【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 霊亀元年⑤ 6月 天子の祈り、上天に通ず

元明天皇紀(708-715)
いづみ
いづみ

こんにちは、いづみです♨️
雨乞いって、本当に降ったとき一番びっくりするのは祈った本人かもしれませんね。

みちのく
みちのく

「え、ほんまに降った……?」ってなるやつです。

※霊亀への改元はこの年の9月なので、正確には霊亀元年6月は和銅8年です。
しかし、『続日本紀』は改元が行われた年の正月に遡って「元年」とする形式なので、これに従っています。



霊亀元年(乙卯・和銅8年・西暦715年)現代語訳・解説 6月

去(長親王)

6月4日(甲寅きのえとら) 一品なが親王こう(親王または三位以上が亡くなること)た。天武天皇の第四皇子である。

一品長親王薨。天武天皇第四之皇子也。

長親王(長皇子)は、天武天皇と大江皇女の皇子です。大江皇女は天智天皇の皇女なので、母方では天智につながります。
また、文武天皇3年(699)7月21日に薨去した弓削皇子の同母兄にあたります。

いづみ
いづみ

天武天皇の皇子、しかも一品という最高位の皇族が亡くなってしまいましたか…。

みちのく
みちのく

記事はとても簡潔ですが、大きな衝撃をもって迎えられたことでしょう。

歌人としての側面

長親王は歌人でもあり、『万葉集』に5首が残っています。
大宝2年(702)の持統太上天皇の三河行幸や、慶雲3年(706)の文武天皇の難波行幸にも従った時の歌が収録されており、皇族として天皇や上皇の行幸に供奉していたことが分かります。

また、弟の弓削皇子とはとても親しかったらしく、次のように歌っています。

『万葉集』巻第二 相聞歌 歌番号:130
長皇子、皇弟(弓削皇子)に与る御歌一首 一三〇

丹生にうの川 瀬は渡らずてゆくゆくと恋痛し我が背いで通ひ来ね

(丹生の川瀬を渡りたくても渡れずに、はやる心がいたく恋しい。あなたが来て通ってきてください)

みちのく
みちのく

まるで男女の恋愛の歌のようですね。一見異様に見えますけど、「」は当時恋愛にだけ使われた言葉ではなく、大切な人を慕い、心が惹かれると思うことにも使います。「我が背」も恋人・夫に限定されるわけではありません。

いづみ
いづみ

ということは、親愛の弟を15年も前に亡くしていたということになりますね。
それに、仲が良かったとしてもやっぱり親王ともなれば、弟であっても気軽に会いに行けるような身分ではなかったのかも。



都祁山之道を開通

6月10日(庚申かのえさる) 大倭国(後の大和国。奈良県)都祁山之道つげやまのみちを開いた。

開大倭國都祁山之道。

平城京から東に伊賀国へ抜けるバイパス路

天理市によると、この都祁山之道(つげやまのみち)は、平城京から東へ大和高原を越え、都祁を経て名張方面へ抜ける官道と考えられています。
現在有力視されているルートは、おおむね天理市の櫟本付近から岩屋―福住―都祁―多田―笠間峠を経て名張へ至るものです。
そして、名張から先は伊賀国府方面・伊勢方面への既存の交通路につながりました。

都祁山之道 聖武天皇東国行幸、斎王群行、氷室の氷運搬の道(天理市観光協会公式)

いづみ
いづみ

ちょうど道の中間地点が都祁地域なんですね。

背景として重要なのは、和銅3年(710)の平城遷都です。
飛鳥・藤原京時代には初瀬を経て名張へ向かう経路が利用できましたが、都が平城京へ移ると、それでは南へ大きく迂回することになります。

みちのく
みちのく

そのため、平城京から大和高原をほぼ東進して名張へ出る新しいルートが必要になり、都祁山之道は平城京―伊勢方面を結ぶバイパスとして整備されたと考えられています。

いづみ
いづみ

以前には似たルートとして、平城京北東の甕原から木津川沿いに東進して伊賀に出るという経路がありましたね。(和銅6年6月23日条より)

みちのく
みちのく

どちらも伊賀方面に出るための道ですが、両者の性格がかなり違うのが面白いです。木津川ルートは河や谷という自然の通路を利用する道で、水運と結びつく。
一方、都祁山之道は文字通り高原を横断する陸路を新たに整備した道路という特徴があります。



太政官奏上(日照りのため、諸社に幣帛を奉納する)

