【現代語訳】続日本紀 文武天皇3年⑤ 10月〜12月 義淵法師に稲一万束を施す

巻1(文武天皇元年8月〜4年12月)
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
稲を一万束ももらったら、どこに置いたらいいんですかね?

いづみ
いづみ

それより先に倉をください。




文武天皇3年(己亥・西暦699年)現代語訳・解説 10月〜12月

詔(越智・山科山陵の修造に先立ち赦を下す)

冬 10月13日(甲午きのえうま) 詔により、天下の罪人を赦した。ただし、十悪(特に重大な10種の罪)および強盗・窃盗については、この赦に入れなかった。越智おち・山科の二箇所の山陵(天皇の墓)を修造するためである。

詔赦天下有罪者。但十惡強竊二盜不在赦限。爲欲營造越智。山科二山陵也。
いづみ
いづみ

越智山陵は斉明天皇の陵、山科山陵は天智天皇の陵ですね。

原文には「造営」とありますが、斉明・天智両天皇はいずれも数十年前にすでに亡くなっているため、陵そのものはあるはずです。なので、ここでいうところの「造営」とは新たに造るという意味ではなく、改修、修造、修繕といった意味で取るのが自然でしょう。

みちのく
みちのく

実際にこの後の10月20日条原文には「修造」と出てきます。

山陵の修造に先立つ「赦」

いづみ
いづみ

陵を修造するために事前に罪人を赦したとはっきり書いてありますが…これらの関連性って何なのでしょう?
修造とはいえ、先帝の陵に手を加え、必要であれば一部破壊などもあるわけですから、やはり「恐れ多い」行為ですよね。だから事前に天下の罪人を許して「徳を積んだ」状態にしておいたということでしょうか。

みちのく
みちのく

その考察はけっこういい線を行っていると思います。
山陵の修造という重大な国家事業に先立って、天下に恩徳を施す意味があったのでしょう。古代においては罪人への「赦」はそれ自体が宗教的な意味を持つもので、天皇の偉大な「恩徳」を天下に示し、神仏からの加護を受けることを期待したものと言えます。

いづみ
いづみ

先帝の山陵修繕という国家事業そのものが何事もなく上手くいくようにという「祈り」の意味もあったのかもしれないですね。当時の「祈り」は今よりもずっと実務に強く関わってくるものでしょうし。

なぜ修造を行なったのか

このタイミングで二箇所の山陵の修造が行われた理由を考えてみます。
もちろん単純に、山陵が経年や災害などの理由で傷んでいたからという理由も考えられます。

しかし、天智天皇も斉明天皇も、当時の文武天皇以来の皇統に連なる偉大な存在でした。

みちのく
みちのく

天智天皇は天武天皇の兄、持統上皇の父。
斉明天皇は天智・天武両天皇の母です。

いづみ
いづみ

文武天皇から見れば、天智天皇は大伯父に当たるわけですね。
それにしても複雑な系図です。

文武天皇は現時点でまだ治世3年目。
しかも、当時としては類例のない15歳という若年での即位でした。

そのため、この即位が建前はともかくとして、朝廷全体の「賛意」でもって迎えられたとは限りません。今回の先帝の山陵修造は、単なる補修工事以上に、文武天皇が自らの正統性を示す象徴事業でもあったのではないでしょうか。

みちのく
みちのく

文武天皇は、新羅からの貢物を天武陵に奉納したり(文武2年正月19日条)、壬申の乱で功績のある旧臣を顕彰したり(文武3年5月8日条など)といった、先人をたてまつり、引き上げる動きがしばしば見られます。




越智・山科山陵の修造

10月20日(辛丑かのとうし) 浄広肆(従五位下に相当)衣縫王、直大壱(正四位上に相当)当麻真人国見、直広参(正五位下に相当)土師はじ宿禰根麻呂、直大肆(従五位上に相当)田中朝臣法麻呂、判官ほうがん4人、主典さかん2人、大工2人を越智山陵に遣わした。
 また、浄広肆大石王、直大弍(従四位上に相当)粟田あわた朝臣真人、直広参土師宿禰馬手、直広肆(従五位下に相当)小治田朝臣当麻、判官4人、主典2人、大工2人を山科山陵に遣わした。
 いずれも仕事を分担して修造を行わせた。

