
こんにちは、いづみです♨️
麦や粟そのものってあまり食べたことがないんですよね。どんな味なんでしょう?

たしかに、麦はパンとかうどんなどの加工食品として食べてはいますけど、お米みたいに麦自体を食べることはあまりないですよね。どんな味なんでしょうね?
霊亀元年(乙卯・西暦715年)現代語訳・解説 10月〜12月
詔(全国の人民に麦と粟を生産させる)
冬 10月7日(乙卯) 次のように詔した。
「 国家隆泰(繁栄し安泰であること)の要は民が富むことにあります。富民の根本は、貨食(財貨と食糧。経済)の生産に努めることです。ゆえに、男性は耕耘(田畑を耕し作物を作ること)に勤め、女性は絍織(機織り、衣服の織成)を修めることにより、家には衣食が豊かにあり、人に廉恥(清廉で恥を知ること)の心が生まれるのです。刑錯(よく治まり、刑罰を科すことがない)の化がここに起こり、太平の世を実現できるのです。官民が皆どうしてこれに努めないことがあるでしょうか。
今、諸国の百姓は未だ生産の技術を活用し切れずに、ただ水田に頼るのみで、陸田(雑穀類を栽培する畑)の利益を知りません。あるいは水害や旱害(日照り)に遭い、蓄えの穀物を更に失っています。もし秋稼(秋の収穫)が失われれば、多く飢饉を生じさせることとなります。これはただひとり百姓の懈懶(なまけ、おこたり)には非ず、もとより国司が教導を行わないからです。よろしく百姓には兼ねて麦と禾(ここでは粟を指すか)を、男夫(成人男性)には一人につき二段を植えさせること。およそ粟は長い期間の保存に優れ、傷むことがありません。諸々の穀物のうち最も精好(よくできて美しい)なものです。
この言葉を天下に告げ、力を尽くして耕種(田畑をたがやし、種や苗を植えること)し、時候(季節。時節。よい時季)を失うことがあってはなりません。その他の雑穀は各自の力に応じて栽培を課すこととします。もし百姓のうちで、稲に代えて粟を納める者があれば、これを許可することとします」と。詔曰。
國家隆泰。要在冨民。冨民之本。務從貨食。故男勤耕耘。女脩絍織。家有衣食之饒。人生廉耻之心。刑錯之化爰興。太平之風可致。凡厥吏民豈不勗歟。
今諸國百姓未盡産術。唯趣水澤之種。不知陸田之利。或遭澇旱。更無餘穀。秋稼若罷。多致饑饉。此乃非唯百姓懈懶。固由國司不存教導。宜令佰姓兼種麥禾。男夫一人二段。凡粟之爲物。支久不敗。於諸穀中。最是精好。
宜以此状遍告天下。盡力耕種。莫失時候。自餘雜穀。任力課之。若有百姓輸粟轉稻者聽之。

これは元正天皇が即位直後に打ち出した、食糧生産に関する具体的な政策といえます。特筆すべき点は次の通りです。
1. 水田稲作への依存からの脱却
水田にばかり頼っているため、水害や旱害が起こると飢饉につながると指摘しています。
そこで麦や粟などの畑作を奨励し、食糧の生産手段を多様化しようとしています。
しかも、成人男性一人につき二段という具体的な栽培面積を示し、さらに稲に代えて粟を納付することまで認めています。
2. 農業指導の責任を国司に求めたこと
農民の怠慢だけを問題にするのではなく、国司が適切に教導していないことを原因に挙げています。
つまり、朝廷は地方の農業生産を国司の責任として位置づけていたことになります。

この点については元明天皇時代から一貫して「国司がちゃんと指導しないからだ」と責任を追及する姿勢を維持していますね。
3. 「富民」を国家統治の基本としたこと
詔の冒頭では、民が豊かになれば廉恥の心(清廉で恥を知る心)が生まれ、刑罰を用いなくても社会が安定すると説いています。
つまり、民の生活を豊かにすることが、国家の安定と太平につながるという統治理念が示されています。

「衣食足りて礼節を知る」ということでしょうか。

実際にこの年の6月には日照りが起きており、6月12日に太政官は祈雨を奏上していました。
陸奥蝦夷たちの要請
① 略奪から守るため、香河村に郡家を建てることを要請
10月29日(丁丑) 陸奥の蝦夷の第三等・邑良志別君宇蘇弥奈たちが次のように言上した。
「 親族が死亡し、子孫が数人しか残っておりません。常に狄徒(朝廷に従わない勢力)に抄略(略奪)されることを恐れています。そのため、香河村(所在地未詳。現在の岩手県二戸市付近、または宮城県登米市付近に比定する説がある)に郡家(郡の役所)を建造し、戸民に編入され、永く安堵を保つことを要請します」と。陸奥蝦夷第三等邑良志別君宇蘇弥奈等言。
親族死亡子孫數人。常恐被狄徒抄略乎。請於香河村。造建郡家。爲編戸民。永保安堵。
「第三等」というのは青森県資料によると、朝廷が蝦夷に与えた爵位で、研究によると第一等から第六等まであったようです。(03_青森県史資料編考古3)
つまり、この蝦夷たちは朝廷に帰順した一族ということになります。

