
こんにちは、みちのくです☀️
皇太子、つまり後に聖武天皇として即位する首皇子のことです。
首皇子はこのとき14歳、元服とは成年儀礼です。

これは奈良時代史の階段を一段登ることになる、日本にとって大きなイベントになりそうですね。
和銅7年(甲寅・西暦714年)現代語訳・解説 5月〜6月
薨去(大伴安麻呂)
5月1日(丁亥) 大納言兼大将軍正三位大伴宿禰安麻呂が薨じた(三位以上の者が亡くなること)。帝(元明天皇)はこれを深く悼み、詔により贈従二位とした。安麻呂は難波朝(孝徳天皇の時代)の右大臣・大紫(天智朝の冠位で、正三位に相当)長徳の第6子である。
大納言兼大將軍正三位大伴宿祢安麻呂薨。帝深悼之。詔贈從二位。安麻呂難波朝右大臣大紫長徳之第六子也。
空席、または不在者が目立つ太政官
先月の中納言従三位小野毛野の薨去に続き、大納言正三位大伴安麻呂が薨去しました。短期間に2人の太政官中枢メンバーが失われたことになります。

これにより、太政官の成員は以下のようになります。
| 官職 | 現職者 | 任官年月日 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 知太政官事 | 穂積親王 | 慶雲2年(705)9月5日 | 天武天皇皇子。臨時に置かれる太政官統括者 |
| 太政大臣 | 空席 | — | 適任者がいなければ設置しない |
| 左大臣 | 石上麻呂 | 和銅元年(708)3月13日 | 藤原京の留守司となっている(和銅3年(710)3月10日(辛酉)) |
| 右大臣 | 藤原不比等 | 和銅元年3月13日 | 大納言正二位から右大臣へ |
| 大納言 | 空席 | ー | |
| 中納言 | 粟田真人 | 慶雲2年4月22日 | 和銅元年3月13日から大宰帥兼務のため、平城京不在の可能性あり |
| 中納言 | 阿倍宿奈麻呂 | 慶雲2年4月22日 | 和銅元年3月13日にも中納言任官記事あり |
| 参議 | 該当者なし | — |

たった5人しかいないんですね。
しかも、左大臣は藤原京にいて平城京には不在。中納言大宰帥の粟田真人さんは九州に行っている可能性があるんですね。その場合たったの3人しかいないことに。
「大将軍」とは?

安麻呂さんが帯びている「大将軍」の肩書き。これは気になりますね!
『続日本紀』の大伴安麻呂に関わる記事には「大将軍」の任官は見えず、今回の薨去記事が初見です。大将軍任官が、いつ、何の目的のために行われたのかは不明な点が多いです。

ただ、大将軍という職は安麻呂以前にも例があり、下毛野古麻呂が大将軍として任じられていたことがあります。
和銅2年(709)12月20日(壬寅)条の古麻呂の卒去記事にも、「式部卿大将軍正四位下下毛野朝臣古麻呂」とあり、古麻呂の場合も卒去時に突然「大将軍」の官名が現れます。
律令に見える「大将軍」
律令の軍防令には「大将軍」の職掌について規定があります。
律令 軍防令第24【将帥出征条】
将軍が征討に出るときは、兵1万人以上であれば将軍1人、副将軍2人、軍監2人、軍曹4人、録事4人とする。兵5千人以上であれば将軍1人、副将軍1人、軍監1人、軍曹4人、録事2人とする。3千人以上であれば将軍1人、副将軍1人、軍監1人、軍曹2人、録事2人とする。これらをそれぞれ(編成の単位として)一軍とせよ。三軍を統べるごとに、大将軍1人を置く。
3軍それぞれに将軍を1人ずつ置き、その3軍を統べる総司令官のようなポストが大将軍だったようです。古麻呂の場合は、和銅2年(709)3月5日(壬戌)の陸奥・越後蝦夷の征討軍の編成に関わるものとみられ、目的は比較的はっきりしています。
隼人征討軍の大将軍だった可能性

古麻呂さんは蝦夷征討の大将軍、では安麻呂さんの場合はどうだったのでしょうか?

