
こんにちは、みちのくです☀️
大宝律令ができたからといって、すぐに全国が朝廷の命令に従うわけではありません。今回のタイトルは「薩摩と多褹を討つ」です。

戦いが始まってしまいますね…。
※多褹(たね)は今の種子島につながる名前で、その周辺の島々を指すものです。
大宝2年(壬寅・西暦702年)現代語訳・解説 7月〜8月
勅(親王が乗馬したまま宮門を通過することを禁じる)
秋 7月4日(己巳) 勅があった。親王が乗馬のままで宮門に入ることを禁じた。
有勅斷親王乗馬入宮門。
閤門・宮門・宮城門

宮門は天皇の居所への出入り口にあたる門です。
後の養老令には門の区分が書かれています(括弧内は大宝令の名称)。
閤門(内門) … 最も内郭の門
宮門(中門) … その外側にある門
宮城門(外門) … 宮門のさらに外側にある門
の順に格が高く設定されています。
藤原宮内裏の具体的な門の位置や名称は十分に判明していないため、後世の平安宮で例を示すと、
閤門 → 承明門
宮門 → 建礼門
宮城門 → 朱雀門
という関係になります。


より天皇の居所に近いのが宮門なんですね。「宮」とはもともと天皇の住むところを意味しますから、乗馬したままで進入するのは礼を失するということなのでしょう。

たとえ親王であっても許されない、下馬して通れとされたわけです。
詔(伊勢神宮の封物への穢れを禁じる。乙訓郡の火雷神を祈年祭・月次祭の例に入れる)
7月8日(癸酉) 次のように詔した。
「 伊勢太神宮の封戸から納められる物は、神の御物である。よって、神事の供物に準じ、みだりに穢すことのないようにすること。
また、山背国(後の山城国)乙訓郡に坐す火雷神には、旱が起きるたびに祈雨してきており、頻りにその効験がある。よって、大幣(祈年祭の幣帛)と月次祭の幣帛(神への供え物)の例に入れること」と。詔。
伊勢太神宮封物者。是神御之物。宜准供神事。勿令濫穢。
又在山背國乙訓郡火雷神。毎旱祈雨。頻有徴驗。宜入大幣及月次幣例。
伊勢神宮に充てられる調庸は供え物と同じ
本来中央に納める調・庸の物品を個人の収入にすることを認める「食封」(じきふ)という制度があり、封戸はそのために割り当てられた戸のことをいいます。
ここではその食封制度が神社(神宮)を対象にしており、その封戸を特に「神戸」(かんべ)ともいいます(8月28日条には実際に神戸の語が見える)。

「穢」とは「汚」とは違い、物理的な「よごれ」のみを指すものとは言えません。宗教的な意味での「不浄」「けがれ」を意味する場合があることに注意です。
ただし、この古代の文脈で「穢」と「汚」がどこまで使い分けられていたかについては分かりません。

でも、「神事の供物に準じ」とあるわけですから、物理的に汚さないのはもちろんですがやっぱり「不浄」の意味も併せ持っていたのではないでしょうか。
乙訓郡の火雷神

乙訓郡の火雷神は、現在の京都府長岡京市井ノ内にある 角宮神社(すみのみやじんじゃ) が、その有力な比定先の一つです。

雷が鳴る→雨が降る なので雷神は雨をつかさどる神なんですね。

7月の上旬ということは今の暦だと8月半ばくらいということですね。
それは雨が降ってもらわないと困りますね!
幣帛を供えられる神社のひとつになった
この火雷神を「大幣と月次祭の幣帛の例に入れること」というのは、
毎年2月に行われる祈年祭と、毎月6月と12月に行われる月次祭で、幣帛を奉納される神社に加えられたということです。
このふたつの祭りは国家主催の祭祀であり、特に祈年祭の幣帛は「大幣」と呼ばれる重要なものです。
詔(全国の文武官に大宝令の学習を行わせる)

