
こんにちは、いづみです♨️
今回から霊亀元年ですね!

和銅から霊亀に改元されるのは9月のことなので、正確にはまだ和銅8年ですが、『続日本紀』の表記に従って「霊亀元年」としています。
霊亀元年(乙卯・和銅8年・西暦715年)現代語訳・解説 正月
朝賀

春 正月1日(甲申) 天皇は大極殿に御し、朝賀を受け給われた。
皇太子が初めて礼服を着用して朝賀に参列した。陸奥・出羽の蝦夷と南嶋の奄美、夜久(屋久島)、度感(徳之島)、信覚(通説では石垣島とされる)、球美(久米島)の民が来朝し、それぞれ方物(地方の産物)を献上した。天皇御大極殿受朝。
皇太子始加礼服拜朝。陸奥出羽蝦夷并南嶋奄美。夜久。度感。信覺。球美等來朝。各貢方物。
国の威信をかけた大儀

朝賀は毎年正月1日に行われている恒例の儀式ですが、この年の朝賀は明らかに例年に比べ規模が大きいです。

そうですね、何といっても秘蔵の皇太子がついに礼服をまとって朝賀に参加するわけです。朝廷がこの朝賀を国の威信にかけた大儀にしようとしたことは容易に想像がつきます。
新羅使、陸奥出羽の蝦夷、南島の人民が前年に来朝しており、新羅使は20人余りで、南島(奄美、石垣島、久米島)の民は52人。ただし、蝦夷の人数は記述がなく不明です。
注目すべきは南島の民で、前年12月5日に率いられてきた52人の島民は「奄美、石垣島、久米島」の3島だったところ、正月朝賀の場には新たに徳之島、屋久島の民が加わっています。よって、規模としては52人を超えていた可能性があります。
皇太子の礼服(らいぶく)

ここでの皇太子は、先代の文武天皇の皇子で、後に聖武天皇として即位することとなる首皇子です。皇太子となったのは前年6月25日のこととみられ、年齢は14歳ごろだったようです。
養老衣服令第1【皇太子条】に定められる皇太子礼服は、
礼服冠・黄丹衣・牙笏・白袴・白帯・深紫紗褶・錦襪・烏皮舃
という構成になっています。つまり大まかには、
- 礼服用の冠
- 黄丹色の衣
- 象牙製の笏(しゃく)
- 白い袴
- 白い帯
- 深紫色の紗の褶(ひらみ)
- 錦の襪(くつした)
- 黒革の舃(底を何層にも重ねたくつ)
という非常に華やかな装いです。

とりわけ重要なのはやはり黄丹衣ですね。
この色は皇太子を象徴する色で、現代にも継承されています。

黄丹色は紅色を帯びた梔子(クチナシ)色。ざっくり言えば、赤みの強い橙色ですね。これはそのまま衣を紅花と梔子の実で染めたものです。
前年末に造営が完了した大極殿

奈良文化財研究所によると、平城宮の大極殿は、和銅7年末ごろに造営がひと段落したものとされています。さらに大極殿だけでなく、この周囲に付属する回廊や前庭の一帯の造営についてもほぼ完了していたようです。
奈良文化財研究所編『平城宮発掘調査報告ⅩⅦ 第一次大極殿院地区の調査2 本文編』

つまりこの時の朝賀は完成したばかりの大極殿のお披露目でもあったんですね✨
和銅3年に遷都してきて以来、ようやく堂々と公開できるようになったわけですか。

礼服を着た皇太子と、完成した大極殿の同時公開ですね。
新羅使、蝦夷、南島民を朝賀に合わせて来朝させた目的がここに見えてきます。
※新羅使は正月1日条には参列したことが見えませんが、新羅使の名が見えないことは必ずしも不参加を意味するものではなく、参加していたと解釈するのが自然であると思われます。
朱雀門で鼓吹が行われ、騎兵が陣列した

(続き)
その儀は、朱雀門の左右に鼓吹(太鼓や管楽器などを奏する儀礼・軍楽の楽隊)と騎兵が陣列(軍陣を並べること)した。元会(朝賀)の日に、鉦鼓(合図などに用いるたたきがねと太鼓)を用いるのはこれが初めてである。
其儀。朱雀門左右。陣列皷吹騎兵。元會之日。用鉦鼓自是始矣。