安麻呂の場合も実はそれっぽい出来事がありました。
和銅6年(713)7月5日(丙寅)条には「討隼賊将軍」の文言があり、安麻呂は隼人の征討に「将軍」として関わった可能性があります。
壬申の乱の従軍、兵部卿、大宰帥の経験者
壬申の乱の経過を記す『日本書紀』天武天皇元年(672)6月29日条には、安麻呂が大海人皇子(天武天皇)側について従軍する様子が記されています。
大宝2年(702)6月24日(庚申)では兵部卿に任じられ、慶雲2年(705)11月28日(甲辰)には大宰帥に任じられています。
兵部卿は兵部省の長官で、軍団を動かし、武官の人事や駅制などに関わる重要官司です。
大宰帥は大宰府の長官で、九州地方の行政・外交・軍事などを統括します。

つまり、軍事に深く関わってきた経歴があるということです。
そもそも大伴氏は、律令以前の古来から軍事・武門に長けた氏族ですから、この経歴と氏族本来の立ち位置から見て、将軍に任命されることに違和感はありません。
ちなみに、養老4年(720)の大規模な隼人反乱では、安麻呂の子・大伴旅人が「征隼人持節大将軍」に任命されます。これは偶然とは限らず、父の安麻呂も和銅6年の隼人征討を指揮し、その経験や大伴氏の軍事的役割が旅人に継承されたと考える余地があります。

あくまでも推定、予想ではありますが、ここまで色々出てくると確信的な気持ちになってきますねぇ
下毛野古麻呂と大伴安麻呂の共通点
2人の大将軍ですが、この大将軍職以外にもいくつかの共通点があります。
まず、2人とも「兵部卿」の経験者であること。
そして、2人とも「天皇から深く信頼されていた」ことです。安麻呂も古麻呂も、他の公卿たちと共に和銅元年(708)7月15日(乙巳)にて、天皇から「あなたたちは公平な心をもって官人たちを率いている。私はこれを聞き喜び、心の慰めとなっている」などとして深く信頼されていたことが分かります。

今回の薨去でも、「帝は深くこれを悼み」とありますね!
3つ子を産んだ母に食料と乳母を給う

5月27日(癸丑) 土佐国(高知県)の人・物部毛虫咩が3つ子を産んだ。よって、穀40斛と乳母を賜った。
土左國人物部毛虫咩一産三子。賜穀卌斛并乳母。
3つ子などの多胎児出産をした母親への賜与は、これまでにも何度か同様の記事があります。
| 年 | 母・居住地 | 出生児 | 食料 | 衣料 | 乳母 | 特記 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 文武3年(699)正月26日 | 林坊の新羅人・牟久売 | 4人 | 稲500束 | 絁・綿・布 | 1人 | 「林坊」は藤原京内。 |
| 慶雲元年(704)6月11日 | 河内国古市郡・高屋連薬女 | 3男 | ― | 絁・綿・布 | ― | |
| 慶雲3年(706)2月14日 | 山背国相楽郡・鴨首形名 | 3度の出産で計6人 | ー | ー | ー | 詔により、最初に産んだ男子2人を大舎人とした。 |
| 慶雲3年(706)3月13日 | 右京・日置須太売 | 3男 | 食料 | 衣類 | あり | 藤原京の右京 |
| 慶雲4年(707)5月16日 | 美濃国・村国連等志売 | 3女 | 穀40斛 | ― | 1人 | 美濃国は今の岐阜県南半部 |
| 和銅元年(708)3月27日 | 美濃国安八郡・国造千代の妻、如是女 | 3男 | 稲400束 | ― | 1人 | |
| 和銅4年(711)7月5日 | 山背国相楽郡・狛部宿禰奈売 | 3男 | 稲200束 | 絁・綿・布 | 1人 | |
| 和銅7年(714)5月27日 | 土佐国・物部毛虫咩 | 3人・性別不明 | 穀40斛 | ― | あり | 今回の記事 |
傾向としては、京・畿内国またはその周縁の国に住む母が対象になる場合が多いようですが、今回は土佐国(現在の高知県)であり、その点では珍しい例と言えそうです。
諱を避けて姓を改める
6月14日(己巳) 若帯日子(第13代成務天皇の名)という姓は、国の諱(実名、本名)に触れるため居住地に因む姓に改めて、これを賜った。
若帶日子姓。爲觸國諱。改因居地賜之。
若帯日子(わかたらしひこ)= 成務天皇
若帯日子とは、第13代成務天皇の本名です。この表記は『古事記』のもので、『日本書紀』では「稚足彦」と表記されます。
『日本書紀』の年紀を西暦に換算して、131年〜190年の60年間在位したとされます。兄は伝説的英雄として知られる日本武尊で、成務天皇の崩御後は甥にあたる日本武尊の子(第14代仲哀天皇)が即位しました。