遣淨廣肆衣縫王。直大壹當麻眞人國見。直廣參土師宿祢根麻呂。直大肆田中朝臣法麻呂。判官四人。主典二人。大工二人於越智山陵。
淨廣肆大石王。直大貳粟田朝臣眞人。直廣參土師宿祢馬手。直廣肆小治田朝臣當麻。判官四人。主典二人。大工二人於山科山陵。
並分功修造焉。

これは10月13日条とひと続きの内容です。
越智山陵(斉明天皇陵)と山科山陵(天智天皇陵)の修造が始まりました。

人員はいずれも筆頭に王、次点に高位の有力貴族、その次に土師氏の人物を充てています。
特に土師氏の配置は目を引き、古くから殯・葬送などに深く関与した氏族で、律令制成立後も、従来の葬送儀礼を担う役割を保持していたとされています。

いづみ
いづみ

『日本書紀』を見ると、土師氏は古墳に配置される埴輪とも関わりが深いですね。
そう考えるとこの人選はまさに土師氏本来の職掌に直結しています。




巡察使の派遣

視察

10月27日(戊申つちのえさる) 巡察使を諸国に派遣して、非違(違法、不正)を検察させた。

遣巡察使于諸國。檢察非違。
みちのく
みちのく

巡察使は同年3月27日にも発遣されていて、今回はそれからちょうど7ヶ月後のことですね。

いづみ
いづみ

7ヶ月ごとに定期で巡察使を送ることになってたんですかね?

みちのく
みちのく

後の養老令では巡察使は「臨時で」派遣することとなっているので、定期で送る方針があったかまでは分かりません。それに、3月は畿内が対象になっていることから今回の「諸国」とは違っています。

ただし、この二度の派遣について研究では、3月は耕作準備の時期、10月は収穫・納税の時期であるため、農政・徴税との関係も考えられるとの指摘があります。ただし派遣目的については不明な点が多いとされています。

なお、和銅5年(712)5月17日では初めて、「今より以後、毎年巡察使を遣わす」とあり、定期で発遣することが決められました。



日蝕

11月1日(辛亥かのとい) 日蝕があった。

日有蝕之。

日蝕と律令制の関係については、文武天皇2年(698)7月1日条をご覧ください。

この時の日蝕は、日本からは観測できなかったと思われます。
NASAによると種類は金環日食で、最大食の地点はアフリカ南部、時間は日本時間で19:29ごろのため、藤原京は完全に夜です。

そのため、暦の計算上で割り出した日にちを以って「日蝕があった」としているのでしょう。




国覓使が南島から戻ってくる

11月4日(甲寅きのえとら) 文忌寸博士ふみのいみきはかせ・刑部真木おさかべのまきたちが南嶋から帰ってきた。各自に差をつけて位を進めた。

文忌寸博士。刑部眞木等自南嶋至。進位各有差。

前年(698)4月13日に多褹・夜久・奄美・度感などの南島で、人の住む土地を探させる「国覓使」として派遣された使者たちが、およそ1年半ぶりに帰還してきました。

いづみ
いづみ

南島人の来朝より使者たちの帰還の方が後だったということですね。

表 南島国覓使の活動時系列

年月日出来事意味・つながり
持統9年(695)3月23日文忌寸博勢(=文忌寸博士とみられる)を多禰へ派遣国覓使派遣の前史
文武2年(698)4月13日務広弐・文忌寸博士ら8人を南嶋へ派遣。「国を覓もとめ」させ、戎器を支給南島探索の本格的開始
文武3年(699)7月19日多褹・夜久・奄美・度感の人々が朝宰に従って来朝し、土地の産物を献上。叙位・賜物あり国覓使の活動の具体的成果。
同年8月8日南嶋から献上された物を伊勢大神宮・諸社へ奉る南島の献上品が、そのまま朝廷内部で消費されるのではなく、神々への奉献物として扱われる。
同年7月下旬~10月ごろ?刑部真木ら国覓使が南九州で襲撃・略奪を受けた可能性文武4年6月の記事から逆算した推定時期
同年11月4日文忌寸博士・刑部真木らが南嶋から帰還。功績に応じて昇叙今回の記事
文武4年(700)6月3日刑部真木らへの襲撃事件について、竺志惣領に処罰を命じる前年11月には真木らが帰京済みなので、当サイトでは「6月3日は襲撃発生日ではなく、事件を処罰した日」と推定




