
こんにちは、いづみです♨️
今回は持統上皇が崩御ですか。行幸から無事に帰ってこられたと思ったら、年末に亡くなられるとは。なんだか悲しい年越しになってしまいましたね。

そうですね。藤原宮も、いつもとは違う静かな年の瀬を迎えたことでしょう。
特に上皇に後見されていた文武天皇のご心境はどれほどのものだったのか、気になるところです。
大宝2年(壬寅・西暦702年)現代語訳・解説 12月
勅(天武天皇と天智天皇の命日を国忌に指定する)
12月2日(甲午) 次のように勅した。
「 9月9日(天武天皇の命日)と12月3日(天智天皇の命日)は、先帝の忌日(命日)である。よって諸司はこの日はすべて廃務(職務を停止すること)とすること」と。勅曰。
九月九日。十二月三日。先帝忌日也。諸司當是日宜爲廢務焉。
この記事は、天武天皇と天智天皇の命日を、諸官司が職務を休止する日と定めた勅です。
天皇や皇后などの命日に、百官が身を慎み職務を停止して仏事の法要を執り行う日を「国忌」(こき、こくき)といいます。
天武天皇の国忌は、すでに『日本書紀』持統天皇元年(687)9月9日条に見え、都の諸寺で斎会を催したことが記録されています。
一方で天智天皇はそうした記録は見えず、この時初めて国忌を定められた可能性があります。

もちろん記録にないだけで実際は行われていたかもしれません。
文武天皇から見て、天武天皇は父方の祖父、天智天皇は母方の祖父にあたります。
父母双方の系譜の天皇命日を「国忌」としたわけですね。

今回の勅が天智天皇の命日の前日である、12月2日に出されているのも注目ですね。
異変(星が昼間に見えた)
12月6日(戊戌) 星(金星か)が昼間に見えた。
星晝見。
これは、普通とは違う特異な現象を記録したものです。
記事中では「星」としか書かれていないため推定になりますが、昼間に見える星といえば一般的には金星です。金星は非常に明るく、条件がよければ昼間の青空でも肉眼で観察することができます。
金星が昼間に見えるのは凶兆

中国の伝統的な天文占いでは、昼間に金星が現れる現象を、君主の権威が脅かされることや、政変などの凶兆と解釈する例がありました
『漢書』巻26 「天文志」には、
「太白経天、天下革、民更王。」とあります。これは、
金星が天を横切って現れると、天下に変革が起こり、人民は君主を替える。
という意味です。
『宋書』巻26「天文四」には、
「永初二年六月甲申、太白昼見。占、為兵喪、為臣強。」とあります。
永初2年6月甲申の日、金星が昼間に現れた。占いでは、戦乱や喪事が起こり、臣下の勢力が強くなる兆しとされた。
という意味です。そして、その翌年の永初3年(422)5月に武帝が崩御したことを記録しています。

北斗の拳の死兆星みたいですね。
持統上皇崩御との関係
この16日後の12月22日に持統上皇は崩御します。

そのため、持統上皇崩御の「伏線」としての意味を見出し、今回の記事を置いた可能性があります。
岐蘇山道の開通
12月10日(壬寅) 初めて美濃国(岐阜県南半部)の岐蘇山道を開いた。
始開美濃國岐蘇山道。
岐蘇山道は、木曽方面を通って美濃国(岐阜)と信濃国(長野)を結ぶ道と考えられます。ただし、現代の「木曽路」と呼ばれる、すなわち国道19号に近い木曽川沿いを通る木曽谷ルートとは同一ではなく、神坂峠を越える山越えルートだったとみられます。

神坂峠は標高1,595メートルで、かなりの難所だったようです。
⭐️参考
文化遺産オンライン「神坂峠遺跡」
コトバンク(日本歴史地名大系)「吉蘇路」
都方面からは、神坂峠を越え、美濃から信濃へ最短距離で移動し、信濃国の平野部に出たら北上して飯田市・伊那市周辺を経由し諏訪方面に向かっていたようです。
ただ、あまりにも神坂峠が難所であったからなのか、10年余り後の和銅6年(713)7月7日(戊辰)条によると、今の木曽路に近いルート(吉蘇路と呼ばれた)も整備されたようです。
これらの国や東国には馬を飼育する牧場が多くあり、移動に使われる馬(駅馬)や軍馬を育てるため国家として重要な土地でした。また、それに加えて蝦夷の地とも近く、これらの国をつなぐ道を開通させることは国家戦略として必要だったのでしょう。

