漢字の「蝦夷」が当てられるようになったのですが、「蝦」の字が当てられたのは「えび」の意味があるように、えびのようにヒゲが長いこと、つまり毛深さを表したもののようです。

差別的な意図があっての呼称とはいえ、髭が長いことから「えび」を連想するのもなかなか面白いですね。
⭐️参考 蝦蛦(弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍)
飢饉の発生

閏12月7日(己亥) 播磨、備前、備中、周防、淡路、阿波、讃岐、伊予などの国に飢饉があったので、賑救(財を施し救援すること)した。また、負税を取り立てることをやめさせた。
播磨。備前。備中。周防。淡路。阿波。讃岐。伊豫等國飢。賑給之。又勿收負税。
負税とは、人民に出挙(春に種籾・食糧を貸し、秋の収穫後に利息を付けて返す制度)として貸し付けた稲・粟のうち未返済のものをいいます。賑救として物を施すだけでなく、返済が滞っている出挙を取り立てることを止めさせました。
閏月について

「閏12月」とは?
2月29日の閏日なら聞いたことありますけど…

これは「閏月」ですね。2〜3年ごとに、12ヶ月に1ヶ月追加して、1年13ヶ月になる年があるんです。現在では取り入れられていない概念なので驚きですね。

1年が13ヶ月?
じゃあ閏12月は、「2回目の12月」ってことですか!

はい。当時は月の満ち欠けと太陽の運行を基準に暦が作られていました。
そうすると、月と太陽の周期が少しずつズレていって、暦と実際の季節が合わなくなり農作業などに支障が出てしまうのです。
だから、暦と季節を調和させるため、1ヶ月追加して調整しているのです。
正月拝賀の禁
閏12月28日(庚申) 正月に人が行き来して拝賀の礼を行うことを禁じた。もし違反者がいれば、浄御原朝廷の制(天武天皇の時代の制度)により、これを罰することとした。ただし、祖父・父・兄、及び氏上(氏族をまとめる代表者)を拝することは許可した。
禁正月往來行拜賀之礼。如有違犯者。依淨御原朝庭制。决罸之。但聽拜祖父兄及氏上者。
拝賀とは上下関係を伴う礼。つまり、正月に諸王・諸臣・官人たちが、あちこちの有力者のもとへ出向いて正月の礼を行うことを制限したということです。

上司への挨拶回りということでしょうか…なぜ禁止されたのでしょう?
公私混同になって風紀が乱れるから…とかでしょうか。
上司から「なぜあいつは挨拶に来ないんだ」みたいなパワハラ的なことがあったりとか。

それもありそうですが、メインは「正月の拝賀を天皇中心の礼に集約したい」という意図があったのではないでしょうか。
これと同類の禁制は以前にも出されており、
『日本書紀』天武天皇8年(679)正月7日条には、
「正月の節会では、諸王・諸臣および百寮は、兄・姉以上の親族(父母や祖父母など)と自分の氏上を除き、それ以外の者を拝賀してはならない」と決められています。

新しい決まりではなく、天武天皇の時代からあったんですね。
やはりこれも、年が明けて初めて文武天皇を正月に拝するわけですから、改めて禁令を発して正月に備えていると見て良さそうですね!
「祖父兄」とは
今回の文武天皇元年閏12月の記事では「祖父兄」とありますが、天武8年正月には「兄・姉以上」となっているため、ここでの「祖父兄」もまた、父母、祖父母、兄姉など目上にあたる親族をすべて包括していると思われます。
律令にも規定される
儀制令第9【元日条】
元日には、親王以下を拝してはならない。ただし、親戚及び家令以下は、この限りにあらず。(以下略)
「親王以下」ということですから、天皇・皇后・太上天皇(上皇)・皇太后・太皇太后・皇太子以外を拝賀してはならないということです。

先ほど言っていた、「正月の拝賀を天皇中心の儀礼に集約したい」という意思がはっきり見えてきますね。

ただし律令では「元日」とあるように、正月のついたちだけに限定しているようです。
まとめ 若い新天皇を支える体制が整えられていく

文武天皇元年の記事はこれで終わりですが、一連の記事を見ていくと、即位直後の新天皇をめぐって、朝廷がかなり周 到に権威付けを行ってきたように見えます。

文武天皇はわずか15歳で即位した、前例のない若年の天皇でした。しかも、父である草壁皇子は即位することなく亡くなっており、文武天皇の即位は、天武・持統系の皇統を次代へつなぐ重要な意味を持っていました。

でも、前例のないことは必ず反対する人もいるでしょうからね…。だからこそ、祥瑞の献上、蝦夷からの方物献上、新羅使の来朝、飢饉の人民への賑給と負税免除、さらに正月拝賀の統制をして、年明け朝賀の準備を念入りに進めてきたのでしょうね。
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