和銅の時代から500年以上前のことですよね、ということは当時からしてすでに成務天皇は伝説的に語られる存在だったと見てよさそう。

「国諱」、つまり国としての諱ですから、天皇の遙か遠い祖先の名として畏れ敬うべき名だったのでしょう。
諱(いみな)とは「忌み名」であり、貴人の本名は呼んだり書いたりすることは強く憚られました。

つまり、この「若帯日子」という姓を持つ人々が中央から諱に触れると問題視されて、その人たちの居住地の地名をもって新たな姓に改めさせたということですね。
若帯部の存在


それにしても、「若帯日子」が姓とはずいぶんと異様ですね。これまで『続日本紀』で見てきたような姓の形からはかけ離れているような。

その感覚は正しいです。
藤原、中臣、蘇我、物部、石川、多治比、石上、大伴などの代表的な姓をイメージすると、「若帯日子」が姓というのはかなり不自然です。
「若帯日子」姓そのものは現存する戸籍の中には見つかりませんが、それに関連すると思われる痕跡は見つかっており、大宝2年(702)の御野国(後の美濃国)戸籍には「若帯部」を名乗る集団がいたことが分かっています。
さらに天平6年(734)戸籍にもその名が見え、この事実から、和銅7年6月に禁止された姓には「若帯部」は含まれず、あくまで成務天皇の諱をそっくりそのまま名乗るのを禁じたことが分かります。
若帯部は名代か
古代日本には「名代」という、天皇の御名を代々集団の名とすることを許す制度がありました。
『日本書紀』清寧天皇2年2月条には、皇子に恵まれなかった清寧天皇がこれを残念に思い、各地に天皇の御名である「白髪」の名を冠した「白髪部」を置き、その名を後世に伝えようとされた、とあります。

『日本書紀』には名代という語は出てきませんが『古事記』には「御名代」という語で説明されています。

若帯部もその御名代のひとつと見て良いということですね。

『記紀』には、若帯部を名代として置いたという記事はないため断定はできませんが、その理解で合っていると思います。
国史編纂の流れで問題視された?
推測ですが、初めは「若帯部」を名乗っていた集団が、いつからか「若帯日子」と名乗るようになったか、または誤って戸籍に「若帯日子」と記載されてしまったのではないでしょうか。
和銅7年という時期は、養老4年(720)に完成する『日本書紀』編纂事業の真っ最中と見られます。和銅7年2月10日(戊戌)条では、国史編纂に携わる官人2人が任命されたという記事があります。
また、『古事記』は和銅5年(712)にすでに完成しています。
こうした国史編纂の過程で歴代天皇の名や系譜が整理され、「若帯日子」が成務天皇の国諱として正式に認識された結果、同じ名を氏としていた集団が問題視された可能性があります。

「不適切ネーム」になっちゃったわけですね。
でも当時からしてやっぱり「若帯日子」が姓っていうのはやっぱり違和感がすごいと思います。
改姓(国造人、寺人)
(続き)
国造人という姓から「人」の字を除いた。
寺人という姓は、もとは物部氏の一族であるが、庚午年籍(天智天皇9年(670)に造られた最初の全国的戸籍。永久保存とされた)では居住地の名に因み、初めて「寺人」という号とした。しかし、この名は賤隷(いやしい召使い。身分の低い使用人)と疑わしいため、これを除き寺人を改めて本姓に従うこととした。國造人姓。除人字。
寺人姓本是物部族也。而庚午年籍因居地名。始号寺人。疑渉賎隷。故除寺人改從本姓矣。

引き続き改姓の話題ですね。
「国造人」姓を「国造」姓に、「寺人」姓をもとの「物部」姓に改姓しました。
「寺人」については、賎隷、つまり寺に隷属する奴婢や雑戸のような身分を連想させ、誤解させる姓名だったため、もとの物部氏に改めることとなりました。
一方「国造人」については、その改姓の理由は語られていません。が、こちらも寺人と同じく「人」の字が国造に隷属する身分と紛らわしいから、というのが理由ではないかと思われます。
古代には、寺人、酒人、倉人、宍人、舎人、手人など、「○○人」という集団・氏族名が多数あります。

