
こんにちは、いづみです♨️
食封ですか、これまでにも何度か言葉が出てきましたけど、制度についてはちょっと苦手です。

僕も苦手です。
がんばってまとめたので見ていきましょう。
和銅7年(甲寅・西暦714年)現代語訳・解説 正月
親王らの食封を加増し、田租を全給する。
春 正月3日(壬戌) 二品長親王、舎人親王、新田部親王、三品志貴親王の封戸(食封として与えられた戸)をそれぞれ200戸、従三位長屋王には100戸を加増した。
また、封戸から納められる租を全給した。その食封の田租を封主に全て給することは、これより始まったのである。二品長親王。舍人親王。新田部親王。三品志貴親王益封各二百戸。從三位長屋王一百戸。
封租全給。其食封田租全給封主。自此始矣。
食封とは?

食封とは、国家が租庸調として徴収する利益を、個人に対して一定額を収入として得させる制度です。律令には次のように規定されています。
禄令第19【食封条】
禄令第19【食封条】要約
食封は、以下のように支給する。
一品に800戸、二品に600戸、三品に400戸、四品に300戸(内親王はこの半数)。
太政大臣に3000戸、左右大臣に2000戸、大納言に800戸。
正一位に300戸、従一位に260戸、正二位に200戸、従二位に170戸、正三位に130戸、従三位に100戸。
五位以上四位以下は、食封の対象としない。
また、封戸というのは、食封として与えられた戸のことで、「戸」は今で言うところの「世帯」と考えると良いでしょう。

つまり、今まで二品は600戸だったところを、今回で200戸増やして800戸にしたということですね💡

従来の規定と、今回の変更を表にまとめるとこうなります👇
表 和銅7年正月における、封戸の加増
| 人物 | 品階・位階 | 律令による、従来の封戸の定数 | 加増された封戸数 | 定数+加増分 |
|---|---|---|---|---|
| 長親王 | 二品 | 600戸 | 200戸 | 800戸 |
| 舎人親王 | 二品 | 600戸 | 200戸 | 800戸 |
| 新田部親王 | 二品 | 600戸 | 200戸 | 800戸 |
| 志貴親王 | 三品 | 400戸 | 200戸 | 600戸 |
| 長屋王 | 従三位 | 100戸 | 100戸 | 200戸 |
田租半給から「全給」へ

もうひとつ、大きな変更があります。
それは、これまで食封として得られる租の収入が「二分の一」から「全給」に変わったことです。
賦役令第8【封戸条】要約
封戸から得られる食封は、調庸は全給とする。田租は二分の一とし、半数を官に入れ、もう半数を封主に給付する。
これが従来の規定でしたが、今回の和銅7年正月をもって、田租全給の制度が初めて取り入れられたということです。

租庸調は全部、食封の主、すなわち封主の収入になるということですか…これはあんまりイメージはつかないですけど、おそらく莫大な収入になるんでしょうね…!
叙位
正月5日(甲子) 正四位下多治比真人池守に従三位を授けた。
無位河内王に従四位下を授けた。
無位桜井王、大伴王、佐為王に従五位下を授けた。
従四位下大神朝臣安麻呂に従四位上を授けた。
正五位上石川朝臣石足、石川朝臣難波麻呂、忌部宿禰子首、正五位下阿倍朝臣首名、従五位上阿倍朝臣爾閇に従四位下を授けた。
従五位上船連甚勝に正五位下を授けた。
正六位上春日椋首老、正六位下引田朝臣真人、小治田朝臣豊足、山上臣憶良、荊義善、吉宜、息長真人臣足、高向朝臣大足、従六位上大伴宿禰山守、菅生朝臣国益、太宅朝臣大国、従六位下粟田朝臣人上、津嶋朝臣真鎌、波多真人余射、正七位上津守連道に従五位下を授けた。授正四位下多治比眞人池守從三位。
无位河内王從四位下。
无位櫻井王。大伴王。佐爲王並從五位下。
從四位下大神朝臣安麻呂從四位上。
正五位上石川朝臣石足。石川朝臣難波麻呂。忌部宿祢子首。正五位下阿倍朝臣首名。從五位上阿倍朝臣爾閇並從四位下。
從五位上船連甚勝正五位下。
正六位上春日椋首老。正六位下引田朝臣眞人。小治田朝臣豊足。山上臣憶良。荊義善。吉宜。息長眞人臣足。高向朝臣大足。從六位上大伴宿祢山守。菅生朝臣國益。太宅朝臣大國。從六位下粟田朝臣人上。津嶋朝臣眞鎌。波多眞人餘射。正七位上津守連道並從五位下。

正月恒例の叙位に見えますが、何か特筆することはありますか?