こちらも初めての例なんですね、やはり今回の朝賀はいつもと雰囲気が違います。

朱雀門は平城宮の入り口に位置し、その中央南端にあります。
この年の朝賀は朱雀門外の左右に騎兵を整列させ、合図などのために太鼓や笛が使われたようです。この騎兵はいわゆる威儀をただす儀仗兵であり、朝賀に参入する人々に国家の威容を示すための配置と見て良いでしょう。

奈文研の『平城宮発掘調査報告』は、この霊亀元年朝賀を挙げ、朝賀の儀に朱雀門は欠くことのできない重要な施設だったと評価しています。つまり、大極殿前だけで朝賀が完結するのではなく、平城宮の正門である朱雀門からすでに儀礼空間が始まっていたわけです。
祥瑞(慶雲、白狐、白鴿)

(続き)
この日、東方に慶雲があらわれた。
遠江国が白狐を、丹波国が白鴿を献上した。是日。東方慶雲見。遠江國獻白狐。丹波國獻白鴿。
これは祥瑞です。祥瑞は天皇の治世が徳に基づいている、つまり「徳治」が天下に行き渡っていることの証明とされ、天の神が讃えて稀な自然現象、外見が通常と違う動物や植物をその印として地上に下したものとされました。

要するに、「縁起のいい物」「めでたい物」ということですね。

元日にこういった3種もの祥瑞で朝廷が証明したいことは、まさにこの日の朝賀を「天が寿いでいる」ということでしょう。

そうですね、この正月1日条は本当にすさまじく、お祝い事のよくばりセットのような感じになってます。
霊亀元年正月1日の記事を並べると、
- 新しく整った大極殿で朝賀
- 皇太子が初めて礼服で拝朝
- 新羅使、蝦夷、南嶋人が貢ぎ物を献上
- 朱雀門左右には鼓吹・騎兵
- 初めて鉦鼓を使用
- さらに東方に慶雲、遠江から白狐、丹波から白鳩
と、人間界の国家儀礼の盛大さに、天まで祥瑞をもって応えたような構成になっています。
慶雲
慶雲はかつて文武天皇の時代の元号の名にもなった「大瑞」です。
詳細についてはこちらをごらんください(慶雲元年5月10日条「慶雲、実は雲じゃない??」)。
また、今回の慶雲は正月10日の大赦の理由のひとつにもなっています。

見えたのが日の昇る「東方」というのも含めてめでたい感じがしますね。
白狐
白狐は平安時代中期に著される『延喜式』によると、「岱宗之精也」(岱宗の精なり)とあります。

