【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 霊亀2年③ 5月 地方寺院の荒廃。武智麻呂の言上

元正天皇紀(715-724)
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
お寺を建てたはいいけど、牛馬がうろついて草はぼうぼう…。これじゃお寺というより牧場ですね。

いづみ
いづみ

いつから寺院は放牧まで担当するようになったんですかね?



霊亀2年(丙辰・西暦716年)現代語訳・解説 5月

軍毅を郡領の親族から任用してはならない

5月14日(己丑つちのとうし) 次のように制定した。諸国の軍団の大毅だいきと少毅しょうきは郡領(郡司の大領と少領)の三等以内の親族を連任(ある親族内の者が、二人以上同時に、同種の任務につくこと)してはならない。すでに任じているのならば、他国に転補てんぽ(他の職に任じること)すること。

制。諸國軍團大少毅。不得連任郡領三等以上親也。其先已任訖。轉補他國。
みちのく
みちのく

軍団の大毅と少毅には、郡司の大領・少領の親族をつけてはならず、すでに任命している場合は他国の軍団につけることとしています。

軍団

律令制では軍団という地方軍事・警察組織があり、国ごとに設置され、国司の指揮監督のもと通常一千人を単位として構成されていました。

大毅(だいき)、少毅(しょうき)は、軍団の指揮官です。
両者を総称して軍毅(ぐんき)と呼びます。

軍毅の役割(養老軍防令より)
  • 大毅:軍団の長官。兵士の統率や軍事訓練などを担当する。軍団ごとに1名。
  • 少毅:軍団の次官。大毅を補佐する。軍団ごとに2名(規模によっては1名または設置せず)。

 他、200人をまとめる校尉、100人をまとめる旅帥りょそち、50人をまとめる隊正がおり、一人一人の兵士は一般農民から徴発されました。

軍毅の任用

養老軍防令の第13【軍団大毅条】によると、大毅・少毅は現地内での

  • 散位(位階はあるが特定の官職に就いていない者)
  • 勲位を授与されている者
  • 庶民のうち武芸に秀でている者

を選んで任用することとなっています。

みちのく
みちのく

ただ、今回の霊亀2年5月条を見るに、軍毅はどうも郡司の一族から任用される傾向があったみたいですね。

いづみ
いづみ

そうですね、しかも「すでに任じているならば」とありますから、そういう実態があったと見ても良さそうですね。

郡領は地方行政の有力者、軍毅は地方軍事組織の指揮官です。
つまり、特定の地方豪族が行政と軍事の双方に強い影響力を持つことを防ぐ意図があったと考えられます。
ただし、軍団はもともと国司の監督下にあり、軍毅が独立した軍事権を持っていたわけではありません。



詔(寺院の統合と管理の健全化)

5月15日(庚寅かのえとら) 次のように詔した。
「 法蔵(仏陀が説いた教え。また、それを記した経典)を崇飾すうしょく(尊んで立派に飾ること)することは粛敬しゅくけい(つつしみ敬うこと。敬虔)を本となし、仏廟の造営は清浄を先とする。
 今聞くところによると、諸国の寺院の多くは仏法の教えによらず、草堂(簡素な寺)を初めて建てた時には争って寺額じがく(寺の名称を記した額)を求める。幢幡どうばん(旗飾り)をわずかに立てただけで、すぐに寺田(寺院に与えられた田地。租税が免除された)を要求し、あるいは房舎を修理せず、牛馬が群れ集まって門庭は荒廃し、荊棘けいきょく(とげのある植物)が茂って荒れているという。遂には、無上の尊像を永く塵の汚れにさらし、深遠な法蔵を風雨から守らぬまま長い年月を経て、寺院としての体裁はまったく整っていない有様である。この事情を斟量しんりょう(推し量る。斟酌)するに、極めて崇敬の念から背いている。
 よって今、数か所の寺を統合して一区とする。庶幾しょきする(こい願うこと)に、力を合わせて共に造営し、頽法たいほう(衰えた仏法の教え)を再興したい。よろしく諸国の国司たちは、国師(国ごとに置かれた僧官で、僧尼を監督した)、衆僧、檀越だんおち(仏教寺院に財物などを寄進する施主)たちに明らかに告げ、部内の統合すべき寺院とその財物を記録し、使者に付けて奏聞そうもん(奏上)すべし。
 また聞くに、諸国の寺院は堂塔が完成したのにもかかわらず僧尼が住まず、仏を礼拝する声が聞こえないという。檀越の子孫が寺田を惣摂そうせつ(すべてを支配し、管理すること)し、もっぱら妻子を養うのみで僧侶たちに供することがなく、そのために争訟となって国郡を騒がせている。今後は、厳しく禁断を加える。その所有の財物や田園はすべて国師、衆僧及び国司、檀越たちが相対の上で検校けんぎょう(物事を調べ、ただすこと。監督)して明記し、これを充てて用いる日には共同で判断して支出すること。これまでのように檀越たちの独断で決めてはならない」と。