何人か見ていきましょう。
多治比池守 従三位へ
正四位下→従三位 2階級昇叙ですが、単なる昇級とは違い三位クラスに上がることは官人にとって特別な重みがあるかと思われます。
律令の枠組みでは四位と五位を「通貴」つまり「貴族に通ずる」存在とされ、三位以上はさらにその上「貴」であるとされます。
また、従三位は律令の官位相当によると、大宰帥(大宰府の長官)に就任する資格があり、これは正三位の大納言に次ぐ地位、また1階下の正四位上は中納言や八省の卿クラスであるため、従三位はこれを上回る地位であると言えます。

先ほどの食封の規定でも、その対象になるのは三位からですね!
河内王、桜井王、大伴王、佐為王 蔭による叙位
皇親(皇族)は「蔭位」という、親が天皇の近親であることにより特別に高い位階を授けられる制度があります。
律令 選叙令第35【蔭皇親条】
皇親に蔭するときは、親王の子には従四位下、諸王(4世王まで)の子には従五位下を授ける。5世王には従五位下を授け、その子(6世王)には一等下して授けること。(以下略)
また、蔭叙の年齢は原則として21歳以上とされており、ここから人物の大体の年齢を推定することも可能です。

父のお蔭様なので、蔭位ですね。
河内王は、無位から従四位下に叙されているため、親王の子、すなわち2世王であることが分かります。ただし、3世王以下は一律で従五位下が叙されることとなっているため、桜井王、大伴王、佐為王が何世の王なのかはこの記事からは分かりません。

河内王の父は、長親王であると言われています。長親王は天武天皇皇子です。
ちなみに佐為王は、葛城王の弟…つまり、後の橘諸兄の弟です。
春日椋老と吉宜は元僧侶
正六位上から五位に上った春日椋老は、元僧侶で大宝元年(701)3月19日(壬辰)に還俗(僧侶を辞めること)し、弁紀という僧名から春日倉首老(かすがのくら の おびと おゆ)という臣下としての名を与えられています。
正六位下から同じく五位に上った吉宜も元僧侶で、僧名を恵俊と言いました。文武天皇4年(700)8月20日(乙丑)に勅により還俗し、吉宜(きし の よろし)という姓名を授かっています。還俗の理由としては、彼の芸能の能力を用いるためとあります。ただし、「芸能」が具体的に何だったのかは不明です。
のちに万葉歌人として知られる山上憶良が五位層へ
山上憶良は、のちに『万葉集』を代表する歌人の1人となる人物ですが、この段階においては、下級官人から貴族官人層に上がり、2年後には伯耆守に任じられるなど実務に深く携わる立場だったようです。

歌人としての存在感を増すのは、15年ぐらい後の聖武天皇の時代です。
卒去(猪名石前)
正月11日(庚午) 散位(位階はあるが、特定の官職に任じられていない者)従四位下猪名真人石前が卒(四位・五位の者が亡くなること)した。
散位從四位下猪名眞人石前卒。
⭐️『続日本紀』に見える猪名石前の経歴
| 年月日 | 記事 | 石前の官位・官職 | 内容 |
|---|---|---|---|
| 大宝3年(703)7月5日(甲午) | 備前守に任じられる | 正五位下・備前守 | |
| 慶雲元年(704)5月10日(甲午) | 備前国の神馬を献上し、位一回を進める | 正五位下 → 正五位上・備前守 | 備前国が神馬を献上。献上した国司として一階昇進し、絁・糸・布・鍬を賜る。 |
| 和銅元年(708)3月13日(丙午) | 右京大夫に任じられる | 正五位上・右京大夫 | 平城遷都前なので、藤原京の右京大夫と見られる。 |
| 和銅4年(711)4月7日(壬午) | 従四位下を授けられる | 正五位上 → 従四位下 | 文武百寮の成選者への叙位で、従四位下を授けられる。 |
| 和銅7年(714)正月11日(庚午) | 卒去 | 散位・従四位下 | 今回の記事。 |
石前の任官は和銅元年の藤原京の右京大夫以来見えず、どのタイミングで散位になったのかも不明です。ただ、「成選者」として働きを認められて昇叙されていることから、なんらかの職にはついていたのではないでしょうか。