7月10日(乙亥) 詔により、内外(内官と外官。京官と地方官)の文武官に新令(大宝令)を読み習わせた。
詔。令内外文武官讀習新令。
詔により、内外の文武官、つまり全国の官人に対し大宝令の学習が行われました。
令の施行は前年(701)6月8日に「すべての庶務は新令に基づくこと」とし、さらに七道諸国(畿内を除く全国)に使者を送って周知を行っています。

全国で新制度の勉強会が開かれたといったところでしょうか

天皇命令で勉強会を開けということですから、それだけ全国普及が急務だったということですよね。
なお、7月30日には大宝律の講義が行われています。
祥瑞(八蹄馬)

(続き)
美濃国大野郡の人、神人大が八蹄の馬を献上したため、稲千束を賜った。
美濃國大野郡人神人大獻八蹄馬。給稻一千束。
蹄(ひづめ)というのは馬などの動物の足先にある大きな爪ですが、八蹄とは、蹄が8つあったということなのか(つまり、脚が8本あった?)、それとも「八」というのは蹄が大きいことを意味しているのか不明です。

脚が8本はかなりショッキングなので蹄が大きかったということにしておきたいです。

この点、岐阜県の三輪神社ではこの馬を、蹄が二股に分かれていたので通常の四本脚から八つの蹄があるように見えたのだとしています。

なるほど!それなら確かに蹄が八つになりますね。
それに、「八」という数字は縁起が良く、大国主神の別名「八千矛神」、日本列島の美称「大八島国」など。また「八重」「八尋」のように特に大きさを強調する意味がありますよね。

そういう意味で、この「八蹄馬」は祥瑞と言えるでしょう✨
行幸(吉野離宮)

7月11日(丙子) 天皇は吉野離宮に行幸した。
天皇幸吉野離宮。
文武天皇の行幸は今回で2度目であり、前年(大宝元年)2月20日以来です。
この行幸は、いつ還幸したのかについて記録がありません。

2年連続ということですね。
吉野行幸をライフワーク?のように何度も訪れた、祖母・持統上皇の影響があったのでしょうか?

それはあったかもしれないですね。
吉野は当時の王権にとってかなり象徴的な地ですから、持統上皇は孫の文武天皇にもそれを歴史として知ってもらいたかったのかもしれません。これは僕の想像ですが。

吉野は天武天皇と持統天皇にとっての聖地ですからね。

もっとも、持統上皇は昨年の吉野行幸が最後(大宝元年(701)6月29日)で、文武天皇もこれ以後は吉野を訪れたという記録は残っていません。
大宝律を講義する
7月30日(乙未) 初めて律(大宝律)を講じた。
始講律。
律は刑罰、つまり現代での「刑法」に近いものです。
この年の2月1日には大宝律が頒布されているので、今回の記事は、その内容を官人たちに理解させるための講義が始まったことを示すと考えられます。
令の勉強会が7月10日に行われていますが、これは全国的なものである一方、こちらはただ「律を講じた」とあるだけでその範囲や対象者は不明です。
全国の罪人を赦する
(続き)
この日、天下の罪人を赦した。
是日。赦天下罪人。
全国の罪人を赦免したとのことですが、罪状などを考慮して許す・許さないを定めたのか、それとも罪の内容に関係なく全員赦免したのか、またそもそも赦が行われた理由は何だったのかなど、一切書かれておらず不明です。

考えられる理由としては、文武天皇の吉野行幸の関係でしょうか。
朝廷に従わない薩摩、多褹を討つ

8月1日(丙申) 薩摩と多褹(種子島周辺)が朝廷の教化を遠ざけ命令に逆らったため、ここにおいて兵を発して征討した。よって戸口を調査して官吏を置くこととなった。
薩摩多褹。隔化逆命。於是發兵征討。遂校戸置吏焉。

征討とは、これは穏やかじゃないですね…!