詔曰。
崇餝法藏。肅敬爲本。營修佛廟。清淨爲先。
今聞。諸國寺家。多不如法。或草堂始闢。爭求額題。幢幡僅施。即訴田畝。或房舍不脩。馬牛羣聚。門庭荒廢。荊棘弥生。遂使無上尊像永蒙塵穢。甚深法藏不免風雨。多歴年代。絶無構成。於事斟量。極乖崇敬。
今故併兼數寺。合成一區。庶幾。同力共造。更興頽法。諸國司等。宜明告國師衆僧及檀越等。條録部内寺家可合。并財物。附使奏聞。
又聞諸國寺家。堂塔雖成。僧尼莫住。礼佛無聞。檀越子孫。惣攝田畝。專養妻子不供衆僧。因作諍訟。諠擾國郡。自今以後。嚴加禁斷。其所有財物田園。並須國師衆僧及國司檀越等相對検校。分明案記。充用之日。共判出付。不得依舊檀越等專制。

ざっくり要約

いづみ
いづみ

長い詔なのでざっくり要約します。

・諸国の寺院の多くは、簡素な寺を建てると争うようにして寺額を求める。旗をわずかに立てて飾っただけで寺田を要求する。
・建物も修理せず、牛馬が群れ集まり、雑草も繁茂して荒れた状態であり、寺院としての体裁が全く整っていない有様である。
・よって、数か所の寺院を統合してひとつにまとめる。
・国司は、国師、僧侶、檀越たちにはっきり告げて、統合すべき寺院とその財物を記録し、使者を通して中央に報告すること。
・また、諸国では寺院が完成したのに僧侶が住まず、仏を礼拝していないと聞く。
・それどころか檀越の子孫が妻子を養うために寺田を私物化しているため争いになっている。今後はこれを禁断する。
・寺院に付属する財物や田地は檀越の独断にせず、国師、僧侶、国司、檀越が共同で管理して支出すること。

みちのく
みちのく

一言で言ってしまえば、
「寺院の乱立と荒廃を防ぐために統合を進めるとともに、寺院財産の私物化を禁じて適正な管理を命じた」
といったところでしょう。

「寺額を求める」とは

寺額というのは寺院の本堂や入り口の門などに掲げられる、寺名が書かれた額です。
これを求めて争うというのは、奈良時代においては単なる「名前が書かれた看板」ではなかったことを意味しています。

朝廷から寺額を与えられることは、その寺院が国家から正式に認められたことを意味する場合があったのです。
そして重要なのは、寺院として公認されることで経済的な特権を得られる可能性があったことです。
例えば、寺院が所有する寺田には租税の免除が認められる場合がありました。

みちのく
みちのく

今回の詔でいえば、この特権欲しさに寺院を乱立させ、ろくに寺院の体裁も整っていないのに朝廷の公認を得て寺田をほしがったわけです。
しかも、寺に私財を投じて経済支援を行う地元の「檀越」という、いわば「出資者」が寺田の利益を自らの妻子を養うために私物化していたという実態があったわけですね。

