【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅7年④ 小野妹子の孫、薨去する

元明天皇紀(708-715)
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
今回は小野妹子の孫が登場します。

いづみ
いづみ

遣隋使で有名な小野妹子さんのお孫さんですか!
登場といっても「薨去」ということは亡くなってしまわれたということですね…!




和銅7年(甲寅・西暦714年)現代語訳・解説 4月

去(小野毛野)

夏 4月15日(辛未かのとひつじ) 中納言従三位兼中務卿勲三等小野朝臣毛野けぬが薨じた(三位以上が亡くなること)小治田朝おはりだのみかど(推古天皇の時代)大徳冠だいとくかん(冠位十二階の最高位)・妹子の孫であり、小錦中しょうきんちゅう(天智天皇の時代の冠位二十六階中の11位)毛人えみしの子である。

中納言從三位兼中務卿勲三等小野朝臣毛野薨。小治田朝大徳冠妹子之孫。小錦中毛人之子也。

小野妹子の孫

みちのく
みちのく

小野妹子は推古天皇・聖徳太子の時代、遣隋使として大陸に渡ったことで有名な人ですね。遣隋使派遣は和銅7年からさかのぼること106年前です。

いづみ
いづみ

大徳冠は冠位十二階の最高位。知名度に違わぬ栄冠を賜ってたんですね。

小野毛野も中枢官人

 毛野もまた、中納言・従三位・中務卿という高位・要職に上っています。

中納言

 中納言は太政官のナンバー5。この当時の太政官の構成は以下の通り。

官職現職者任官年月日備考
知太政官事穂積親王慶雲2年(705)9月5日天武天皇皇子。臨時に置かれる太政官統括者
太政大臣空席適任者がいなければ設置しない
左大臣石上麻呂和銅元年(708)3月13日右大臣正二位から左大臣へ。
右大臣藤原不比等和銅元年3月13日大納言正二位から右大臣へ。
大納言大伴安麻呂和銅元年3月13日正三位。なお、和銅7年5月1日に薨去
中納言粟田真人慶雲2年4月22日正四位下で中納言。和銅元年3月13日から大宰帥兼務。
中納言阿倍宿奈麻呂慶雲2年4月22日従四位上で中納言。和銅元年3月13日にも中納言任官記事あり
中納言小野毛野和銅元年3月13日正四位上で中納言。和銅7年4月15日に薨去
参議該当者なし

 太政大臣は空席。
 左大臣の石上麻呂は和銅3年(710)3月10日(辛酉)の平城京遷都の日以来、藤原旧京の留守を任されており平城京には不在。
 粟田真人は毛野と同じく現職の中納言ですが、九州の大宰帥兼務なので、やはり平城京にはいなかった可能性があります。

いづみ
いづみ

つまり、平城京にいた太政官の構成員は穂積親王、藤原不比等、大伴安麻呂、阿倍宿奈麻呂、そして小野毛野の5人だけなんですね。

みちのく
みちのく

そう考えると、毛野を失ったのは太政官にとっては痛手だったでしょう。
なお、5月には大納言の大伴安麻呂も亡くなり、平城京にいる太政官メンバーはたった3人となってしまいます。

いづみ
いづみ

これは後任人事が気になりますね…。




中務卿を兼職する

 中務卿は八省の卿のうち最も重い地位で、天皇に関わることを司ります。中務卿の職掌は律令によると以下の通り。

  • 侍従する(側近として仕える)
  • 献替けんたいする(善いことを建言し、悪いことを排除する)
  • 宮中での礼儀について補佐し導く
  • 勅の文案を審査して署名する
  • 覆奏ふくそうする(天皇の命令で間違いないか確認のための奏上をいう)
  • 宣旨(天皇の命令を下に伝える)
  • 天皇からの労問(勅により慰労し、安否を問うこと)を伝える
  • 臣下からの上表文を受け付ける
  • 国史を監修する
いづみ
いづみ

中務卿として元明天皇を支えていたのですね。
中納言従三位兼中務卿の重みを感じます。

勲位も帯びている

みちのく
みちのく

毛野は「勲三等」という勲位も帯びてます。
勲位は軍事上の功績をあげた者に授けられる栄典で、上は勲一等、下は勲十二等までありました。
が、『続日本紀』で勲位が授けられたという記事はあまりありません。

いづみ
いづみ

毛野さんはどういう経緯で勲三等を授けられたのでしょうか?

