
こんにちは、みちのくです☀️
長屋王は「長屋王の変」の人物として一般的にも有名です。
今回はその長屋王家が権威を高めていく過程のひとつになる出来事があります。

よろしくお願いします。
※霊亀への改元はこの年の9月なので、正確には霊亀元年2月〜3月は和銅8年です。
しかし、『続日本紀』は改元が行われた年の正月に遡って「元年」とする形式なので、これに従っています。
霊亀元年(乙卯・和銅8年・西暦715年)現代語訳・解説 2月〜3月
従四位の尚侍の季禄を定める
2月4日(丙辰) 次のように制定した。尚侍で、従四位の者に禄(季禄。年に2回、2月と8月に官位相当に応じて、絁・綿・布・鍬を支給した)を支給する際は、典蔵に准ずることとする。
制。尚侍從四位者。賜祿准典藏焉。

この記事を理解するには、いくつかの前提知識が必要になってきます。
尚侍と典蔵は女官の要職
尚侍と典蔵はいずれも、後宮(天皇の宮の「後」、「奥」にある、后妃たちの居住する場所)に仕える女官が任じられる官職で、大宝令の改正法である後の養老令には「後宮職員令」として定めがあります。
尚侍は内侍司の長官で、天皇の側近として日常的に奉仕すること。天皇に奏上して勅を請い、その勅を宣すること。女官たちや宮中の礼儀をただし、監督すること。とされています。
典蔵は蔵司の次官で、神璽、関契(不破関、鈴鹿関、愛発関の通行証)、天皇・皇后が身に付ける衣服、宮中の宝物の管理などを、長官の尚蔵と共に担当しました。

どちらも天皇に近い位置に仕える重要な職務ですね。
特に蔵司は、名前だけ見るとただの「倉庫番」みたいですが、神璽を預かる超要職ですよね。
女官には「官位相当制」が適用されない
男性官人には、律令の「官位令」の規定に基づいて、本人の持つ位階と、その位階に応じて就くことのできる官職が設定されています。これを「官位相当制」といいます。
官位相当制については以下の記事も参考にしてください👇

禄(給与。ここでは年に2度支給される「季禄」を指す)の額は、この官位相当制に基づいて決定されます。
例えば、左大臣であれば「従二位」が官位相当なので、この従二位の位階により禄が支給されます。
支給額の詳細は「禄令」にあり、従二位は、「絁20疋、綿20屯、布60端、鍬100口」となっています。

ただし、先に述べた尚侍や典蔵といった女官は官位令に規定がなく、官位相当制の適用を受けません。
女官に禄を支給するための規定
だからといって、女官には禄が支給されなかったのかというと、そんなことはありません。
禄令には「宮人給禄条」という、女官に対する禄の支給規定もあります。

これによると、「典蔵は従四位に准ずること」、「尚侍は従五位に准ずること」と規定されています。

つまり、女官は官位相当制の対象外だけど、禄令で別個に定めがあり、尚侍は従五位相当の禄を支給されるということなんですね。
仕組みは分かりましたけど、なぜわざわざ別に決めたのでしょうか?

なぜ女官は官位相当制の対象外なのか?という話ですね。
これは、女官は男性官人のように「この位階なら、この官職」という明確な任用基準を作ることが避けられたということなのでしょう。
というのも、尚侍は天皇に常に近侍し、尚蔵や典蔵は神璽に関わる重要職です。位階の高下よりも、その女官の出自や、宮廷内での信頼関係などが重視されたのだと思います。
従四位の尚侍の禄は、典蔵に准ずることとなった

話を戻します。
禄令により、「尚侍の禄は従五位に准ずる」となっているわけですが、霊亀元年2月時点には、どうやら従四位の位階を持つ尚侍がいたようです。
これはつまり、本人の位階は従四位なのに、禄は従五位レベルという「不合理」なことが起きてしまったということです。