岱宗は中国の名山・泰山の別称で、泰山を尊称したものです。
したがって「岱宗之精」とは、直訳すれば「泰山の霊気・精霊」のような意味になります。

泰山の霊気を体現した瑞獣と書くとかっこいいですね。
白鴿(しろはと)
「鴿」はハトを意味する字ですが、野生のハトの他、家畜としてのハトを指す場合もあるようです。
そのため、「白鴿」は飼育されていたハトが突然変異などで白化したものなのかもしれません。
詔(大赦、昇叙)
正月10日(癸巳) 次のように詔した。「今年の元日は皇太子が初めて拝朝し、瑞雲があらわれました。よって、天下に大赦を下します。ただし、八虐を犯した者、私鋳銭(私的に銭を鋳造すること)、盗人など、その他通常の赦で許されないものは今回の赦の範囲には加えません。
内外の文武官の六位以下は位を一階進めます。
また、二品穂積親王に一品を、三品志紀親王に二品を授けます。
従四位下路真人大人・巨勢朝臣邑治・大伴宿禰旅人・石上朝臣豊庭・多治比真人三宅麻呂・百済王南典・藤原朝臣武智麻呂に従四位上を授けます。
正五位上大伴宿禰男人・太朝臣安麻呂・正五位下当麻真人桜井・従五位上多治比真人県守・藤原朝臣房前に従四位下を授けます。
正五位下曽祢連足人・佐伯宿禰百足・百済王良虞に正五位上を授けます。
従五位上笠朝臣吉麻呂・中臣朝臣人足に正五位下を授けます。
従五位下台忌寸少麻呂・道君首名に従五位上を授けます。
従六位上下毛野朝臣石代・当麻真人大名・紀朝臣清人・従六位下土師宿禰豊麻呂に従五位下を授けます。
また、二品氷高内親王に一品を授けます」と。詔曰。今年元日。皇太子始拜朝。瑞雲顯見。宜大赦天下。但犯八虐。私鑄錢。盜人常赦所不原者。並不在赦限。
内外文武官六位以下。進位一階。
又授二品穗積親王一品。三品志紀親王二品。
從四位下路眞人大人。巨勢朝臣邑治。大伴宿祢旅人。石上朝臣豊庭。多治比眞人三宅麻呂。百濟王南典。藤原朝臣武智麻呂並從四位上。
正五位上大伴宿祢男人。太朝臣安麻呂。正五位下當麻眞人櫻井。從五位上多治比眞人縣守。藤原朝臣房前並從四位下。
正五位下曾祢連足人。佐伯宿祢百足。百濟王良虞並正五位上。
從五位上笠朝臣吉麻呂。中臣朝臣人足並正五位下。
從五位下臺忌寸少麻呂。道君首名並從五位上。
從六位上下毛野朝臣石代。當麻眞人大名。紀朝臣清人。從六位下土師宿祢豊麻呂並從五位下。
又授二品氷高内親王一品。
大赦
今回の大赦は、皇太子の初拝朝と瑞雲出現を理由にしています。
祥瑞の出現はしばしば大赦の理由になることはありますが、皇太子初拝朝という国家的慶事をもって行うことは他に例がありません。
八虐・私鋳銭・盗犯は除外
こちらについては「和銅7年6月28日条(天下に大赦と恩典を下す)」をご覧ください。
叙位

これそのものは正月の定例的な叙位と見て良いでしょう。
ですが、通常の例よりも幅広く行われているように見え、ここにも皇太子初拝朝や祥瑞出現などによる慶事が「恩典」として上乗せされているように思います。
内外の六位以下の文武官全員が1階昇叙
特に、内外の六位以下、つまり中央地方を問わず、全国の「正六位上」以下の位階を有する文武官人すべてを1階昇級させるというのは、この時点において前例が見られません。

しかも、正六位上の人の場合は1階上がると従五位下、つまり貴族層の仲間入りを果たすわけですよね。これはかなり大きな恩典といえます。
穂積親王が親王の最高位に
一品は親王に授けられる4階(一品〜四品)のうちの最高位です。
穂積親王は天武天皇の皇子で、慶雲2年(705) 9月5日以来「知太政官事」という、太政官を統括する地位にいます。
なお穂積親王は、この一品昇叙から約半年後の7月27日に薨去となりました。
三品から二品となった志紀親王(志貴皇子とも)は天智天皇の皇子で、元明天皇の異母弟とされます。霊亀元年時点で存命が確認できる最後の天智天皇の皇子です。

和銅元年(708)正月11日には、四品→三品に上がっていて、最後の天智天皇皇子、そして元明女帝の弟として朝廷内でも存在感がありそうですね。
『古事記』の撰者 太安麻呂
太安萬侶とも表記され、和銅5年(712)に『古事記』を撰録・献上した人物として有名です。
つまり今回の従四位下への昇叙は、『古事記』完成からわずか3年後です。後に民部卿となり、墓誌も現存しています。

ただし『続日本紀』には『古事記』の名は一切登場しません。
『日本書紀』の編纂に参画 紀清人
彼は前年の和銅7年2月10日の詔により、正八位下三宅藤麻呂と共に国史の撰定を命じられたばかりの人物です。

この「国史」というのは養老4年(720)に完成する『日本書紀』のことと見て間違いないでしょう。
藤原不比等の子 武智麻呂と房前
不比等の長男は武智麻呂で、房前はその弟です。
| 昇叙前 | 昇叙後 | 昇階幅 | |
| 武智麻呂 | 従四位下 | 従四位上 | 1階 |
| 房前 | 従五位上 | 従四位下 | 3階 |

房前は位階こそ兄の武智麻呂よりも低いですが、一気に3階も昇叙されています。
しかも、わずか2年後の養老元年(717)には兄より先に参議となり、太政官に入っています。
氷高内親王が親王の最高位に