みちのく
みちのく

毛野に勲位が授けられた時期・理由ともに史料上は明確ではないです。
毛野は文武天皇4年(700)10月15日に筑紫大弐つくしのだいに、つまり大宰府の前身である筑紫大宰つくしのたいさいの次官の任に就いており、この時の功績が評価されたのかもしれないです。

小野毛野の経歴

年月日位階・官職など内容備考
持統9年(695)7月26日直広肆(従五位下に相当)遣新羅使に予定され、伊吉博徳らとともに物を賜る史料上の初見。外交官人として登場
持統9年(695)9月6日直広肆新羅へ出発小野妹子以来の外交氏族らしい経歴
文武4年(700)10月15日直広参・筑紫大弐石上麻呂が筑紫総領、小野毛野が大弐となる南九州の隼人・対外関係に近い位置
大宝2年(702)5月21日従四位下大伴安麻呂・粟田真人・高向麻呂・下毛野古麻呂とともに「朝政に参議」政務に参与する
慶雲2年(705)11月3日正四位上・中務卿中務卿に任じられる
和銅元年(708)3月13日正四位上・中納言阿倍宿奈麻呂・中臣意美麻呂とともに中納言に任じられる太政官の中枢に入る
和銅2年(709)1月9日従三位阿倍宿奈麻呂とともに従三位に叙される
和銅7年(714)4月15日中納言従三位兼中務卿勲三等今回の記事




庸綿の納品

4月22日(戊寅つちのえとら) 次のように制定した。諸国が納めるの綿はてい(21歳から60歳までの成人男子)1人につき5両(重さの単位)とする。ただし、安芸国あきのくに(広島県西部)の糸は丁1人につき2両とし、遠江国とおとうみのくに(静岡県東部)の糸は3両とする。
 丁2人を以って1とん(綿の収納単位)または1(糸の収納単位)とすること。

制。諸國庸綿。丁五兩。但安藝國絲。丁二兩。遠江國絲三兩。
並以二丁成屯絇也。

 は本来は都での労役義務ですが、これに代えて布などの繊維類を納めることが一般的でした。
 今回はその庸として納めるべき綿の数量が全国で統一され、成人男子1人につき重さ5両分と決まりました。

ただし、安芸国と遠江国は例外としてを納めることとし、その数量は、

安芸国は、成人男子1人につき2両
遠江国は、成人男子1人につき3両

と決まりました。
そして、成人男子2人をもって、綿の場合は1屯、糸の場合は1絇を単位とすることが定められました。

みちのく
みちのく

表にしてまとめる次のようになります。

対象1丁あたり2丁分まとめ方
諸国の綿5両10両1屯
安芸国の糸2両4両1絇
遠江国の糸3両6両1絇
いづみ
いづみ

馴染みのない単位がたくさん出てきて混乱しますね。

みちのく
みちのく

両は「重さ」の単位です。
屯と絇は、ここでは「2丁(成人男子2人)が納める綿または糸」を表す収納単位として出てきていますね。

「両」の重さ

 時代によって多少変動がありますが、奈良時代の1両はおおよそ40g前後と考えられるので、綿5両=約200g前後になります(厳密な重量は研究者によって多少異なります)。

なぜ安芸国・遠江国だけ糸なのか

みちのく
みちのく

両国は綿ではなく、安芸国は糸2両、遠江国は糸3両となっています。

いづみ
いづみ

ここが一番興味深いところですね。

 これは地域ごとの産物を反映したものでしょう。つまり、この両国は糸の生産に適していた、糸の生産技術が高度だった…などの事情があったのではないでしょうか。

みちのく
みちのく

数量が綿より少ないのも、糸の方が加工品で価値が高かったためと考えられます。

いづみ
いづみ

確かに、綿よりも糸の方が繊細で加工が難しそうですね…。
そういえば、前は上総国特産の軽くて高級な「細布」というものがありました。
地域事情に適した物を納品できるように考慮していたというわけですね。