「木曽路」という日本料理のチェーン店がありますよね

木曽路と言いつつ店舗は全国にあるようです。
持統上皇が病となる
12月13日(乙巳) 太上天皇(持統上皇)が不予(天皇の病気)となった。そのため天下に大赦し、100人を度し(僧侶となることを政府が許可すること)て四畿内国(大倭・山背・河内・摂津の四国)に金光明経を講じさせた。
太上天皇不豫。大赦天下。度一百人出家。令四畿内講金光明經。
太上天皇は「上皇」の略称で、譲位した天皇のこと。ここでは持統上皇です。
この記事は、罪人を許すという徳行を行い、持統上皇の病気平癒を祈願して100人を出家させるなど、国家が仏教的な措置を講じたことを記録したものです。

やはり寒気の中での三河国行幸が祟ったのでしょうか…。

直接の原因は分かりませんが、わずか半月ほどで大赦と読経が必要になるまでに至ったということは、行幸後まもなく体調を崩されていた可能性はあり得ますね。
金光明経

『金光明経』は持統天皇にもゆかりの深い経典で、これを信じ、声に出して読む(読誦)ことで諸仏や四天王などの守護を得られると説く仏典です。特に国家の安泰を願う鎮護国家の経典として重んじられました。
『日本書紀』によると、持統天皇自身がこの経典の普及を積極的に進めていたことが分かります。
- 持統6年(692)閏5月3日:詔により、都と四畿内で金光明経を講説させる。
- 持統8年(694)5月11日:諸国に金光明経100部を配布し、毎年正月8日に読ませる。
- 持統10年(696)12月1日:勅により、金光明経を読ませるため、毎年末に10人を出家させることを定める。

つまり今回の金光明経の読誦は、これまで普及を進めてきた持統上皇自身を救う手立てになったわけですね。
持統上皇の崩御と薄葬の遺詔

12月22日(甲寅) 太上天皇が崩じ(天皇や上皇が亡くなること。崩御)た。
遺詔(遺言としての詔。遺命。ゆいしょうとも)により、素服(喪服)は着ず、挙哀(死者を弔い悲しむために声を上げて泣く儀礼)をしてはならず、内外の文武官はいつものように勤務し、喪葬の事は努めて倹約に従うこととした。太上天皇崩。
遺詔。勿素服擧哀。内外文武官釐務如常。喪葬之事務從儉約。
持統上皇の年齢は記載がありませんが、『日本書紀』に記録される生年が大化元年(645)なので、崩御時には数え年で58歳でした。
薄葬の思想(『日本書紀』より)

「喪葬の事は努めて倹約に従うこと」つまり、「薄葬」です。
この薄葬の思想と方針は、『日本書紀』大化2年(646)3月22日の詔にも見えます。
孝徳天皇の詔であり、これを簡単に要約すると、
「西土(中国)の君主は民を戒めて次のように言った。
『昔の葬儀では、自然の高い土地を利用して墓を造り、土を盛ったり、樹を植えたりすることはなかった。棺は骨が朽ちるのをただ覆うもので十分であり、遺体に着せる衣服も肉体が朽ちるのをただ覆う程度のもので十分であった。
そこで私は、この荒れた丘陵の耕作に適さない土地に墓を造り、後の世にはその場所が分からなくなるようにしたいと思う。
墓の中には金・銀・銅・鉄を納めてはならない。副葬品にはもっぱら土器を用い、昔の土製の車や草で作った人形を用いるようにする。
棺は板の継ぎ目に漆を三度塗るだけとし、死者の口に珠玉を含ませてはならない。
また、宝珠で飾った衣服を着せず、玉で遺体を覆ってはならない。このようなことは、いずれも愚かな俗習によるものである』と。
また、次のようにも言った。
『そもそも”葬る”とは、隠すことである。人々の目に触れないようにすることが本来の目的なのだ』」と。

古墳時代に大きな墳墓を造ってきたこれまでの在り方を転換させたわけですね。

もっともこれは、中国古来の「薄葬の思想」を理想として掲げたものであり、実際の制としては、身分に応じて墓の規模を制限する制度が定められました。
挙哀(こあい、きょあい)
持統上皇は遺詔により挙哀を禁じました。
挙哀とは、君主の死に際し、声を上げて泣いて悲しみを表明するという儀式です。
日本においては『日本書紀』、『続日本紀』に複数事例が見え、持統上皇の夫である天武天皇の崩御時には2年間に渡って挙哀が行われました。
後の文武天皇の事例(慶雲4年(707)6月15日)では、「挙哀を三日間行う」とあります。