国造人もそのひとつとして認識されかねない、と問題視されたわけですね。

国造(くにのみやつこ、こくぞう)とは、律令以前の地方豪族に授けられていた、その国を治める者の称号です。大化2年(646)の改新の詔や律令制が整備されるにつれ、その権限は国司や郡司に吸収されました。その結果、国造本来の制度的役割は解体されましたが、格を示す名誉の称号としてはその後も長く残り続けました。
太政官処分(職分資人の処遇)
6月19日(甲戌) 太政官は次のように処分した。職分資人は、本主(本来仕えている主人)が死亡したり、しかるべき事情によって官を去った場合、その資人として勤務した年数の長さに関わらず、式部省に留省させることとする。もし、本主が官を去った後に再び復任(官職を離れた者が再び職に任命されること)された場合は、旧人(以前に仕えていた職分資人)を以って充てることとする。
太政官處分。職分資人若本主亡。并以理去官者。不限年遠近。並留省焉。如本主去官亦有復任。以舊人充焉。
資人とは
資人は高位の臣下に与えられる従者で、位階に応じて与えられる「位分資人」と官職に応じて与えられる「職分資人」の2種が存在します。

律令規定では、軍防令第49【給帳内条】に、太政大臣に300人、左右大臣に200人、大納言に100人の資人をつけるとしています。
「式部省に留省」というのは、身柄を式部省の庁舎に留置するという意味ではなく、名簿上に名を残し、式部省付けの職分資人の待機要員としておくという意味でしょう。
『精選版 日本国語大辞典』(コトバンク)では、「留省」についてこの和銅7年6月条を引き、
令制で、まだ位階を与えられていない官人登用試験の及第者や主人を失った帳内・資人など、資格がありながら官職につけない者を、かりに式部省に在籍させること。また、その人。
と、解説しています。
職分資人が仕えている主人が亡くなったり、しかるべき理由により辞職した場合、つまり仕えるべき主人がいなくなった場合は、その勤務年数に関わりなく式部省に待機要員として在籍させることとしました。そして、もし主人が再び官職に任命された場合は、かつて仕えていた職分資人を再び任用する、ということに決まりました。

「しかるべき理由」というのは、不正や犯罪による解職ではなく、例えば親の服喪や自身の病気・怪我など本人の過失によらないものです。

当時は親の死に遭遇したら解職されるんですね。

はい。律令には、「父母の喪に遭ったら、解官せよ」とあります。
(仮寧令第3【職事官条】より)
詔(陰陽の乱れ、幣帛を奉り、祈雨を行う)

6月23日(戊寅) 次のように詔した。「この頃、陰陽が殊に乱れ、その気序(仕組み)が乖違(正しいことに背いていること)している。南畝(農作業)がまさに盛んになろうというのに膏澤(恵みの雨)は未だに降りてこず、百姓の田畑はあちこちで損傷している。よって幣帛(神への供え物)を諸社に奉り、名山大川に祈雨し、乞い願わくは恵みの雨を注ぎ、農桑(農耕と養蚕)を欠かすことのないように」と。
詔曰。頃者陰陽殊謬。氣序乖違。南畝方興。膏澤未降。百姓田囿。往々損傷。宜以幣帛。奉諸社。祈雨于名山大川。庶致嘉注。勿虧農桑。
陰陽の乱れが気象にあらわれ、6月に入って農作業が盛んに行われるべき時期だというのに、良い雨が降らないために百姓の田畑が荒廃してしまっているようです。
これは、単に現代のような「最近、異常気象が続くね」などという気象報告ではありません。当時は「天人相関説」といい、陰陽の調和は天子の徳や政治に感応し、善政なら祥瑞が現れ、政治や徳に欠陥があれば災異によって天が警告すると考えられていました
つまり、これは元明天皇の治世として「かなり危うい状況」であったと言えます。
首皇子の元服を2日後に控えたタイミング

実はこの詔が出される2日後には、首皇子(後の聖武天皇)の元服儀式(成年式)を控えています。首皇子の元服は、単なるひとりの皇族の成人式ではなく、「天武皇統の正統継承者の元服」ですから、その直前の「陰陽の乱れ」、「天からの譴責」は天皇と朝廷を大いに動揺させたことでしょう。

「天皇の詔」として声明を発し、諸社に祈りを捧げさせていることからも動揺が伝わります。原文の「庶」は乞い願うという意味ですし、切実な思いを感じさせますね。
首皇子が元服する
6月25日(庚辰) 皇太子が元服(成年儀礼)を加えられた。
皇太子加元服。
皇太子、つまり、後に聖武天皇となる首皇子が元服しました。首皇子は文武天皇の皇子で、母は藤原不比等の女子である藤原宮子です。

首皇子はいつ皇太子になったのか
これまでの『続日本紀』では、「首皇子が立太子した」という趣旨の記事はありません。ではいつ皇太子になったのかというと、続日本紀の巻第10の聖武天皇の即位前紀(即位の前に、天皇の出自や系統などについて記述された部分)では「聖武天皇は、和銅7年6月に、立って皇太子となられた。時に14歳であった」とあります。

和銅7年6月、つまり今回の元服をもって皇太子とされたと見るのが自然ですかね?