木心乾漆義淵僧正坐像(奈良時代の作、岡寺所蔵、国宝)

11月29日(己卯つちのとう) 義淵ぎえん法師に稲1万束を施捨(物を人に施すこと)した。学行(学問と仏道の修行)を褒めてのことである。

施義淵法師稻一万束。襃學行也。

とてつもない量の稲を贈られた

「稲1万束」と言われても規模感が分かりづらいですが、この物量は桁違いに多いです。

古代には、おおむね5歩の田から得られる稲を1束とする基準がありました。
すると1万束は、50,000歩の収穫に相当します。

これは面積感で言うと、およそ16~17ヘクタール程度の田から得られる稲に相当します。

みちのく
みちのく

16~17ヘクタールは、具体的には東京ドーム約3.4~3.6個分くらいの面積です。

いづみ
いづみ

ただ「修行をがんばったから賞として稲あげます」みたいなノリではなさそうですね…。

法相宗「開祖」 天皇の信頼厚く、奈良朝仏教興隆の中心人物だった

義淵は今回の「稲一万束」からわずか4年後の大宝3年(703)3月24日には僧正(僧尼を統制する「僧綱」の最高位)に就任します。
さらに神亀4年(727)の聖武天皇の詔は義淵を評価して、「仏法を深く修めて『僧中の棟梁』となり、教えを広く弘めた」ことに加え、先帝の御代以来、「内裏に仕えて過失がなかった」としています。

義淵は日本における法相宗の実質的な「開祖」とされており、この宗派は奈良時代を通じて最も盛んでした。

みちのく
みちのく

法相宗は、人間の心(「識」という)が世界をどう認識するかを詳しく説き、迷いの仕組みと悟りへの道を探る仏教の一派です。今の心理学と似ており、人は物事を目ではなく心を通して見ており、同じ物事でも人により見え方が変わると教えます。
だから修行としては、「心の中の悪い癖を少しずつ変えて、ものの見方そのものを正していくこと」になりますね。

義淵の弟子には有名な、
良弁(東大寺建立の中心人物)
玄昉(吉備真備とともに聖武天皇のもとで政権運営に携わる)
行基(民衆を施し、社会の公共事業を推進。史上初めて大僧正に昇る)
がおり、またその中には
奈良時代後期に政権中枢に深く関わり、僧侶でありながら太政大臣となり、さらに法皇となって国を揺るがした道鏡もいました。

などがおり、奈良時代で名をあげることになる数々の僧の「先生」のような立場でした。

いづみ
いづみ

「稲一万束」のエピソードもなるほど確かに…という気になってきました!

伝説的な出生譚

後世の歴史書『扶桑略記』などでは、子のない夫婦が観音に祈ったところ、柴垣の上に白布に包まれた赤子が現れ、芳香が辺りに満ち、その子が義淵だったとされます。
さらに天智天皇がこれを聞き、皇子とともにその子を養育したともいいます。後世にはその皇子は草壁皇子(天武・持統天皇の皇太子で、文武天皇の父)とする伝承もあります。

みちのく
みちのく

この話のどこまでが史実かはともかく、こういった出生譚が後世に生まれること自体、義淵という僧侶が尋常ではなかったことが伝わります。

また義淵には、飛鳥の人々を苦しめていた毒蛇(悪龍)を法力によって池に封じ、大岩で蓋をすることで鎮めたという伝承があり、これが義淵創建と伝えられる「岡寺」の正式名「龍蓋寺」の由来とされています。

いづみ
いづみ

強そうなので鬼神を使役する役小角とバトルしていただきたいですね。




薨去(大江皇女)

12月3日(癸未みずのとひつじ) 浄広弍じょうこうに(正四位下に相当)大江皇女が薨こうじ(親王または三位以上が亡くなること)た。王臣・百官らに命じて葬儀に参列させた。天智天皇の皇女である。

