
こんにちは、いづみです♨️
「不比等」とは、中臣鎌足改め藤原鎌足さんのお子様のことですね。

今回の「特権」は、後世から見た場合、歴史的意義としてとても重要な内容となっています。
文武天皇2年(戊戌・西暦698年)現代語訳・解説 8月〜9月
詔(「藤原朝臣」の姓は不比等が継承する)
8月19日(丙午) 次のように詔した。「藤原朝臣(鎌足)に賜わった姓は、その子である不比等が継承すること。ただし、意美麻呂たちは神事に奉仕する者であるから、旧姓(中臣)に復すること」
詔曰。藤原朝臣所賜之姓。宜令其子不比等承之。但意美麻呂等者。縁供神事。宜復舊姓焉。

これはかなり重要な記事ですね!
つまり、藤原氏を名乗ることができるのは藤原鎌足の子のうち不比等さんだけになったということですね。
藤原氏の始まり 中臣鎌足→藤原鎌足

『日本書紀』によると「藤原」という氏の始まりは、天智天皇8年(669)10月15日、中臣鎌足が臨終の際に天皇から賜ったものでした。

この辺りは日本史の授業でも習う部分ですし、中臣鎌足さんは歴史上の人物として知名度もかなり高い人ですね。
鎌足の子のうち存命の男子は不比等のみ
記録上確認できる鎌足の男子は、不比等とその兄である定恵(じょうえ、じょうけい)だけでした。
定恵はその名が示す通り出家しており、唐へ渡り、帰国後まもなく天智天皇4年(665)に没したとされます。

なので、天智天皇から藤原氏を賜った時には、定恵はすでに亡くなっており、鎌足の男子は不比等だけとなっていました。
ほか、鎌足の女子は
氷上娘(天武天皇夫人、但馬皇女の母)
五百重娘(天武天皇夫人、新田部皇子の母)
大友皇子に嫁いだ娘
斗売娘(意美麻呂の妻とされる娘)
などがいました。
ただし、女性の場合、その子供の氏姓はふつう父親に帰属するため、藤原姓は一代限りということになります。

そうなると、文武2年の詔「藤原姓を名乗る権利」は、さらに後代への継承ということを考えると、実質的には不比等さんしか得ていないとも言えますね。
不比等と意美麻呂は、いとこ同士

ところがですね、この文武2年詔を読むと分かる通り、「意美麻呂」という人物も藤原姓を名乗っていたことが分かるのです。
「意美麻呂たちは旧姓に復すること」とあるように、これまで不比等以外の中臣氏の一族も藤原姓を名乗っていたようです。

「藤原意美麻呂」改め「中臣意美麻呂」さんですか、一体何者だったのでしょう?
中臣意美麻呂は、中臣国足の子で、国足は鎌足の兄弟です。つまり、不比等と意美麻呂はいとこ同士ということになります。

つまり、藤原氏を天智天皇から直接賜ったのは史料上では鎌足だけですが、実際にはその兄弟も藤原を名乗っていたようです。
中臣氏は支族が多く、実態としては、さらに広い範囲の中臣氏が「藤原」を名乗っていた可能性も考えられます。
意美麻呂は、神事に奉仕することを以って「中臣氏」に復する
『続日本紀』の文武2年詔で語られる復姓の理由は、「意美麻呂たちは神事に奉仕しているから」です。
これは最もわかりやすく、中臣氏は本来神事を職掌とした氏族であるため、意美麻呂たちは「政治を司る藤原から分離」とされたのです。

かなり「本音と建前」の建前が前に出ている気がしますが…

それはその通りで、功臣である父・鎌足が授かった「藤原氏」は大変な名誉であり、これを自身とその子供たちだけで独占しようとする意図があったのではないかともされています。

後の「藤原氏の隆盛」という歴史を知っている私たちから見ると、この詔は本当に大きな出来事ですね。奈良・平安時代に巨大化する藤原氏は、事実上ここで「不比等の子孫」として一本化されたことになるわけですから。
高安城の修理
8月20日(丁未) 高安城を修理した【天智天皇5年(666)に築城したものである】。
修理高安城。〈天智天皇五年築城也。〉
高安城は、大和と河内の境にある高安山周辺に築かれた古代山城です。
なお、「天智天皇5年に築城」とありますが、『日本書紀』には「天智天皇6年」とあり、ズレがあります。
「古代山城」については、同年5月25日にも登場しており、「大宰府に、大野・基肄・鞠智の三城を繕治(補修、修繕)させた」と見えます。
そのため、高安城修理は、これら山城を一斉に点検・再整備している流れの一環と見るのがよさそうです。

天智天皇5年は、「白村江の戦い」の3年後。
高安城もまた、大宰府の三城と同じく、唐や新羅からの侵攻を想定して造られたものでしょう。
また、翌年(699)9月15日には再び高安城を修理したという記事が見えます。
朝儀の礼の制定
8月26日(癸丑) 朝儀の礼を定めた。その内容は別式(施行細則)に詳しい。
定朝儀之礼。語具別式。
「朝儀の礼」とは、朝廷で行われる儀式の礼法・所作であり、これを詳しく定めたものと思われます。
その具体的内容を記した別個の規定・細則については、「別式」に詳しく書かれているとのことですが、現在では失われていると思われ、その詳細は不明です。
大風の被害(下総国)

9月7日(甲子) 下総国で大風が吹き、百姓の廬舎(住居、小屋)を壊した。
下総國大風。壞百姓廬舎。

非常に簡潔な記事ですが、この記事は、「下総国」という国名が確実な史料に現れる最初とされています。
当耆皇女を斎宮に遣わす
9月10日(丁卯) 当耆皇女(天武天皇の皇女)を遣わし、伊勢の斎宮(斎王の宮)に奉仕させた。
遣當耆皇女侍于伊勢齋宮。
当耆皇女は、多紀皇女・託基皇女とも表記される天武天皇の皇女で、文武天皇のおばにあたる人です。
天皇が新たに即位すると、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に「斎王」として奉仕する女性が遣わされます。斎王は皇族女性から選ばれ、通常は未婚の皇女(天皇の女子)の中から占いにより選定されました。

