
こんにちは、みちのくです☀️
今回は文武天皇の大嘗祭がメインテーマですね。

天皇即位に関わる重要な祭祀ですね。
文武天皇2年(戊戌・西暦698年)現代語訳・解説 10月〜12月
詔(僧たちを薬師寺に居住させる)
冬 10月4日(庚寅) 薬師寺の造営があらかた完了したため、僧たちに詔してその寺に住まわせた。
以藥師寺構作畧了。詔衆僧令住其寺。
薬師寺は、『日本書紀』によると、天武天皇9年(680)11月12日、天皇が皇后(後の持統天皇)の病の快方を祈り、発願され造営が始められた寺です。
文武天皇の時代になってようやく「ほぼ完成」ということは、20年近くの歳月がかかったことになります。

20年の間に、夫の天武天皇が亡くなり、皇太子(草壁皇子)も亡くなり、みずから皇位につき、孫(文武天皇)の成長を待って即位させ、、
紆余曲折ありましたがとうとう寺が完成に近づき、当時太上天皇となっていた持統上皇は感無量だったでしょうね。

天武・持統、お二人の愛情を感じますね。悲願だったことでしょう。
本薬師寺跡
この当時の薬師寺は現存せず、和銅3年(710)の遷都により平城京内にも改めて造営が行われました。
ただし近年の研究によると藤原京の薬師寺を移築したわけではないようで、遷都後もしばらくは両方の薬師寺が併存していたようです。
蝦夷が方物を献上
10月23日(己酉) 陸奥(東北地方の太平洋側)の蝦夷が、方物(その地の特産物)を献上した。
陸奥蝦夷獻方物。
昨年の文武天皇元年(697)10月19日にも、「陸奥の蝦夷が貢ぎ物として方物を献上した」というほぼ同じ記事があります。
2年続けてほぼ同じ時期に陸奥の蝦夷から方物が献上されており、さらに今年(文武2年)6月14日には越後の蝦狄も方物を献上しています。

もしかしたら、蝦夷は定期的に往来を行っていたのかもしれないですね。
日蝕

11月1日(丁巳) 日蝕があった。
日有蝕之。
日蝕について詳しくはこちら(「律令制と日蝕」)をご覧ください。
NASAによると、この時の日蝕は金環日食ですが、観測できたのは地中海付近の午前11:25分ごろであり、完全に日没後の時間になっていた日本では観測不可能でした。
大嘗祭に備えた大祓

11月7日(癸亥) 大祓のため、諸国に使いを遣わした。
遣使諸國大祓。
大祓は、罪や穢れを祓い清める国家的な儀式です。後の養老令の神祇令第18【大祓条】には、神祇官が「6月と12月の末日」に行うとありますが、今回は11月です。
つまり、この時の大祓は通常のものとは異なり臨時に行われ、諸国に使者を派遣してそれぞれの国ごとに大祓を行ったものです。
同じく神祇令第19【諸国条】では、諸国で大祓をする時は、「郡ごとに刀1口、皮1張、鍬1口、及び雑物(様々な物品)を出す。戸(世帯)ごとに麻1条を、国造は馬1匹を出す」とあり、恒例の大祓以外にも臨時的に行う場合があることが分かります。

今回の諸国大祓は、11月23日に行われる大嘗祭に備えて行われたものと見て間違いないでしょう。

神聖な大嘗祭の前に天下のあらゆる罪穢れを浄化しようということですね!
大嘗祭
11月23日(己卯) 大嘗祭を行った。
直広肆(従五位下相当)榎井朝臣倭麻呂が大楯を立て、直広肆大伴宿禰手拍が楯と桙を立てた。
神祇官の官人と、大嘗祭に奉仕した尾張(愛知県)・美濃(岐阜県南半部)2国の郡司と百姓たちに、それぞれ差をつけて物を賜った。大甞。
直廣肆榎井朝臣倭麻呂竪大楯。直廣肆大伴宿祢手拍竪楯桙。
賜神祇官人。及供事尾張美濃二國郡司百姓等物各有差。
天皇一代一度の大祭
大嘗祭(おおにえのまつり、だいじょうさい)とは、天皇の即位に伴って行われる一代一度の祭祀で、新しく収穫された穀物を神々に捧げ、天皇自身もこの新穀を召し上がります。

「嘗」の字には、「舐める」「舌で味わう」という意味があることから、文字通り天皇自身が新たな秋の実りを神々と共にお召し上がりになる…という儀式なんですね。

即位に伴う祭祀で、それも一度しか行われないということは、当然ながら重要な祭祀であるわけで。事前に諸国に大祓をさせ、備えさせているのも納得です。
大嘗祭が行われる日は、11月の中卯の日(2回目の卯の日)となっています。
大嘗祭以後の年も、毎年この日に新穀を神々に奉る祭祀が行われ、これを「新嘗祭」といいます。
大嘗宮の前に楯と矛を立てる

榎井氏と大伴氏により、大嘗宮の前に矛と楯が立てられました。
大嘗祭には「大嘗宮」という、専用の祭祀空間が造営されます。

これは単なる警備ではなく、大嘗宮を武装した氏族が守護する儀礼の一部でしょう。
平安時代中期『延喜式』の大嘗祭式では、石上氏・榎井氏が物部たちを率いて大嘗宮の南北門に「神楯・戟」を立て、伴氏(もと大伴氏)・佐伯氏も南門で奉仕することが定められています。
文武2年の大嘗祭は、そうした後世の儀礼とよく対応しています。