朝廷に帰順した蝦夷が、そうではない蝦夷に略奪を受けている…ということですね。なんだか複雑です。

一口に蝦夷と言っても一枚岩ではないようですね。
興味深いのは、彼らが求めたのが単なる救済ではなく、郡家の設置と編戸民への編入だったことです。朝廷の行政支配を受け入れることによって、一族の安全と存続を図ろうとしたのでしょう。
② 国府まで遠すぎるため、閇村に郡家を建てることを要請
(続き)
また、蝦夷の須賀君古麻比留たちが言上した。
「 先祖以来、常にこの地から採れた昆布を年月欠かすことなく献上しています。今、国府はこの地から相去ること道は遠く、往還に旬を重ねており(何十日もかかっている)、甚だ辛苦しています。そのため、便宜により閇村(後の閉伊郡につながる地名。現在の岩手県宮古市付近などに比定されるが、所在地は未詳)に郡家を建てることを要請し、百姓に同じく(一般の百姓と同じくという意味か)共に親族を率いて永く献上を欠かすことのないように致します」と。
いずれもこれを許可した。又蝦夷須賀君古麻比留等言。
先祖以來。貢獻昆布。常採此地。年時不闕。今國府郭下。相去道遠。往還累旬。甚多辛苦。請於閇村。便建郡家。同百姓。共率親族。永不闕貢。
並許之。
ここでの「国府」は陸奥国府と思われ、その位置は今の仙台市の「郡山遺跡」にあったとされています(よく知られる多賀城が陸奥国府となるのは、神亀元年(724)以降)。
郡山遺跡
仮にこの蝦夷が、今の宮古市の沿岸部付近に住んでいたとすると、確かにかなり遠く、往復に何十日もかかり負担が重すぎるというのは納得できます。

この蝦夷たちは昆布の貢納そのものをやめたいわけではなく、望むのは移動にかかる負担を軽減してほしいということだったんですね。
貢納物の平城京までの輸送ルート

昆布を郡家に運んだあと、そこからはどうやって都(平城京)まで運ぶのでしょうか?

一般的な調庸の場合は、[村落→郡家→国府→都]という流れになっています。
実際に運ぶのは「運脚」という農民から選ばれた男性です。
生産地・村落
農民らが貢納物を用意
↓
郡家
郡司が貢納物を集め、検査・管理
↓
国府
国司の管理下で貢納物を取りまとめる
↓
都(平城京)
運脚が貢納物を輸送

今回は、郡家が新たに建てられることになったために、蝦夷たちが直接国府に運ぶという負担がなくなったということなんですね。
日蝕

12月1日(己酉) 日蝕があった。
日有蝕之。
この日の日食は観測できなかったようです。
NASAによると、この日食は部分日食で世界時18:01が最大食とのことです。
日本時間だと午前3時頃で真夜中であり、観測はできません。

「日蝕があった」としておきながら実際には観測されてなかったというのもどうなのでしょう?

日蝕が起きることが予測される場合、事前に暦博士は陰陽寮に申し送り、陰陽寮はこれを奏上するという手続きを行っていました。
実際に観測されたかどうかは別として、その行政のログが残っていて、それを後に『続日本紀』の編纂者が拾って採録したということなのでしょう。
なお、日蝕が起きると天皇は政務を停止し、官人は日蝕の最中は業務を停止し、日蝕が終わったあとに退庁することとされているため、日蝕の予報というのは実務上非常に重要でした。
律令制と日蝕についてはこちらをご覧ください。
三つ子の出産と手当

12月11日(己未) 常陸国久慈郡の人、占部御蔭女が一度に三人の男子を産んだ。よって、食糧と乳母1人を支給した。
常陸國久慈郡人占部御蔭女一産三男。給粮并乳母一人。
多胎児出産をした女性に食糧や乳母を支給して支援するという記事は他にも複数確認できますが、その多くは京・畿内の人に集中しており、常陸国の女性という点で異例です。
霊亀元年以前の、多胎児出産の女性の記録を整理すると、次のようになります。
| 年 | 母・居住地 | 出生児 | 食料 | 衣料 | 乳母 | 特記 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 文武3年(699)正月26日 | 林坊の新羅人・牟久売 | 4人 | 稲500束 | 絁・綿・布 | 1人 | 「林坊」は藤原京内。 |
| 慶雲元年(704)6月11日 | 河内国古市郡・高屋連薬女 | 3男 | ― | 絁・綿・布 | ― | |
| 慶雲3年(706)2月14日 | 山背国相楽郡・鴨首形名 | 3度の出産で計6人 | ー | ー | ー | 詔により、最初に産んだ男子2人を大舎人とした。 |
| 慶雲3年(706)3月13日 | 右京・日置須太売 | 3男 | 食料 | 衣類 | あり | 藤原京の右京 |
| 慶雲4年(707)5月16日 | 美濃国・村国連等志売 | 3女 | 穀40斛 | ― | 1人 | 美濃国は今の岐阜県南半部 |
| 和銅元年(708)3月27日 | 美濃国安八郡・国造千代の妻、如是女 | 3男 | 稲400束 | ― | 1人 | |
| 和銅4年(711)7月5日 | 山背国相楽郡・狛部宿禰奈売 | 3男 | 稲200束 | 絁・綿・布 | 1人 | |
| 和銅7年(714)5月27日 | 土佐国・物部毛虫咩 | 3人・性別不明 | 穀40斛 | ― | あり | 遠隔地の女性 |
| 霊亀元年(715)12月11日 | 常陸国・占部御蔭女 | 3男 | あり | ー | 1人 | 今回の記事 |

遠隔地としては、直近の例で土佐国の女性もいます。

今回は東国居住者として初めての例となりますね。
次回の記事
更新をお待ちください。




コメント