6月12日(壬戌みずのえいぬ) 太政官が次のように奏上(天子に申し上げること)した。
 「 気象は度を失い、亢旱こうかん(酷い日照り)は旬(10日間)にわたっています。恐らくは、東皐とうこう(水田)を耕すことはできず、南畝なんぽ(田畑)の収穫は損なうことになります。
 昔、周王(宣王)が日照りに遭った時には雲漢の詩(『詩経』の雲漢の詩)があり、漢の皇帝(前漢の武帝)は祈雨を行い改元の詔を興しました。人君(君主、帝王)の心からの願いは、上天をも感応させるのです。
 ここに、幣帛へいはく(神への供え物)を奉り、諸社(多くの神社)に祈りをささげることを要請します。民に豊年をもたらしましょう。これをぎょう(古代中国の伝説上の君主)の行いであると、誰の知るところでしょうか」と。

太政官奏。懸像失度。亢旱弥旬。恐東皐不耕。南畝損稼。昔者周王遇旱。有雲漢之詩。漢帝祈雨。興改元之詔。人君之願。載感上天。請奉幣帛。祈於諸社。使民有年。誰知尭力。

旧暦で6月12日は、今でいうところの7月下旬あたりなので、現代の季節感では梅雨の終わり〜梅雨明け頃です。それにもかかわらず旬=10日間もの間雨が降らないということは、梅雨が早めに切れたような状態で、そのまま盛夏の乾燥に入ってしまったような状況だったのかもしれません。

いづみ
いづみ

この時期の天候不順は作物の凶作も予想されるわけですからかなりの危機感があったはずですよね。

周や漢の故事を引く

雲漢の詩
みちのく
みちのく

「周王」は周の宣王で、この時代からさかのぼっておよそ1500年前のことです。

中国最古の詩集『詩経』にある「雲漢」の詩はかなり切迫した内容です。大旱魃に苦しむ宣王が、「なぜ雨が降らないのか」「自分はこれほど祈っているのに」と天や祖先に訴え続ける詩です。

雲漢」は天の川のことです。宣王が夜空を見上げると、天の川や星は明るく輝いている。しかし地上には雨が降らない。そこで王は、「今の人々に、いったい何の罪があるのか」と嘆きます。
飢饉が繰り返し起こり、神々には犠牲を惜しまず、玉まで捧げ尽くしたのに、祈りが聞き入れられないと訴えます。

山川は干上がり、炎熱は焼けつくようで、民衆は絶えかねない。宣王自身も恐怖し、
国土が滅びるくらいなら、災いは自分一人の身に降りかかってくれ」とまで言います。

それでも結局詩の中では雨が降った様子は描かれていません。
雲漢の詩は「祈ったら雨が降りました」という君主の徳や祈りの神秘を歌ったものではなく、旱魃の中で、君主が民の苦しみを背負って天に訴え続ける姿を描いた詩なんですね。

いづみ
いづみ

そう考えると、この雲漢の詩を引用するのって君主としてはかなり重たいことになるんですね。

みちのく
みちのく

当時にとって、神への祈りは国や国民の生死に直結することであり、君主が行わなければならない義務であったと言えるでしょう。

漢の改元「天漢」

「漢の皇帝は祈雨を行い改元を行なった」というのは、年代にして当時からおよそ850年前、前漢最盛期の第7代・武帝の時代のことです。

『漢書』によると、武帝は太初4年(紀元前100年)の翌年、元号を天漢元年と改めたとあります。

『漢書』そのものには改元の理由は記されていませんが、後世の学者はこれを「数年にわたって旱魃に苦しんだので『天漢』と改元し、恵みの雨を祈った」と解釈しました。

さらに唐代ではこの解釈をさらに広げ「『詩経』には雲漢の詩があり、宣王が旱魃に際して徳を修め政務に励んだ故事なので、それに基づいて「天漢」という元号とした」としています。

いづみ
いづみ

なるほど、「天漢」を解釈したものをさらに解釈したものなんですね。

みちのく
みちのく

少しややこしい話ですが、ここでわかることは、
元号を改めることは当時にとって天変地異を収める実務的な手段のひとつだったということです。
日照り・旱魃などの災害は天からの警告や責めと理解されました。そこで国を治める君主は元号というそれまでの時間秩序を改め、新しい吉祥な時代に切り替えるために改元を行なったのです。

伝説的な君主「堯」

奏上の最後に見える「これを堯の行いであると、誰の知るところでしょうか」というのは、
中国の伝説上の君主「堯」(ぎょう)の「撃壌歌」(げきじょうか)から来ているようです。