つまり今回の派遣は文武天皇の即位に伴うものなんですね。

そう。ただ、伊勢に派遣といっても、神宮の社地の内部に遣わされるわけではなく「斎宮」という斎王が奉仕するための宮があり、そこに向かうことになります。
斎宮跡。斎宮は伊勢神宮から五十鈴川と宮川を挟んで北西に位置する。
なお、この条は「斎宮」の語が、「伊勢神宮に仕える皇女の宮殿」という意味で使用される早い事例としても重要です(史跡斎宮跡保存活用計画(明和町公式、PDF))。
銅鉱の献上(周防国)

9月25日(壬午) 周芳国が銅鉱を献上した。
周芳國獻銅鑛。

銅は仏像・寺院の装飾・貨幣(銅銭)・農具・武具・装身具など…実に多様な用途に用いられます。

万能な金属なんですね!

和銅の時代(708-715)には、銅銭の「和同開珎」が鋳造されるようになり、銅は貨幣づくりに必須の資源となるのです。

各国から顔料鉱物を献上させる
9月28日(乙酉) 近江国に金青を、伊勢国(三重県)に朱沙・雄黄を、常陸(茨城県)・備前(岡山県)・伊予(愛媛県)・日向(宮崎県)の4カ国に朱沙を、安芸(広島県西部)・長門(山口県西部)の2カ国に金青と緑青を、豊後国(大分県)に真朱を献上させた。
令近江國獻金青。伊勢國朱沙雄黄。常陸國。備前。伊豫。日向四國朱沙。安藝長門二國金青緑青。豊後國眞朱。
金青、朱砂、雄黄、緑青、真朱、これらはいずれも主として顔料(着色用途のため粉末状にしたもの)に使用される鉱物資源です。

文武2年当時の日本鉱物資源マップみたいな記事ですね。古代の鉱業・顔料の中央政府による資源把握を考えるうえではかなりの情報量ではないですか?

そうです。特に記事では、各国が「献上した」ではなく、中央が「献上させた」という文になっており、朝廷はこの時代にすでに、各地の鉱物資源についてかなり具体的な情報を把握していたことになります。
まとめ表 鉱物の用途など
| 名称 | 献上国 | おおよその実体 | 顔料として使われる色 |
|---|---|---|---|
| 金青 | 近江、安芸、長門 | 藍銅鉱を粉砕・精製したもの | 青色 |
| 朱沙(朱砂) | 伊勢、常陸、備前、伊予、日向 | 辰砂=硫化水銀 | 赤色 |
| 雄黄 | 伊勢 | 硫化ヒ素系鉱物 | 黄~橙色系 |
| 緑青 | 安芸、長門 | 主に孔雀石などの銅系鉱物 | 緑色 |
| 真朱 | 豊後 | 朱砂と同じく硫化水銀系の朱 | 赤色 |
金青(こんじょう)
近江、安芸、長門から献上。

金青の原料は藍銅鉱とも呼ばれ青色顔料に用いられました。
和銅6年(713)5月11日にも献上例があり、この時は上野国からの献上でした。
朱沙(すさ)

伊勢、常陸、備前、伊予、日向から献上。
現代では「朱砂」と表記されることが多いようです。また、「辰砂」と呼ばれることもあります。
水銀と硫黄を合成させ、「硫化水銀」となったもので、赤い色を発します。
こちら(「赤色塗料の原料に」)で詳しく解説しています。
雄黄(おおう、ゆうおう)

伊勢から献上。
ヒ素の硫化物系の黄~橙色の鉱物で、顔料などに使われたようですが、正倉院に収蔵されている物によると「薬物」としての用途にも用いられたようです。(雄黄 宮内庁正倉院)
緑青(ろくしょう)

安芸、長門から献上。
「緑青」というと、現代では錆びた銅が青緑色に変色するものをイメージしますが、この錆をかき集めて顔料にしたというわけではないでしょう。
緑青の原料となったのは孔雀石という、銅鉱床の地表近くで酸化しやすい箇所にできる鮮やかな緑色の鉱物です。

孔雀石は金青の原料となる藍銅鉱と同じ銅鉱床から産出することが多く、安芸・長門両国に金青と緑青をともに献上させている点は注目されます。

👆の写真にも青い部分には藍銅鉱がありますね!
真朱(まそお)
豊後から献上。
朱砂と同じく硫化水銀系の赤色顔料であるとされます。しかし、真朱と朱砂の色味についてはどのような違いがあるのかは不明です。

真朱が仏像の彩色に使われたことを物語る歌が『万葉集』にあるので1首紹介します。
『万葉集』巻第16 由縁有る雑歌 歌番号:3841
大神朝臣奥守が報へて嗤ふ歌一首
仏造るま朱足らずは水溜まる池田の朝臣が鼻の上を掘れ
(仏像を造る真朱の色が足りなければ、池田朝臣の鼻の上を掘ればいい)
この歌は、池田朝臣(名前未詳)が大神奥守をあざけり、奥守がこれに応じて池田朝臣をばかにした歌です。

つまり、歌で口げんかしてるってことですね。
でも、「鼻の上を掘れ」が悪口になるんですか?

池田朝臣が赤鼻で、これを仏像をつくるときの塗料である真朱と掛けたのだといわれています。

古代の人の口げんか…レベルが高いですね、、
次回の記事
工事中




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