【現代語訳】続日本紀 文武天皇4年③ 覓国使、襲撃さる!

巻1(文武天皇元年8月〜4年12月)
いづみ
いづみ

こんにちは、いづみです♨️
覓国使とは…また見慣れない単語が出てきましたね。しかも事件とは…?

みちのく
みちのく

覓国使は「くにをもとむるつかい」または「くにまぎし」と読みます。
「覓」の字義は「求」に通じます。どんな事件かさっそく見ていきましょう!



文武天皇4年(庚子・西暦700年)解説・現代語訳 6月

覓国使、襲撃さる

6月3日(庚辰かのえたつ) 薩末さつまの、比売ひめ久売くめ波豆はつと、衣評督えのこおりのかみ(評の長官)衣君県えのきみあがた助督すけ(次官)の衣君弖自美てじみ、そして肝衝難波きもつきのなにわ(後の肥前国・肥後国の範囲)の人々を従え、武器を持ち、覓国使くにをもとむるつかい刑部真木おさかべのまきたちを脅して物を奪った。
 ここにおいて、竺志総領ちくしのそうりょう(大宰帥の前身)に勅を下し、罪として罰した。

薩末比賣。久賣。波豆。衣評督衣君縣。助督衣君弖自美。又肝衝難波。從肥人等持兵。剽劫覓國使刑部眞木等。
於是勅竺志惣領。准犯决罸。

 薩末で事件が発生しました。覓国使という中央から派遣されてきた使者たちが、武装した現地の勢力により物を奪われたという内容です。
 薩末は後の薩摩国(現在の鹿児島県の西半部)ですが、当時はまだ国家中央の影響が及んでおらず1国として成立していませんでした。国成立は大宝2年(702)8月1日(甲申)の反乱鎮圧を待たなければなりません。

いづみ
いづみ

強奪事件とは不穏ですね。単に物を奪う略奪目的というよりは、中央支配への抵抗のように思えます。

みちのく
みちのく

この記事は色んな論点で読み解きのしがいがあります!

0. これまでの流れ

 覓国使は、さかのぼること2年前の文武天皇2年(698)4月13日(壬寅)に派遣された「南の島を探索するための使者」です。この時、文忌寸博士ふみのいみきはかせを筆頭に8人が「戎具じゅうぐ(武器・兵器)」を支給された上で、多褹たね夜久やく奄美あまみ度感とくなどの島々をめぐりました。

 そして翌年の文武天皇3年(699)7月19日(辛未かのとひつじに、南島の民が「朝宰ちょうさい」つまり国の役人に従って藤原京に入り、土地の産物を献上しました。その後、同年11月4日(甲寅きのえとらに覓国使が南島から帰着し、朝廷から叙位を受けました。

みちのく
みちのく

ーーというのが、これまでの流れです。

いづみ
いづみ

おかしくないですか?覓国使は既に京に戻ってるはずなのになぜ現地でそんな事件が起きるのですか?時系列に矛盾がありますよ。

みちのく
みちのく

鋭いですね!
おそらく今回の記事は、襲撃を受けた日ではなく、襲撃を「犯罪として罰した日」を示しているのではないかと思います。

いづみ
いづみ

なるほど!記事でも「ここにおいて」とありますからね💡

その上で時系列を整理すると以下になります。
実際に事件が起きたのはおそらく文武天皇3年7月下旬〜10月中のことと思われます。

時期出来事
文武2年(698)4月13日文忌寸博士ら8人を南島へ派遣。武器を支給
文武3年(699)7月19日南島の人々が「朝宰」に従って来朝・方物献上
文武3年7月下旬〜10月中?刑部真木ら覓国使の一部が南九州方面で襲撃を受けた可能性
文武3年11月4日文忌寸博士・刑部真木らが南島から帰着し、昇叙
文武4年(700)6月3日(今回の記事)朝廷が竺志惣領に勅し、襲撃者を処罰させる



1. 覓国使とは

 覓国使(くにをもとむるつかい)とは前述しましたが、「国を求むる」つまり、南島・南九州方面の探索、つまり国家領域の把握に関わる使者です。国覓使とも書き、「くにまぎ」とも読まれ、「覓」の字義は「求」と同じです。

2. 薩末の比売、久売、波豆 これらは人名か

 初めに列挙されている3つの名前は地名ではなく、在地の有力者・豪族・首長などを示した人名だと思われます。注目すべきは「比売」で、これは明らかに女性名です。

いづみ
いづみ

当時に女性の指導者がいたということですか?それは意外です。

みちのく
みちのく

それがですね、『日本書紀』では女性首長の名が見える例もあり、この時代の南九州であれば女性の指導者がいることは、実はそれほど不思議なことではないのです。

 「売」は「め」と読み女性を表す語ですが、久売に関しては「久米」とも書けそうなので、こちらは男女は不明です。
 また、現代語訳においては「薩末の」とし、あくまで「薩末にいる人」という意味に訳しましたが、この薩末は氏表記の可能性もあり、「薩末比売」「薩末久売」「薩末波豆」と整理している霧島市の資料もあります(隼人の抵抗1300年記念シンポジウム 資料集)。