この中には「帝王の力など、私に何の関わりがあろう」という故事があり、堯の善政があまりに自然なので、民衆は自分たちが平和に暮らしているのが帝の力によるものだとすら意識しない、という理想の政治です。

みちのく
みちのく

堯の政治があまりにうまく機能しているので、庶民は自分たちの平穏な暮らしが堯の政治のおかげだとすら意識していない。これが逆説的に「最高の善政」の証明になるわけです。

いづみ
いづみ

この奏上では堯の事績に習い、天皇の存在感を感じさせないほど自然で理想的な形で民に平穏をもたらしましょうとすすめているわけですね。

奏上の内容が具体的に記録されるのは異例

祈雨の奏上そのものはそれほど珍しいことではなく、これまでもしばしば行われています。
ただし、今回の奏上はその具体的内容まで詳細に語られており、その点で異例と言えます。

いづみ
いづみ

『続日本紀』では大体「諸社に祈雨を行なわせた」など簡潔な内容で終わっているものが多いですね。

みちのく
みちのく

しかもその奏上の内容には「改元」のことが見えており、実際に和銅8年はこの年の9月に「霊亀元年」に改元されます。もっともこれは祥瑞による改元なのですが、この後の歴史を知っている我々からすると、この奏上は元明天皇の譲位と霊亀改元への「伏線」だったのではないかと見てしまいたくなります。



弘福寺・法隆寺に斎会を設ける

6月13日(癸亥みずのとい) 弘福寺ぐふくじ(川原寺)・法隆寺の二寺に斎会さいえを設けた。

設齋於弘福法隆二寺。
みちのく
みちのく

これは前日の旱魃の記事と一続きで読むべき条ですね。

6月12日に「諸社に幣帛を奉って祈雨するよう要請します」と奏上し、その翌日に、弘福寺・法隆寺の二寺で斎会を設けています。
つまり朝廷は、神社への奉幣だけでなく、寺院でも祈雨のための法会を行わせたと考えるのが自然です。

弘福寺(川原寺)

弘福寺は通称「川原寺」で、当時の有力寺院です。7世紀半ばごろの創建と知られ、文武天皇の時代では大官大寺(今の大安寺)・薬師寺・飛鳥寺と並ぶ四大寺の一つでした。


川原寺跡 弘福寺(奈良県高市郡明日香村)



祈雨がかない、雨が降る

(続き)

 詔により、使いを遣わして諸社に幣帛を奉り、名山・大川に祈雨を行わせた。すると、それから数日を経ないうちに滂沱ぼうだの雨(激しい雨)が降り注ぎ、当時の人はこれを、聖徳(天子の聖なる人徳)と天が互いに感応し合っているのだとした。これにより、百官(多くの官人)にそれぞれ差を付けて禄を賜った。

。遣使奉幣帛于諸社。祈雨于名山大川。於是未經數日。注雨滂沱。時人以爲。聖徳感通所致焉。因賜百官人祿各有差。

前日の奏上により、諸社や名山・大川に祈雨を行わせたところ、数日経たずして激しい雨が降り出しました。

いづみ
いづみ

すごい、祈りが天に通じた瞬間ですね!あまりにきれいな流れです。
百官に臨時の禄を出しているところからも喜びが伝わってきます。

みちのく
みちのく

それだけこの時期に恵みの雨が降るかどうかは死活に直結してくるということですよね。

いづみ
いづみ

周の宣王を超え、堯帝の善政がここに再現された…。



諸国人民20戸を平城京内に移貫する

6月17日(丁卯ひのとう) 諸国の人民20戸を京職きょうしき(平城京の行政全般を管掌した官司)に移し付けた。殖貨しょっか(財貨を増やすこと)のためである。

諸國人廿戸。移附京職。由殖貨也。

「京職に付けた」というのは、諸国に住んでいた人民を平城京内に移籍させたということです。

いづみ
いづみ

今で言えば本籍を変えたとか、住所変更とかいう意味ですね。

この目的は、平城京の商業を活性化するためと考えると分かりやすいです。
平城京には東西に市場(市司)があり、京職はその市司を管轄していました。研究でも、この条を「交換経済を発展させるため、諸国の裕福な商人を呼び寄せた」と解釈する例があります。

みちのく
みちのく

この解釈でいけば、「諸国20戸」はランダムで選ばれたわけではなく、「経済活動を十分に行える裕福な戸」が選ばれたものと見て良いでしょう。



次回の記事

更新をお待ちください。

コメント

タイトルとURLをコピーしました