氷高内親王は、
父が草壁皇子、母が元明天皇であり、文武天皇の姉です。

なんと言っても特筆すべきは、氷高内親王はこの年の9月に元正天皇として即位する人物だということです。
和銅7年(714)正月20日には、食封(一定の人民の戸を割り当てて、そこから収められる租庸調の全部または一部を自己の収入とすることを認めた制度)を1000戸加増されており、以前から保有していたとみられる封戸と合わせると1300戸という、通常の内親王とは並外れた厚遇を受けています。
実際、翌日の正月11日条では3名の内親王が封戸を加増されていますが、いずれも100戸加増です。このことからも氷高内親王への厚遇は、他と頭ひとつ違うどころの規模ではありません。
これは、今回の一品昇叙と合わせて「天皇に即位させるための前準備」ではないかと言われています(「令制下の女帝ー元明天皇・元正天皇ー」渡部育子・国立情報学研究所エアリポジトリ、PDF)。

今回の記事では、他の親王たちと並べて「一品とする」とされず、記事の最後に「また、二品氷高内親王に一品を授ける」とあり、やはり特別な意味付けがされているように感じます。まあ、女性だから別立てで書かれただけの可能性もありますが…。
表 霊亀元年の正月叙位一覧
| 人名 | 昇叙前 | 昇叙後 | 昇階幅 |
|---|---|---|---|
| 穂積親王 | 二品 | 一品 | 1階 |
| 志紀親王 | 三品 | 二品 | 1階 |
| 路真人大人 | 従四位下 | 従四位上 | 1階 |
| 巨勢朝臣邑治 | 従四位下 | 従四位上 | 1階 |
| 大伴宿禰旅人 | 従四位下 | 従四位上 | 1階 |
| 石上朝臣豊庭 | 従四位下 | 従四位上 | 1階 |
| 多治比真人三宅麻呂 | 従四位下 | 従四位上 | 1階 |
| 百済王南典 | 従四位下 | 従四位上 | 1階 |
| 藤原朝臣武智麻呂 | 従四位下 | 従四位上 | 1階 |
| 大伴宿禰男人 | 正五位上 | 従四位下 | 1階 |
| 太朝臣安麻呂 | 正五位上 | 従四位下 | 1階 |
| 当麻真人桜井 | 正五位下 | 従四位下 | 2階 |
| 多治比真人県守 | 従五位上 | 従四位下 | 3階 |
| 藤原朝臣房前 | 従五位上 | 従四位下 | 3階 |
| 曽祢連足人 | 正五位下 | 正五位上 | 1階 |
| 佐伯宿禰百足 | 正五位下 | 正五位上 | 1階 |
| 百済王良虞 | 正五位下 | 正五位上 | 1階 |
| 笠朝臣吉麻呂 | 従五位上 | 正五位下 | 1階 |
| 中臣朝臣人足 | 従五位上 | 正五位下 | 1階 |
| 台忌寸少麻呂 | 従五位下 | 従五位上 | 1階 |
| 道君首名 | 従五位下 | 従五位上 | 1階 |
| 下毛野朝臣石代 | 従六位上 | 従五位下 | 3階 |
| 当麻真人大名 | 従六位上 | 従五位下 | 3階 |
| 紀朝臣清人 | 従六位上 | 従五位下 | 3階 |
| 土師宿禰豊麻呂 | 従六位下 | 従五位下 | 4階 |
| 氷高内親王 | 二品 | 一品 | 1階 |
内親王たちの封戸を加増する
正月11日(甲午) 三品泉内親王、四品水主内親王・長谷部内親王の封戸をそれぞれ100戸加増した。
三品泉内親王。四品水主内親王。長谷部内親王。益封各一百戸。
泉内親王は天智天皇の皇女で、かつて文武天皇の時代に伊勢の斎宮を務めた人物です(大宝元年2月16日条)。
水主内親王も天智天皇の皇女で、栗隈首徳万の娘・黒媛娘との間に生まれました。
長谷部内親王(泊瀬部とも)は天武天皇皇女で、母は宍人大麻呂の娘・カジ媛娘(カジは木偏に穀)。
木簡に名前が現れる長谷部内親王
長谷部内親王の名前は、平城宮第一次大極殿院の西辺から、「長谷部内親王所」と書かれた木簡が出土しています。奈文研はこれを内親王の居宅(内親王宮)、あるいはその造営関係の「所」の可能性があるとしています。
叙位(蝦夷と南嶋の民)
正月15日(戊戌) 蝦夷と南嶋の民の77人にそれぞれ差をつけて位を授けた。
蝦夷及南嶋七十七人。授位有差。