なるほど、そこで今回「従四位の尚侍の禄は、典蔵に准ずる」つまり、禄も従四位レベルに引き上げたということなんですね。

そう。本人の位階が従四位、典蔵の禄は従四位相当。
なので、位階相応の待遇となったわけです。
おそらく、県犬養三千代
この時期の従四位・尚侍は、県犬養三千代(のちの橘三千代)だったと推定されています。
三千代は藤原不比等の妻で、のちの光明皇后の母です。養老元年(717)には「従四位上」から従三位に進んでいることが確認できるので、霊亀元年(715)2月段階で従四位級だったこととも整合します。
氏上の任命
2月14日(丙寅) 従五位下大神朝臣忍人を氏上(氏族の統率者、代表者)とした。
從五位下大神朝臣忍人爲氏上。
氏上は、氏人をまとめ、氏神の祭祀や氏の共有財産の管理、氏女(氏人の女性から朝廷に女官として差し出す女性)の貢進などに関わりました。
忍人は、前年に死去した安麻呂の甥で、高市麻呂の嫡子

大神氏の氏上は、前年(和銅7年)正月27日に大神安麻呂が死去して以来決まっていませんでした。
今回氏上となった忍人は安麻呂の甥にあたり、高市麻呂の嫡子でした。
慶雲3年(706)2月6日(庚辰) 左京大夫従四位上大神朝臣高市麻呂が卒した。
慶雲4年(707)9月12日(丁未) 正五位下大神朝臣安麻呂を氏長(氏上)とした。
和銅7年(714)正月27日(丙戌) 兵部卿従四位上大神朝臣安麻呂が卒した。
注目すべきは、このとき大神氏には忍人よりも高い位階を持つ人物がいたということです。
安麻呂の弟の狛麻呂は当時「正五位下」に昇っており(和銅4年(711)4月7日)、従五位下の忍人よりも位階が高いです。

必ずしも、一族で一番位階が高いから氏上になるというものでもないのでしょうか。
「国史」に記録される、大神氏の氏上
『続日本紀』は大神氏の氏上任命を細かく記録しています。しかし氏上は、大神氏だけの制度ではなく、氏族一般のものです。

なぜ一氏族の氏上任命を「国史」で事細かに取り上げているのか?
これは不思議です。
ただ、他の例としては、
和銅7年2月9日(丁酉) 従五位下大倭忌寸五百足を氏上とし、神の祭りを司ることとした。
とあり、大倭氏の氏上任命の記事が見えます。
ここでは、「神の祭りを司る」ためという理由まで書かれています。

共通点が見えましたよ。
大倭氏は「大和坐大国魂神社」の祭祀を担う氏族、大神氏は三輪山の「大物主神」を祀る氏族です。

その通りです。『続日本紀』が氏上任命を記録したのは、氏族内部の人事だからではなく、その氏上が国家的に重要な神の祭祀者でもあったためではないか…と考えられます。
卒去(当麻桜井)
(続き)
従四位下当麻真人桜井が卒し(四位または五位が亡くなること)た。
從四位下當麻眞人櫻井卒。
当麻桜井は、正月10日(癸巳)に正五位下から従四位下に2階昇叙されたばかりです。

桜井は比較的経歴を追える人物で、史書に名前が見えるのもかなり早く『日本書紀』持統天皇3年(689)2月26日条です。
この時、桜井は竹田王・土師根麻呂・大宅麻呂・藤原史(不比等)・穂積山守・大三輪安麻呂らとともに判事に任命されています。

つまり、今回の死去まで史料上だけでも26年以上にわたって活動していた古参官人なんですね。しかも、藤原不比等と同僚だったと。
表 『続日本紀』に見える経歴
| 年月日 | 位階・官職 | 内容 |
|---|---|---|
| 慶雲2年(705)9月20日 | 従五位上・伊勢守 | 従五位上で伊勢守に任じられる。 |
| 和銅元年(708)3月13日 | 正五位下・武蔵守 | 正五位下で武蔵守に任じられる。 |
| 霊亀元年(715)1月10日 | 正五位下 → 従四位下 | 2階昇叙され、従四位下となる。 |
| 霊亀元年(715)2月14日 | 従四位下 | 卒去。今回の記事。 |
「真人」は姓の最高位
「真人」の姓は、天武天皇13年(684)10月1日の詔で定められた「八色の姓」の最高位で、皇族を祖に持つ氏族が多く授かりました。
当麻氏は、用明天皇の皇子・麻呂子皇子(麻呂古王)の後裔としています。