大宝2年からわずか5年後ですが、文武天皇の崩御では行われたんですね。
なお、史料上では「挙哀」のほかに「発哀」「発哭」「哀哭」などの表現も見られます。
1年間に及んだ殯
もっとも、遺詔によって葬儀がすべて省略されたわけではありません。
持統上皇の崩御後には殯宮(ひんきゅう、もがりのみや、あらきのみや)という、葬送までの間、遺体を安置するための宮が設けられ、翌大宝3年(703)12月17日に火葬が行われるまで安置されました。

つまり、崩御から火葬まで約1年を要しているのです。
とはいえ天武天皇よりはかなり簡略化はされているように思えます。
天武天皇は、崩御から葬送(土葬)まで約2年2か月、挙哀は繰り返し実施され、誄(るい、しのびごと)という弔辞にあたるものも多くの皇族や官人により行われています。
また、これは持統上皇は新たに山陵を築かず、12月26日に夫・天武天皇の陵に合葬されました。

葬儀の規模は明らかに縮小されていますね。
葬儀関連司の任官
12月23日(乙卯) 二品穂積親王、従四位上犬上王、正五位下路真人大人、従五位下佐伯宿禰百足、黄文連本実を作殯宮司に任じた。三品刑部親王、従四位下広瀬王、従五位上引田朝臣宿奈麻呂、従五位下民忌寸比良夫を造大殿垣司に任じた。
以二品穗積親王。從四位上犬上王。正五位下路眞人大人。從五位下佐伯宿祢百足。黄文連本實。爲作殯宮司。三品刑部親王。從四位下廣瀬王。從五位上引田朝臣宿奈麻呂。從五位下民忌寸比良夫爲造大殿垣司。
持統上皇崩御の翌日、その葬儀に関わる臨時の官司が置かれ、任官が行われました。
いずれも責任者として天武天皇の皇子、次席には王が任じられていることが特徴ですね。
穂積親王と広瀬王は、翌大宝3年(703年)10月9日にはそれぞれ「御装長官」「御葬副」に任じられており、持統上皇の葬送に継続して関与しています。
作殯宮司
文字通り、殯宮の造営を担当する官司です。
殯宮については先述の通り、亡くなった天皇の遺体を本葬まで安置し、殯の儀礼を行う施設をいいます。
持統上皇の場合、この後の12月29日条に「西殿」で殯が行われたとあります。
造大殿垣司
殯宮の周囲に設ける垣の造作を担当した官司と考えられます。
明治大学の研究論文では、殯宮について、遺体を安置する喪屋と儀礼を行う殯庭を門や垣で囲んだ空間と捉えています。
皇位継承と「皇后」の権能-天皇空位時の儀礼と執政を中心に(2018、坂口彩夏、PDF)
その根拠としては、『日本書紀』の用明天皇元年(585)5月条に、殯宮の「門」のことが見えることからです。

敏達天皇の殯宮に押し入ろうとする穴穂部皇子を食い止めるため、門を閉ざしたという記述があります。このことから、殯宮は外部からの侵入を防ぐための門と垣がありこれを「大殿垣」といっているのでしょう。
四大寺で斎会を行う

12月25日(丁巳) 斎会(僧尼を招き食事をふるまう仏事)を四大寺に設けた。
設齋於四大寺。
斎会は僧尼たちに食事をふるまう仏事ですが、これは単なる宴会を行ったというわけではなく、れっきとした仏事です。
仏教では、他者に財物などを施すことを「布施」といい、それ自体が功徳を生む善行とされます。
特に僧尼には、布施を行うことで、これを行った者が大きな功徳が得られると考えられていました。

そういえば以前、義淵法師に1万束の稲を「施した」という記事がありましたね。
これは稲をもらう僧侶だけでなく、施した側の功徳にもなるということですね。
文武天皇三年(699)11月29日条「義淵法師に稲一万束を施す」

しかも今回は持統上皇の葬送のこともあります。
崩御の前から金光明経を読経していた僧尼たちに斎会を催すのは、持統上皇に対する善行にも繋がるわけです。
実際、仏教には自分が積んだ功徳を故人や周囲の人々にも行きわたらせる「回向(えこう)」という考えがあります。
仏典の『梵網経』にも、父母などの忌日に斎会を営んで福を求めることが説かれています。