いづみ
いづみ

なので乱立した寺を統合してひとつにまとめ、国司や国師、僧侶、檀越たちが共同して管理せよと厳命が下ったというわけですね。



藤原武智麻呂が地方寺院の荒廃を言上

藤原武智麻呂像(栄山寺蔵、鎌倉時代)

(続き)

 近江守従四位上藤原朝臣武智麻呂(不比等の長男で南家の祖)が言上した。
「 部内の諸寺は多くその境界を区割りしていますが、造営・修理が行われず、偽りの名籍みょうせき(名簿)を進上しており、この有り様を見るに、他の意図があるようには思えません(寺田による経済利益のことを指すか)。所有する田園については、自らで利益を独占しており、もしこれを正さなければ、恐らくは仏法の滅びを招くことでしょう。臣(臣下としての一人称)らが商量(いろいろ考えて推しはかること)するに、『人よく道を弘む』というのは先哲の格言です。仏法を闡揚せんよう(明らかにする)することは聖朝(天皇の統治する時代。その天皇の朝廷)が最上とする願いです。方今ほうこん(ちょうど今。現在)、人情は次第に軽薄になり、釈教しゃくきょう(釈迦の教え。仏教)は陵遅りょうち(物事がしだいに衰えすたれること。また、道義がうすれて行くこと)しています。これは近江国だけのことではなく、他国も同じです。望むは、諸国に遍あまねく(広く行き渡らせる)命令を下してこの弊害を改め、淳朴(人情に厚くすなおであるさま)なあり方に戻すことで、たるんだ綱紀を張り直し、仰ぎ見て聖願(天皇の願い)をかなえたいと思います」と。
 これを許可した。

近江國守從四位上藤原朝臣武智麻呂言。
部内諸寺。多割疆區。无不造脩※。虚上名籍。觀其如此。更無異量。所有田園。自欲專利。若不匡正。恐致滅法。臣等商量。人能弘道。先哲格言。闡揚佛法。聖朝上願。方今人情稍薄。釋教陵遲。非獨近江。餘國亦爾。望遍下諸國。革弊還淳。更張弛綱。仰稱聖願。
許之。
※『大日本史』では「无不造脩」を「元不造修」としている。

原文に不自然な箇所がある

原文中「部内諸寺。多割疆區。无不造脩。」とありますが、これをそのまま訳した場合、
「部内の諸寺は多くその境界を区割りしていますが、造営・修理を行わないことがなく」となり、つまり「造営・修理を行なっている」という意味になります。

しかし、これでは「寺院の荒廃」を伝えるという、言上全体の文脈からして不自然です。
江戸時代の『大日本史』ではこの部分を「元不造修」(もとより造営・修理が行われず)としています。

みちのく
みちのく

この部分はおそらく、「无」は「元」の誤記であると判断したのでしょう。
当サイトでもこれを支持し、訳文では「造営・修理が行われず」としています。

ざっくり要約

・近江国管内の寺院の多くは、その地を区割りしていながら、造営や修理が行われず、偽りの名簿が報告されている状況です。この有様には、寺田による経済特権を得るため以外の思惑があるようには思えません。
・寺院の所有する田園の利益を自分たちで独占しており、これを正さなければ仏法は滅んでしまいます。仏法を広めることは陛下の最上の願いです。
・今では人情がしだいに軽薄となり、仏の教えもまた衰えてきています。これは近江国だけのことではなく他国についても同じです。
・諸国に広く命令してこれを改め、仏法を再興し、綱紀を粛清して陛下の願いを叶えることを望みます。

国司が見た、地方寺院の荒廃

荒廃した寺のイメージ
いづみ
いづみ

う〜ん、かなりの問題意識を抱えた言上ですね。
地方の寺院はそんなに切実な状況だったのでしょうか。

みちのく
みちのく

この時のことは、『藤氏家伝』の下巻「武智麻呂伝」にも記されています。
武智麻呂が寺院を訪れた際の状況を、
「寺内は荒れ果て、建物は崩れ、室内にも廊下にも人がいなかった」と記しています。

