
こんにちは、いづみです♨️
鬼神を操る…役小角。字面からして只者ではない気配…。

すさまじい妖力を感じますね。
文武天皇3年(己亥・西暦699年)現代語訳・解説 3月〜5月
雌黄の献上

3月4日(己未) 下野国(栃木県)が、雌黄を献上した。
下野國獻雌黄。
雌黄は、硫化ヒ素系の鉱物のようです。
現在で言われるところの雌黄は「藤黄」とも呼ばれる植物性の塗料であり、今回の記事の雌黄とは異なるものなので注意が必要です。

前年(698)9月28日条には伊勢国から「雄黄」が献上されていますが、雌黄との違いってなんでしょうか?

雌黄も雄黄と同じく硫化ヒ素系鉱物の一種で、どちらも主に黄色系の顔料として使われていたようです。色味としては、雌黄が黄金黄色系、雄黄が橙色系の黄色という違いがありました。
ただし、今のように化学組成で厳密に区分されていたわけではなく、古代の文献では雄黄・雌黄の名称が混乱している場合も多いようです。
雌黄は「修正液」として用いられた

奈良時代には雌黄は顔料のほか、黄褐色の紙に書いた文字を直すとき、誤字の上に雌黄を塗って、その上から書き直していました。現代でいう「修正液」みたいなものですね。

これは面白いですね!顔料よりも私たちに身近な用途です。
祥瑞の献上(白鳩)

3月9日(甲子) 河内国が白鳩を献上したため、詔して錦部郡に1年間の租と労役を免除することとした。また、これを捕らえた犬養広麻呂の戸は3年間の課役免除とした。また、畿内の徒罪(懲役刑)以下の罪人を赦した。
河内國獻白鳩。詔免錦部郡一年租役。又獲瑞人犬養廣麻呂戸給復三年。又赦畿内徒罪已下。
白鳩は祥瑞です。
祥瑞は、君主が徳に基づいて国を治めていると天が認めた時に、これを讃えて天の神がしるしとして下す、特異な自然現象や動植物です。かなりざっくり言えば「縁起の良いもの」です。

祥瑞は、天からの授かりものであり、このように天皇の行いが天を感応させ、これが地上にまた影響を及ぼすことを「天人相関説」といいます。
逆に、治世が人民にとって「悪政」であれば天変地異が起き、これは天からの「譴責」であるとされました。

そう考えると、当時にとって祥瑞が現れるということは単に「珍しくて縁起のいいもの」ではなく「天に認められた証」になるわけですからとっても喜ばしいことであったわけですね!
今の河内長野市の鳩原地区か
佐伯有義校注『続日本紀』では、白鳩が捕らえられた場所を錦部郡鳩原村とする伝承を紹介しています。これは現在の大阪府河内長野市鳩原で、富田林市史もこの説を有力視しています。
河内長野市の鳩原地区

1300年以上前の白鳩発見が今でも地名として残っている…!これはすごく面白いですね✨

それだけ現地としては大きな出来事だったんですねぇ…
巡察使の派遣
3月27日(壬午) 巡察使を畿内に遣わして、非違(違法、違反)を検察させた。
遣巡察使于畿内。検察非違。
『続日本紀』での巡察使の初見です。
巡察使は、太政官に直属し、臨時に任命されて諸国を監察する官で、特に国司の行政や不正を監察し、その結果を奏上することが大きな任務でした。
大宝・養老の職員令にも規定があり、史料上の初見は『日本書紀』天武天皇14年(685)9月15日(戊午)。このときは東海・東山・山陽・山陰・南海・筑紫方面にそれぞれ使者が派遣されています。

巡察使は天武天皇の時代から奈良時代にかけてたびたび発遣されました。
この文武3年もちょうど7ヶ月後の10月27日にも派遣されています。
越後の蝦狄に叙爵
夏 4月25日(己酉) 越後の蝦狄(日本海側のエミシ)106人に、それぞれ差をつけて爵を賜った。
越後蝦狄一百六人賜爵有差。
当時の「越後」
越後は現在の新潟県ですが、当時の範囲は大きく違っています。
文武3年(699)時の越後は、基本的には今の沼垂(新潟市中央区)・岩船郡を中心とする新潟県北部地域という、かなり狭い領域だったとされています。

高岡市万葉歴史館の展示より
エミシだけに与えられた「爵」があった?
「爵を賜った」とありますが、ここでいう「爵」とは何を指すのでしょうか?