これは当時の南九州に住んでいた隼人たちが中央の命令に従わなかったのでしょう。
どのような命令があったのかは分かりませんが、軍事衝突に発展するくらいですから、隼人たちとしては到底飲めない内容だったんでしょうね。
薩摩国と多褹嶋の設置につながった

政府からの兵により薩摩と多褹の隼人は征討され、結果として南九州の薩摩半島付近と種子島を中心とした島々には中央の官吏が置かれることとなり、併せて戸口の調査が行われました。

この征討は「薩摩国」と「多褹嶋」という行政区分が成立する大きな契機となりました。
鹿児島県の公式サイトでも、大宝2年に薩摩国が設置され、造籍が行われたと説明しています。薩摩国の成立(鹿児島県)
『世界大百科事典』(コトバンク)では、大宝2年に「日向国から分出」して薩摩国が成立したとしています。
また研究では、多褹もこの年の征討と官吏配置によって多褹嶋が成立し、嶋司が派遣されたと説明しています。(柿沼亮介「日本古代の国家領域と『辺境』支配」(2022年))
もっとも、この両者が大宝2年の何月何日に成立したのかまでは明らかではなく、段階を経て整備されながら徐々に成立していったものと思われます。
律令制の「軍団」初めての実戦か
今回の隼人征討ために発した軍は大宝令で規定される「軍団」であると思われ、初めての実戦が行われた可能性があります。
9月14日には薩摩の隼人を征討した軍士たちに勲位が授けられています。
また、10月3日には「まことに神威の助けにより、ついに荒々しい賊を平定することができた」とし、大宰府管内の神社9社に幣帛を奉っています。

戦闘経過が記録されているわけではありませんが、これらの記述から実戦があったと考えるのが自然だと思います。
叙位(出雲狛に従五位下)
(続き)
出雲狛に従五位下を授けた。
授出雲狛從五位下。
出雲狛は壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)側に従った人物として知られています。
さらに同年9月21日には、「従五位下出雲狛に臣姓を賜う」とあり「臣」のカバネを賜っています。
高橋笠間を造大安寺司に任命
8月4日(己亥) 正五位上高橋朝臣笠間を造大安寺司に任じた。
以正五位上高橋朝臣笠間。爲造大安寺司。
高橋笠間は、もともと第8回遣唐使の大使に任じられていました。
しかし遣唐使は6月29日に既に出船しているため、笠間はどうやら渡唐しなかったようです。
大宝元年(701)正月23日 高橋笠間を遣唐大使に任命。
大宝2年(702)6月29日 前年、風浪のため渡海できなかった遣唐使が改めて出発。

解任されたという記事は特にありません。
『続日本紀』の後年の記事によると、どうやら「坂合部大分」という遣唐副使だった人物が笠間に代わって大使となったようです。
養老2年(718)12月15日条に、次の記述があります。
「遣唐大使である従五位上坂合部宿禰大分も、今回の遣唐使に従って帰国した」

どういう事情があったんでしょうね?
大安寺の造営事業
造大安寺司は文字通り、大安寺造営を担当した官司です。
前年7月27日には造薬師寺の官と共に「寮」に準じる官とする処分が太政官から下されています。

つまり、名前は「司」でありながら令制上「寮」と同等規模の官司であるとされたわけです。
『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』によれば、文武天皇の時代には大安寺の九重塔・金堂・丈六仏の造営が進められていたことが分かります。
笠間は、この国家的な大規模造営事業を担当する官司に任じられたわけです。

遣唐大使に代えてまで造大安寺司に任じられたということは、余人をもって代え難い適任者…ということだったのでしょうか…?
大風の被害(駿河、下総)

8月5日(庚子) 駿河・下総の二国に大風があり、百姓の家屋を壊し、田畑の作物を損なった。
駿河下総二國大風。壊百姓廬舍。損禾稼。
倭建命(ヤマトタケル)の墓に落雷

8月8日(癸卯) 倭建命の墓に落雷があった。よって使いを遣わしてこれを祭った。
震倭建命墓。遣使祭之。

6月28日の宮門落雷につづき、今度は皇族の墓に落雷ですか?
しかも倭建命といったら伝説の英雄ですよね。

まったくもって不吉ですね。
現に朝廷も「これはさすがにまずい」と思ったのか、使者を送って祀っているわけです。
ヤマトタケルの墓は3つある 白鳥伝説

画像:ウィキペディア

ところで、倭建命の墓は三箇所あります。
落雷があったのは「能褒野墓」ではないかとされていますが、明確な証拠はなく、実際には三墓のどれに落雷があったのかはわかりません。