武智麻呂が地元民に事情を尋ねたところ、寺院の檀越が財物や田園を支配しており、僧尼が自由に管理できないため、荒廃してしまったと説明しました。しかも、こうした問題はその寺院に限らないといいます。

いづみ
いづみ

近江守としての国内巡視をもとにこの言上が行われたみたいですね。
そして、これをきっかけに元正天皇の詔が下された、という流れでしょうか。でも『続日本紀』では詔が先になってますね。

みちのく
みちのく

そうですね、『続日本紀』の順序を見ると、
詔 → 武智麻呂の言上
となっていますが、話の流れを考えると、
武智麻呂の言上 → 詔
の方が自然なような気がしますね。

『藤氏家伝』では実際に、武智麻呂の言上がきっかけで詔が発せられたと記されています。
この、「詔が先か、言上が先か」というのは研究上の問題になっているようです。

いづみ
いづみ

ともかくも是正の命令が下ったわけで、改善されていけば良いですね。



1,799人を移住させ、高麗郡を設置する

5月16日(辛卯かのとう) 駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国の高麗こま人(高句麗に出自を有する人々)1,799人を武蔵国に移住させ、初めて高麗郡を設置した。

以駿河。甲斐。相摸。上総。下総。常陸。下野七國高麗人千七百九十九人。遷于武藏國。始置高麗郡焉。

高麗人(こまひと)

朝鮮の高句麗に出自を持つ人々です。
高句麗は668年(天智天皇7年)に唐・新羅の連合軍によってすでに滅亡しています。

ただし、今回の1,799人全員が高句麗の滅亡後に渡来したわけではなく、それ以前に渡来した帰化人や、その子孫も含まれていたと考えられます。

みちのく
みちのく

当時の朝鮮は新羅が半島を統一し、滅亡した百済と高句麗の人々は「亡命」のような形で日本に渡り、そこに根付いて暮らしていました。

現代と違い、法律で「日本国民」を定義していたわけではないので、帰化し根付いていても「高麗人」というグループで整理されていたことが分かります。

高麗郡

武蔵国高麗郡は、現在の埼玉県日高市・飯能市周辺に設置されました。
設置年月日が明確に確認できる、数少ない古代の郡の一つです。

いづみ
いづみ

高麗人を集めて郡を建てて、その名も「高麗郡」とはそのまんまネーミングですね。
同じ出自を持つ人たちを集住させる意図があったことがよく伝わります。


高麗神社(埼玉県日高市)

高麗神社では、高句麗王の出自を持つ、高麗王若光(こま の こにきし じゃっこう)が祭神として祀られています。
余談ですが、平成29年(2017)9月20日には、高麗郡の建郡1300年の節目に上皇陛下(当時の天皇)が参拝されています(天皇皇后両陛下のご日程(宮内庁))。



大宰府の言上(豊後・伊予間の使者の往来、薩摩・大隅の隼人貢上)

(続き)

 大宰府が次のように言上した。
「 豊後と伊予の二国の境は、従来、守りの兵士を置いて往還を認めてきませんでした。ただし、身分の高下と尊卑を区別せず、これを一律に扱うべきではありません、五位以上の差使(使者)が往還することを禁止の範囲としないことを要請します。
 また、薩摩と大隅の二国が隼人(南九州に居住していた人民)を朝廷に貢上するようになってすでに八年が経ちます。その道程は遥かに遠く、去来(往来)は不便です。そのために、あるいは父母が老疾ろうしつ(年老いて病気にかかることやその病気)となり、あるいは妻子がひとり貧しく暮らしています。よって、六年を期限に交替することを要請します」と。
 いずれもこれを許可した。

大宰府言。
豊後伊豫二國之界。從來置戍不許往還。但高下尊卑。不須無別。宜五位以上差使往還不在禁限。
又薩摩大隅二國貢隼人。已經八歳。道路遥隔。去來不便。或父母老疾。或妻子單貧。請限六年相替。
並許之。