もちろんフィクションです。

3. 衣評の「評」は後の「郡」

 評(ひょう・こおり)は、大宝元年(701)の律令施行後における「郡」と同じものです。700年当時は行政単位として「評」が用いられていました。
 これは1950年代から60年代におきた、日本古代史学における「郡評論争」にかかわるものであり、大宝以前は「郡」だったのか「評」だったのかで意見が分かれ決着がついていませんでした。決め手となったのが60年代末の藤原宮木簡出土で、木簡に「己亥年つちのといのとし十月上捄国阿波評あわのこおり松里」と書かれており、己亥年は699年にあたるため、1次史料により、大宝以前は郡ではなく評であることが明らかにされました。

みちのく
みちのく

なので、今回見ている文武4年(700)の「衣評」は、まさにこの理解と合います。700年はまだ大宝律令施行直前なので、「郡」ではなく「評」と出るのが制度史的に正しいわけですね。

なお、評督(こおりのかみ)は評の長官、助督(すけ)は次官です。

いづみ
いづみ

「衣評督の衣君県と助督の衣君弖自美」は「衣という評の長官の衣君県さん」と「同じく次官の衣君弖自美さん」という意味ですね。慣れないとちょっと読みにくいですね。



4. 衣評の位置

 衣評は、現在の地名で言うと、鹿児島県南九州市頴娃町えいちょうを中心に、指宿市開聞町いぶすきしかいもんちょう方面まで含む薩摩半島南端部あたりであるとされています。

 大宝律令後は衣評は、頴娃郡に名前が変わります。

いづみ
いづみ

字面は全然違いますが、「衣(え)」から「頴娃(えい)」ですから音は通じてますね。

みちのく
みちのく

この、薩摩南端部の現地有力者が「肥の人々」を従えて朝廷の使者を襲ったというわけですね。

いづみ
いづみ

肥ということは、今の熊本・長崎・佐賀のあたりだと思いますが、これだと薩摩半島南端部とは位置が結構ズレますね。

みちのく
みちのく

そうですね、でも「肥の人々」とは言っても、それは「そのとき南九州に居た肥の人たち」なのかもしれません。推測ですが、今回の事件は後の肥前・肥後の地域まで巻き込んだ大反乱という規模ではないと思います。

5. 「准犯決罰」の重み

 というのは、罪に対する朝廷の措置にあまり重みが感じられないからです。

 記事原文の末尾に「准犯決罰」(犯罪に準じて罰を決した)とあるように、朝廷は竺志惣領(九州を管下に置いた国家組織の長で、大宰帥の前身)に命じ、罪状に応じて処罰させています。これは軍を発して征討する段階ではなく、犯罪として裁く段階の措置であったとみられます。ただし、具体的にどのような罰が、どのくらいの人数に下されたのかは不明です。

みちのく
みちのく

大宝2年の時の反乱では、「隔化逆命」(朝廷の支配を遠ざけ命令に逆らった)とし、征討が行われました。今回の処分とは明らかに重みが違います。

いづみ
いづみ

そもそも使者は8人しかいなかったんですよね。これなら大規模になりようがないですよ。

みちのく
みちのく

それは確かにその通りです。

 ただし、覓国使という国家の使者が武装集団に襲撃され、しかも衣評督・助督、その他在地首長層が関与していた点で、単なる盗賊事件とも言えません。中央国家による南九州・南島方面の把握に対する、局地的ながら政治性の強い武装抵抗であったと考えられます。

6. 肝衝難波は大隅半島側の有力者か

 徒党の一員である肝衝難波きもつきのなにわですが、こちらは氏の「きもつき」からして、今の鹿児島県肝属郡肝付町きもつきぐんきもつきちょうの辺りに根を張った有力者だったのではないでしょうか。

いづみ
いづみ

鹿児島県の東半部、大隅半島ですね!
そうだとすれば、薩摩半島と大隅半島の、鹿児島県の両南端での出来事ということになりますね。

みちのく
みちのく

そう考えると面白くて、薩摩南端、大隅南端、そして肥の人。
これらの人が互いに徒党を組んで行動を起こすだけネットワークと共同体的な意識があることが伝わってきます。

7. 彼らはおそらく「隼人」

 ここでは名称こそ出てきませんが、薩摩や大隅に居住する民ということは、事件の中心は「隼人」ではないでしょうか。隼人は当時の九州南部や種子島、屋久島などに土着していた人々で、朝廷への帰属が遅れた影響で異民族として扱われ、しばしば統治をめぐって争いがありました。

 実際『続日本紀』にも後に以下の記事で隼人の反乱と征討記事が現れます。

大宝2年(702)8月1日(甲申) 多褹(種子島)の隼人が反乱し、征討軍が組織され鎮圧される。
養老4年(720)2月29日 大隅国(鹿児島県東半部)の隼人が反乱し、6月17日に鎮圧される。



勅(大宝律令の撰者たちに禄を給う)