なぜお墓が三箇所も?
『日本書紀』によると、景行天皇の治世43年のこととして、ヤマトタケルは東国遠征からの帰途、伊吹山の神の祟りによって病気になり、伊勢の能褒野で亡くなり、そこに御陵を造ったとあります。
しかし、ヤマトタケルは白鳥に姿を変え飛び去り、倭(大和)の琴弾原にとどまっていたので、そこにも御陵を造ったとあります。
その後白鳥は再び飛び去り、河内の旧市邑に行き着き、そこにもまた御陵を造ったとあります。
この3箇所の御陵を名付けて「白鳥陵」といったとあり、ついに白鳥は天に飛び去ったのだとあります。

…というのが、倭建命薨去後の白鳥伝説です。
今でもこの三箇所が宮内庁により管理されています。

伝説の英雄はその死後も伝説的ですね。
白鳥になって飛び去るとはなかなか神秘的で美しいです。
今でも三つのお墓が残るというのは伝説が今に形となって伝わっているようで胸が熱いです。

仮に今でもお墓に落雷があったら「これは祟りでは?」と話題になりそうですよね。
なお、ヤマトタケルの墓所を『日本書紀』では「陵」と表記していますが、『続日本紀』では、「墓」と表記しています。
勅(使部に禄の支給)
8月13日(戊申) 勅があった。五衛府の使部(雑務に従事する下級職員)に、初めて兵衛(天皇身辺の護衛や閤門の守衛などを行った)に準じて禄(給与)を支給した。
有勅。五衛府使部始准兵衛給祿。
五衛府は、宮城(天皇の居所で、ここでは藤原宮)を護衛を担った職である、
衛門府
左衛士府・右衛士府
左兵衛府・右兵衛府
の五つの総称です。
兵衛は文字通り左右兵衛府に所属していました。
使部は特定の職務を任されず、様々な雑務に従事した下級職員です。
後の養老令(軍防令)には、
21歳以上で現在官職に就いておらず、読み書きや計算の能力のない人物から選ぶとしつつ、六位以下八位以上の官人の嫡子から採用するとあり、誰でも良いというわけではありませんでした。
その一方、兵衛は同じく養老軍防令に、
21歳以上で現在官職に就いておらず、六位以下八位以上の官人の嫡子から、身体強健、弓馬の術にすぐれたものを選ぶとあります。

使部と兵衛を分けたのは、本人の能力によるものと見て良さそうですね。
大宰帥の任命
8月16日(辛亥) 正三位石上朝臣麻呂を大宰帥(大宰府の長官)に任命した。
以正三位石上朝臣麻呂爲大宰師(帥か)。
大宰府に赴任はしなかった可能性が高い
石上麻呂は、当時大納言に就任していたため、大宰帥は兼職となります。
そのため、実際には大宰府に赴任していないと思われます。
現に、大宝3年(703)閏4月1日には、「右大臣阿倍御主人の死去に際し、弔問の使者を務める」とあり、京内にいたことが明らかです。

律令制始まって直後なのにもう長官が直接任地に行かない「遙任」があったんですね。
筑紫総領の経験

麻呂は大納言に任命される前、文武天皇4年(700)10月15日に大宰帥の前身である「筑紫総領」に任じられたことがあり、その経歴を評価されての任官だったのでしょう。

遙任の場合あんまり経験とか関係なさそうな気もしますが…。
勅(伊勢神宮に奉納する衣服の材料は神戸から調達せよ)

8月28日(癸亥) 次のように勅した。
「 伊勢太神宮に奉る服の材料には神戸の調を用いることとせよ」と。勅伊勢太神宮服料用神戸調。
伊勢神宮には古くから、「神御衣」(かんみそ)を織って天照大神に奉る神事があり、
絹の和妙(にぎたえ)と、麻の荒妙(あらたえ)が奉られていました。
この記事でいうところの「服」とはこの神御衣にあたるものと思われます。
この勅は、神御衣を織るための材料は、神戸が納める調から調製せよということでしょう。
神戸については7月8日条で説明した通りです。
次回の記事 大宝2年9月





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