① 豊後と伊予間の使者の交通規制を緩和

この二国間の人の移動は兵士により守りを固められ、禁じられていたようです。
しかし、五位以上の使者については禁止する必要はないのではないかと大宰府が言上しました。

いづみ
いづみ

二国の境といっても、地続きではなく海を面した上での境なんですね。

みちのく
みちのく

そうですね。でも四国の佐多岬から九州の佐賀関まで、最短距離だとわずか14キロメートルしか離れてないんですよ。

使者が五位以上なのか、五位以上が遣わす使者なのか

ところでこの「五位以上」については解釈が分かれています。
原文に「宜五位以上差使往還不在禁限。」とありますが、
「差使」を名詞として読むと、「五位以上の使者」となり、
「五位以上差使」の「差」を動詞として読むと「五位以上が遣わした使者」となります。

いづみ
いづみ

使者自身が五位以上の者になるのか、それとも五位が遣わした使者を対象にするのか…どっちなのかということですね。

みちのく
みちのく

当サイトでは前者を採っていますが、どちらが正しいのかは分かりません。

② 中央に送る隼人を交代制にする

薩摩国、大隅国

記事によると、霊亀2年(716)から遡ること八年前の和銅2年(709)から、薩摩・大隅から隼人を中央に送ることとなっていたようです(和銅2年を1年目と数えると霊亀2年が8年目となる)。

実際に和銅2年10月26日条に対象となるできごとがありました。
「薩摩の隼人、郡司以下188人が入朝した。諸国の騎兵500人を徴兵して威儀を備えた」とあります。

いづみ
いづみ

なるほど…その時の隼人がいまだに郷里に帰れていないということなんですね。
それで男手や夫を朝廷に送ったままの家は親が年老いて病気がちになり、妻は頼る人もいないという状況に…。

みちのく
みちのく

そこで、6年を区切りにして交代制にしてくださいということですね。

いづみ
いづみ

大宰府と隼人たちとの協議の末、妥協案が定まった…みたいな感じですかね。
朝廷に許可してもらえたのは良かったですね。



「元興寺」を平城京内に移築する

(続き)

 元興寺がんごうじの、左京六条四坊への移築を開始した。

始徙建元興寺于左京六條四坊。

「大安寺」の誤りか

この条は重大な誤りが指摘されています。
元興寺が平城京の左京六条四坊への移築を開始したとのことですが、この「元興寺」は「大安寺」の誤記であるとする説が有力です。

実際に「左京六条四坊」を発掘した結果、大安寺の伽藍配置がかなり具体的に判明しています。
奈良市解説によると、

奈良時代の大安寺は左京四坊の六条・七条にまたがって、十五町(約268,000平方メートル)の寺地を有していました。
 伽藍の配置は、南から北へ一直線上に南大門・中門・金堂・講堂を配し、南大門の南に六条大路をはさんで東西両塔を配置した塔院を設けたもので、「大安寺式」と称されています。
史跡大安寺旧境内附石橋瓦窯跡(奈良市)


大安寺

いづみ
いづみ

今でも現役のお寺なんですね!

みちのく
みちのく

今では最盛期の4%程度の面積ですが、ちゃんと参拝可能なお寺です。

いづみ
いづみ

それにしても、『続日本紀』にしては珍しく「左京六条四坊」なんてかなり厳密に所在地を書いてるのに、よりによってそこで他の寺院と間違えるとは…。



勅(白鑞の所有を禁ずる)

5月21日(丙申ひのえさる) 次のように勅した。大宰府管内の百姓の家に白鑞しろなまりを隠し持つことは以前から禁断している。しかしこれを遵奉じゅんぽう(法律・命令・教えなどを尊重して、これに従うこと)せず、なお隠し持ち、これを売買している。これを用いて悪党が鋳銭じゅせん(銭貨を製造すること)を行い、多くの姦詐かんさ(詐欺。悪巧み。不正)をほしいままにしている。これにより連及れんきゅう(事件や犯罪で、他人の巻き添えになること)して罪に陥る者が少なくない。よろしく厳しく禁制を加え、さらにこのようなことが無いようにすべし。もし白鑞があれば、捜求そうきゅう(さがし求めること。捜索)し官司に納めること。