⭐️参考 上総国言上(和銅7年2月2日(庚寅かのえとら)条)




太政官奏上(租の倉の規格を定める)

高床式倉庫

4月26日(壬午みずのえうま) 太政官が次のように奏上(天皇に申し上げること)した。「諸国の租を収める大小の倉は、収納された租の数量を文案により比校ひこう(比べ考えること。比較)して記載しており、これまで誤りはありませんでした。そのため、国司が交替する日は帳簿を引き継ぎ、改めて勘験かんけん(検閲すること)していませんでした。
 しかし、その数量を欠かすことが多くなり、いたずらに虚偽の帳簿を立てるために、実際の租の数量が分からなくなっています。これはまことに国司・郡司らが検校けんぎょう(物事を調べ、ただすこと。監督)を行わないことによるものです。今後、諸国に倉を造る場合は3等級を標準として定め、大等は4千こく、中等は3千斛、小等は2千斛とし、このように定めた後、文案に虚偽がないように致します」と。

太政官奏。諸國租倉。大小並所積數。比校文案。無所錯失。因斯。國司相替之日。依帳承付。不更勘驗。
而用多欠少。徒立虚帳。本無實數。良由國郡司等不検校之所致也。自今以後。諸國造倉。率爲三等。大受肆仟斛。中參仟斛。小貳仟斛。一定之後。勿虚文案。

 ざっくり言うと、

 租として集められた稲は倉に収められ、帳簿にその数量を記録していました。この方法で今までは誤りがなかったため、現任国司から新任国司に交替する時には、その帳簿をそのまま引き継いでいました。
 しかし、いつからか実際に倉にある稲の数と帳簿上の数とが合わないことが多くなり、帳簿に虚偽があることが問題視されていました。太政官は、これは国司と郡司がしっかり検査・点検をしないから起きている問題だと指摘しました。
 そこで今後は、諸国の倉を大中小に規格分けし、大倉は4,000斛、中倉は3,000斛、小倉は2,000斛の稲を収納することと決め、その上で帳簿に虚偽のないようにすることとしました。

みちのく
みちのく

これは難しいですが、要するに、租を入れる倉の帳簿管理がガバガバになってきたので、倉の規格を決めて、虚偽の帳簿を防げという話ですね。

いづみ
いづみ

大中小に規格分けし、収納する数量も決めたということは、逆に言うとこれまで倉庫の大きさってバラバラだったということなのでしょうか。

みちのく
みちのく

その可能性もありますね。倉の規格として、収納する数量を決めるということは、何より帳簿との照合がしやすくなるというメリットがあります。
これでガバガバ帳簿を防ぎ、さらに国郡司のチェックもしやすくなります。

斛は米などの穀物の量をはかる単位

 (こく)は容量の単位で、律令の雑令第1【度十分条】によると次のようにあります。

雑令第1【度十分条】 要約

容量は、10合を1升とする。10升を1斗とする。10斗を1斛とする。

みちのく
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ここでの基本の関係は、1斛 = 10斗 = 100升 = 1,000合
ということになります。

いづみ
いづみ

10斗とか100升とか言われてもまったくピンと来ないですね…。
でも「」は今でも使われる単位ですよね、炊飯器でお米を炊く時に。

みちのく
みちのく

そうですね、炊飯器の計量カップ1杯分が1合です。
1合は大体、ご飯茶碗2杯分の量に相当します。

いづみ
いづみ

ということは、、大倉の4,000斛というのは、
4,000斛=400万合で、ご飯茶碗800万杯ものお米に相当する量ってことですね!