6月17日(甲午きのえうま) 浄大参刑部親王じょうだいさんおさかべしんのう直広壱じきこういち藤原朝臣不比等、直大弐粟田朝臣真人じきだいにあわたのあそんまひと直広参下毛野朝臣古麻呂じきこうさんしもつけぬのあそんこまろ直広肆伊岐連博得じきこうしいきのむらじはかとこ、直広肆伊余部連馬養いよべのむらじうまかい勤大壱薩弘恪ごんだいいちさつこうかく勤広参土師部宿禰甥ごんこうさんはじべのすくねおい勤大肆坂合部宿禰唐ごんだいしさかいべのすくねもろこし務大壱白猪史骨むだいいちしらいのふひとほね追大壱黄文連備ついだいいちきふみのむらじそなう田邊史百枝たなべのふひとももえ道君首名みちのきみおびとな狭井宿禰尺麻呂さいのすくねさかまろ追大壱鍜造大角ついだいいちかぬちのみやつこおおすみ進大壱額田部連林しんだいいちぬかたべのむらじはやし進大弍田邊史首名しんだいにたなべのふひとおびとな・山口伊美伎いみき大麻呂、直広肆調つき伊美伎老人おきならに勅を下し、律令の撰定にあたった者たちにそれぞれ差をつけて禄(給与)を賜った。

勅淨大參刑部親王。直廣壹藤原朝臣不比等。直大貳粟田朝臣眞人。直廣參下毛野朝臣古麻呂。直廣肆伊岐連博得。直廣肆伊余部連馬養。勤大壹薩弘恪。勤廣參土部宿祢甥。勤大肆坂合部宿祢唐。務大壹白猪史骨。追大壹黄文連備。田邊史百枝。道君首名。狹井宿祢尺麻呂。追大壹鍜造大角。進大壹額田部連林。進大貳田邊史首名。山口伊美伎大麻呂。直廣肆調伊美伎老人等。撰定律令。賜祿各有差。

大宝律令、ほぼ完成する

 大宝律令が撰定されました。撰定というのは、「ほぼ完成」だと見て良いでしょう。
というのも、3ヶ月前の3月15日(甲子きのえね)条ではすでに「令」を王臣たちに読み習わせる段階にあり、ほぼ完成状態にあったことが分かります。ただし「律」については少し遅れていたようです。

いづみ
いづみ

「律」はまだ完成ではなかったものの、「令」は完成したとして、撰者たちへの功賞を先行で行ったような感じですかね?

撰者たち

 筆頭者の刑部親王(忍壁親王とも)は、天武天皇の皇子で律令撰集の首席。そして藤原不比等(鎌足の子)を次席に据え、総勢19名のメンバーに完成の功として特別ボーナスを支給したという記事です。

遣唐使経験者、後に遣唐使となる者

 伊岐連博得いきのむらじはかとこ(伊吉博徳とも表記)は遣唐使として律令を学んだ経験があり、粟田朝臣真人あわたのあそんまひとは後に遣唐使の責任者として唐に渡ります。土師部宿禰甥はじべのすくねおいも入唐経験者です。

みちのく
みちのく

この時の編纂経験が後の遣唐使の仕事に活きたのではないでしょうか。

実務官人、知識層

 下毛野朝臣古麻呂しもつけぬのあそんこまろは下野国(栃木県)に本拠を置いた豪族です。律令撰定においても19人中4番目に名前が書かれていることからも分かるように、官人として高い能力を持ち、遠い東国に出自を持つ人物としては異例の出世を遂げた人物です。

 田辺史百枝たなべのふひとももえ、田辺史首名おびとな白猪史骨しらいのふひとほねなど、「史」のカバネを持つ氏族は、文筆・記録・漢文実務に長じた氏族が多いです。また、田辺史氏は、藤原不比等の養育に関わった田辺史大隅の伝承でも知られ、不比等との関係が指摘される氏族である。

いづみ
いづみ

確かに、不比等の読みは「史」から来てそうですよね。

 伊余部馬養いよべのうまかいは、書物編集の専門家であり、後世の浦島太郎につながる「浦島子伝承」を記録・文学化した人物とされます。『懐風藻』という漢詩集に漢詩を残すなど、知識人であったことが分かります。

 道君首名みちのきみおびとなは、後に「若くして律令を治め、吏職に暁習(熟知)す」と評される人物で、律令と行政実務に通じた官人でした。

 鍜造大角かぬちのみやつこおおすみは、「かぬち」という字から金属加工関係の技術者とみられ、幅広い層から律令撰定メンバーを選んでいたことがうかがえます。

渡来系

 薩弘恪さつこうかくは唐から来た人物で、音博士として漢文の読みを教えた学者です。

みちのく
みちのく

このように、律令撰定には皇族と藤原不比等だけでなく、遣唐使経験者、渡来系学者、文筆実務に長じた史姓の氏族、地方出身の有能官人など、多様な人材が関わっていました。大宝律令は、単に上層貴族だけで作られたものではなく、当時の知識と実務能力を集めて編纂された国家制度だったといえます。

いづみ
いづみ

大化の改新以来の国家の一大プロジェクトが形になりつつあるというわけですね✨




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