用明天皇の皇子ということは、聖徳太子の兄弟ということですね💡
勅(吉備内親王の子を皇孫の例に入れる)
2月25日(丁丑) 勅により、三品吉備内親王の男女をすべて皇孫(天皇の孫)の例とした。
勅以三品吉備内親王男女。皆入皇孫之例焉。
勅により、吉備内親王の子供たちを特例として全員「皇孫」、つまり天皇の孫として扱うこととしました。
吉備内親王・長屋王

吉備内親王は、草壁皇子と元明天皇の間に生まれた女子です。
その夫の長屋王は天武天皇の皇孫(二世王)であるため、その子供たちは本来は三世王です。

普通、世数は父方で数えるのですが、今回は特例として母方を基準にし、長屋王と吉備内親王の子供たちは二世王(皇孫)としての扱い受けることとなりました。

確かに、記事では「吉備内親王の男女」とありますからね。長屋王ではなく、吉備内親王を基準に見ていることがわかります。
皇孫待遇で何が変わるのか
皇孫(二世王)と三世王以下とでは、待遇で明確に差があります。
後の養老令の選叙令第35【蔭皇親条】では、親王の子(皇孫)に従四位下、諸王の子に従五位下を授けるとあります(蔭位)。つまり、皇孫と諸王(三世以下)ではなんと4階もの差があるということです。
この差は大きく、
位田(位階に応じて一定数の田地を割り当て、その田租を収入にすることができる)田令第4【位田条】
従四位 → 20町
従五位 → 8町

位田は現代風に言えば家賃や地代などの不動産収入のようなものですね。
季禄(毎年2回支給される) 禄令第1【給季禄令】
従四位 → 絁7疋、綿7屯、布18端、鍬30口
従五位 → 絁4疋、綿4屯、布10端、鍬20口
このように蔭位で授けられる位階の差により、待遇の違いがここまで変わります。
長屋王家の権威が格上げされた
この勅の基準になっているのは、長屋王の子であることではなく、吉備内親王の子であることです。
この理由は、吉備の母が元明天皇であること、兄が故・文武天皇であること、さらに姉が間もなく即位することとなる氷上内親王(元正天皇)であること…という皇統上の関係が重視されたとものと見られます。
しかも、その夫である長屋王は、天武天皇の長子である高市皇子の嫡子。
高市皇子は、皇太子・草壁皇子死去後には「後皇子尊」と呼ばれ、太政大臣にもなり、一時期は有力な皇位継承候補になっていたとされています。

そう考えると…吉備内親王も長屋王も、どちらもとんでもなく高貴な血統ということになりますね。

あくまでも「吉備内親王の身分」を根拠にしていますが、この待遇は必然的にその夫である長屋王家の格も押し上げることとなります。
行幸(甕原離宮)
3月1日(壬午) 車駕(天皇がお乗りになる車。転じて天皇自身を指す)は甕原離宮に行幸(天皇が外出すること)した。
車駕幸甕原離宮。
甕原離宮への行幸は
和銅6年(713)6月23日(乙卯)
和銅7年(714)閏2月22日(己卯)
にも行われており、この2年足らずの間に3回目の再訪となりました。

しかも、この霊亀元年には7月10日にも甕原に訪れており、和銅6年から数えておよそ2年間になんと4回もの行幸が行われたことになります。

本当ですか…これは「単に風光明媚の地に離宮があったから行幸した」とまでは言い難いですね。理由・目的についてどのような研究がされているのでしょうか?

「元明天皇がなぜ4回も行ったのか」という単一の定説があるわけではないようです。
ただ、甕原は平城宮から比較的近い上に、いづみさんの言うように風光明媚の地なので、静養のためだったのは間違いなく理由のひとつだと思います。
甕原は東国へ抜けるためのルート上にある

これは以前にも書きましたが、甕原離宮のあった地は、伊賀国に抜ける東西ルートがあり、さらにそこから近江方面や東国へ向かうことのできる「要衝の地」でした。

なるほど、そこで天皇が親しく甕原に行幸し、その地の民に「行幸に協力した恩」として恵みを垂れれば協力を得ることもできそうですね。
甕原周辺は水運拠点

甕原と山背国相楽郡一帯は、平城京のすぐ北側にあるだけでなく、泉川(木津川)の水運を介して平城京へ物資を運び込む物流地帯でした。
また平城京北の奈良山丘陵には京内・宮内へ瓦を供給する窯が並び、和同開珎の鋳造を行う鋳銭司なども置かれています。平城京を支える産業・物流上の重要地域でもあったわけです。

