【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 大宝2年② 2月 国造、藤原に急行す

大宝年間(701-704)
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
突然『至急、藤原京まで来い』と言われた国造の気持ちを考えています。

いづみ
いづみ

交通費は出たんでしょうか

大宝2年(壬寅・西暦702年)現代語訳・解説 2月

大宝律の頒布

2月1日(戊戌つちのえいぬ) 初めて新律しんりつ(大宝律)を天下に頒布した。

始頒新律於天下。
みちのく
みちのく

律令の「律」は今でいう刑法のことで、行政法などの「令」を合わせて「律令りつりょう」となるわけです。

いづみ
いづみ

大宝にできた律令なので後世に「大宝律令」と呼ばれることになりますね。

ただし、この律・令の双方が1日で一斉に公布・施行されたわけではありません。
令のほうが先行して運用が始まっており、大宝元年(701)4月7日には中央官人向けの講義が行われ、6月8日には七道諸国に使者を遣わして令に基づく行政を行うように指示がされています。

律令の双方が完成したのは大宝元年8月3日で、続けて8月8日には西海道を除く六道に使者を派遣し令の講義を行わせています。

みちのく
みちのく

このような流れの中で、今回の大宝2年2月に初めて律の全国への頒布が命じられたということです。

完全に頒布が完了するのは10月か

興味深いのが、この後の大宝2年10月14日です。
この日には、「律令を天下諸国に頒布した」とあり、この時点で律令の両方が全国頒布されたことになります。

いづみ
いづみ

複数回に分けて頒布、周知が行われたんですね。

みちのく
みちのく

律令法典は細部にわたり分量も膨大ですから、全国単位で流通させ、講義をするにしても当然時間はかかります。しかも今のように電子で一斉送信などできませんから…。




疫病(越後国)

2月13日(庚戌かのえいぬ) 越後国に疫病が流行した。医師と薬を送って治療させた。

越後國疫。遣醫藥療之。

越後国の範囲は今の佐渡を除く新潟県全域ですが、大宝2年2月時点は大きく異なり、北部を除き大部分は越中国(今の富山県)の範囲でした。
この年の3月7日に越中国の4郡が越後に編入されたことにより、今の新潟県に繋がる形が成立しました。

いづみ
いづみ

これは越後と越中の形が大きく変わる直前の記事ということですね。




大幣を分かつため、国造を急ぎ入京させる

(続き)

 この日、大幣を班わかつために諸国の国造くにのみやつこ(地方各地を拠点とした旧来からの有力豪族)たちを馳駅ちえき(緊急による通行。飛駅)により急ぎ入京(藤原京)させた。

是日。爲班大幣。馳驛追諸國國造等入京。

幣は「幣帛」のことで、神前に奉る供え物です。この幣帛を複数の神社に分けて奉納することを班幣はんぺいといいます。

みちのく
みちのく

「神祇令じんぎりょう」には「祈年祭」という、その年の豊作を神に祈る国家の祭祀が行われます。これが行われるのは2月と書かれています。
記事中に祈年祭と書かれてはいないものの、おそらくはこれでしょう。

神祇令第9【季冬条】

祈年・月次の祭には、百官は神祇官に集まること。中臣は祝詞のりとを宣のり、忌部いんべは幣帛を班わかて。

このように、祈年祭は、幣帛を諸国の神社に班幣することが、その大きな意義だったと考えられます。
「大幣」というのも、この祈年祭という祭祀の重要性や規模の大きさを思わせます。

いづみ
いづみ

国造が緊急で藤原京に招集されたのは、祈年祭を行うためでしょうか?
しかしもう2月13日なので、かなり厳しいスケジュールではありますね。

みちのく
みちのく

翌月3月12日条には実際に「幣帛を畿内及び七道の諸社に頒けた」とあるため、結局のところ3月にずれ込んだみたいです。

いづみ
いづみ

急ぎ国造を入京させたということは、やっぱり「本当は2月にやりたかったけど、3月になってしまった」という感じがしますね。
そういえば、前年(大宝元年11月8日)には「造大幣司」という役所が置かれていました。役所設置が11月ですから、かなり急ピッチで「大幣」の準備が行われたのかも。




諸国の行政文書を初めて弁官に送付

2月19日(丙辰かのえたつ) 諸国の大租おおちから・駅起稲えききとう・義倉・兵器の数を記載した文書を初めて弁官(太政官と八省の間で交わされる公文書の実務処理を扱った太政官内の部署)に送付した。

諸國大租。驛起稻及義倉。并兵器數文。始送于辨官。

大租(おおちから)は「租庸調」の「租」のことで正税、田租ともいいます。

駅起稲(えききとう)は、駅家(街道に置かれた、官馬を管理する施設)に付属する田から得た稲を出挙の用途に用いられる稲です。

いづみ
いづみ

出挙は、稲を人民に貸し付けて、その返済の利益を得る仕組みですね。
その出挙用に駅家に蓄えられた稲を「駅起稲」ということですか。

みちのく
みちのく

駅起稲で出た利益は駅馬の維持など駅制の経費に充てました。
これは大宝令下の名称であり、養老令では「駅稲」と呼ばれます。

義倉(ぎそう)は、飢饉などに備えて粟などを徴収・蓄積した倉庫で、その制度のこと。

大宝律令の施行にともない、諸国が保有する財政資源・義庫の備蓄・駅制資金・兵器の数量を中央政府へ報告する仕組みが整えられ、今回これが初めて行われました。

いづみ
いづみ

新制の施行で初めてのことがたくさんあったでしょうね。
文書を作って送付するのも、これを処理する弁官も大変で混乱はなかったのでしょうか。

みちのく
みちのく

それを防ぐために令の講義を事前にしていたわけですけどね。
とはいえなかなか難しかったでしょう。




2月20日(丁巳ひのとみ) 諸国の国師こくしを任命した。

任諸國國師。

国師は、諸国ごとに1人置かれる僧官で、その国の僧尼に関する行政を担当しました。

この記事は国師設置の初見です。
中央から僧侶を派遣し、具体的には、寺院・僧尼の監督、経典の講説、国家のための祈祷などを担当しました。国司とも協力して地方の仏教行政を担っていたようです。