淨廣貳大江皇女薨。令王臣百官人等會葬。天智天皇之皇女也。

大江皇女は天智天皇の皇女であり、天武天皇の妃として長親王と弓削皇子を生みました。

相次ぐ皇族の死去

大江皇女の子の弓削皇子は同年7月21日に薨去しています。

いづみ
いづみ

息子さんが先に亡くなってしまったのですね。

また、9月25日には同じく天智天皇皇女・天武天皇妃だった新田部皇女も薨去しています。
つまり文武天皇3年は後半だけで、

7月 弓削皇子
9月 新田部皇女
12月 大江皇女

3人もの皇子皇女が亡くなっていることになります。
王・女王も、
正月 坂合部女王
6月 日向王・春日王
この3名が亡くなっており、文武3年全体として見ても皇族の死去が多い年でした。




三野城・稲積城の修理

12月4日(甲申きのえさる) 大宰府に命じて、三野みの・稲積いなつみの二城を修理させた。

令大宰府修三野。稻積二城。

この三野城・稲積城の現在の所在地は明らかになっていません。

大きく北部九州説と南九州説があり、
南九州説では、三野城を日向国児湯郡三納郷(現在の宮崎県西都市周辺)、稲積城をのちの大隅国桑原郡稲積郷付近に比定します。

みちのく
みちのく

大宰府が修理を命じられていること、そして当時の南九州への進出との関係から、隼人対策の城だった可能性も指摘されています。

実際に、大宝2年(702)8月1日には「多褹(種子島周辺)が皇化を遠ざけ国家の命令に背いた」とあり、兵をもって征討したとあります。

さらに、和銅6年(713)4月3日には日向国から大隅国が分立し、その過程で隼人と見られる勢力との衝突も起きていたようです、その翌年の和銅7年(714)3月15日条で朝廷は「隼人は愚かで荒々しく、その野心は未だ憲法(基本となる決まり)に馴染んでいない」と評価しています。

いづみ
いづみ

なるほど、北部九州説であれば他の大野城などと同じように主に半島・大陸を想定したもの、南九州説であれば隼人を想定したものと見ることができそうですね。




鋳銭司を設置

12月20日(庚子かのえね) 初めて鋳銭司じゅせんしを設置した。直大肆(従五位上に相当)中臣朝臣意美麻呂おみまろを長官に任じた。

始置鑄錢司。以直大肆中臣朝臣意美麻呂爲長官。

「初めて鋳銭司を置く」とあるものの、実はこれは史料上最初の「鋳銭司」ではありません。

『日本書紀』持統8年(694)3月2日条には、すでに大宅朝臣麻呂・台忌寸八嶋・黄書連本実らを「鋳銭司に任じた」という記事があります。

みちのく
みちのく

したがって今回の「初めて鋳銭司を設置した」を、日本で初めて貨幣鋳造の役所が誕生した、とそのまま理解するのは難しいです。すでにあった組織を再編したり、常設化したりなどした可能性を考える必要がありそうです。

富本銭を鋳造していたか

鋳銭司は、文字通り貨幣の鋳造を担う官司です。ただし、鋳造工房だけではなく、原料・技術者・鋳造工程など政府の貨幣製造事業そのものを統括した機関と考えられます。

いづみ
いづみ

長官に中臣意美麻呂さんが任命されていることからもそれは分かります。

日本で初めて本格的な流通を目指したのは「和同開珎」ですが、これの鋳造が行われるようになるのはまだしばらく先(和銅元年(708)ごろ)の話です。なので、この時点で鋳造されていたのはおそらく「富本銭」ではないでしょうか。

奈良県の飛鳥池遺跡からは、完成品だけでなく鋳造に関わる遺物が大量に出土しており、7世紀後半にそこで富本銭が実際に鋳造されていたことが判明しています。

みちのく
みちのく

ただし富本銭が現実にどの程度流通していたのかについてはよくわかっていません。

中臣意美麻呂と藤原不比等

長官に任じられた中臣意美麻呂は、藤原不比等の近親(はとこ同士)です。
前年まで、藤原氏を名乗っていましたが、文武2年(698)8月19日詔により、中臣氏本来の職掌として神事に従事していたことを理由に、藤原から中臣に復姓することとなりました




次回の記事 文武天皇4年 正月〜2月

工事中

コメント

タイトルとURLをコピーしました