行幸の目的については、これらを考慮して考えると答えが見えてきそうな気がしますね。
卒去(竹田王)
3月15日(丙申) 散位(位階はあるが特定の官職に任じられていない者)従四位上竹田王が卒した。
散位從四位上竹田王卒。

竹田王の系譜は不明のようです。
天武朝以来の古参
竹田王はかなり古くから活動していた皇族官人で、天武・持統・文武・元明の4天皇に仕え、30年以上史料に姿を見せる人物です。
史料上の初出は『日本書紀』天武天皇10年(681)3月17日(丙戌)条で、大極殿において天皇から、川嶋皇子、忍壁皇子ほか9名と共に「帝紀・上古諸事の記定」を命じられました。
この「帝紀・上古諸事の記定」は重要で、後の『日本書紀』編纂につながるとされる国家的な歴史編纂事業であるとされています。
表 竹田王の経歴
| 年月 | 位階・官職など | 内容 |
|---|---|---|
| 天武10年(681)3月17日 | ― | 川島皇子・忍壁皇子・広瀬王らとともに、帝紀・上古諸事の記定を命じられる |
| 天武14年(685)9月11日 | ― | 宮処王・広瀬王・難波王・弥努王らとともに、京・畿内の兵器を検校する |
| 持統3年(689)2月26日 | 浄広肆・判事 | 当麻桜井・藤原不比等らとともに判事となる |
| 和銅元年(708)3月13日 | 従四位上・刑部卿 | 刑部省長官に任じられる |
| 霊亀元年(715)3月15日 | 散位・従四位上 | 卒去 |
新羅使の帰国
3月23日(甲辰) 金元静たちが蕃(外国。ここでは新羅)に帰った。大宰府に勅し、綿5450斤と船1艘を賜った。
金元靜等還蕃。勅大宰府。賜綿五千四百五十斤。船一艘。
金元静らは前年の和銅7年(714)11月11日に20人余りで来日した新羅使で、正月には平城宮で饗宴や大射にも参加していました。
綿と船を贈呈

帰国に際し、大宰府が保有・管理していた綿5450斤と船1艘を下賜しました。
斤は重さの単位で、1斤=670グラムほどとされています。ということは5450斤は約3.65トンということになりますね。

綿が3.65トン…船内がふかふかの綿まみれになってしまいそうですね。
新羅使たちが乗ってきた船があるのに、船を贈ったということは贈答の綿が乗り切らなかったとか…?

面白い説だと思います。綿については3.65トンという重さもありますが、これだけの量になってくるとどちらかというと容積の方が気になりそうですね。綿はかさばりますから。新羅使たちが乗ってきた船だけでは綿の置き場がなく、新たに船を1艘つけたという可能性もあり得そうです。
もちろんこれは推測で、例えば新羅使の乗ってきた船に何か問題が発生していたためという可能性も考えられますが、『続日本紀』にはその理由は明記されていません。
また、新羅使に船を贈ったというのは前例もあります。
『日本書紀』より
天智天皇7年(668)9月26日:新羅の上臣・金庾信に船1隻を賜い、金東厳らに託す。
同年9月29日:新羅王に「調を運ぶ船」1隻を賜い、これも金東厳らに託す。
とあるため、帰国用の代船というより、外交上の贈答品と見る方が自然だと思います。
孝行の人を村里で表彰する
3月25日(丙午) 孝行をたたえ、相模国足上郡(神奈川県西部)の人・丈部造智積と君子尺麻呂を閭里(村里)に表彰し、終身課役を免ずることとした。
相摸國足上郡人。丈部造智積。君子尺麻呂。並表閭里。終身勿事。旌孝行也。
これは、前年の和銅7年(714)6月28日の「首皇子元服の恩典」に対応するもので、そこでは
「孝子、順孫、義夫、節婦は門閭(村里などの入り口の門)に掲示し、終身にわたり課役を免除する」
とあることから、今回の措置はこれを実施したものだと思われます。
次回の記事
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