その通りです。
もちろん即位前紀では「6月」としか書かれていないので、元服と同日とは断言できませんが、元服儀=立太子儀として一体的に行われた可能性があります。

元服と立太子が一体化した、あるいは連続して行われた国家儀礼だった…ということですね!
天下に大赦と恩典を下す
6月28日(癸未) 天下に大赦した。和銅7年6月28日午の時以前の大辟罪(死罪)以下、罪の軽重に関わらず、すでに発覚したものも、未発覚のものも、すでに処罰が決定したものも、決定していないものも、繋囚(牢獄に繋がれている囚人)も、徒罪(懲役刑)に服している者も、没官(罪により身柄や財産を官に没収されること)され奴婢となった者、及び八虐(特に重大で社会的影響の大きい8種の犯罪)を犯した者、常の赦で罪を免れない者もことごとくこれを赦すこととする。私鋳銭(にせ金づくり)及び窃盗、強盗はこの赦には入らない。ただし、私鋳銭及び盗犯で死罪にあたるものは、罪を一等下すこととする。
老人として、100歳以上には穀5斛を、90歳以上には3斛を、80歳以上には1斛を賜う。孝子、順孫、義夫、節婦は門閭(村里などの入り口の門)に掲示し、終身にわたり課役を免除する。鰥寡惸独(妻のない夫と、夫のない妻と、みなしごと、老いて子のない者。身寄りのない者)、重病者で自存が不可能な者には、所司はこれを推し量って賑恤(物品を送って救援すること)を加えることとする。大赦天下。自和銅七年六月廿八日午時已前大辟罪以下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。沒爲奴婢。及犯八虐。常赦所不免者。咸赦除之。其私鑄錢及竊盗。強盜並不在赦限。但鑄盜之徒合死坐。降罪一等。
諸老人歳百以上賜穀伍斛。九十已上參斛。八十已上壹斛。孝子。順孫。義夫。節婦。表其門閭。終身勿事。鰥寡惸獨。篤疾重病之徒不能自存者。宜令所司量加賑恤。
この大赦と、高齢者などへの恩典はタイミングから考えて、皇太子元服に関わる行事の一部と見て良いでしょう。
また、この年の2月14日(壬寅)には、全国に使いを遣わして囚人の状況について詳しく調査しており、この大赦は元服を前に用意を周到にして行われたものだった可能性があります。

元服という国の慶事を祝して、天皇の人徳を天下に及ぼすということですね!

「大赦」とあるように、赦の規模が非常に広く、盗犯や貨幣偽造の犯罪を除くすべての罪を赦すとしています。特に国家転覆や天皇や山陵に対する不敬、父母や祖父母などに対する犯罪など、特に重大とされた8種の罪である「八虐」すら赦免するのは異例です。

重大犯罪を許す一方で、盗みや貨幣偽造は許さないのは、現代感覚でいうと奇妙ですね。。
でも、貨幣偽造については納得できます。これまでずっと和同開珎を普及させるためにさまざまな施策が講じられてきましたから、これをちゃぶ台返しするような貨幣の偽造は「国家として絶対許すな」ってなりますよね。

八虐は主に、天皇と国家の統治秩序、親や祖父母などの尊属や兄姉といった目上を敬う「礼」の倫理に反する罪です。これらは天皇の大いなる恩徳によって赦すことができました。一方、盗みには具体的な被害者が存在します。天皇が大赦を下したとしても、奪われた財産が回復されるわけではありません。盗犯が今回の大赦から除外されたのはそういった理由でしょう。
賜姓(大津連)
6月29日(甲申) 従七位下大津造元休と従八位下船人に連の姓を賜った。
甲申。從七位下大津造元休。從八位下船人等並賜連姓。
大津造(おおつ の みやつこ)という氏姓を持つ、元休と船人の2名に「連」(むらじ)のカバネを賜い、大津連に改姓されました。
新たに授けられた「連」は天武天皇が新たに定めた8種類のカバネ(八色の姓)であり、その序列としては第7位です。一方で「造」は律令以前から存在した旧来のカバネであり、八色の姓には存在しません。
この改姓の意味するところは、大津氏が旧来の「造」姓を改められ、律令国家における朝廷の新たな氏姓秩序の中に位置付けられたということです。

身分の再確認、再定義…ということですね!
また、同年3月10日には、僧・義法が還俗する際に「大津連」の氏姓を与えられています。そのため、大津氏の氏族内で「連」姓に改姓される動きがあったのかもしれません。
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