研究によると、これは一般の官人に授けられている位階や冠位とは別系統のものなのではないかとする説があります。
『続日本紀』の霊亀元年(715)10月29日条では、
「陸奥の蝦夷である第三等・邑良志別君宇蘇弥奈」
と、蝦夷の人である宇蘇弥奈が明確に「第三等」と呼ばれています。
これは通常の律令官人の直広肆、務大参などの冠位や、大宝令以後の序列となる正五位上や従六位下などの位階とは明らかに違うものです。
さらに『続日本紀』の後の歴史をつづる『日本後紀』延暦11年(792)11月3日条では、
夷俘の爾散南公阿波蘇と宇漢米公隠賀、俘囚の吉彌侯部荒嶋たち朝堂院で饗宴し、阿波蘇と隠賀に爵第一等を授けた。荒嶋には外従五位下を授けた。
とあり、爵として第一等が授けられている一方、律令官人の「外従五位下」という位階が明確に区別して授けられていることからも分かります。

夷俘と俘囚はいずれも蝦夷内での区別です。

うーむ、確かにここまで明確に区別されてたら信憑性がありますね!

なので、この文武3年4月の「106人へ爵を賜った」というのは、蝦夷の序列制度としての「爵」の初出ではないかと言われています。
ただし、その制度の具体的な内容については不明です。
詔(壬申の乱の功績を讃える)
5月8日(辛酉) 次のように詔した。「戦勲を議することは前修(昔の賢人、名君)よりはじめられ、功績を立てた者を賞することは歴代にわたり重んじてきた。思うに、壮士の節を明らかにし、不朽の名を著す所以であろう。
汝、坂上忌寸老は、壬申の年の軍役(壬申の乱での従軍)に命を顧みず社稷(国家、朝廷)の急に赴き、幾多の死地をくぐり抜け国家の難に立ち向かった。しかし、まだ顕秩(高い位)を加えぬままに、たちまちに亡くなってしまった。去った魂をいつくしみ、その冥路をなぐさめようと思う。よって、ここに直広壱(正四位下相当)を贈り、合わせて物を賜うこととする」と。詔曰。圖勲之義。肇自前修。創功之賞。歴代斯重。蓋所以昭壯士之節。著不朽之名者也。
汝坂上忌寸老。壬申年軍役。不顧一生。赴社稷之急。出於萬死。冐國家之難。而未加顯秩。奄爾隕殂。思寵往魂用慰冥路。宜贈直廣壹。兼復賜物。

壬申の乱は、文武3年からさかのぼること27年前(672年)に起きた、大海人皇子(後の天武天皇)のクーデター事件ですね。
それまで政権の中心であり、天智天皇の後継者だった大友皇子の勢力(近江朝廷)を、蜂起した大海人皇子側の勢力が退け、天武天皇として即位するという話です。

なので、これに勝利した天武天皇は現皇統の祖とも言うべき存在で、壬申の乱で活躍した人物は、いわば「国の英雄」なのでした。
壬申の乱での坂上老の活躍
坂上忌寸老(さかのうえ の いみき おゆ)は、『日本書紀』天武天皇元年(672)壬申の乱の記事に見え、そこでは当時の名として坂上直老(さかのうえ の あたい おゆ)となっています。
老は、天武元年6月の「この日」条(6月29日を指す)にのみ登場し、そこでは、
「大伴連吹負は、大伴連安麻呂、坂上直老、佐味君宿那麻呂たちを大海人皇子がいる不破宮に遣して、事の状を奏上させた」
とあります。
大伴吹負たちが飛鳥の近江朝廷側の勢力を排除して、飛鳥を掌握したあと、坂上老たち3人が不破の大海人皇子のもとへ派遣されて、成功を報告。大海人皇子はこれを非常に喜び、大伴吹負を将軍に任命した。というのが話の流れです。

思っていたよりも地味な活躍だったというのが率直な感想です。
『続日本紀』には「死地をくぐり抜け」とあるので、近江朝廷の敵兵に突撃してバッタバッタとなぎ倒した…みたいなエピソードがあるのかと思いましたが、そういうわけではないのですね。