この77人は、元日朝賀に参加した陸奥・出羽の蝦夷と、奄美・夜久・度感・信覚・球美などの南嶋人の一行ですね。
位を授けるというのは、単に恩典というだけではなく、その人物を律令国家の秩序の中に位置づけるという意義があります。
中門で宴を賜う

正月16日(己亥) 宴を中門で、百寮(多くの官人。百官)の主典(四等官の最下位)以上と新羅使の金元静たちに賜った。諸方の音楽を奏でて宴は終わり、それぞれ差をつけて禄を賜った。
宴百寮主典以上並新羅使金元靜等于中門。奏諸方樂。宴訖。賜祿有差。
中門が平城宮のどこに位置するのかは不明

中門は、大極殿の南門(いわゆる「大極門」)とする説がありますが、位置については議論があるようです。「中門」というのはその門の正式名称ではなく、通称であると思われ、平城宮内の位置における「中」ですから比較的中枢に近いものと考えられます。

なるほど、だから大極門ではないかと言われているのですね。

非常に大規模な宴会
主典以上というのは、四等官制の最下位です。そのため上級から下級まで非常に広い範囲の官人が宴に参集したことになります。

ところで、この宴会は中門という「門」で開いたとあるわけですが、これは文字通りに門の2階に集まって宴を開いたというわけではないでしょう。

それは確かにそうですよね。数十人どころか数百人規模でしょうから、いくら立派な門でもそこまでの人数を収容できたとは思えません。
古代史料では建物名・門名を使って、その建物の前庭・周辺を含む儀礼空間を表現する場合があります。したがってイメージとしては、中門を正面にした広場・朝庭に百官と新羅使を列席させ、酒食を供し、諸方の楽を奏したという風景が考えられます。

これは新羅使をもてなす場所として非常に意味があります。前年末に完成したと思われる大極殿とその周辺建物を中心とした新しい儀礼空間を宴の場所としているわけです。

つまり新羅使は、新しく整備された平城宮の壮大な建物を目の前にして宴を受けていた…ということですね。これは「日本の姿」を新羅使に印象付けるのに最適かもしれません。
諸方の楽とは
「諸方の楽」は、諸地域の音楽を奏する宮廷儀礼上の演奏であり、単なるBGMではありません。同じ表現は慶雲3年(706)正月7日にも、新羅使を朝庭でもてなした際に見えます。
「諸方」は文字通りに考えれば、さまざまな土地・地方・地域などとなりますが、ここでは外国の音楽を指すようです。当時、朝廷の音楽・舞踊を担当した雅楽寮には唐楽・高麗楽・百済楽・新羅楽などの楽師・楽生(音楽・舞踊の指導者と教習生)が置かれていたため、こうした外来系の音楽のいくつかが演奏されたのでしょう。

新羅使がその場にいる中で新羅楽を奏されたのであれば、なかなか面白い絵面ですね。
大射

正月17日(庚子) 大射を南闈で賜った。新羅使も射列に加わった。それぞれ差をつけて綿を賜った。
賜大射于南闈。新羅使亦在射列。賜綿各有差。
大射とは
大射は正月中旬ごろに開かれる、天皇の御前で弓の射芸を競った宮中行事です。
詳しくはこちらの記事(大宝元年(701)正月18日「大射の儀」)をご覧ください。
南闈は、平城宮のある区画の南側に位置する小門か
「闈」の字義は門、特に、宮中の通路または正門の脇に設けられた小門という意味があります。つまり「南闈」は南側にある小門といっているわけですから、具体的には平城宮のどの門を指すかは明らかではありません。

ただ、大射は親王や位階や勲位を持つ官人たちが勢揃いして弓を射る大規模な行事ですから、広い空間が必要なはずです。

今年は朝賀から始まって、ここまで例がないくらい儀礼に力を入れてきたわけですし、大射もきっと盛大に開催されたと思うのですが、「南闈」というのは不思議ですね。
次回の記事
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