みちのく
みちのく

800万杯と言ってしまうと多すぎてまたピンと来なくなりますね…。
でも、奈良時代前半にこれだけの量の米を蓄えられたらかなり豊かな気がします。
もっとも、これは大倉の「最大容量」であって、満杯にできるのかどうかはまた別の問題ですが。




多褹嶋に印鑑を支給する

4月25日(辛巳かのとみ) 多褹嶋たねのしま(種子島。ここでは種子島と屋久島を中心とする島々を指すか)に印1図を支給した。

給多褹嶋印一圖。

嶋司は国司に準じた地方官司

 多褹嶋は今の種子島ですが、ここでは、種子島と屋久島を中心とした諸々の島を管轄する官司として見るのが良いでしょう。律令制には国司の他、「嶋司」があり、対馬嶋司、壱岐嶋司と並び多褹嶋司がありました。嶋司(とうし、しまのつかさ)は国司に準じるもので、嶋の行政全般を担当する地方官司です。


種子島。左の丸型の島が屋久島。

大宝2年に多褹嶋が「嶋司」として成立した?

 多褹嶋は、対馬・壱岐と異なり、南九州という地理の性質上、隼人との関わりが強く、律令体制に組み込むことに対し反抗がありました。

 大宝2年(702)8月1日(丙申きのえさるにははっきりと、「薩摩と多褹島が皇化を遠ざけ国家の命令に背いたため、兵を発して征討した」とあります。そして、この時に「戸(世帯)を調査して官吏を置くこととした」とあります。

いづみ
いづみ

官吏を置いた。つまりこの時に「多褹嶋司」が成立したと見て良いということですね。

⭐️参考 山川 日本史小辞典 改訂新版 「多禰島」の解説(コトバンク)でも、大宝2年8月の反乱鎮圧を契機に「島」という行政区画に編成されたとしています。

 その後、和銅6年(713)4月3日(乙未きのとひつじに大隅国が成立し、翌和銅7年(714)3月15日(壬寅みずのえとらには、豊前国の人民を南九州地域に移住させたことが見え、同地域が律令国家体制に取り込まれていく流れが見て取れます。

みちのく
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今回の記事は、その延長として「多褹嶋に印を給付した」ものと見え、単にハンコをあげたという話ではなく、多褹嶋が律令国家の文書行政に正式に組み込まれたことを示す記事だと思います。

影響はさらに南方にも及んでいた?

 文武天皇3年(699)7月19日(辛未かのとひつじには、
多褹、夜久やく奄美あまみ度感とくの島民が朝廷の使者に従って来朝し、方物(地方の産物)を献上した。各々差をつけて、位を授け、物を賜った。度感嶋と中国(日本本土をいう)との通交は、このときから始まった」

とあり、「度感」は徳之島のこととされ、沖縄本島北にある日本本土から遠い島ですが、文武3年に関わりが始まったことから、これらの島々も強く言えば、多褹嶋司の「管轄範囲」、控えめに言えば「影響下」にあった可能性もあります。

みちのく
みちのく

国印を給付後の12月には、奄美・信覚(石垣島)・球美(久米島)の島民52人が官人に率られ来朝したとする記事もあります。

いづみ
いづみ

石垣島というと、沖縄本島のさらに向こう側ですね!
そこまでいくと流石に多褹嶋司の管轄は言い過ぎですが、日本の影響はすでにはるか南島まで及んでいたという事実は重要ですね。

「図」という単位は特殊

 今回の記事では、嶋の印鑑を数える単位として「」が出てきていますが、他に類例が見つからず特殊です。

みちのく
みちのく

普通、官印、国印など印鑑の類は「」で数えます。
考え方としては、ここでの「図」は印面に刻まれる文字・図様を意識した語でしょうね。

 あるいは、支給されたのは印鑑そのものではなく、「印鑑の図案・図様・見本」だった可能性、または「面」とすべきところを誤って「圖」(図の旧字体)と記載してしまった可能性もあるかもしれません。

いづみ
いづみ

多褹嶋の印もこんな感じの印鑑だったのかもしれませんねぇ。

編集ミスか

 この記事は日付が4月25日とありますが、この1つ前の記事は4月26日となっています。これはおそらく編集上のミスで順序が逆になってしまったのでしょう。




次回の記事

更新をお待ちください。




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