勅。大宰府佰姓家有藏白鑞。先加禁斷。然不遵奉。隱藏賣買。是以。鑄錢惡黨。多肆姦詐。連及之徒。陷罪不少。宜嚴加禁制。無更使然。若有白鑞。搜求納於官司。

ここでいう「白鑞」(しろなまり)とは、「錫」(すず)のこととみられます。
文武天皇2年(698)7月17日条(伊予国が白鑞を献上)で詳しく解説しています。

いづみ
いづみ

和同開珎の主要な成分になっているんでしたね。
だから偽金づくりを防止するために百姓がひそかに白鑞を持つことを禁じていたと。



未修了の学生を国博士や医師に任命することを禁じる

5月22日(丁酉ひのととり) 次のように制定した。大学寮、典薬寮の学生がくしょうたちは、その学業が未達成であるにもかかわらず、みだりに薦挙せんきょ(人を推薦して役職に就かせること。推挙)を求めている。このような者を、今後は国博士くにのはかせ及び国医師くにのいしに補任ぶにん(官職に任ずること)してはならない。

制。大學典藥生等。業未成立。妄求薦擧。如是之徒。自今以去。不得補任國博士及醫師。

大学寮・典薬寮の学生

大学寮:式部省に属し、官人の養成を担当した中央の教育機関。
典薬寮:宮内省に属し、医療・医薬を担当するとともに、国医師などを養成した機関。典薬寮で医学を学ぶ者は「医生」と呼ばれました。

国博士・国医師

国博士:諸国の国学で学生に儒学などを教授、指導する(考課令第68【国博士条】、学令第9【分経教授条】)
国医師:諸国で医生を教育し、医療にも従事する(医疾令第18【国医師条】、医疾令第26【医針師巡患家条】)

令規定では、原則として各国に国博士・国医師が1人ずつ置かれました(以下養老令から引用して要約)。

職員令第80【国博士医師条】
 国博士と国医師は、国ごとに一人を置く。その学生は、大国50人、上国40人、中国30人、下国20人。医生は学生の五分の四(80%)を減じた人数とする。

選叙令第27【国博士条】
 国博士と国医師は、その国内から任用せよ。もし適任者がいなければ、傍国から採用することができる。任用後は正当な理由なく解任してはならない。

適任者が見つからなかった

しかし、国内や傍国からは国博士や国医師の適任者は容易に見つからず、大宝3年(703)3月16日には、大学寮の学生を国博士に任用することが認められていました。

和銅元年(708)4月11日条には「諸国の国博士と国医師で朝廷から派遣されて任じられている者は」という文言も見えます。

ところが、今回の霊亀2年5月記事を見ると、学業を十分に修めていない学生まで、国博士や国医師への任用を求めていたことがうかがえます。
つまり、地方の人材不足を補うための制度が、未熟な学生の任官にも利用されるようになっていた実態があったようです。

いづみ
いづみ

国にたった一人の医師さえ十分に選べない時代だった、というわけですね…。



僧綱及び和泉監に印を交付する

5月28日(癸卯みずのとう) 僧綱そうごう(僧尼を統率する国の機関。また、諸寺院を監督する僧官)及び和泉監いずみのげんに印を交付した。

充僧綱及和泉監印。

僧綱と、4月19日に河内国から分割して新たに設置された「和泉監」に公印が交付されました。
また、5月15日には寺院の統合と財産管理を命じる詔が出されており、その13日後に僧綱へ印が交付されたのは関連をうかがわせます。



弓5,374張を大宰府に充当する

(続き)

 弓5,374張を大宰府に充当した。

弓五千三百七十四張充大宰府。

大宝2年(702)2月と3月にも、弓を大宰府に充てた記事があります。

  • 甲斐国から献上された梓弓500張(2月22日条)
  • 信濃国から献上された梓弓1,020張(3月27日条)

今回も同様に、大宰府の軍事力を維持するための弓の配分だったと考えられます。

いづみ
いづみ

それにしても5,374張とは、過去と比べても最大規模の数量ですね。

みちのく
みちのく

あまり数が多いと何かが始まるのではと身構えてしまいますね。



次回の記事

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