散位になった理由そのものが、例えば体調不良で出仕できなくなった…とかもあり得そうですしね。
氷高内親王に食封を加増する

正月20日(己卯) 二品氷高内親王の食封を1000戸加増した。
益二品氷高内親王食封一千戸。
正月3日条に続き、再び食封の加増です。前掲の律令の規定によると、内親王の食封の定数は親王の半分。従って、二品親王600戸の半分なので、二品内親王は300戸になります。
そして、今回1000戸を加えたということなので、氷高内親王の封戸は1300戸ということになります。
| 人物 | 品階 | 律令上の定数 | 加増 | 合計 |
|---|---|---|---|---|
| 氷高内親王 | 二品 | 300戸 | 1000戸 | 1300戸 |
氷高内親王は後の元正天皇

この1000戸加増はかなり大きいですね…!直前の長親王・舎人親王・新田部親王が200戸、長屋王が100戸だったことを考えると、氷高内親王への処遇は圧倒的です。
本来の二品内親王への封戸が300戸であるところ、氷高内親王は1300戸ですから、通常の4倍以上もの収入が入ることとなったわけです。

氷高内親王は翌年9月に即位することとなります。よって、これは皇位継承を見据えた厚遇なのではないかとする研究もあります。
皇位を継承するため、さらに天皇となった後の儀礼や品位、これらを保つのにふさわしい家政、従者、その他環境や物品などを整え、維持するための経済基盤が必要になったということではないでしょうか。

ちなみに、時期は不明ながら『続日本紀』で確認できる限りにおいて、内親王で二品に叙されているのは氷高内親王だけです。翌年の正月には、さらに一品に引き上げられ、まさに「即位準備」といった感があります。

「箔付け」というと軽いかもしれないですが、次期天皇としての格を高めていってる感じがしますね。
相模国などに初めて絁の調を行わせる

正月25日(甲申) 相模国(神奈川)、常陸国(茨城)、上野国(群馬)、武蔵国(東京)、下野国(栃木)の5国に、初めて調として絁の輸納を行わせた。ただし、布の輸納を望む者はこれを許可した。
令相摸。常陸。上野。武藏。下野五國。始輸絁調。但欲輸布者許之。
東国の5カ国に命じて、この国々としては初めて絁を調として納めさせました。ただし、布を納めることを望む者にはこれを許可したとのことです。
前年の和銅6年5月11日(癸酉)ではこの5カ国に対して、「元来の布の納品を改めて、今後は布と併せて絁を納めることとする」とあります。つまり、今回は和銅6年5月条の決め事が初めて実行されたということになります。
絁とは?
正倉院の説明では以下の通り。
国産の平織(ひらおり)の絹織物。当時は糸質が粗く糸の太いものを絁と称し、糸質の細かいものは絹(きぬ)と呼ばれたらしいが、必ずしも粗悪な絹を意味する語ではないことが遺品から分かる。正倉院の絁は諸国から税として納められたものである。

絁は「あしぎぬ」と読み、すなわち「悪し絹」です。と言っても、品質が悪く粗い絹のことを言うわけではなく、絹と比べ糸の太いものを絁と呼んでいます。なので「ふとぎぬ」と呼ばれることもあります。

とはいえ、繊維の細い絹の方が織るのが難しいでしょうし、そういう意味では絹の方が価値は高そうです。
卒去(大神安麻呂)
正月27日(丙戌) 兵部卿従四位上大神朝臣安麻呂が卒(四位・五位の者が亡くなること)した。
兵部卿從四位上大神朝臣安麻呂卒。

大神安麻呂はこの月の5日に従四位上に叙位されたばかりでしたが、卒去となりました。
⭐️『日本書紀』に見える大神安麻呂の経歴
持統天皇3年(689)2月26日(己酉) 大三輪朝臣安麻呂として判事に任じられる。
⭐️『続日本紀』に見える大神安麻呂の経歴
| 年月日 | 記事上の内容 | 備考 | 官位・地位の推移 |
|---|---|---|---|
| 慶雲4年(707)9月12日(丁未) | 正五位下 氏長に任じられる | 前年に亡くなった兄・高市麻呂に代わって大神氏の氏長となる | 正五位下・大神氏の氏長 |
| 和銅元年(708)9月4日(壬戌) | 正五位上 摂津大夫に任じられる | 摂津職の長官 | 正五位上・摂津大夫 |
| 和銅2年(709)正月9日(丙寅) | 従四位下を授けられる | 従四位下 | |
| 和銅7年(714)正月5日(甲子) | 従四位上を授けられる | 従四位上 | |
| 和銅7年(714)正月27日(丙戌) | 卒去 | 今回の記事 | 兵部卿・従四位上で卒去 |
なお、いつ兵部卿に任じられたのかは不明です。

お兄さんは壬申の乱で活躍した大神高市麻呂さんなんですね。
壬申の乱の時代も遠くなりましたね…(しみじみ)

(しみじみ…??)




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