そうですね。老がしたのは、飛鳥掌握を不破にいる大海人皇子に報告した…という事実だけです。もっとも、『日本書紀』に語られていること以外にも何かしらの活躍をしたという可能性はもちろんあります。
坂上老については多くは不明
老が登場するのは、上述『日本書紀』の1記事と、『続日本紀』のこの記事だけであり、老がいつ亡くなったのか、それまでどのような官職に就いていたのか、冠位は何だったのかなど分からないことが多いです。

その点がとてももどかしいですね。
詔では、命を顧みず国家の危険に赴いて死地をくぐり抜けたとかなり格好良く伝えられているのに。

とりあえず重要なことは、文武天皇が、祖父・天武天皇の代からの功臣に贈位を行い、その恩に報いた…ということでしょう。
壬申の乱の勝利に貢献した人を賞する記事は『続日本紀』には他にも何度か出てきますが、個人の働きを称える長文の詔を全文掲載している例は、坂上忌寸老が際立っており、異例といえます。
文武天皇2年(698)6月29日 田中足麻呂が死去し、詔で直広壱(正四位下相当)を贈った。
大宝元年(701)正月29日 直広壱(正四位下相当)県犬養宿禰大侶が死去し、浄広肆(従五位下相当)夜気王らを居宅に遣わし、詔により正広参(従二位相当)を贈った。
大宝元年6月2日 正五位上忌部宿禰色布知が死去し、詔により従四位上を贈った。
慶雲4年(707)10月24日 従四位下文忌寸禰麻呂が死去し、使いを遣わして詔により正四位上を贈った。並びに、絁と布を贈った。
ちなみに、老は後の征夷大将軍・坂上田村麻呂の先祖で、田村麻呂から見て老は高祖父(祖父の祖父)にあたります。
役小角を流罪とする
5月24日(丁丑) 役君小角を伊豆嶋に流した。初め小角は、葛木山に住み、呪術の力で称えられていた。外従五位下韓国連広足は、小角を師とした。後にその能力を妬み、妖惑をなしているとして讒言(他人を陥れるために事実を曲げて申告すること)した。そのため遠い地へ流されることとなったのである。
世間が伝えていうには、小角はたくみに鬼神を使役して、水をくみ、薪をとらせた。もし命令に従わなければ、呪術でこれを縛りつけたという。役君小角流于伊豆嶋。初小角住於葛木山。以咒術稱。外從五位下韓國連廣足師焉。後害其能。讒以妖惑。故配遠處。
世相傳云。小角能役使鬼神。汲水採薪。若不用命。即以咒縛之。
役君小角(えん の きみ おづぬ)は、「役小角」として現在に修験道の祖と伝わる人物です。

有名な人物ですが、『続日本紀』に登場するのはここだけです。

葛木山の奥に暮らし、鬼神を使役する呪術者…。罪人として伊豆島に流されてしまったという結末も合わせて、後世に伝わる伝承としては十分すぎるエピソードですね。
小角には本当に罪があったのか
『続日本紀』は、小角は朝廷に「妖惑を讒言」されたとあります。
妖惑は「あやしいことばや雰囲気で人をまどわすこと」であり、これは当時の朝廷が正式に禁じ、罪としていた可能性が高いです。
後の養老令の僧尼令第1【観玄象条】には、「僧尼は、天文を観て偽って災祥を説き、それを国家に関わることとして語り、百姓を妖惑した場合には(略)すべて法律により官司が罪を科す」としています。

ただし、小角は僧侶ではないです。しかも、民間の伝えでは「鬼神を使役した」とはいえ、実際にさせていたことが水を汲ませたり、薪を採らせたことにとどまれば、人を妖惑したとは直ちに言えないでしょう。
しかも、「讒」は、人を陥れるために事実を曲げて申告することであるため、『続日本紀』の編者は小角には罪がなかったと書いていることになります。

小角の能力を「妬み」ともありますから、やっぱり無実の罪だったのかもしれないですね。

ちなみに妬んで讒言したのは韓国広足のように読め、実際そのような研究もあります。しかし、厳密には原文は広足を主語にしておらず、讒言の犯人は厳密には明らかではありません。

それにしても、そんな超自然的な力を持ちつつなぜ鬼神に使い走りみたいなことをさせてたんでしょうね?

そこは確かに色んな意味で面白いところで、変なところが日常的なんですよね。
ただ、そういう日常的な動作をやらせるのがかえってインパクトがあるのかもしれません。
天気を変える、山を動かすみたいな分かりやすい奇跡よりも、「鬼神を日常の雑用に使うほうが格が違う」ようにも見える気がします。
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