正月25日には、中央で僧尼の監督を行う僧綱が任命されており、その約1か月後に今回の地方の国師が任命されています。これも大宝律令の施行と共に始動した動きの中にあり、仏教行政の全国的整備と見てよいでしょう。




甲斐から梓弓が献上され、大宰府に充てた

2月22日(己未つちのとひつじ) 歌斐かい国(甲斐国。山梨県)が梓弓あずさゆみ500張はりを献上した。これを大宰府に充あてることとした。

歌斐國獻梓弓五百張。以充大宰府。

大宰府は、九州全域を管轄し、新羅などとの外交の玄関口として機能していましたが、同時に侵略も想定され、山城を構えるなど防備を整えていました。
また、この時代の南九州には「隼人」と呼ばれた、未だ朝廷に従っていない勢力もおり、これの備えも行われていました。

みちのく
みちのく

今回の梓弓500張の充当も、この一環ではないかと思います。

また、およそ1ヶ月後の3月27日には信濃国からも梓弓が献上され、1,020張が同じく大宰府に充てられています。

いづみ
いづみ

合計で1,520張。すごい数ですね

みちのく
みちのく

ここから少なくとも、甲斐・信濃が弓の供給地だったこと、
中央政府が東国で生産された大量の弓を大宰府へ移送していたこと、
が確実に読み取れます。

東国、梓弓、防人

10世紀初めの『延喜式』でも信濃から梓弓を進上する規定があり、東国、特に信濃と弓との結びつきはかなり強かったようです。
しかも、その大宰府におもむいて「防人」として防衛にあたったのは、多くが東国から集められた人々といわれています。

『万葉集』には「防人歌さきもりうた」として98首もの歌が収録されています。

『万葉集』巻第14 防人歌 歌番号:3567

置きて行かば妹いもばま愛かなし持ちて行く梓あづさの弓の弓束ゆづかにもがも

(置いて行ってしまったら、あなたが心にかかり愛しくてたまらなくなるでしょう。持っていく梓弓の持ち手があなたであったら良いのに)

みちのく
みちのく

梓弓は東国人にとって馴染み深い武器だったことが分かりますね。

いづみ
いづみ

弓を「妹」になぞらえる。つまり、弓をいつも手放さず持っているということですからね。それにしても東国から大宰府まで徴兵とは、あまりにも遠すぎますね。

正倉院宝物にも「梓弓 第1号〜第3号」の3張の梓弓が収蔵されています。




三社を遷座する

(続き)

 この日、伊太祁曽いたきそ、大屋都比売おおやつひめ、都麻都比売つまつひめの三神の社を分かち遷した。

是日。分遷伊太祁曾。大屋都比賣。都麻都比賣三神社。

「分かち遷した」というのは、従来は三神が1か所に祀られていたものを、この日三社へ分けて遷し祀ることとしたという意味です。

三神はいずれも『日本書紀』神代巻にそれぞれ、
伊太祁曽神は、「五十猛命」(いたけるのみこと)
大屋都比売は、「大屋津姫命」
都麻都比売は、「枛つま津姫命」
という名前で登場しています。いずれも素戔嗚尊の子神とされています。

いづみ
いづみ

伊太祁曽神だけは、「五十猛命」で名前が大きく違ってますね?
『続日本紀』に出てくる「伊太祁曽」が「五十猛命」であるというのはどうやって結びつけたのでしょうか?

みちのく
みちのく

いいツッコミです。
この三神は『日本書紀』の同じ箇所に登場するきょうだいの神で、いずれも「樹木の神」であり、紀伊国に鎮座しています。
そして、『続日本紀』では、伊太祁曽・大屋都比売神・都麻都比売神がセットで一箇所で祀られていたというところから「伊太祁曽=五十猛命」が強く推測できる、ということです。

今の「伊太祁曽神社」自身も、御由緒で祭神を五十猛命と説明しています。

伊太祁曽神社の御由緒について(伊太祁曽神社公式)


伊太祁曽神社

いづみ
いづみ

「いたける」が「いたきそ」に変化したのでしょうか。面白いですね。




国司にかぎを支給

2月28日(乙丑きのとうし) 諸国の国司に初めて鑰(かぎ、錠前)を支給して、任地へ向かわせた。【これより以前においては税司の主鑰しゅやく(物品の出納を司る官司)が管理していたが、ここに至って国司に給うこととしたのである】。

諸國司等始給鎰而罷。〈先是。別有税司主鎰。至是始給國司焉。〉

これまでは「税司の主鑰」が管理していたかぎを、国司に渡して管理させることとしたという記事です。
これは重要で、大宝令の施行に伴って旧来の方法を改め、諸国の正倉などの管理を国司に一元的に任せることとしたという意味です。

みちのく
みちのく

税とはここでは租税をいうので、税司主鑰の管理していたかぎとはおそらく、徴収された稲を収める正倉のかぎだと思います。

いづみ
いづみ

以前は地方に国司以外に「税司」という役所が置かれていたんですね。
確かに律令を見ると地方官には税司という役所そのものが書かれていないです。




次回の記事 大宝2年3月

工事中

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