回向ですか、覚えておきたい言葉ですね。
四大寺
この時の四大寺とは具体的には、
大官大寺(後の大安寺)
飛鳥寺(後の元興寺)
川原寺(弘福寺とも)
薬師寺
の四寺を指します。
後に川原寺に代わり興福寺が加わります。
西殿で殯を行う
12月29日(辛酉) 西殿において殯を行なった。
殯于西殿。
殯(もがり)は、殯宮において遺体を納棺し、実際に墓に葬るまでの間、仮に安置する葬送儀礼です。
この儀礼は死者が蘇生することを祈りつつも、遺体が腐敗し朽ちて白骨化していく様子を見届けるというものです。
なので「殯を行った」とありますが、この日で殯が終わりなのではなく、「この日に殯が始まった」という意味になります。

持統上皇の殯は翌年の12月、つまりおよそ1年間に及びました。
なお、西殿は藤原宮内の殿舎と考えられますが、具体的な位置は分かっていません。
大祓を中止する
12月30日(壬戌) 大祓を中止した。ただし、東・西の文部の解除は恒例通りとした。
廢大祓。但東西文部解除如常。
大祓(おおはらえ)、なぜ中止されたのか?
大祓は律令の神祇令によると、毎年6月と12月の末日に行われる恒例の祭祀で、天下の人々のあらゆる罪や病気などの「穢れ」を払い落とす神事です。
この大祓が中止されたのは、おそらく持統上皇の崩御によるものでしょう。

持統上皇の崩御が「死の穢れ」だとしたら、むしろ中止せずに、それを取り除く大祓を実施すべきなのでは…?

その疑問は理にかなっていて、検討すべきだと思います。死が穢れなら、むしろ積極的に大祓を行うべきではないかという疑問は、十分に筋が通っています。
葬儀と神事を区別する意識があった?
國學院大學の報告によると、古代日本の喪葬儀礼を研究し、持統上皇の崩御後について、次のように指摘しています。
「持統天皇崩御後には、殯期間中に伝統的神事は廃された」
さらに、7世紀から8世紀初頭にかけて、喪葬儀礼とその他の儀礼が区別されるようになったと論じています。
(第2回「神道・日本文化と外来宗教思想研究会」 ○テーマ「日・中喪葬儀礼の比較研究」)

そのため、持統上皇崩御という凶事と、死の穢れを取り除く大祓の中止は矛盾しない関係だった可能性があるわけですね。

持統上皇の崩御によって、通常の神事を実施すること自体がふさわしくないと判断された…ということでしょうか。
仲哀天皇の崩御では大祓が行われた
『古事記』仲哀天皇の段には、天皇の崩御後、遺体を殯宮に安置して国の大祓を行ったという伝承があります。
つまり、天皇が崩御したからこそ大祓を行ったという事例もあるわけです。
ただし、これは大宝の時点から見てもかなり古い時代の伝承です。
解除(げじょ)は恒例通り行われた
大祓を廃した一方、東西文部による「解除」は恒例通り行われたとあります。
解除って何なのか
『精選版 日本国語大辞典』の解説では、「けがれを祓い清めること。はらい。」とあり、広く「祓うこと」を意味する言葉です。この大宝2年12月30日条が初出の事例として掲載されています。

「解き、除く」こと、確かに「祓い清めること」に繋がりますね。
でもそれって大祓とどう違うのでしょうか?

これは僕の推論ですが、「大祓」は大枠としての神事で、「解除」は大祓を構成する個々の祓いの行為を指しているのではないかと思います。
養老神祇令の「大祓条」には以下のように定められています。
神祇令 18 大祓条 (要約)
6月、12月の晦日の大祓は、中臣が御祓麻をたてまつること。東西の文部は祓刀をたてまつり、祓詞を読むこと。終了したら百官の男女は祓所に集合すること。中臣が祓詞を宣し、卜部が解除のことを行うこと。
つまり、大祓という神事の大枠があり、
・中臣が御祓麻を奉る
・東西文部が祓刀を奉り、祓詞を読む
・その後、百官の男女が祓所に集まる
・中臣が祓詞を宣する
・卜部が解除のことを行う(卜部が専従する祓のことを指すか)
この大祓を構成するひとつひとつが「解除」なのではないでしょうか。
そうであれば、今回の「ただし、東西文部の解除は恒例通りとした」を説明することができます。

つまり、大祓のうち、「東西文部による解除」だけは恒例通り行い、「中臣が祓詞を宣する」などの部分は省略されたと読むことができます。

そうなると、先ほどの
「持統上皇の崩御によって、通常の神事を実施すること自体がふさわしくないと判断された」
というのは必ずしもそうとは言い切れないことになりますね。

はい。なぜ東西文部の解除だけは実施されたのか、などについては別途検討しなければならないと思います。
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