氏族が古来から伝統的に担ってきた役割があったわけですね。
特に榎井氏は物部系の氏族なので、武具をもって神聖な空間を守る役割との結びつきが見えます。大伴氏も古くから軍事・宮廷警護に関わる氏族だから、この二氏がここで出てくるのは偶然ではありません。
悠紀と主基

尾張国と美濃国はこの大嘗祭にそれぞれ「悠紀国」「主基国」として奉仕しました。
大嘗祭では占いにより2つの地域を選び、それぞれが神饌(神へ供える飲食物)に用いる新穀などを準備します。「悠紀」はその第1、「主基」は第2にあたります。
「主基」は古くは「次」とも書かれ、「すき」は文字どおり「次」の意味とする説明があります。
『日本書紀』天武天皇5年(676)9月21日(丙戌)条にも、
斎忌(ゆき)=尾張国山田郡 次(すき)=丹波国訶沙郡 という形で登場しています。
この悠紀・主基2国が斎田を営み、大嘗祭のための神饌の米を作ります。

第1、第2ということは、悠紀と主基は序列の関係にあったということですか?

そこは慎重に考えるべきで、確かに順番はありますが、これは「前後の関係」と捉えるべきで、単純に悠紀が上で、主基が下というものではないと思います。
というのも、大嘗宮にはそれぞれ「悠紀殿」「主基殿」という独立した空間があり、天皇がこの2つの殿舎でほぼ同じ祭祀を独立して行うからです。ただし、祭祀の順番は必ず悠紀が最初で、主基がその次です。
なぜ治世2年目に大嘗祭なのか

今は文武天皇の治世2年、11月を迎えるのも2回目ですね。なぜ1年目の11月に大嘗祭をしなかったのでしょうか?

するどい疑問ですね。
これは文武天皇の即位した月が8月であったことが関係しています。
大嘗祭は、先述の通り大嘗宮の造営が行われ、悠紀国・主基国の選定と、そのための新穀作りが行われます。つまり、準備に相当の手間をかけて行われるので、8月の即位では11月までの準備時間が足りません。

なるほど、これはもっともな理由ですね…!
牛黄の献上

11月29日(乙酉) 下総国(茨城県南部)が牛黄を献上した。
下総國獻牛黄。
牛黄の献上については、この年の正月8日条にも献上記事があり、この時は土佐国からでした。

牛黄の詳しい解説も正月8日条にあります。
対馬に金鉱石の精錬を行わせる

兵庫県養父郡関宮町(養父市中瀬) 中瀬鉱山産©公益財団法人益富地学会館
12月5日(辛卯) 対馬嶋に金鉱石を冶金(鉱石を精錬して有用な金属を取り出すこと)させた。
令對馬嶋冶金鑛。
『日本書紀』によると、対馬では天武天皇3年(674)3月7日(丙辰)に銀・鉛が産出しており、古くから鉱山として知られていました。そこで朝廷は、今度は金を含むとみられる鉱石の精錬が命じられました。

この時点ではまだおそらく実際に金鉱が発見されたわけではないと思います。
「金が採れるかもしれないので、実際に精錬作業をやってみろ」という命令が下されたのではないでしょうか。

銀発見という実績があったので「今度は金が採れるんじゃない!?」ってなったのでしょうね。これは期待大です。
ところが、この「対馬の金」は後に思わぬ事件へと発展することになります。
石船柵の修理
12月21日(丁未) 越後国に石船柵を修理させた。
令越後國修理石船柵。
石船柵は現在の新潟県村上市岩船の周辺にあったと見られますが、その具体的な場所は特定されていません。
当時の越後国
越後国は現在の新潟県ですが、当時の範囲は大きく違っています。
文武2年(698)時の越後国は、基本的には今の沼垂(新潟市中央区)・岩船郡を中心とする新潟県北部地域という、かなり狭い領域だったとされています。

高岡市万葉歴史館の展示より
対・蝦夷策
石船柵は『日本書紀』の大化4年(648)「この年」条に、
「磐舟柵をつくって蝦夷に備え、越と信濃との民を選んで初めて柵戸を置いた」
と見え、蝦夷対策のために置かれたことが分かります。
さらに、柵戸という、他地域から移住させられ柵の守備や開拓などを行なった人々もおり、今回の修理も柵戸が関わった可能性が高そうです。

「柵」は蝦夷に対する防御施設。この当時、まだ新潟県の北部地域以北は朝廷の支配が及んでいませんでした。
多気大神宮を度会郡に遷す
12月29日(乙卯) 多気大神宮を度会郡(伊勢国の郡)に遷した。
遷多氣大神宮于度會郡。
不詳の神社
まず結論を言うと「多気大神宮」は現存せず、どこにあったのかなど詳細は今も決着していません。
また、『続日本紀』の古写本によってはこの条を「多気大神宮寺」と記載するものがあり、もしこれが正しければ史料上の「神宮寺」の初見です。

神宮寺は、神を仏教によって救済したり、その威力を高めたりするため、神社に付属して設けられた寺院です。

「神仏習合」というやつですね。
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